<   2015年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

2015年5月24日

 「あなたに与えるとの約束」  詩篇104:24-30、ヨハネ福音書14:15-27 

 皆様と共に、ペンテコステ主日礼拝を守ることができたことは、本当に嬉しく、神様に感謝します。ペンテコステは、イエス様が復活されて50日目に当たります。ギリシヤ語では50という数字をペンテコステと言うからですが、その言葉がその日の出来事を現わすようになりました。この日に、イエス様が約束された聖霊が弟子たちに注がれ、彼らは、力を与えられて、イエス様こそ救い主だと大胆に伝えていくようになりました。それまで弟子たちは人々を恐れていて、ある時は部屋に鍵をかけて、ひっそりと閉じこもっていたことさえありました。そんな彼らがこの日を境に、不思議なことですが、人々を恐れなくなり大胆に人々の前に出ていって、「イエス様は復活し、イエス様こそ、わたしたちの救い主、メシアだ」と説教し始めました。この弟子たちの最初の大胆な説教が、人々の心を動かしました。人々は「わたしたちは、どうしたらいいのですか」と聞いてくるようになり、弟子の代表のペトロが「悔い改めなさい。そして、一人一人、イエス・キリストを信じ、イエス・キリストの名によって洗礼を受けて、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、またすべての人にも与えられているものです」と答え、それを聞いた人々は、その言葉に従って、洗礼を受けました。その数は、その日だけで3千人にのぼったと使徒言行録2章には記されています。イエス様を救い主と信じて多くの人が洗礼を受け、この日のうちに教会が建てられていったのです。このようにペンテコステは教会が誕生した記念すべき日であります。
 使徒言行録には、聖霊が一人一人に注がれたとあります。聖霊は、十把一からげに注がれたのではなく、一人一人、個別的に注がれました。ペトロに、アンデレに、ヨハネに注がれました。こうしたことを踏まえながら、今朝与えられた箇所を、さらに学びたいのです。
 今朝のヨハネ福音書の中で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしない」と言われているように、「私は」「あなたがたを」または「あなたがたに」という言葉があり、「わたし」と「あなたがた」が何度も繰り返されています。そして、イエス様は、弟子たち、あなたがたに聖霊が与えられると約束されています。この「あなたがた」に聖霊が個別的に与えられるということを考えるなら、「あなたがたは」「あなた」と言いかえることができます。そうなると、「わたし」が「あなた」に与える、イエス様が、弟子である一人のあなたに与えると言われていることと理解していいのです。また皆さんも、イエス様から「あなた」と呼ばれていることとして聞くことができます。2千年前の弟子たちだけにイエス様が言われたこととして聞いて頂きたくないのです。イエス様は今も生きておられるのですから、現在のこととして、あなたに語られていることとして聞いて頂きたいのです。イエス様はあなたに聖霊を与えると語っておられるからです。
 イエス様は父なる神に弁護者をおくってもらうようにお願いしようと言われました。そして、聖霊は真理の霊であると教えられています。この真理の霊が、わたしたち日本人には解りにくいのです。なぜなら、日本には、いろいろな霊があり、普段の生活の中でもよく語られて、よく耳にするからです。特に夏が近づくと、幽霊や亡霊という言葉を聞きます。また他にも、精霊、生霊、心霊、祖霊、地霊とかが語られます。あまり聖書のことを知らない方々は、今朝の箇所に書かれている霊をそうした霊の中の一つとして考えたりしますから、よく解らないのです。しかしここで示されている霊は、真理の霊と言われています。イエス様は弟子たちには教えられました。「父なる神様が、わたしの名によって遣わされる聖霊は、すべてのことを教え、わたしが話して、教えたことを思い起こさせてくださる」と。イエス様は、十字架で殺される前に、聖霊が注がれると弟子たちに約束して下さっており、その約束が、このペンテコステの日に果たされたのです。
 聖霊は、わたしたちにも与えられています。このことをしっかりと覚えたいのです。聖霊によって教会は建てられて、聖霊によって人々が生かされています。今、求道中の方々は、ぜひイエス様を、わたしの救い主と信じて、洗礼を受けて頂きたい。洗礼を受けられた方々は、ペトロがそうであったように、イエス様の救いを伝えていって頂きたいのです。
[PR]
by higacoch | 2015-05-30 17:33 | ヨハネ福音書

2015年5月17日

 「つながっていればこそ」   出エジプト19:1~6、ヨハネ福音書 15:1~11
                                  荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

  めぐみ教会の会堂前は、歩道拡幅工事が行われた関係で、手作りの木塀や掲示板を撤去したり、おとなりとの間にフェンスを立てたりして、かなり様子が変わった。この模様替えのために、15年ほど前に故渡邊光男兄が植えたぶどうの木を伐採することになった。ここのところ収穫がめっきり減ってしまっていたので、そろそろ替え時ではあったが、でもお世話になった木を切るのは辛いことだった。小池恒彦兄の提案で、切ったぶどうの幹の部分は、教会前にオブジェとして飾った。枝は何人もの教会員が持ち帰り挿し木を試みている。そして、新たに苗木2本を購入し、第二世代のぶどうの木が枝をはり、実をつけるのを待つこととした。「教会にはぶどう棚だ!」と最初の苗木を植えてくれた先人の、祈りは大切に継承していこうと思う。
 さて、ぶどうの枝がぶどうの木につながって豊かに実を結ぶという主イエスの比喩。とてもわかりやすいイメージだ。でも実は、ぶどうという植物と、神‐人間関係の間には大きな違いがある。ぶどうの枝には、幹につながらないという選択肢などは存在しない。しかし人間にはつながるか否かを選ぶことができる。選べてしまうから厄介だ。しかし思うのだ。イエス様が「わたしにつながりなさい」と呼んでくださり、そうしたいと願って自分の意志でつながるなら、自動的につながっているのよりずっと素晴らしいではないか。強制でも一方通行でもない、自由からこそ生まれるつながりこそがぶどうの房を生むのだ。
 「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」主イエスにつながっているというのは、イエスの愛のうちにとどまるということである。愛という言葉は美しいが、実際に愛するのは大変なことだ。神様が人間を愛してくださる愛を思うと、それがどれほどの忍耐、どれほどの赦しを必要とするものかにため息が出るほどだ。ましてやわたしたちにとって、イエス様の愛にとどまる、というのは容易なことではない。イエスの愛にとどまって生きるのは、忍耐と覚悟と高い志を求められることである。そして何より、イエスの言葉を聞いてそれを心に納める、それに従う、という謙虚さがなければできないことだ。
 ところが、愛にとどまろうとする決意をくじこうとするものが世には溢れている。実際問題、この福音書が書かれた時代も、そして今も、イエスの愛から離れていってしまう人は多いのである。
 今の日本の情勢に危機を感じておられる方は多いだろう。世の流れが一定方向に強く流れ始めると、多くの人々は雪崩をうつようにその流れに乗っていくようになる。今まで唱えていたことが何であれ、それと関係なく、保身に走るようになる。保身に走っても、慌てて乗り込んだ船がその先沈没に向かえば元も子もないのだが、そこまでは見えないのだ。不合理な話だが、「滅びに向かって保身に走る」ということが起きてくるだろう。そういう時にこそ、「イエスの愛にとどまる」という信仰が問われる。イエスを見限っていったあのユダのように自分の打算で動くのか、それとも、イエスの「つながっていなさい」という招きにかけるのか。
 「今もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあってわたしの宝となる」と神はイスラエルに言われた(出エジプト19章)。
 「あなたは宝だ」。そう言ってくださる御方としっかりとつながっていればこそ、そのつながりにおいて、わたしたちは「宝」なのである。小さくても、みすぼらしくても、弱くても、それでもなお「宝」と呼び、大切なものとして用いてくださる御方がいる。神の言葉に従って生きるというつながりがあればこそ、いのちを輝かせて生きることができる。ぶどうの枝は、ぶどうの木につながって、そこから豊かな樹液をいただいてこそ、豊かな房を実らせるのだ。キリストにつながっていよう。
[PR]
by higacoch | 2015-05-24 18:33 | ヨハネ福音書

2015年5月10日

 「これらのことの証人となる」 詩篇67:2-3、ルカ24:36-53

                                     平 尚紀 教職志願者

 主イエスの十字架の処刑の後、弟子たちは、一つ所に集まって、家の戸を固く締め、鍵をかけていた。力ある指導者、新しいリーダーだと信じ、従ってきた主イエスが、思いがけない形で捕われ、処刑されてしまった。民を惑わし、ローマへの反逆を企てた者としてユダヤ人権力者の手によって、ローマの総督に引き渡され、ローマの処刑方法であった十字架刑という見せしめの形によって処刑されてしまった。その弟子たちは、共謀者として、自分達の身にも危険が及ぶのではないかという恐怖から、固く戸を閉め、息を殺してひっそりと集まっていたのです。しかし、使徒言行録を読んでみますと、この弟子たちが大胆にイエスの復活を伝え、「イエスこそキリストである。」「イエスこそ救い主・神の子である」と世界中に伝え始めたことが記されています。あんなにまで怯えていた、隠れていた弟子たちが、なぜ、それほどにまで大胆に語り出すことができたのでしょうか。

 主イエスの十字架の出来事の三日後、数人の婦人たちが墓に遺体がないことを弟子たちに告げました。そして、エマオへ向かったはずの二人の弟子が死んだはずのイエスに会った。と驚きと喜びの顔で弟子たちに告げたのです。そんなはずはない。そんなことあるわけがない。弟子たちは、戸を固く閉ざした家の中で互いに論じ合っていたのです。
 「夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」よほど怯えていたのでしょう。仕事や家族を捨ててまで従った主イエスが、思いがけない形で捕えられ、処刑されてしまった。いつ自分たちの身にも危険が及ぶか。弟子たちはそうした不安、恐怖のどん底に突き落とされたのです。恐怖だけでなく、この先どうしたら良いか分からない。先の見えない不安、真っ暗闇の状況にあったのです。
 そこに、突然、イエス御自身が彼らの真ん中に現れたのです。37節「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」すべての戸を閉め、鍵をかけ、誰も入ってくることが出来ないように、身をひそめ集まっていた。そこに突然、人が現れたのです。あまりの想定外の出来事に、度肝を抜かれた。心臓が飛び出すほど彼らは驚いたのです。彼らは、実際に見ても信じられなかったのです。それ以前に、婦人や二人の弟子たちの話を聞いても信じようとしなかった。それほどにまで彼らの心は固く閉ざしていたのです。それに対して、主イエスは、38節「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」と弟子たちを優しく戒め、39節「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。」と語っておられます。
 声を聴いて、目で見て、手で触って。耳と目と手で復活したことを弟子たちに確認させたのです。焼いた魚を食べられた。ともありますが、この表現は、弟子たちと一緒に食べたことを示す言葉でもあると考えることができます。つまり、聞いて、見て、触って、においを嗅いで、一緒に食事をした。弟子たちは五感すべてを使って、復活した主イエスを確認したのです。
 復活した主イエスは、弟子たちと40日間共におられ、これまでの宣教活動の一つひとつを説明された。主イエスの十字架と復活によって旧約聖書全体に記されている事柄すべてが実現したのだということを、弟子たちに繰り返し教えられたのです。「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とありますが、原文のギリシャ語本文を見てみますと、心を開くとありました。目という文字は入っていない。弟子たちの心を主が開かれたのです

 その日、主イエスは、弟子たちが固く閉ざした家の中に現れました。恐怖に怯える弟子たちの真ん中に立たれたのです。さらに頑なに信じようとしない弟子たちに、五感を使って復活したことを理解させた。怯える彼らを喜びで満たし、一緒に食事をし、身も心も満たしてくださった。そして理解しようとしない彼らの頑なな心を開き、聖書を悟らせてくださった。主イエスの死と、復活に隠されていた意味を改めて教えられた。神の愛と救いのご計画を示されたのです。
 怯える彼らの心の真ん中に立ち、そして安心させ、共に食事をし、聖書を悟らせ、それから「これらのことの証人」へと立ちあがらせてくださるのです。
 決して、外から無理やりこじ開けたのではないのです。
 この後、弟子たちは、聖霊に満たされ、力を受け、大胆に復活の主、救い主イエス・キリストの証人として出かけて行きました。イエス・キリストの福音、喜び、良い知らせを大胆に語り告げました。「十字架で死んだイエスが復活した。」「イエスこそ神の子だ。」「イエスこそキリストである。我々の救い主だ。」と語り出して行くのです。

 すべての戸口を固く閉ざしていた彼らが、主イエスの復活に出会い、喜びで満たされ、喜びと祝福を携えて、自ら戸口を開き、外へと全世界へと飛び出していったのです。
 心を開けてくださるのは、主イエスです。主は私たちを祝福してくださるのです。
もうすぐペンテコステです。主が約束してくださった聖霊を祈りつつ、待ち望みましょう。
[PR]
by higacoch | 2015-05-16 16:07 | ルカ

2015年5月3日

「わたしに従いなさい」   詩篇118:1-12、ヨハネ福音書21:15-19

 今朝与えられました聖書箇所には、イエス様とペトロの間で、3度もやり取りがあります。最初に、イエス様がペトロに「この人たち以上に、わたしを愛していますか」と尋ねられました。この人たちとは、そばにいた弟子たちでしょう。そうすると、ペトロはすぐに「はい。」と答え、イエス様に向かって「私が愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。それからイエス様は、再び「わたしを愛しているか」と尋ねられました。ペトロは、さっきと同じ言葉で、答えました。すると、イエス様もまた「わたしの羊の世話をしなさい」と同じように言われました。もうこれでおしまいかと思っていると、イエス様は再び「わたしを愛しているか」と尋ねられました。同じことを3度も聞かれたので、ペトロは悲しくなりました。イエス様は私の言葉が信用できないのだろうかと思ったかもしれません。
 イエス様とペトロのやり取りの間に、イエス様は3度「わたしを愛していますか」と尋ねられています。この3度は日本語で見ますと同じですが、原語のギリシア語では同じではありません。最初の2回は同じですが、3回目は違います。「愛して」の言葉が違っているのです。1回目、2回目は神様の愛(アガパオー)で「愛しますか」と尋ねられていますが、3回目は人間の愛(ピレオー)で「愛していますか」と聞かれています。それに対してペトロは3度とも同じに、人間の愛で「愛しています」と答えています。
 この時イエス様はペトロに「わたしの羊を飼いなさい。」と言われています。ペトロに語られているということは、教会に語られているとも理解されるのです。カトリック教会はペトロの教会だと言われます。現在のローマ教皇がいるカトリック教会の総本山はサン・ピエトロ大聖堂と言いますが、ピエトロとはペトロのことです。イエス様が3度目には、人間の愛で尋ねられたのは、イエス様の方からペトロに近づいてくださったということです。最後まで、神の愛で愛することを求められたのではありません。ペトロにも教会も限界があったのです。神の愛で愛せない、罪を犯す存在だったからです。こうしたやり取りをして、イエス様は最後には、はっきりとこう言って、念を押して「わたしに従いなさい」と言われました。ペトロも私たちも教会も罪を犯します。私たちも教会も罪の懺悔をしなければなりません。
 先週の月曜日、日本聖書神学校で「沖縄・辺野古と教会」と題して公開講演会が行われました。講師は金井創先生。先生は明治学院教会の牧師を長年され、2006年に沖縄の教会に移り、沖縄で教会に仕え、かつ平和活動をされています。どうして東京から沖縄に移るようになったのか、その原点を教えてくださいました。それは学校の生徒たちを連れて、フィリピリの貧民街に行った時のことです。フィリピンのスモーキング・マウンテンと呼ばれるゴミの山へ行きました。ゴミの山では多くの人々が何とか収入源になるものを見つけて、それを売って生活していました。その近くにはカトリック教会の立派な大聖堂があり、またゴミの山の最前線に小さなバラック小屋がありました。その小屋の看板には「イエス・キリスト」と書かれていました。それを見た先生は、「イエス様は、どちらにおられるのだろうか」と考えさせられたのだそうです。そして確信が与えられました。イエス様は、ここバラック小屋の教会におられると。その体験から、自分も貧しく、苦しむ人たちと共に生きていこうと決心が与えられて、沖縄に渡られました。そして今は沖縄の人々と共に、国が進めている米軍基地の建設に反対し、抗議活動をされておられます。
 私は、国も罪を犯すと思います。その時イエス様は、神様の御旨とは異なる歩みをしていく国家権力の悪の力に対して、神の国と神の義を求めていくように勧められていると思います。今、日本は再び戦争をする国へ向かっています。戦争は、相手を敵だと決めて、その相手を殺すことです。どのような正当論が論じられようが、戦争は人殺しをするのです。私は、今、池上彰さんの本「超訳 日本国憲法」を読んでいます。本当に分かりやすく憲法が説かれたものですが、この本を読んで教えられたことがあります。今、国会で集団的自衛権の武力行使が言われていますが、「戦争」と「武力行使」とは違っていて、その違いは「戦争」は、宣戦布告してから戦うのであって、武力行使は、宣戦布告もしないで武力攻撃をするのだそうです。日本は70年、海外での戦争をしませんでした。それが、いきなり敵に爆弾を落として攻撃できる国になろうとしているのです。
 私は戦争とは、人間が犯す罪だと受け止めています。イエス様に従うなら、戦争を行うのは罪であると信じます。そうであるなら、そうしないようにしなければなりません。国にではなく、イエス様に従わなければなりません。最後に、イエス様は、はっきりと言われました。「わたしに従いなさい」と。国ではなく、教会でもなく、イエス様に、なのです。
[PR]
by higacoch | 2015-05-09 16:46 | ヨハネ福音書

2015年4月26日

 「主なる神の言葉」 イザヤ書61:1-3、Ⅰペトロ1:13-25

 先週、神学校の友人が著した「反知性主義」という本を読みました。この本は反知性主義という言葉が、日本で使われている意味とアメリカで使われてきた意味とが違うと言うことから書き始めています。日本では、反知性主義は知性に反対する意味合いで、否定的に使われています。たとえば、知性による客観的な検証、公の場における対話などを拒否して独りよがりな態度を示す、と。しかし、アメリカでは知性そのものへの反対ではなく、知性から生じて、知性をもって力を奮っているような「政治権力」への反対です。もともと知性とは、単に何かを理解したり、分析したりする能力だけではなく、それを自分に適用する「振り返り」の作業を含むものだと言います。知能が高くても知性が低い人がいます。知的能力は高くても、その能力が、自分という存在の在り方を振り返ることができない人がいます。そこで反知性主義とは、知性と権力とが結びついた時の反感の行動だと言ってもよいし、知的な特権階級者が大いに力を振るって発言し、行動することへの反感であるとも言えます。
 アメリカは、ヨーロッパのように中世の時代を歩み、宗教改革をした国ではありません。ヨーロッパからピューリタンの人たちが多く移民してきて国造りがなされた国です。ピューリタンの人たちとは、イギリスの教会の改革を唱えた、まじめで清潔な信仰生活を守るキリスト者たちで、信仰の自由を求めて、新天地アメリカに渡ってきた人たちでした。そうした人たち、そしてその子孫たちの中には、禁欲的で厳格な法律を持ち、高い倫理観をもって生活する人たちがいる一方で、欲望丸出しのなんでもありの人たちもおり、アメリカは彼らがキリスト教を土着化していく過程で造られていった国でした。そうした中で、アメリカ的な福音のメッセージ、「誰でも回心して、まじめに生きれば、救われる」というものが生み出されました。どんなに堕落と放蕩の人生を送っていたとしても、回心と人生のやり直しの希望は誰にでも等しく与えられていると信じられていきました。そのような信仰理解で、いつしかそれが人間的な理解が優先するようになって変質して、救いとこの世の成功とが結びついていきました。さらに人生の有益な自己啓発の道具となっていきました。逆に、悪いことをすれば、必ず、神の審判を受けなければならないとなり、こうしてアメリカのキリスト教土着化で、キリスト教の救いの恵みが安っぽくなっていきました。この安っぽい恵みは、最近、私が読んだアメリカの黒人の神学者ジェイムズ・コーンが著した本「十字架とリンチの木」で、はっきりしています。回心して救われた恵みを頂いた白人クリスチャンたちが、容赦なく黒人を木にかけて殺し、見世物としていた事実が記されています。クリスチャンの白人たちは、いつさらしものが見られると新聞に掲載し、老若男女みんなが見物にいきました。彼らはそうした人種差別をしながら、黒人たちを殺害しているということについて問うことはありませんでした。白人が黒人を殺して裁判にかけられても、判決を下す陪審員はすべて白人で、ほぼすべてと言っていい位、殺害した白人を無罪にしました。黒人を家畜のように扱い、決して自分たちと同じ人間なんだとは見なかったのです。
 さて「知性」というのは、そもそも自己反省力を伴っているものだ、と話しました。そのことを考えながら、今朝の聖書の言葉を読んでいって、信仰における大事なことを教えられました。
 今朝、与えられた箇所には「あなたがたは真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって、新たに生まれたのです。」とあります。神の変わることのない生きた言葉によって生まれ、言葉は生きているとあるように、今もわたしたちに生きて働きかけているのです。ですから、聞き続けなければなりません。一回聞いたから、もういいとは言えません。もし、神の生きた言葉を聞くことを軽んじるなら、いつしか違った福音の理解になっていくでしょう。自分勝手な聖書解釈で信仰を理解し、福音の本来の恵みを安っぽいものしてしまうことがあるのです。神の言葉は、生きているのです。神の言葉は、かつて生きていたが今は、もう死んでしまっているというようなものではありません。生きていて変わりません。主の言葉は、永遠に、変わることがないのです。神の言葉が語っている神の真理は、変わらないと言うことであり、神はその独り子を賜るほどに、世を愛されたということは真実です。ここで「世」と言うのは、私たち一人一人のことですから、神は御子イエス様をこの世界に送って一人一人を愛されたし、今も愛されています。ここにいらっしゃる一人一人をも愛されています。
 ペトロは勧めています。「召し出してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」と。「聖なる者」とは、完全な人ではありません。主なる神様の憐みによって救われた者であり、救われた主の恵みを受け止めつつ、主の御旨を求めて生きていく人です。そこでは神様の生きている言葉を聞かなければなりません。この言葉は決して上からの命令ではなく、主に救われた者が、主なる神様を見上げて生きていくための勧めなのです。
 私たちは、神様の前で罪を犯すも者ですが、罪を悔い改めつつ、主なる神様の言葉を聞きつつ、主なる神様に喜ばれることを求めて歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2015-05-02 19:24 | ペトロ