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2015年9月27日

「生きたのではなく、生きる」  詩編86:1-4、ヨハネ福音書11:23-27

 この一年間でSさんとMさんのお二人を天に送りました。今日は、多くの遺族の方々と共に、召天者記念礼拝を捧げることができて、大変嬉しく、主なる神様に感謝致します。
 さて、今朝与えられました箇所は有名な箇所です。ここには復活のことが記されています。復活とは、神によって死からよみがえることです。つまり、キリスト教では、死は終わりだとは考えません。この箇所ではイエス様とマルタという女性とのやり取がありますが、二人の間では、理解には違いがあります。イエス様は、「あなたの兄弟ラザロは復活する」と言われました。すると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活するのは、存じています。」と答えています。当時のユダヤの人、そして今もほとんどのユダヤの人も、同じように、終わりの日に復活すると信じています。終末を迎える時に復活し、この世界が完成すると信じています。しかしイエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われました。遠い終わりの日に復活するとは言われていません。「信じる者は生きる。」と言われました。では、キリスト者は死なないのでしょうか、否、死にます。教会でも佐藤章策さんが亡くなって、葬式もしました。わたしたちの肉体は死を迎えます。あの兄弟が死んだ、つい先週に○○姉妹が死んだと話します。肉体の死なら、死んだ、というべきでしょう。そして死が訪れると、その人の生に終止符が打たれ、おしまいとなってしまうと言うでしょう。ではイエス様は嘘を言われたのでしょうか。そうではありません。ここでイエス様が言われているのは肉体の死ではありません。イエス様は私たちに「死は、終わりではない。そこですべてが終わるのではない」と教えてくださっています。
 イエス様が別の場面で語られた言葉を調べてみますと、「生きた」というより、「生きる」ということをよく言われています。「わたしが語る声を聞いた者は生きる」、「わたしを食べる者は、私によって生きる」、「あなた方も生きるようになる」と語られています。こうしたことをまとめて言いますと「わたしが語る言葉を聞いて、わたしを信じる者は、生きる。」ということです。ここでのマルタとのやり取りの最後に、マルタは個人的に「あなたが世に来られるはずの神の子、メシア、救い主と信じています」と答えました。
 イエス様は、死の後は、何もなく、暗闇であり、終わりだと言われていません。死は、決して終わりではなく、復活し、神様の下で生きることであり、天国で生きるということです。ですから、天国での命に生きる始まりであると言えるのです。そうであるなら、死を超えたいのちを見つめることは、わたしたちにとって、死を超えた希望であるといえます。
 私は昨年、13の教会から教会員の方々が集まって学びをした時、私は、高齢者の問題を担当しお話をしました。「世の中でも、終活とか、エンディングノートとか、言われるようになってきて、人生の終わりを意識して準備するように言われたりしています。しかし、神様を信じる私たちは、死が人生の終わりであるとは考えていません。死は終わりではなく、天国での命の始まりであり、復活の命の希望に生きることですから、教会の側から積極的にエンディングノートではなく、ホーピングノートとして、広めたらどうだろう」とお話をしました。
 死は、人生の終わりではありません。死は、命に飲み込まれる、新しいいのちに飲み込まれるのです。その新しい命こそ、復活の命です。そして復活の命は、その人が救われるに値する功徳を上げたから与えられるのでは決してありません。イエス様が私たちを愛してくださり、わたしたちの罪を赦して、自らの命を犠牲にして捧げられました。そのことによって、命の道が開かれ、与えられたのです。だから、私たちは、新しい命のために、功徳を積み重ねていくのではなく、イエス様を信じて生きていくのです。ちょうど、マルタがイエス様を信じて生きると告白したように生きていくことが大切なのです。
 天に召された方々は、天国で復活の命に生きて平安に過ごされていると信じています。そのいのちを与えて下さった神様の御名をほめたたえます。
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by higacoch | 2015-09-30 16:26 | ヨハネ福音書

2015年9月20日

 「わたしの羊」   歴代誌下7:11-18、ヨハネ福音書 10:22-30
                                
 もう5、6年前かもしれませんが、マイブームがありました。マイカップ、マイカー、マイシューズとか、自分用のものを持っていることを、誇り、自分のステイタス維持のために、自分を主張する人たちがいました。これは、今もあるかもしれません。
 こうした「モノ」ではありませんが、イエス様は「わたしの」と言う言葉を多く語られました。「わたしの言葉」「わたしの名」「わたしの兄弟」「わたしの体」とか、他にもまだまだたくさんあります。こうした中で一番多く語られたのは、何と言っても「わたしの父」です。また、イエス様は弟子たちからどのように祈ったらよいのかと求められて、独自の祈りを教えられました。ルカ福音書では11章にありますが、そこでは「父よ」と祈るように教えておられます。この「父よ」という言葉は幼な子が「おとうちゃん」と信頼しきって呼びかける言葉です。この呼びかけは「神を冒とくしている」とユダヤの指導者たちをカンカンに怒らせました。しかしイエス様は一言、「父よ」と呼んで祈られ、何度も繰り返して「わたしの父」と言って説教されました。こうしたことから、イエス様が教えて下さった神様「父」との関係は、近づきがたい遠い方ではなく、父と子の関係、つまりわたしたちの身近かな親子関係に似た関係として弟子たちに、そしてわたしたちにも教えられました。
 さて、今朝与えられた箇所には、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりと言え」と強い口調で迫っています。イエス様を取り囲んで逃げられないようにして「お前は、本当に、メシアなのか」と詰問しています。こうした緊迫した状況になったのには理由があります。今朝の箇所の前、10章14節以降で、イエス様は「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。・・・羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」とおっしゃっています。ユダヤ人たちは、ダビデ王が歌った詩編23編を愛していて、そこでは主なる神様は羊飼い、ユダヤ人は羊として歌われています。ですから当然ユダヤ人は神様は羊飼いと考えていました。しかしここでイエス様は「わたしは羊飼いだ」と言われています。この言葉にユダヤ人たちは反応したのです。「お前は神様なのか、神様である救い主メシアなのか」と。その後、イエス様を取り囲んで「もしお前がメシアなら、はっきりと、そう言え」と糾弾しました。するとイエス様は「わたしは、以前にも言った。だか、あなたたちは、わたしを信じない。私が父の名によって行う業、力ある奇跡がわたしについて証ししているが、あなたたちは、それを信じない。それはわたしの羊ではないからだ。」と答えられました。これを聞いたユダヤ人たちは、カンカンに怒りだして、イエス様をその場で殺そうとしました(31節)。それほど激怒しました。さらにイエス様は「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」と言われています。ここでいう、父がイエス様にくださったものはなにか、ここでは二つ考えられます。一つは羊、信じる人たち、もう一つは永遠の命、これはいつまでも続く命ではありません。その長さと言うよりも命の質、深い命。どちらも考えられますが、わたしは羊のことだと思います。与えられた羊が偉大であると。
 イエス様は、神様を「わたしの父」と呼ばれました。そして、同じ「わたし」という言葉を使って、「わたしの羊」と言われています。神様を父と呼び、信じる人を「羊」と呼ばれ、「わたしの父、わたしの羊」とくりかえし言われています。イエス様が神様と親しい関係であるように、羊とも親しい関係にあると解ります。今朝の箇所でも「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」とあります。羊とは、イエス様を信じる人、信仰者、つまり、わたしたちということです。イエス様は、わたしたちを、「わたしの羊」と呼んでくださっています。
 わたしたちは、自分をどのように考え、受け止めているでしょうか。マイ○○、マイ○○とモノを自分の周りにたくさん集めることで、安心を得、満足している人がいます。モノでマイルームを満たして、幸せを感じている人もいるでしょう。しかしわたしは、イエス様の言葉を聞き、イエス様に「わたしの羊」と言って頂けるのが、本当の幸せだと信じます。なぜなら、わたしたちを大事に思い、大切にされているからです。マイ、マイ主義の若者がいる一方で、希望を見出さないで苦しんでいる人たちがいます。「自分が嫌いだ。一番嫌いだ、こんな自分は死んだ方がまし」だという人さえいます。そのような人は、社会に対して失望感を抱いているのではなく、自分自身に抱いているのです。そうした人にわたしたちは伝えることができます。「あなたは自分が好きになれない。むなしさに苦しみ、自分の価値を見出せずに失望している。あなたはあなた自身に何の価値も見出せないと言っているけれども、あなたを大事に思い、あなたは大切な方だと考え、あなたを愛しておられる方がいらっしゃる」と伝えることができます。「あなたのために、いのちを捧げて愛してくださった方、その方はイエス様だ」と伝えることができるのです。イエス様が「わたしの父」を証しされたように、わたしたちは、イエス様を証しするように先に召されているのです。わたしたちを「わたしの羊」として愛してくださり、今も愛してくださっているイエス様をすべての人の救い主として伝えていきましょう。
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by higacoch | 2015-09-26 14:41 | ヨハネ福音書

2015年9月13日

「義を行って耐え忍ぶなら」 詩編23:1-6、Ⅰペトロ2:18-25
                              
 ペトロの手紙が書かれた時代は、ローマ皇帝がネロの時代で、キリスト者が激しい迫害を受けていました。ですから、この手紙には苦しみに耐えることが勧められています。この時代、ローマ帝国内には多くの奴隷がいました。都ローマに、また地方の町々に、そして多くの家々に召し使いとして生活していました。そして身分の低い人たちが多く、キリストを信じてキリスト者となっていました。そのような人々に、「主人に心からおそれ敬って従うように」とペトロは勧めています。ここでの「おそれ」は、恐怖の「恐れ」ではなく、「畏れ」です。主人の中には、善良で寛大の主人も、また無慈悲な主人もいました。しかし主人がそのどちらであっても、同じように畏れ敬って従いなさいと言うのです。召し使いとしては善良で寛大な主人に仕えることを好むでしょう。しかしなかなか願った通りにいきません。むしろ一般的には無慈悲な主人が多く、意地悪や迫害を受けたりしたでしょう。それに対して、召し使いはそれなりの仕返しをしていたと思われます。主人が知らないことで嘘を言ったり、見えないところでさぼったり、ある時は盗んだりしていたようです。そのような中でキリスト者として、「あなたがたは、多くの召し使いのようにしてはならない。むしろ、そのような主人にも心から従いなさい」と言っています。これは命令ではなく、勧めです。主人から意地悪されても、それに対して仕返しをするのではなく、心から従い、仕えていくことを勧めています。ただこれは、主人から不当な仕打ちを受け、激しい暴力によってひん死の状態にされても従えとは言っていないと私は思います。それでもここでは「善をもって従いなさい。仕返しをするようなことではなく、誠実に従いなさい。」と言っているのです。
 ペトロはこうも言っています。「不当な苦しみを受けることになっても、神がお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうこと」と。同じことを繰り返し言っていることを考えますと、ペトロが一番伝えたかったことだったのでしょう。ペトロは「あなたがたが召されたのは、このためだ」と言った後に、「キリストを思い起こしなさい」と言って、キリストは旧約聖書イザヤ書53章の預言で示されたように歩まれたというのです。「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。 ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」と。
 イエス・キリストは、罪を犯されることはありませんでした。どんなに人々から罵倒され、苦しめられても、さらに神を冒涜したと断罪され、神に見捨てられたと言われても、十字架の刑にかかり、人々に仕返しされませんでした。呪ったり、彼らの死を願ったりすることもありませんでした。むしろその逆で、どんなに苦しめられても、痛めつけられても自分の身を捧げて、死んでいかれました。自ら傷つき、十字架の死に追いやった連中を、赦して死んでいかれたのです。「その死によって、あなたがたはいやされた」と預言にある通りに、成就されていきました。
 イエス・キリストの十字架の死は、死に追いやった人々の罪を赦し、彼らの救いのための死でした。それは彼らが「義に生きるために」であったということでした。そして、イエス・キリストは、彼らだけでなく、すべての人のために死んでいかれました。それはわたしたちの罪のためだったのです。
 「わたしたちの罪のために」と聞いて、「どうして、わたしたちの罪とイエス・キリストの十字架の死が関係あるのか」と言われる人がいらっしゃいます。それは、神様に対して、2000年前の人と現代人との罪は、本質的に全く同じで、何ら違いはありません。わたしたちが2000年前に生きたとしても、イエス・キリストを殺していたでしょう。そのように、人間の奥底には罪があります。人はその罪から逃れられないのです。その罪を赦すために、イエス・キリストが死んで下さったのです。その死はわたしたちのためでもあり、まさにすべての人のためであったのです。イエス・キリストが死んで下さったのは、なんと、神の愛によってなのです。神の愛を目に見えるように示して下さったのが、イエス・キリストの十字架の死です。わたしたちを生かすため、義によって生きるようになるためだったのです。
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by higacoch | 2015-09-19 14:38 | ペトロ

2015年9月6日

「真理はあなたを」 詩編65:6-9、ヨハネ福音書 8:31-38
                              
 今朝の箇所では「自由」について語られています。現代人は、自由についてよく取り上げ、この言葉が好きで「自由」「自由」と言います。私の本棚には、世界人権宣言の本があります。戦後3年目の1948年、世界人権宣言が国際連合の総会で採択されました。世界的な戦争をもう二度と起こさないために、そして世界が平和であるためには、みんながお互い、自分と同じ人間だと認めて、その権利をお互いに大切にし合うことが必要だと意見が一致しました。どんなに肌の色が違っていても、民族の違いがあっても、共に人間として、当たり前に生きるための権利が宣言されたということでしょう。この人権宣言の第1条を読めば、大体どんなものかが解ります。そこには「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。」とあります。この宣言では、自由権として宗教の自由,表現の自由、集会・結社の自由などがあげられています。そして自由権は内面の自由と外面的な自由があります。内面の自由は、思想の自由、宗教の自由などがあり、外面的な自由は、表現の自由、集会の自由などです。
 さてイエス様はこう言われています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは、本当に、わたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と。これは裏をかえせば「あなたがたは真理を知らない。知らないから、自由ではない、なぜなら、わたしの言葉に留まっていないからだ」と言うことです。今朝の箇所で、イエス様と対立しているのはユダヤ人、それもファリサイ派の人々です。またこの箇所で、食い違っているのは、もう一つ、「父」についてです。反対者の人たちにとっては、父といったら、アブラハムです。ですが、イエス様が言われるのは「父なる方」つまり神様です。同じ「父」と言いながら、両者はかみあっていません。ですから、どこまで行っても平行線でしょう。 イエス様は、父なる神に遣わされた者として、語っておられますが、、イエス様に反対している者たちは、自分たちはアブラハムの子孫で、昔ながらの言い伝えに従って生きているのだから、アブラハムが正しい人であったように、自分たちも正しいと主張しています。それに対して、イエス様は、父なる神様から遣わされているイエス様の言葉を受け入れず、イエス様を殺そうとしているではないかと。問うておられます。
 ここで重要なことは、イエス様が「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは、本当に、わたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われたことです。イエス様の言葉を受け止めて、真理を知り、自由にされることです。ここでの自由は、私が最初にお話しして自由とは、違っています。どう違うかと言いますと、人権宣言の自由は、迫害があるとか、身の危険があるとか、そのような強制的に人間の権利を奪う者から、自由になるということです。しかし、イエス様が示された自由は、自由にされた者が、その自由で、何をするかが問われています。その自由を、パウロは「わたしは誰に対しても、自由な者ですが、すべての人の奴隷となった」(Ⅰコリント9:19)と言っています。そして「自由によって、すべての人に奉仕する」と。そして宗教改革者マルチン・ルターは、この聖句のみで「キリスト者の自由」という本を著しました。これは、「人間の自由」ではなく、「キリスト者の自由」なのです。イエス様の言葉に従い、真理を知り、自由にされた者が、奉仕に導かれていることを含んでいます。
 ルターは、自由にされていない人間と自由にされていく人間との違いを、こんな風にも言い表しています。「自由にされていない者は、自分中心の生き方をする人、他方、自由にされていく人は、他者中心、神様を、隣人を愛していく生き方を求めていく人」だと言います。強制されるのではなく、打算的な欲からではなく、キリストの愛の真理によって変えられた者が、自由にされて行う奉仕なのです。だから、イエス・キリストが教えられた真理は、あなた自身を自由にし、自由に生きるようにするのです。これが、イエス様がおっしゃった真理を知れば、真理はあなたたちを自由にする、ということなのです。パウロは、この自由を実感し、自由とされて、隣人に仕えていきました。このように、真理はあなたを自由にするのです。ここに生きるように、わたしたちは、生かされているのです。
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by higacoch | 2015-09-12 16:30 | ヨハネ福音書