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2015年4月19日

「信じ、受けるだけ」   出エジプト15:1-11、ヨハネ福音書20:19-31
                               
 今朝与えられた箇所では、イエス様が復活された日の夕方、弟子たちの所に、イエス様が現れて「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました。聖書はギリシャ語で書かれていて、ここの平和という言葉は「エイレーネ」という言葉が使われていますが、これをイエス様の時代のユダヤの言葉で言いますと、シャロームです。「シャローム」は、今もユダヤでは日常の挨拶として使われていて「こんにちは」です。もともとは「あなたに平安がありますように」とか、「あなたに平和がありますように」という意味があって、別れの挨拶としても使われています。ですから、「シャローム」は、一般的には、「こんにちは」「さようなら」ですが、それは「あなたの上に神様からの平安がありますように」を含んだ挨拶なのです。
 さて、今朝は、復活したイエス様との出会いを、弟子たちの側から考えてみたいのです。弟子たちが、イエス様に会えたのは、イエス様が現れてくださったからです。弟子たちが積極的に、復活のイエス様を見つけて、イエス様に出会ったのではありません。あくまでもイエス様の方が積極的であり、弟子たちは受動的です。またイエス様は、手とわき腹をお見せになられ、十字架の上で死んだ私(イエス様)だと示されました。ここでも弟子たちは受動的です。
 この後に記されている弟子のトマスも、同様に受動的です。トマスが復活したイエス様を探し、見つけ出したわけではなく、イエス様の手の釘のあとやわき腹の傷を自分で確認した訳でもありません。このように、トマスも含めて弟子たちは、みな受動的であり、イエス様の復活を示された者たちでした。決して彼らの知恵や力によって解ったのではありません。
 私が弟子たちの側から考えているのは、弟子たちと私たちは同じ人間だからです。弟子たちに与えられたことは、また私たちにも与えられていると考えるからです。わたしたちも復活のイエス様の出来事は受動的なのです。私たちが何らかの手段でイエス様の復活が解ったとかいうものではありません。
 私は時々「私、どうしても復活のことが、よく解らない」とか「まだまだ良く解りません。」という言葉を聞きます。「では、イエス様の復活は、私たちが信仰生活が長いと解ることですか」、また「復活とは、私たちが解るとか、解らないとか言うレベルのことですか。」と聞きたくなります。イエス様の復活は、解るとか、解らないとかではなく、信じるか、信じないか、なのです。こうしたことは、伝道者パウロの言葉からも教えられます。ローマの信徒への手紙に「神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる。」(10:9)とあります。パウロは「イエスを死者の中から復活させられたと解るのなら、あなたは救われる」とは、言っていません。
 私は、弟子たちのことは私たちと共通することだとお話ししました。また教会とも共通することでもあります。復活したイエス様は、教会の人たちにも復活を現わしてくださいました。イエス様は復活されたとき、弟子たちの間のどの位置に立たれたでしょう。それは彼らの「真ん中に」でした。ですから、教会の中心に、復活されたイエス様がおられるということです。これはトマスの時にもはっきりとしています。イエス様はトマスの近くにいてくださっています。そして私たち一人一人のそばにイエス様が今も生きて立っておられるのです。
 また、イエス様はトマスに「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と勧め、さらに「わたしを見たから信じたのか、見ないで信じる人は、幸いだ」とおっしゃいました。これは、私たち一人一人に、復活のイエス様が求めておられることです。ここまで語ったようにイエス様の復活が解るのではなく、復活したイエス様を信じることが大事なのです。この教会にもイエス様の救いを求めておられる方がおられます。その求道者の方が、復活したイエス様を信じて、幸いを頂いて生きて頂きたいのです。
 最後に、ヨハネは、この福音書を書いた手紙の目的をイエス様が神の子であり、まさにメシアであると私たちが信じるためであり、かつ信じ、イエス様の御名によって与えられる命を受けるためと記しています。伝道者パウロも、イエス・キリストを信じ、キリストによるいのちを受けるように、手紙を書いたのです。わたしたちには聖書が与えられています。聖書はわたしたちが、イエス様を信じ、イエス様によって与えられる命に生きるように、与えられているのです。私たちがイエス様の復活が解るように求めているのではなく、イエス様の復活を信じ、いのちを受けるようにと、求められているのです。
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by higacoch | 2015-04-25 16:21 | ヨハネ福音書

2015年4月12日

「復活を喜び祝う」      列王記上19:1-13、ルカ24:13-35
                               関 伸子 牧師(高座教会)

 3年前の4月第2主日はイースターでした。わたしは東小金井教会でみなさまと共にイースター礼拝をささげ、祝会で駆け出しの伝道師を歓迎してくださったことをよく覚えています。今朝、復活後第一主日の礼拝を共にささげられますことを神様に感謝します。
 ルーブル美術館にあるレンブラントの「エマオ」は1648年作で、40歳代の画家が生んだ傑作です。明らかにエマオの食卓における主イエスのしぐさに、ふたりの弟子が、この方こそイエスであると知る場面。レンブラント特有の明るい光が射しています。食卓に給仕する人も描かれていますけれども、主イエスの顕現には全く無関心です。食卓が置かれている場所は明らかに教会堂の内陣です。レンブラントが属したオランダ改革派教会においては主の食卓が置かれたところです。エマオの夕食と、レンブラントの属するオランダの17世紀の礼拝堂が重く重なり合います。
 物語の構成は複雑です。33節以下の、二人の弟子がエルサレムに帰った話は、別の伝承であったかもしれないと言われています。主が甦られた日のことです。その出来事は既に知らされていた二人の弟子が登場して、エマオ村に帰ります。そして33節によると戻ってきます。その日の出来事はそこでは終わらず、36節以下の物語が続きます。何のために語られたのでしょうか。二人の「暗い顔」が変えられる話です。遮られていた日(16節)が開かられた(31節)話です。その暗い顔はなぜだったのでしょうか。
二人のうちの一人の名はクレオパであることが明らかにされています。もう一人の弟子というのは、実はクレオパの妻であったのではないかという推測もあります。エマオの村に二人の住まいがあったのです。待望の解放のメシアを信じていたのです。その意味では主イエスに近い存在でした。そのイエスが十字架につけて殺された。それも失望を生んでいたのでしょう。二人はイエスの死によって絶望していたと説明されることがあります。
 しかしそれならば、主イエスの死の直後に帰郷してもよかったのです。急所は22節以下の言葉です。「 …ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻ってきました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした」。それも聴いた通りでした。イエスは墓にはおられません。どこかで生きておられる。それはどのようにしてか。主イエスの臨在を見失っていたのです。
 それに対する答えは31節で与えられます。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」。目が開け、今まで一緒であった方が主イエスであることが分かった。しかし、そのとき、その主イエスが見えなくなった。消えたのではありません。だから主イエスの臨在を疑うことはありませんでした。「見ないのに信じる人」(ヨハネ20:29)となったのです。物語は一方で、肉眼で見ている同伴者を主イエスとして認めることができない鈍さを語りつつ、他方で、それが見えないで主イエスの臨在を信じ、喜び、エルサレムの仲間のところに帰る信仰の認識に変えられるのです。
 そして32節に「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」と記されていることも忘れてはならないことです。24節の語った心の鈍さに対応します。その鈍かった心が燃やされたとき、見えるところに依存しない霊的な確かさが与えられたのです。しかし、この燃焼は、そのときすぐにわかるようなものではなく、あとから振り返って初めて気づくような静かな、おそらくそれだけ確かな霊的な燃焼であったのです。そのような回想を語り合うとき、二人の「暗い顔」が消えていたことは改めて書く必要もない確かなことだったのでしょう。この暗さから明るさへの転換が、この物語の急所が何であるかを語るのです。
 主イエスは、その物分りの悪さを、「預言者たちの行ったことを信じられない」愚かさだと言われました。この「預言者」のなかにモーセも含まれます。律法学者もまた含まれます。だから当然「聖書全体」をイエスが説明されたことになります。エマオまでのほぼ12キロの道程を、聖書を説きつつ歩まれたのでしょう。焦点は「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」ということにかかります。
 しかし、ことはそれだけでは済まなかったのです。それだけでは、主イエスはなお依然として見知らぬ旅人に留まったのです。イエスの臨在を知るためには主と「共に泊まる」ことが必要でした。しかし、このとき、主ご自身は弟子たちのところに留まる意思はなかったようです。引き留めたのは弟子たちでした。自分たちの元にイエスを招いたのです。「無理に引き留めた」(29節)のです。
 「一緒お泊ください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。私たちと一緒に泊まってください。この祈りが私たちの日々の祈りになることを願います。やがて、私たちが、この地上の命を終える時、なおその時、主の命にのみこまれることをこころから願います。二人の弟子、この夫婦は、主にお会いした後で、すぐに立ってエルサレムに帰ったとこの物語は更に続きます。夜、夜道です。寝るのも忘れたのです。ここへ来る時は、明るい日の光の中で、その日の光を見ることもできない暗い思いで歩いた道を、夜には彼らは光輝く思いでエルサレムに走り帰って行く。ここに、教会の姿があるのです。教会が語り継ぐ命の物語を私たちの心に刻み、ここから新しい週の旅に出て行きましょう。お祈りいたします。
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by higacoch | 2015-04-18 16:21 | ルカ

2015年4月5日

「喜びからの行動」 出エジプト記14:15-22、マタイ福音書 28:1-10
                              
  皆様と共に、イースター礼拝を守ることが出来たことを大変、嬉しく思います。イースターは、春の喜びと重なって語られます。落葉樹の木々は、冬の間、葉を落として、あたかも枯れたように見えますが、春と共に、命の息吹をもって、さくらのように葉っぱよりも花が最初に咲くような木々もあり、まさに春を満悦しているかのように見えます。このように、冬の間、死んでいるような木々や草花が、春と共に、生き返ったように新しい命の息吹をもって喜んでいるようです。これがイースターの喜びと重なることから、イースターは春の喜びだとよく言われたりします。死から新しい命が現われたとして喜びが溢れてくるのです。
  教会にとってイースターのメッセージは、なくてはならないものです。大伝道者パウロは、イエス様が復活しておられないなら、私たちの宣教も信仰も空しいものだと言っています。それほどイエス様の復活が重要です。だからと言って復活だけを重要視するのではありません。十字架の死と分離して、十字架と復活とどちらが大事かという比較から言っているのでもありません。なぜなら両者を分離して考えることはできないからです。もし分離して考えるなら、教会が2000年の間語り続けた福音の意味を失なってしまいます。イエス様の十字架の死があり、そして復活の命があるのです。イエス様の十字架という苦しみ、その苦しみを通しての死であり、その死からの復活なのです。ここに復活の重要なメッセージがあります。イエス様の十字架の苦しみの死は、私たちの罪のための身代わりの死であり、神の犠牲の愛が、呪いの裁きに勝利したのです。その勝利の証明が復活です。だから、復活は神が与えた神の愛の勝利宣言です。
  イースターは喜びだと言いました。もう少しだけ喜びについて考えたいのです。宗教改革者、マルチン・ルターもその一人でした。当時、教会は救われるために、こうしたらいいと教えていたのは、善行でした。断食、祈り、施しであり、さらに教会が勧めた寄付でした。ルターは、教会が教えた修行を熱心に求め、実践していきました。しかし、どんなに荒修行をしても、救いの確信が得られませんでした。そのような中で、聖書の学びをしていき、彼は聖書から教えられました。人が救われるのは、当時の教会が教えていた善行によってではなく、信仰によって生きることだと示されたのです。そして聖書が教えている善行は、救われるための行動ではなく、救われた喜びから生じる行動なのだと教えました。つまり、救いのため、喜びのための行動ではなく、喜びから生じる行動こそが善行だと、ルターは説いたのです。
  こうしたことから言うと、今朝の聖書箇所にでてくる女性たちの行動は、何かを得るための行動ではありません。自分が喜びを得るための行動ではありません。イエス様の復活を知らされて、イエス様が死んだままではなく、今、生きておられるということを知らされて、喜びが沸いてきての行動です。つまり喜びからの行動なのです。私たちは自分の救いのために、ある修行やお布施が必要なのではありません。救いはイエス様が自らの命を捧げて下さったのです。そして復活を通して、そのことが成就したことをわたしたちに示してくださったのです。だから、救われるための善行が必要なのではないのです。私たちは救われたこと、イエス様の復活によって与えられた喜びからの行動が求められているのです。そのことを神様は喜んで下さるのです。
  今朝、与えられている女性たちの行動は、まさに喜びのための行動ではなく、喜びからの行動だと言えます。女性たちがしている行動は、弟子たちに知らせること、つまりイエス様の復活を知らせることでした。それは私たちにも求められていることです。
  イースターの喜びの行動は、まさに喜ぶための行動ではなく、喜びからの行動なのです。こんな私がイエス様の十字架によって罪赦されて、救われた。そのことが成就されたということの証明が復活なのです。イエス様の十字架の犠牲の死が、神の愛の表れであり、その愛が裁きという呪いに勝利したことが復活です。そして、イエス様の復活によって、人の裁きよりも神の愛が勝利したことがこの世界に現わされたのです。
最後に学びたいのです。復活とは、私にとっての信仰に生きる証詞なのです。どうか、皆様も、イエス様が復活されたという出来事、そのことを知識として知っているだけに留まるのではなく、復活とは私にとっての何なのかを深く思い巡らして生きていって頂きたい。それは、自分の喜びのためだけに生きるのではなく、神様のために、隣人のために生きることであり、これこそが復活信仰による喜びからの行動なのですから。
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by higacoch | 2015-04-14 21:00 | マタイ