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2015年6月21日

 「まことの礼拝」  詩編84:6-13、ヨハネ福音書4:7-24

 今朝の聖書箇所に出てくる女性は、実に幸せだと思います。なぜなら、イエス様と何度もやり取りをし、イエス様によって喜びが与えられ、変えられていったからです。
 ここでのやり取りは、まずイエス様が女性に語りかけています。これはこの時代のユダヤの国では考えられないことでした。男性が女性に、ユダヤ人がサマリア人に、声をかけることはまずなかったからです。男性中心であり、ユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲でした。ユダヤ人は、サマリア地方を避けて入ろうとしませんでした。二人が語り合っているのを見た弟子たちは、びっくり仰天しました。イエス様は女性に「水を飲ませて下さい」と語り掛けられました。女性は、その後のイエス様の言葉に腹立たしさを覚えましたが、イエス様が自分の境遇を良く知っておられることを感じ、イエス様を預言者だと信じました。その後は、女性は「わたしたちの先祖は、ずっと、この山(ゲリジム山)で礼拝を捧げてきました。しかし、あなたがたユダヤ人は、礼拝すべき所はエルサレムにある」と切り出しました。このように別々の場所を聖なる場所として礼拝をしているが、との問い掛けに、イエス様は「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも、エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」とはっきりと言われました。ここでは特定の場所を信仰することが否定されています。その場所で礼拝を捧げなければ、礼拝したことにならないのではなく、聖地があるのではありません。それよりも「誰を」礼拝するのか、はっきりと「父なる方を礼拝する」、そのような時が来るとおっしゃいました。来るか来ないのかではなく、また最後の時、終末の時でもなく、まさに今、今がその時だと、おっしゃいました。
 さらに、「救いは、ユダヤ人からくる。けれども、救いはユダヤ人だけにと言われていない。まことの礼拝をする者は、サマリア人でも(ギリシア人でも、ローマ人でも)まことの礼拝を捧げる者の上に、救いが与えられ、すべての人に与えられるとおっしゃっておられます。そして霊と真理をもって礼拝しなければならないと言われました。
 日本でも宗教団体は必ずと言っていいほど、特別な場所を持ちます。総本山を定め、そこを特別な場所と考えます。しかしイエス様は、総本山信仰、聖地信仰を否定されています。さらに、ここで一人の女性に対して言われていることを受け止めるなら、信仰とは個別的なものであると言わざるを得ません。一人一人が、まことの礼拝を捧げることができると言うのです。だからと言って、一人だけでの孤立した信仰生活を私は勧めているのではありません。「まことの礼拝をする者たちが」とありますように、イエス様は呼び集められた人たちである教会を考えておられます。
 話は少し変わりますが、先月31日に小金井市内にある教会の信徒たちが、東京フリーメソジスト教会の礼拝堂に集まって一致祈祷会の礼拝を捧げました。その後に、共同の礼拝案内を配りました。これは共同の礼拝・集会案内紙です。キリストの教会であれば、教派を超えて、まことの礼拝が捧げられています。ここだけ、自分たちだけの教会という主張はありません。場所を選びません。イエス・キリストを救い主と信じて、霊と真理をもって礼拝する人たちがいるなら、どこでもまことの礼拝が捧げられると、私は信じています。
 最後に、イエス様が語られたことをまとめます。①「わたしを信じなさい。」イエス様を信じることです。あなたがイエス様を信じることです。一人の人間として、イエス様の前に立ち、イエス様を信じることです。 ②礼拝する場所は、特定の場所ではありません。聖なる地があって、そこでなければならないのではありません。 ③礼拝するのは、あくまでも父なる神様です。ほかの何かを礼拝するのではありません。 ④礼拝を捧げる者の姿勢として、霊と真理をもって礼拝しなければなりません。これは、人間の霊ではなく、神の霊です。人間のまじめさが求められているのではなく、神の霊である聖霊を信じて、礼拝しなければならないことです。また真理とは、イエス様が「わたしが真理である」と言われたのですから、イエス様につながっていることです。イエス様から離れて他につながっているのではありません。聖霊を信じ、イエス様の真理に生かされて、礼拝しなければなりません。自分は、その資格がないと言って、自分自身を責めながら、礼拝すべきでもありません。聖霊もイエス様も自分を受け入れて下さったこと、こんなわたしを救って下さったと信じて、神様に自らを全面に委ねて、礼拝すべきです。こうしたことが、まことの礼拝を捧げることには、必要なことです。このことを覚えて、これからも、まことの礼拝を捧げましょう。
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by higacoch | 2015-06-27 16:14 | ヨハネ福音書

2015年6月14日

 「約束されたこと」   詩編16:7-11、Ⅰヨハネ2:21-25 
 
 私が聖書に触れるようになったきっかけは、大学である先生に出会ったことからです。その先生は、ドイツ語と哲学の先生でした。先生のお宅で行われていた「読書会」に出席するようになり、多くの哲学書を読みました。その先生がカンバーランド長老教会の成瀬教会の長老であったがゆえに、いつしか教会に導かれて、聖書を読むようになりました。
 そんなある日の礼拝後に、一人の信徒からショッキングな言葉を聞きました。その人は「真理は一つだ。聖書に記されている真理だけが、真理であって、その以外にはない」というのです。私は聖書が言う真理は否定しませんが、それ以外の宗教的、科学的な真理はないし、そういう「真理」という言葉の使い方は間違っているという主張には、今もってついていけません。科学的な真理が、自分の人生を支える根拠であるとは決して思ってはいませんが、科学的な分野やそれ以外の分野でも真理と言う言葉を使っていいと思っています。だからといって聖書の真理と科学的な真理とは、ごちゃまぜにするつもりはありません。誤解がないようにいうならば、人がいかに生きていくのか、人として生きて行く真実、真理は、聖書がわたしたちに示し、語っていると堅く信じています。つまり、信仰者として、聖書の真理に聞き、生きると言うことが大事だと信じています。
 さて、今朝与えられた聖書箇所には「あなたがたは、皆、真理を知っています。」とあります。そう言われて、皆さんはどう思われるでしょうか。そうかなあと、考え込む人がいらっしゃるでしょう。皆さんの中には、「私は、そうではない。私は、真理を知っていない」と言われる方もいるでしょう。私は、これも、そうだと思います。私たちは、真理を知っていません。であるなら、今朝の聖書の言葉が間違っているのでしょうか。いえ、間違っていません。それでは、良く解らないと、皆さんは言われるでしょう。そうです。よくよく自分の頭で考えても、良く解りません。ただ私たち信仰者が、「真理を知っています」と言う時、知っておかなければならないことがあります。それは、自分の知識や知恵で知っているのではないということです。「知っている」のではなく、「知らされている」から知っているのです。聖書的に言うのなら、聖霊の導きによって知らされて、知っているのです。
 こうしたことを踏まえながら、ヨハネがこの手紙で語っていることは、知らされていながら、知らない人がいると言いたいのです。そうした人を反キリストに惑わされた人たちだと言います。この世に、キリストに反対する人があちこちに現れて「キリストは救い主ではない」と言っていました。そうした反キリストの言葉に動かされて、キリストから離れていく人が出てきていました。ここで言われている真理を知らない人、それは反キリストです。こうした人はイエス様をキリストであると認めないばかりか、御父とイエス様との関係をも認めない人でした。現代もこうした人たちはいます。聖書の話を聞き、キリストの言葉を聞いてもイエス様がキリストであると認めないのです。
 ヨハネは「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたのうちに、いつもあるならば、あなた方も御子の内に、また御父の内に、いつもいるでしょう。」と書いています。ここでの「いる」と訳されている言葉は、「つながっている」とも訳せる言葉です。それはイエス様が説教されたヨハネ福音書15章の「ぶどうの木」の譬えと同じ意味です。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは、何もできないからである。」と同じです。
 初めから聞いていたことが、心の内にいつもあるなら、あなたは、御子の内に、御父の内にいて、実を結ぶことができます。この実こそが、御子が約束してくださった永遠の命なのです。この命は不老長寿の命とか、永遠に生き続ける命ではありません。この命は、神から与えられた救いの喜びに満ちた命であり、希望の命であり、神様と共にある命なのです。この命を私たちは約束されているのです。
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by higacoch | 2015-06-20 17:02 | ヨハネの手紙

2015年6月7日

 「キリストの言葉を聞くこと」 申命記6:17-25、ローマ10:5-17
                             
 今朝与えられたローマの信徒への手紙の箇所は、有名です。何故かと言いますと、洗礼の時、ここ9節が取り上げられるからです。「口でイエスを主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」と牧師が語ります。それを聞いた洗礼志願者が、はっきりと自分の口で、「イエス様を信じます」と誓約するのです。あるいは、牧師が問い掛けます。「あなたは、イエスをわたしの救い主と信じますか。」それに応えて「はい」と誓います。このように口で信仰を言い表すのです。心で信じているだけでは十分ではないのです。心で信じ、口で公に告白することが、洗礼を受ける者にはなくてならないことなのです。
 今朝の箇所で、「何が言われているのか、よく解りません。」とよく質問されるのは、6、7節です。「心の中で『だれが天にのぼるのか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き下ろすことにほかならない。また『だれが底なしの淵にくだるのか』と言ってはならない。」これはキリストを死者の中から引き上げることになります。」との所です。
 最初に読みますと、多くの人が6節を「この人、あの人はどうかな、誰が天国に救われるのか」と心の中で思い巡らしたり、また7節を「誰が、神様の罰をうけて、地獄に堕ちるだろうか」と受け止めがちです。しかしここは、このような個人的な、誰が天国に迎え入れられるとか、誰が地獄に落とされるということではありません。そうではなく、イスラエルの民族の救いが関心事なのです。今朝の箇所の少し前のページには小見出しで「イスラエルの選び」とあります。だから、ここでは「イスラエル民族の救いを成し遂げるために、誰が天にのぼるのか」とか「誰が、陰府に下って、救いを成し遂げてくれるのか」と言ってはならないと言うのです。「こうしたことを問うことは、キリストを知らないからだ。知らないから、そんなことを言うのだ。」とパウロは言いたいのです。だから、あなたがたが救われるのは、キリストを知ることによってなのだと。キリストはユダヤ人であれ、ギリシア人であれ、民族による区別はなく、キリストを求めているすべての人に豊かに恵みを与えて下さる方だと説教しているのです。
 ですが、キリストを知らない人たちが、呼び求めるためには、まずキリストを知らなければなりません。そのためには、誰かが知らせなければなりません。知らせるためには、知らせる人が出かけなければなりません。出かけて行って、キリストを知らせなければならないのです。福音を知らせる人は、キリストを知らせるのです。このことは、その相手の方の救い主を知らせることになるのであって、神の裁きを知らせるのではありません。その人のために救いを為してくださった方を知らせるのです。だから、「良い知らせを伝える人は、なんと美しいことか」と言われています。
 福音を伝えた時に、福音を聞く人、聞き流す人、聞こうとしない人、バカな話だと立ち去る人、それぞれでしょう。しかし、キリストの福音を聞く人は、キリストを知ることになります。知ることによって、キリストを呼び求めるようになるのです。その人が救われるために、まず何よりも大事なことは、キリストの言葉を聞くことなのです。聞くことによって、信じることが始まるからです。
 よくよく考えてみますと、私たちは神様から問われていることになるでしょう。それは、私たちはキリストの言葉を聞き、信じることができるようにされた者です。信仰者として、主の恵みをすでに頂き、救いの恵みによって生かされています。ですから、私たちは福音を聞いたことがない人に福音を宣べ伝える者とされているということです。
 イエス様が、わたしたちの罪のために、自らの全財産ではなく、自らの身を捧げて、愛してくださったことを知らない人は、救いを知らないままになります。キリストの言葉を聞き、イエス・キリストを信じ救われた者として、私たちは伝える者とされていることをしっかりと覚えたい。そして遣わされて、キリストの言葉を伝えていこうではありませんか。友人、知人、家族の救いのために、遣わされていることを覚えて、主イエス・キリストに仕えて歩んでいきましょう。まだキリストの福音を知らない人にキリストの言葉を聞いてもらうために。
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by higacoch | 2015-06-13 16:29 | ローマ

2015年5月31日

『 主の前に立つ 』    詩編 51:3~6、ヨハネ福音書 8:1~11
                                和田 一郎 神学生

 みなさんは、神様の存在を感じる時というのは、どのような時でしょうか。私が初めて神様の存在を感じたのは、母の闘病生活で、母の強い信仰を目の当たりにした時でした。しかし、主日共同の礼拝で、神様の臨在に触れるのは、また特別な意味があります。礼拝を軸にクリスチャンの生活があり、一週間の初めの日、また礼拝の初めに罪の告白があって、自分の罪について考えることからスタートします。今日はヨハネの福音書から礼拝について、考えたいと思います。
 エルサレムの神殿でイエス様が、朝早く神殿に来られ、民衆に話しをされていた時、律法学者たちの一行が、姦淫の罪を犯した女を連れて来て「あなたはどうお考えになりますか」と、問いました。これは、イエス様を罠にかける、企みでした。「許せ」と言っても「石で打て」と言っても、当時のユダヤとローマの法に触れることになるからです。しかし、イエス様の答えは意表を突くものでした。「罪を犯したことのない者が、この女に石を投げなさい」。このイエス様の答えは、彼らが迫った答えの、どちらでもありませんでした。法律の問題から、人間が普遍的にもつ、罪の問題へと切り替えたのです。
 イエス様と女の二人だけがその場に残りました。この様子を見ていた大勢の人々もどこかへ行ってしまいました。しつこく攻めたてていたのは律法学者たちだけではなく、周りで見ていた民衆も尻馬に乗って、うなずく者があったのではないでしょうか。そういえるのは人間にはそのような罪の性質が、誰にでもあるからです。この言葉は律法学者たちだけでなく、周りにいた民衆の心にも、現在の私たちにも問いただされる言葉であるのです。
 人々はそこにはいられなくなって、その場を去ったのです。またこの時、女もその場を去っても良かったでしょうが、その場にたたずんでいました。この女はイエス様によって招かれたのかもしれません。そしてイエス様の御前に立たせて下さって、罪を全てさらけ出して、清められ、日常生活の人間関係や、煩わしい物事との接触をすべて断ち切られる。女を取り巻いていた、あの学者たちの策略、ひとつの命をなんとも思わない社会の悪。姦淫した女はこの世の咎、憂い、醜いいじめ、不公平。そして何よりも自分が犯した罪。そのすべてを取り除いて下さったのが、目の前にいるイエス様その人です。
 イエス様の御前に立った女と、礼拝する私たちの姿が重なります。「主よ、だれも」と、女の周りには社会の不条理も汚れたものもいっさいありませんでした。 そして、自分で犯した罪さえも、イエス様の言葉によって拭い去られるのです。「わたしもあなたを罪に定めない」。
 本当に自分の罪を清めることができるのは、目の前にいるイエス様だけです。イエス様だけがこのことの為に、目の前に来て下さったのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコによる福音書2章17節)。イエス様が願っていることは、目の前にいる私たちの、あるがままの姿を祝福したいと願っているのです。罪の本質は、神様から離れることです。ですからあらゆる罪というものは、神様から離れた生活から生まれてきます。この女の人がどのような生活をしていたのか、その詳細は記されていませんが、神様から離れて、この世の価値観で心を満たそうとしていたことは確かでしょう。そのような生活は、この世の欲や、不完全な法律に振り回されることになります。イエス様はここで女の人に対して「これからは」と将来の事について語っています。罪を犯してはならない、神から離れた生活をしてはいけないと言っています。環境が厳しければ厳しいほど、私たちの心に明かりを灯すのは、イエス様が示される将来への言葉です。これからの希望と共に送り出されるのです。イエス様に受け入れられ、新たにされて「行きなさい」。この言葉と共に、生活の場へと送り出されるのです。
 この姦淫の女は罪ある者でしたが、イエス様の前に召し出されて、周りにある汚れたものを取り拭われて、ありのままの姿を差し出し、罪が許され、み言葉で満たして下さいました。そして生活の場へと派遣されて行きます。私たちは、今日こうして礼拝に預かることができましたし、偶然ではなく主の前に立たされました。イエス様自ら、命とそのすべてを差出して十字架にかかって下さって、私たちに永遠の命の、道備えをしてくださいました。そのイエス様にすべてを差し出すことが、新たな出発です。永遠の救い主、イエス様を信頼して与えられるものに、何も欠けるものはありません。偶然ではなく、主のご計画の中で愛された一人として、「行きなさい」の言葉に送られて、この一週間、遣わされて、歩んでいきたいと願います。
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by higacoch | 2015-06-06 14:53 | ヨハネ福音書