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2015年8月30日

「いのちの光を持つ」  詩編98:1-9、ヨハネ福音書8:12-20
                              
 最近の若者や年配の方々にもネット利用が広がっていますが、今は特に中高生のネット依存症が大きな問題になってきています。つい先日、精神病院の医院長先生が書いたものを読みました。それによると、2013年中高生ネット依存症の全国調査では、中高生は平均1日5時間以上ネットをしているそうです。特にスマホの急速な普及によって、2012年以降、ネット依存症の症状で病院にくる学生さんが増え、既に1000名を超えたそうです。男女比は、2割が男性、8割が女性、年代別では高校生がトップで、次に中学生、大学生、社会人の順だそうです。
 ネット依存症の人は、多くの場合、心の問題を抱えていて、彼らは人間関係で支障をきたしています。友達は、仮想の友達が多く、たとえばブログで知り合った人で、一度も会ったこともない人など、そうした友達が多くいます。しかし、現実の身近な友人との人間関係がうまくいかず、コミュニケーションがうまくできません。そして、現実逃避して引きこもりとなったり、ストレス性のうつ病を併発することもあります。こうした問題の根幹には、自我の確立の未熟さ、アイデンティティの確立ができていないという問題があります。思春期の中高生時代は、自己確立する時期なのに、自己確立ができないのです。このようなことが今の中高生たちの大きな問題として浮上してきています。
 さて、「依存症」とは、あることから離れられない状態ということです。こう考えますと、イエス様の時代に生きていたファリサイ派の人たちもある種の依存症に近い人だと考えることができるかもしれません。ファリサイ派の人たちは、いつも「律法」、「律法」と言っていました。律法に照らしてみなければ、生活行動ができませんでした。彼らはすべてを律法を当てはめて行動をし、それを自分だけでなく、周りの人々にも当てはめて、人々を厳しく責めていました。
 今朝の箇所では、証しの問題が中心となっています。ファリサイ派の主張は、律法にこう書いてあるからと、律法を根拠にしてイエス様を糾弾しています。それに対して、イエス様が「あなたたちの律法には」と言って反論しておられます。「わたしたちの律法」とは言われていません。そこには、あなたがたがわたしを非難している根拠の律法は、あなたかたが理解している律法であるという意味があるのです。
 イエス様は、少し以前にも語られました(5:31以下)が、ここでも証しについて語っておられます。ここでは「わたしの証しをして下さるのは、わたしの父である」「ヨハネは真理について証しをした」「わたしの証しは、ヨハネにまさる証しである」「あなたたちは聖書の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書を研究している」「聖書はわたしを証しする」「あなたたちはいのちを得るために、わたしのところに来ようとはしない」と言われています。
 ここで特に注目したいのは、律法主義者に「聖書を研究している」と言われていることです。聖書を研究することは大事なことですが、それは聖書が書かれた目的ではありません。聖書をどんなに研究しても、学び続けて聖書知識が増しても、それだけでは不十分です。それは、イエス様も「聖書はわたしを証ししている。だからわたしのところに来ることだ」と言われています。つまり大事なのはイエス様と出会うことです。聖書研究が目的ではなく、イエス様を知り、イエス様と出会い、イエス様を救い主と信じることが目的です。そしてイエス様からいのちを頂くことが大事なのです。現代も、聖書研究者も聖書学者も多くいます。大学で聖書研究している学者が多い。しかし、そうした学者の中には信仰者が少ないのです。聖書の知識はあっても、イエス様に出会っていない人がいます。残念なことですが、聖書を読んで、聖書を研究しても、イエス様に出会っていない人は命を得ていません。
 ヨハネ福音書はその冒頭に、命のことを語ってはじめています。「命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。光はまことの光で、世に来てすべての人を照らす。」と。その光はイエス様であると福音書を書き始めています。そして聖書は、最終的にはイエス様を証ししています。イエス様は今朝の箇所で「わたしは、世の光である。わたしに従う者は、暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」と言われました。これは、現代でも真理です。今も、この光は輝いていますし、すべての人を照らしているのです。
 まだイエス様に出会っていない人、高齢の人も、壮年の人も、特に、これから巣立っていく若者たちに、イエス様との関係を見出して言って頂きたい。現代の便利な器具で、人間関係が難しくなり、神様との関係も難ししていくのではなく、すべての命の光であるイエス様を見上げて、イエス様を信じて歩んで頂きたいのです。
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by higacoch | 2015-08-31 18:32 | ヨハネ福音書

2015年8月23日

「新しい生き方」   出エジプト34:4-9、ローマ7:1-6
                             
 私は8月上旬に休暇を頂き、友人から頼まれた日本盲人キリスト教伝道協議会の総会の手伝いに出かけました。二日間、視覚障害のある信仰者の方々と交わりができ、神様の恵みを頂きました。お手伝いをすることになった私は、目の見えない方々に一つの質問をしようと考えていました。前から目が不自由な方々が、一番好きな聖書箇所はヨハネ福音書9章の箇所だと聞かされていました。聖書に出てくる盲人はイエス様によって癒されて目が見えるようになりますが、総会に出てこられる方々は、イエス様に出会っても見えるようになった方はおられません。それぞれの方が、どのようにイエス様からの救いの恵みを受け止めておられるのかを聞きたかったのです。けれども、目の見えない方々の喜びに満ちた声や笑い、交わす言葉を聞きながら、何とも言えない雰囲気を感じました。みなさんイエス様の福音に生かされていると深く感じましたので、あえて聞きませんでした。ここにおられる方々は、新しく生かされている人たちだと感じました。私は目が見えますので、見えるものに何かを求めようとしますが、ここにいる人たちは、目に見えるものではなく、見えないものを見ておられる、心の目で見ておられると感じました。
 さて、今朝与えられましたローマの信徒への手紙で、パウロが「キリストの体に結ばれて」と言っていることにまず注目すべきだと思います。パウロは、ローマの教会の信徒たちに向かって「あなたがたもキリストの体に結ばれて、律法に対して、死んだ者となっている。」と言っています。つまり「復活させられたイエス・キリストのもの」とされているというのです。パウロは、自分自身も、ローマの信徒も「私たちはキリストのものとなっている」と言いきっています。それは、神に対して「実を結ぶようになるためだ」と言っています。つまり、キリストのものにされているということは、神様に対して実を結ぶようになるためだと言いたいのです。人に対して、実を結ぶようにされていません。「人」と言うのは、「自分」と言い換えてもいいでしょう。自分に対して、自分のために、ではなく、神様のために生きるためだということです。
 パウロは次のようにも指摘しています。「以前は、あなたがたは、肉に従って生きていました。それは、キリストを知らない生き方」でした。その時には律法によって生きていたということ、律法主義的な生き方をしていたということです。律法とは、モーセの十の戒めから始まり、それぞれの戒めが多くの戒めを生み出してきていて、神の戒めとして人々を拘束していました。そうした中で律法主義の生き方が生まれてきたのです。律法さえ守っていたら、神様の祝福を受けることができる、そして律法を守れない者は、裁かれて黄泉に下ると教えました。律法が救いか、滅びかの判断基準になっていったのです。そしてそれが高じて、律法学者たちが神のように裁きを申し渡すようになっていきました。こうして、律法は、裁きの律法となり、人を支配するようになったのです。神様が与えられた律法それ自体は、悪ではありませんでしたが、律法主義となっていった時、神の御旨から遠く離れていきました。人にとっては、律法があった方が、ある面では生きやすく、解りやすいのです。なぜなら、それさえ守っていれば、神の祝福にあずかれると考えるのですから、余計なことを考えなくていいのです。わたしたちもこうした基準、規則、戒めがあった方が楽に感じます。それさえクリアしていれば安心だからです。
 パウロは「以前は、キリストの救いの恵みを知らなかった。キリストの赦しの愛を知らなかった、しかし、今は、神の恵みによってキリストの愛を知らされた。そのような者は、律法によって生きるようにされていない。律法に対しては、死んだものとされている。だから、律法によって生きていく生き方ではなく、キリストによって生きる生き方をするように」と語っています。さらに「律法は書かれたもの、石の上に刻まれた文字、それは古い生き方だ」と。今や、キリストによる救いが成就され、キリストが復活し、生きておられます。だから、今も働いておられるキリストの霊に従う生き方、それが新しい生き方であり、そこにこそ、神に対して実を結ぶ歩みがあるというのです。つまり、過去に生きるのではなく、キリストによって、今を生きていく歩みこそ、新しい生き方であると教え、勧めています。
 皆さん、わたしたちもキリストに愛され、キリストによって罪を赦されているのですから、過去に生きるのではなく、明日に向かって生きていくのです。今も、生きて働かれているキリストによって生かされて、小さくても実を結ぶ歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2015-08-29 14:17 | ローマ

2015年8月16日

 「平和を実現する人々は幸い」  箴言10:12、マタイ福音書5:9
                             
 私は今夏、カトリック中央協議会の小冊子「戦後70年 司教団メッセージ」を近隣の教会、大学、神学校等に多く配りました。その小冊子が語るメッセージが素晴らしいと思ったからです。その表紙には「平和を実現する人は、幸いである」とあります。今朝の聖書の箇所では「実現する人々」と複数ニなっていますが、これは、あえて単数となっています。そこには、これを読む人、一人一人の「あなた」に、平和を実現する人になって欲しいという願いが込められていると私は思いました。この小冊子には、これまでのメッセージの変遷の歴史も記されています。50年の「平和への決意」、60年の「非暴力による平和への道」が載せられ、日本カトリック教会が、戦後の日本に問いかけてきたことを踏まえての70年メッセージなのです。それが「今こそ、武力によらない平和を」です。  
 今、現政権によって武力による平和創りの道が開かれようとしている、その危機感があります。平和憲法の第9条の解釈を変更し、安全保障関連法をまとめて衆参両院を通過させようとしているからです。周辺地域の、特に中国の覇権主義による危険が迫り、軍事力の増強が必要と説いて進めようとしています。軍事力を増強することで、戦争を避けることができ、平和な国を創ることができると考えられているのです。しかし、相手よりも強力な軍事力を持つことが、本当に、平和を創ることにつながるのでしょうか。
 今朝のマタイ福音書の聖書箇所を、英語圏で良く読まれている聖書翻訳で見ますと、平和を実現する人を、ピースメイカー、まさに「平和を創る人」と訳しています。しかし最近、私はびっくりしたことがありました。それはピースメイカーと名付けられた拳銃が、アメリカにあると知らされからです。調べてみると、一丁だけでなくシリーズであり、割引もあって100ドルで買えるのです。私は思い巡らしました。これは、つまり拳銃によって平和を創ることができると考えられているということで、本当に怖いと思いました。人を殺すことができる拳銃を、正義のために、悪を打ち負かすために、使うという考えがあると思ったからです。こうしたことをさらに発展的に考えていくと、敵を打ち負かすために、武器を、兵器を、さらに原爆、核兵器を使ってもいい、悪を倒す正義のための戦争では、平和を創り出すなら、どんな手段でも正当化されると考えるのだろうか、と。
 こうしたことの根底には、平和を創り出す手段は問わないという考え方があるからでしょう。結果として戦争が終わり、争いが終結するなら、そこに平和がもたらされると考えていくのです。この考えは、やはり力による古代ローマ帝国的な平和、力で抑える平和であって、上辺だけは平和に見えるニセモノの平和なのです。実のところ、内には憎しみや怒り、恨み、報復心に満ちています。ですから上辺を抑えられなくなると、再び争いが起り、戦争となっていきます。このような平和は、実は新たな戦争の火種を中側にもっているものです。そこには、愛と慈しみは決して生まれません。どんなに時間が経っても、人間の憎しみや恨みが浄化されることはありません。それは人間の歴史が物語っています。
 イエス様の時代、ローマ帝国は、まさにローマ「軍」の力で、諸外国を抑えて、「ローマの平和」と誇りました。しかしそれは、諸外国をローマの軍事力で支配し、抑圧し、力にものを言わせていた結果でした。反乱がおきると、その国に整備されていた軍隊が鎮圧しました。これは、ユダヤの国においてもそうでした。
最後に、皆さんに伝えたいことがあります。私は、最初に、カトリックの司教団メッセージの題名は、「実現する人」と単数だとお話ししました。しかし、イエス様は「実現する人々」と複数で語られています。どうして、人ではなく、人々なのか、このことを祈り求めました。そして、私は確信が与えられました。それは教会の人たちに語られていることだからだと思うのです。イエス様は「二人、三人いるところには、わたしもそこにいる」と言われました。そこが教会の原点です。人数が問われていない、多くの人がいなければならないのではない。少人数でも、イエス様の愛を、赦しを、知る者たちに、イエス様が言われていることだからです。わたしたちに語られている言葉なのです。平和のために生き、平和のために小さくても行動して、平和を創り、実現していく人たちは、幸いだとおっしゃっています。
 私たちは、今の時代、ここ日本に生かされています。ここで、平和を実現していく歩みをするように、委ねられているのです。それが、わたしたちに与えられた使命でもあると信じて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2015-08-22 15:34 | マタイ

2015年8月9日

「あなたは誰を待っているのか」   ゼファニヤ3:8-13、ルカ12:35-40
                                   関 伸子 牧師 (高座教会)

 今回、東小金井教会に説教者としてお招きいただきます前に、香月先生から幾つかの資料をいただきました。その中には教会の伝道50周年記念誌が含まれていました。昨年いただきました、その記念誌を再び読み、ここで50年の長い月日に渡り、主日毎に礼拝でみ言葉が語られ、牧師や宣教師が人びとにお仕えしてこられ、またみなさんも伝道に励んでこられて、今、教会は伝道51年目の歩みをしていることを確認しました。
 今日のルカによる福音書第12章に記されている言葉、これは誰もが聞くべき言葉です。しかし直接、この主の言葉を聞いているのは弟子たちです。この弟子たちは、この後、伝道者となりました。皆それぞれ教会の柱になって生きたのです。いや、もうこの時既に、主イエスによって伝道に遣わされる経験を持った人びとです。
 35節に「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と記しています。これはとても具体的な姿です。「腰に帯を締める」。「腰に帯を締め」というのは、パレスチナの服装は割合だらっとしているものですので、腰に帯をすると動きやすくなります。聖書の他の表現で言えば、まさに腰引きからげて、自由に、どんな命令にでも応じて動くことができる備えをするということです。この言葉の意味を考えていて、私はふっとまるで赤穂浪士の討ち入り前夜みたいだなどと思ったことがありました。ただ、ここで大事なことは、そのような姿勢を取るのは、自分が攻め込むためではないのです。いよいよ明日は討ち入りだと猛り立つことではないのです。腰に帯をしめ、あかりをともして待つのです。待ち続けているのです。主人がいつ帰って来るか分からないからです。
 しかも、ここで語られている主人は、ほんとうはその家だけの主人ではないのです。すべての者の主です。道行く人たちの主でもあるのです。この主のことを語り告げながら、この主が来られることを待ち続ける自分の姿を示しながら生きる。まず第一に伝道者は、そのような者です。そのように主に仕える、主を待つあかりを高く掲げて、腰に帯をしめて、生き続けるのです。そして、その伝道者を見ている者は、その伝道者を見ている者、その伝道者を重んじている者は、自分もそれを真似するのです。
 36節によれば、この主人は、婚宴から帰ってきます。なぜ婚宴なのでしょう。なぜ、主が行き先が婚宴であることについて言及されたのか、それはよくわかりません。ただ、さまざまな想像をすることも許されるでしょう。
 たとえば、皆さんが家族が結婚の祝いに招かれている間の留守をすることにします。両親がどこかの婚礼に招かれています。自分は簡単な食事をしながら、さびしく思う。ましてここでは留守番をしているのは僕たちです。主人だけがはなやかな婚宴の席に招かれ、なぜ自分だけが粗末な食事に我慢しなければいけないのかと思ったり、自分が主人でなくて僕なのだという身分の違いを痛感するかもしれません。ついでのようですが、ここに続く45節には、こういうことが書いてあります。「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことがあれば...」。
 特にこの頃の婚宴は長く続いたそうです。現在の私たちのようにホテルで2時間、3時間で終わりで帰るということではないのです。38節には、「真夜中に帰っても、夜明けに帰っても」と記されているように、いつ帰ってくるかわからないのです。場合によっては、一晩中あかりを絶やさず、目覚めていなければならないかもしれなかったのです。
 ここに「僕」と訳されている言葉は文字通り奴隷を意味します。主人が奴隷に仕えているのです。主人が奴隷に食卓を用意し、もてなしているのです。このところについて書く人びとがすべて思い起こしていることがあります。それは、文体も思想も、書いている事柄もまるで違うように見えますが、ヨハネによる福音書第13章の記事です。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。そう書き始めたヨハネ福音書は、最後の食卓を弟子たちと囲んだとき、主イエスがその食事の間に立ち上って、手拭いを取って腰に巻き、弟子たちの足を洗い始められたと書きました。この食卓に着く者の足を洗う行為もまた奴隷だけがしたことです。ルカ福音書もヨハネ福音書も、全く違ったところで、違った言葉で主イエスの姿を書いていながら、この点においては全く共通した主の姿を書き残しているということ、これもまた不思議な恵みのわざです。
 教会が伝道を重んじるのは、この主の言葉を思い起こす時です。伝道者は、自分で自分を重んじるよりも、もっと深く主によって重んじられています。そのように自分が重んじられていることをよく知った時に、そこで耐える道を知り、自分を軽んじるような行為に走ることはなくなるのです。
 主イエスは一度、私たちのところに来てくださいました。十字架におつきになりました。殺されました。神はこの主イエスを甦らせてくださいました。その主イエスが、また来るとおっしゃったのです。主イエスは、だからこそ、私たちに、目を覚まし続けることをお求めになりました。目を覚まし続けて生きる教会を造るように、弟子たちにお求めになりました。いつ主イエスが来られるかわかりません。しかし、私たちは少しも心配しない。目を覚まして、喜びのあかりを掲げて主を待つことができます。この主のみ言葉に従いながら、主のみ言葉を重んじて生きる、それ故に伝道者を重んじ、自らを重んじ、他者を重んじる教会であることをもう一度、神からいただいたものとして受け止め直したいと願っています。お祈りいたします。
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by higacoch | 2015-08-15 16:12 | ルカ

2015年8月2日

 「礼拝に来て、見なさい」 詩編66編1~20 ヨハネによる福音書1章43~51
                                         濵崎 孝 牧師

 神殿での礼拝用讃美歌として整えられた詩編66編は、今から2千何百年も前の詩です。それどころか、この信仰の詩人は、さらに遠い昔の出来事を詠っています。そんな古い詩を読み、大昔の出来事を手繰り寄せている教会の礼拝は、懐古趣味でしょうか……。いいえ、キリスト教会の礼拝堂で展開されているのは、聖霊なる神さまのご支配とお導きによって生起している聖なる出来事です。言わば死んでいた人が甦り、希望をもって人間らしく生き始めることを目の当たりにするような大いなる出来事なのです。そして、そうであればこそ、命がけで礼拝に出席している人々も見出されるのです。
 例えば、聖書・讃美歌と共に吸入器を携えて来る友もいます。喘息の発作に対処するためです。舌下錠を持って来る人もいますが、それは心臓発作のリスクをかかえているからです。他にも、命がけで礼拝に出席している人たちがいますね。礼拝堂と爆弾、銃の乱射……。テロやヘイトクライム(憎悪犯罪)の不安がある中で、必死に礼拝をささげている人々もいるのです。なぜ命がけで礼拝をささげるのですか?そうする価値が礼拝にはあるからです。
 6節の「それゆえ、我らは神を喜び祝った」は、詩の流れから言えば、「それゆえ、彼らは神を喜び祝った」ではないでしょうか……。でも詩人は、彼の時代からは何百年も前の出来事を、今まさに自分たちが体験したかのように「我らは」と語ったのです。そして、こういうことが、聖霊のご支配の下で進められる教会の礼拝で生起していることなのです。遥か遠い昔の出来事が現在化され、その真に恐るべき出来事の恵みがリアルに新しく受けとりなおされた……。9節は、礼拝で手繰り寄せた大昔の出来事が、神殿の礼拝者たちの魂に生き生きと祈りの路づくりを進める力をもたらしたことを語っています。ですから、これは懐古でもノスタルジアでも温故知新でもフラッシュバックでもありません。そういうものを超えた神の出来事なのです。私どもは何の幸いか、毎週礼拝堂でこういう真に得難い出来事に参与しているのです。
 17世紀の画家レンブラントの作品に、「キリスト昇架」(十字架上げ)というのがあります。キリストが十字架に磔になった出来事を描いたものですが、イエスさまの足下を観るとベレー帽を被った人がいます。これは、レンブラントの自画像だと指摘されています。レンブラントに霊感が与えられ、1600年前のキリストの出来事が想起されると、その創作活動の今に現在化されたのではないでしょうか……。そして、そのような現在化の出来事は、「あなたもそこにいたのか」という讃美歌(306番)にも見出されます。そのアフロ・アメリカン・スピリチュアルの歌詞の終わりには、「ああ、いま思いだすと/深い深い愛に/わたしはふるえてくる」という感動が言い表されています。2千年も前の十字架の出来事が、今まさにここでの出来事になり、感謝が溢れ、お祝いしないではいられなくなる……。そういう聖なる現実が繰り返し生起しているのが主日礼拝なのです。
 そこで、5節の「来て、神の御業を仰げ」を新改訂標準訳という英訳聖書で読むと、Come and seeです。「来て、見なさい」という呼びかけ……。これは、ヨハネによる福音書でフィリポがナタナエルに語りかけた言葉と同じで、それもまたCome and seeです。そして、この「来なさい、そして見なさい」は、主イエスさまもご自身に従った人たちに語りかけました。こうして私どもは、福音書の「来て、見なさい」という呼びかけは、「主日礼拝に来て、見なさい」という呼びかけとしても聴くことが出来るということに気づくのです。
 ヨハネ1章50節には、次のように記されていましたね。「イエスは(ナタナエルに)答えて言われた。『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』」……そうなのです! 死の力にさえ勝利された復活の主イエスさまが働いている主日礼拝では、信じないではいられないような神のドラマを見るのであり、信実に主日礼拝を重ねて行く礼拝者には、「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」というスケールの大きい祝福が約束されているのです。
 皆さん、私どもはたった70年の時の経過で、決して忘れてはいけない過去を忘却し、大切な意味を持つ歴史の出来事を永久に消し去ろうとする言わば滅びの現実化が見出される時代のキリスト者です。ですから、この時代の隣人に向かって、「教会の礼拝に来てください。そして神の出来事を見てください」と呼びかける意味はとても大きいのです。そして、主日礼拝を大切に守り続ける私どもが、主イエスさまの祝福に与り、心から神さまをお祝いする出来事をあかしして行くことは、真に人間らしいことなのです。 
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by higacoch | 2015-08-08 16:51 | 詩篇