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2015年11月29日

「救いは近づいている」   詩編24:1-10、ローマ13:8-11
                            
 今日からアドベントに入ります。今日はアドベント第1主日で、クランツのろうそくの1本に火がともりました。アドベントとは、先週の週報にも書きましたが、「主が、この世に来られる」という意味で、二つの出来事を待ち望む期間です。一つはイエス・キリストが地上に来られること、イエス様が人間の姿で生まれるという出来事です。わたしたちはキリストの降誕としてお祝い致します。これが第一のアドベントであり、よく知られています。第二のアドベントは、天におられる主イエス様が、再び地上に臨まれる終わりの日を待ち望むのです。
 今朝の聖書箇所はイエス・キリストが再び来られることを待ち望む箇所です。最初に学びたいことは、信仰者の生き方です。一言でいうなら、どのような状況においても、最終的には希望を抱いて生きる生活だということです。信仰者は、将来に不安を抱えて、明日はどうなるかと心配ばかりする悲観主義者ではなく、明日に希望を抱き、終わりを見つめて、一日一日を、希望をもって生きるのです。自分の才能、社会的な地位、生活条件がどのような状態であっても、その現状に押しつぶされそうであっても、希望を失わない生き方をするのです。なぜなら、信仰者は、終わりの日のキリストの再臨を待ち望んで生きているからです。キリストが再び地上に来られると言うのは、単なる到来ではなく、わたしたちの救いの完成のために来られるのです。単に地上がどうなっていくのか、また地上の終わりを見るために来られるのではありません。終末と言うと、消えるとか、壊れていくイメージがあり、希望がなくなると思う人が多いのですが、信仰者はそうであってはなりません。キリストが来られるのは、私たちの救いを完成するために来られるのですから。聖書の原文のギリシヤ語では「終わり」と言う言葉はテロスといい、「終わり」と同時に、「完成」という意味があります。ですから、世の終わりは、世の完成と救いの完成の時なのです。イエス様によって救いが与えられましたが、未だ、救いは完成されていません。イエス様が地上に来られ、既に救いを成し遂げられましたが、未だ救いの完成には至っていない中間の時代にわたしたちは生きていると言うことです。ですから、完成に向かって、希望に向かって生きているのです。私たちはこうした時代に、主によって生かされています。信仰者の基本的な生き方は、救いが完成されるという希望によって生きているということです。しかし、終わりの日に向かっているからと、特別なことをして生活していくということではありません。完成を信じて生きていくとは、一日一日、今日の務めをしっかりと誠実に果たして生きていくことです。特別に、ある場所に集まり、共同生活をし、断食と祈りの生活に移らなければならないのではありません。日々罪を告白し、悔い改め、祈ることです。特別な捧げものをしなければならないのではありません。主の日に礼拝に集い、神様への感謝のしるしとして、喜んで、心をこめて献金するのです。このように、日々の生活で、神様を見上げながら、生きていくのです。
 11節には「救いは近づいている」とあります。わたしたちの日本では、あまり聞かれない言葉です。日本ではどちらかと言うと「救いに近い」とか「救いに近づいている」という言葉は聞きます。これは、人が修業を積んで救いに向かう歩みであり、こちら側、人間の側の理解です。しかし、パウロは「救いは近づいている」と言っています。救いが、私たちに近づいている、つまり、向こう側から、神様の方からこちらに来られる、それが迫っているという考えです。また終りの日が決まっていて、それまでの残りの日がどんどんなくなり、結果的に近づいていると言うことではありません。わたしたちには、終わりが何時なのか解りません。神がその時を用意してくださっています。20世紀の偉大な神学者であり、牧師であったカール・バルトは、キリスト教は宗教ではないと言いました。なぜなら、キリスト教は人が何らかの苦行、修業をし、精進して救いを求めて、救いの達成に向かうではなく、神が人に近づいて下さり、人の世界にやって来られたものだから、「啓示」だと言いました。啓示とは、神が、神の力で、人間の世界に来て、ご自身を表してくださることです。人でなく、神が為してくださった出来事なのです。その出来事が救いであり、今や、完成の日が近づいているのです。この確信を抱いて生きていくことが、わたしたちに求められています。
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by higacoch | 2015-11-30 19:11 | ローマ

2015年11月22日

 「御利益あるんですか」  1 テモテ 6:1-12
                               荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 「キリスト教は御利益がない。だから有り難い」という老牧師のことばを、昔ある本で読みました。宗教というのは信じる人の益のため、という考え方が強い日本の精神風土においては、これはまったく馬鹿げた言葉に聞こえるかもしれません。「御利益がない」などと威張っている宗教団体に誰がいくものか、ということになるかもしれません。しかし、「御利益がないから有り難い」というのは、福音の核心をついている名言かもしれないと思うのです。実際、この「有り・難さ」がわからない限り、キリストにとどまることはないでしょう。教会は「いのちを捨てる者が得る」という「有り・難い」十字架の逆説に立っているのですから、もしもこのような福音の持つ逆説性を捨ててしまって、直接的な見返り(御利益)追求路線に走るなら、最も大切なものを失うことになっていまいます。それこそが教会の危機です。
 テモテへの手紙は、当時の教会を襲いつつあった危機について触れています。
<キリストの健全な言葉に従わない者がおり、ねたみや争いが生まれている。そういうことは、精神が腐り、真理に背を向け、「信心を利得の道と考える者の間で起こる」のだ。信心に励むことと、富を得たいという野心が結びついてしまっている。>
 純粋だった思いも、一度それが利得と結びついてしまったら、富の誘惑が支配的になってしまう。それが人間の必然です。現代のキリスト教においても、経済的成功を神の祝福と同定する「繁栄の福音prosperity gospel」の誘惑は強いのです。(それを説く巨大教会には人が集まってきます。)人の道というのは、お金という動機によって容易に狂わされてしまうという現実は我々はこの世で嫌というほど目にしていますが、それは教会もまた例外ではないのです。

 しかし、テモテへの手紙は悲しき事実を語って終わるのではありません。それをはるかに上回る喜びの真実をも語っています。そこのところを読み落としてはなりません。どういうことかというと、「利得」というものにまったく異なる光をあてるのです。
 6節「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です」。
信心は利得を得るためのものではありません。しかし信心は「大きな利得の道」なのです。「利得」でなく「大きな利得」というところがミソ。(老牧師の「御利益がないから有り難い」という名言はここから生まれたのかもしれませんね。)
 クリスチャンになったからといって、この世で厚遇を得るわけではありません。むしろ損することのほうが多いかもしれません。
 <でもそれがなんだろう。食べる物と着る物が与えられているのだからそれで十分ではないか。そんなことより、私は神の愛という至上の「大利得」を得たのだ。神が私のために御子を与えてくださった。御子は十字架によって命を与えてくださった。神の愛が私を包んでいる。それが誰も奪うことのできない宝である!>

 信心は「満ち足りることを知る者には」大きな利得の道です。「満ち足りるを知る」とはどういうことでしょう。少しのものでつましく生きなさいということでしょうか。そうではありません。若い頃は肉を食らい酒をたらくふ飲んだが、最近は野菜だけで十分になった、ということでしょうか。違います。それはただの加齢です。そういうことではなくて、<これが私の道である、これが私のいのちである、ここに私の人生がある>と思い定める、ということです。<ここに私のすべてを満たすものがある、この道を歩めばよい。>そういうものと出会ったがゆえに、もう他のものに目移りしないということです。<これでいく、これが道だ>と思い定めているということです。

 主イエスのもとにやってきた金持ちの議員(ルカ18章)は、持っている財産を貧しい人たちに施して、手に何も持たないで従っておいで、というイエスの招きに従うことができませんでした。イエスの「おいで!」、それこそが永遠の命だったのに!彼は小さな利得は失わず、その手に握り続けることができたかもしれませんが、それよりはるかに大きな利得に背を向けてしまいました。
 「満ち足りるを知る」とは、神は必ず自分に最善を与えてくださると信じること。もっと利得をと絶えず欲に駆られ、満たされぬまま不安を抱え続けて過ごすのではありません。<神は自分に最善最適最高のものを与えてくださっている。ここに私の道がある。>そう思い定めている者にとっては、信心は(皮肉でも理屈でもなく実体験として)「大きな利得の道」なのです。<あれがなくて悔しい、これがなくて悲しい>と愚痴りながら過ごす人生ではなくて、「こんなに良いものを与えてくださって有り難うございます」と感謝して過ごす人生をイエスは与えてくださるのです。
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by higacoch | 2015-11-28 16:54 | テモテ

2015年11月15日

「神様からの慰め」 詩編77:17-21、使徒言行録3:11-20
 
 人生には、どうしてこのような悲しみがあるのかと苦しむような悲しみがあります。仏教用語に愛別離苦(あいべつりく)という言葉があります。人生で出会った者との別れは、必ずあるということです。友人との別れ、失恋しての別れ、そして最も深い意味として死別があります。愛する者、親、親友、わが子を亡くす悲しみがあり、それによってどうしても立ち直れない人がいたりします。精神的に弱って心の病気を抱えてしまい、周りからいろんな励ましを受けても立ち上がれない人がいます。
 イエス様も弟子たちと死別しなければならない直前に、「しばらくすると、あなたがたは、わたしを見なくなる」と言われました。それを聞いた弟子たちは、どこに行かれるのだろうかと不安にかられました。しかしイエス様は「わたしを見なくなる、別れる」とだけ言われたわけではありません。「見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」とも言われました。そうしたイエス様の言葉に、弟子たちは心配し、論じ合いました。それを知ったイエス様が「はっきりと言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆にくれ、あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。今、あなたがたは悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。」と言われました。これは十字架の死と復活、そして弟子たちの前に再び現れるということです。(ヨハネ福音書16章参照)
 今朝、与えられました聖書箇所は、イエス様が復活されてから50日は経ったある日の出来事です。弟子のリーダー格であったペトロとヨハネとが、いつものように3時の祈りの時に、神殿で祈るために出かけました。すると、神殿の境内に入る門の手前で、一人の足の不自由な人がいて、ペトロとヨハネに向かって「どうか、お恵みください」と物乞いしました。すると、ペトロが「わたしには、あなたに差し上げる金貨も銀貨も持っていません。何も持っていません。しかし、私が持っているのがあります。それをさし上げましょう。」と言ってから「イエス・キリストの名によって、立ちあがり、歩きなさい。」と語りました。すると、どうでしょう。その言葉には力があり、その人はその場で立ちあがり、歩き始めました。そして自分が歩けるのを確認するかのように、その場を歩き回り、飛んだり、跳ねたりして喜び踊り、神様、ありがとう、ありがとうと歌って、ペトロらと一緒に境内に入っていきました。今日の箇所はその続きです。彼をよく知っていた人々が、彼を見て非常に驚いて、大勢の人々が集まってきました。それらの人々を見てペトロが説教しました。ペトロにとっては二度目の説教です。(一度目は、聖霊が与えられて説教したペンテコステの出来事です。)ペトロは「皆さん、以前歩けなかったこの人が歩けるようになったのは、わたしの力でも、誰の信心によってでもありません。それはイエス・キリストの名によるものです。イエス・キリストの力によるものです。」と大胆に語りました。「この方の力は偉大です。あなたがたが、このイエス様を十字架で殺してしまったことは、あなたがたの指導者たちと同じで、知らなかったからです。神様は、預言者たちの口を通して預言し、それを実現してくださいました。その預言には、メシアは人々に苦しめられ、そして人々の罪を知り、それをあえて担って、そして殺されていく(イザヤ書53章参照)とありました。だから、神様の前で罪を悔い改めて、神様のところに立ち返りなさい。」と語りました。
 ペトロは、イエス様から教えられた「悲しみは、喜びに変わる」と言うことをまさに体験したのです。イエス様の死で深く悲しみ、明日への希望を失い、途方にくれ、部屋に閉じこもり、―今なら、引き籠りといえるでしょうーになってしまいました。もう自分では、どうしようもない状況となってしまった時に、イエス様の方が引き籠っていたその部屋に入ってきてくださり、「あなたに平安があるように」と語り掛けてくださいました。ペトロにとって、何と喜びに満ち、希望を与えられたことだったでしょうか。ペトロは、イエス様からこの喜び、平安、慰めを頂きました。そのことを語って、イエス様による救いを説教しました。こうした慰めを伝道者パウロも良く語っています。(Ⅱコリント3-6参照)
 神様は救いをわたしたちに与えてくださり、同時に、慰めをも与えて下さています。このことを覚えたいのです。そして、どのような悲しみも慰められることがないものはありません。それは死別であっても、です。復活を通して、再会が与えられているからです。
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by higacoch | 2015-11-21 16:32 | 使徒言行録

2015年11月8日

「信仰によって生きる人」  詩編105:1-7、ガラテヤ3:1-14
                           
 聖書を知っていると言う人の中に、旧訳聖書、新訳聖書と誤解している人がいます。「訳」と「約」の違いです。「約」は、契約、約束のことですので、旧約は旧い契約です。旧約は、神の戒めである律法を誠実に守る者に祝福が約束されるという約束、それに対して新約は、イエス・キリストが救いの業を為してくださったので、その救い主を信じれば、祝福されるという約束です。
 さて、今朝の手紙はガリラヤ地方の諸集会(家の教会)に宛てたもので、今朝の箇所はまさに、あなたがたは旧約によって生きるか、あるいは新約によって生きるのか、律法によって生きるのか、イエス・キリストを信じて生きるのかがテーマです。まずパウロは「あなたがたは、物解りが悪い。あれほどの体験をしたのに、無駄だったのか、無駄であったはずはないでしょうに……」と強く問いかけています。
 パウロは、キリスト・イエスの十字架の死によるすべての人の救いを、あなたがたは無駄にするのかと問いながら、アブラハムの信仰を語っています。「アブラハムは神を信じた。神はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)を取り上げ、アブラハムは律法を守るという行いをして神によって義とされたのではなく、神を信じることによって義と認められたと強調しています。あくまで神が、義と「認められた」のです。義となった、正しい良い者になったとは言われていません。神様が、お前を良い者と認めると言うことで、全く罪がなく清くなったと言うのではないのです。神が、アブラハムの信仰を受け止めて、それゆえに、アブラハムが罪を犯す者であるけれども、良い者として認めて下さると言うことです。その後、アブラハムが罪を犯したとしても、彼の神への信仰ゆえに、義と認めてくださるのです。そしてパウロは「聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して『あなたがたのゆえに異邦人は皆祝福される』という福音をアブラハムに予告しました。」(8節)と言っています。ここでの聖書とは旧約聖書のこと、異邦人はガラテヤの人々です。ですから、ガラテヤの人たちが祝福されるという福音は、旧約聖書にすでに預言されていたと言うのです。信仰によって生きる人が、信仰に生きたアブラハムと共に祝福されると語るのです。信仰の人、アブラハムはいろんな失敗をし、罪を犯しました。しかし、彼は神に向かって悔い改め、信仰に帰り、また罪を犯しても神に帰り、神様を信じて生きました。そして地上の生を終えて、召されていきました。信仰によって生きるとは、アブラハムがそうであったように、信仰から信仰へと生きていくことです。罪を犯しますが、再び、神の前に立ち返り、罪を悔い改めて、信仰によって生きていくことです。ガラテヤの人であるあなたがたも、信仰によって生きていって欲しいと繰り返し、語っています。
 私は、「信じる」と言うことで、深く教えられたことがあります。それは、神学校時代、私は東京神学大学で学びましたが、隣にあるルーテル学院大学の神学部の授業を受講したことがあります。その授業は、20世紀最大の神学者と言われたカール・バルトのドイツ語購読で、バルトの日本語への翻訳者として良く知られた井上良雄先生の授業があったからです。受講生は4人、バルトの代表的な作品「教会教義学」でした。教義学というと難しそうに聞こえますが、「教会に仕える学問である」とバルトは言っています。私は、井上先生宅にも伺い、5、6人の読書会でも学びました。そのバルトが、信仰のことを詳しく論述する時に、何度も大事なこととして語った言葉があります。それは決断“Entsheidung”です。神の前に立って、一人、決断する。周囲から迫られて、決めるのではありません。神から迫られて「信じます」と決断するのです。その点、信仰とは、まことに個人的なものです。神様の前に、一人で立ち、そして心から信仰を言い表すのです。
 伝道者パウロは、信仰の父とイスラエルで仰がれている「アブラハムは、神を信じた。それは彼の義と認められた。」(6節)と言っています。アブラハムはその後も罪を犯しました。罪を犯したから、神はアブラハムを罪人だと断罪し、呪われたのではありません。アブラハムは、何度も悔い改めて、神を信じて生きていきました。そのアブラハムの信仰を神は祝福されたのです。わたしたちも罪を犯してしまいますが、悔い改めて、神に帰り、神を見上げて、信仰から信仰へと生きていきましょう。神は罪人を憐れみ、罪人のために、御子にわたしたちの罪を担わせ、わたしたちに代わって死なせられたのです。イエス・キリストを信じる信仰に生きる者に、神が祝福を与えてくださっていることを深く感謝しましょう。イエス・キリストを信じて生きていきましょう。
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by higacoch | 2015-11-14 20:12 | ガラテヤ

2015年11月1日

「信仰による恵み」  詩編51:3-11、ローマ3:21-28

 10月31日 渋谷でハロウィーンの大仮装行列がありました。日本では子どもも大人も仮装をして町を練り歩く姿がよく見られるようになってきました。今や、10月31日はハロウィーンの日として覚えられていく勢いです。しかし、元々、教会では、この日は宗教改革記念日として知られた日です。この日にマルチン・ルターが、ヴィッテンベルク城にある教会の扉に張り紙をしました。有名な95ヶ条の提題と言われるものです。この日を起点としてプロテスタント教会が形成されていきました。
 ルターは、どんなことを書いたでしょうか。少しだけ紹介しますと、第1条で「われわれの主であり教師であるイエス・キリストは、『悔い改めよ』などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。第2条 この「悔い改め」の言葉は、秘跡としての悔い改め〔悔悛〕についてのもの―すなわち司祭の職務によって執り行われる告解と贖罪についてのもの―と理解することはできない。(真実の悔い改めは、人間の司祭にするのではなく、神御自身にすること。) 第21条で「教皇の免罪によって人間はあらゆる罰から解放されて救われると言う免償説教師はまちがっている。」と、さらに第27条で「金銭が献金箱の中へ投げ入れられてチャリンと鳴るやいなや、魂は(煉獄から)飛び出すと言う人たちは、人間〔の教え〕を説教している。」と書き、人は免罪符によって罪赦されるのではなく、イエス・キリストの十字架の贖いによって(のみ)、罪赦され、救われると訴えたのです。このことをルターは、旧約の詩編の学びとパウロの手紙によって確信させられました。
 さて、パウロは「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。」(21節)と言っています。このことは重要な指摘です。これまで語ってきたこと、そして今、これまでとは全く違ったものが、人によってではなく、神によって与えられ、示されというのです。これまでは、人は律法によって生きようとしてきました。しかし「律法を守り抜いて生きる人は誰もいなかった。ただ一人もいなかった。」と聖書を通してパウロは教えられました。神に祝福され、救われる者はいなかったいとパウロは書いています。それが「今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示された」と強調して語っています。これを理解するのは大変難しいのです。なぜなら、21節の最初の律法と後の律法とは違います。最初のものは「律法」そのものであり、後のものは「律法と預言者」、つまり旧約聖書を示しています。ですから、旧約聖書によって立証(預言)されて、神の義が示されたと言うことです。こうして今や、人間からではなく、神から「神の義」が示されたと言うのです。すなわち、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」です。「神の義には、何の差別もない」と。ユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、ローマ人であっても、また貴族や、身分の低い人であっても、障がい者であっても、健常者であっても、人間的にどのような違いがあっても、神の義には、何ら差別はないと言っています。このことは、今のわたしたちの世界でも同様であり、神様の祝福である神の義において何ら差別はないのです。
 ルターは若い時「神の義」が嫌いでした。なぜなら「神の義」で自分も裁かれると思っていたからです。そんな彼が、旧約聖書の詩編を繰り返し学んでいる中で、神の霊によって気づかされました。神は「神の義」によって人を裁くのではなく、「神の義」(神の憐み)によって人を憐れむのだと教えられました。律法によって誰も正しい者がいない、そのままだったら、皆が滅び、救われる者は一人もいません。そのような中で、神は神の愛によって、神の義を示されたのです。それが罪人を救う神の義でした。裁くのではなく、救う「神の義」だったのです。この発見はルターの「神の義の再発見」と言われます。それまでの「神の義」の理解の正反対だったのです。ルターはこの「神の義」の発見によって、神は裁く方ではなく、救う方であると確信させられました。その「神の義」がイエス・キリストの十字架上の死と復活によって明らかにされたのです。だから、その神の救いの贖いの出来事を受け止めて、イエス・キリストを救い主だと信じて生きる者に、「神の義」が与えられて、人は救われるのです。だから今や、イエス・キリストを信じることによってのみ人は救われるのです。今や、この救いの時代となったと強調して語っているのです。
 今もそうなのです。だから、人は行いによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。このことをしっかりと受け止めなければなりません。パウロが言う信仰による恵みは、まさに「神の義」なのです。私たちは、キリストを信じることによってのみ救われています。この救いの恵みを私たちは、先に知らされているのです。そうであるなら、まだ神の恵みである「神の義」を知らない人たちに信仰による恵みを知らせていく務めが与えられています。このことを覚え、わたしたちの隣人に、すべての救い主であるイエス・キリストを伝えていきましょう。
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by higacoch | 2015-11-07 18:07 | ローマ