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2015年3月29日

「王がおいでになる」    ゼカリヤ書9:9-10、ヨハネ福音書12:12-16
                                
 今朝の箇所にはイエス様が、ろばの子に乗って都エルサレムに入られたことが記されています。これは旧約聖書ゼカリヤ書に預言されていたことでした。
 ここでイエス様は、どうして子ろばに乗っておられるのかを学びたいのです。馬に乗った人の目の高さは誰よりも高い目線となります。ですから軍馬にまたがる王様は人々を見おろします。逆から言えば、人々は王様を見上げます。では、ロバではどうでしょうか。ロバにまたがった人の目の高さは、大人の目の高さよりも、ちょっとだけ高い所になります。しかし、ロバの子に乗った人の目線は、人々の目の高さよりも低くなります。そうなると、下から人々を見上げることになります。軍馬に乗る人の逆になります。目の高さが人の目の高さよりも低くなると言うことは、その人が低くなるということであり、謙遜になるということ、人に仕えて生きることでもあるのです。イエス様が、子ろばに乗ってエルサレムに入られたということにつながります。自ら低くなり、人に仕え、上から目線ではなく、下から目線となられたのです。
 私は丸2年、老人保健施設で介護の仕事につきました。デイサービスを利用される人たちの中には何らかの事故や病気で歩けなくなり、車椅子を利用している人が半数近くいらっしゃいました。ある時、私は自分で車椅子に座り、自走して施設内を見てみました。そうして目の高さ(ほぼ110cmでした)を低くし、施設のいろいろな道具、装備を見ていきましたら、今まで見てきたものが違って見えてきたり、それまで気づけなかったことに気づかされたりしました。
 イエス様が、子ろばに乗られたことは、自ら低くなられたことです。イエス様は「わたしの兄弟であるもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたこと」と言われました。ここでの小さい者とは、困っている人、さびしい人、孤独で誰も話し相手がいない人、さらに人々から軽蔑されている人、神様から罰が当ったと裁かれて、社会的な死を味わっている人、不治の病にかかっている人、差別されて苦しんでいる人、貧しい生活を強いられている人だと思います。イエス様は、そのような人たちの心の目線と同じ高さにになって、この世の中を見られました。そのようにして、人々に仕えて行かれました。
 また、預言者ゼカリヤの言葉に「見よ、あなたの王が来る」とあります。ヨハネ福音書では「見よ、おまえの王がおいでになる」とあります。このように預言では「あなたの王がおいでになる」との預言です。人々は、預言で言われた王を迎えたのでしょうか。よく聖書を読んでみると、そうではありません。人々が迎えたのは、13節にありまように「イスラエルの王」でした。この国を支配していたローマ帝国に対して独立運動を起こし、ローマ帝国と戦い、勝利に導く戦いの王でした。人々はイエス様をそのような戦いに勝利する王として迎えました。しかし、イエス様は、そうではありませんでした。むしろ全く力の弱い者のようでした。人々はこのようなイエス様を見て、失望していきました。失望とともに怒りが生じ、手のひらを返すように、「イエスを殺せ」と叫びました。「十字架にかけろ、殺せ」と大声でローマ総督に迫りました。こうしてイエス様は十字架刑に定められ、ついに十字架上で殺されました。イエス様は、人々が願ったイスラエルの王ではなく、預言者ゼカリヤが語った王であったのです。子ろばに乗って自らを低くし、人々に仕える王でした。人を支配し、人を利用する王ではなく、人を愛し、人のために生きる王でした。そして、人を生かす方でした。
 この王が、イエス様だったのです。イエス様はこの世で殺されましたが、三日目に復活し、新しい命を表して下さいました。この新しいいのちに、わたしたちを生かすためでした。「自分の命を犠牲にしてまでも、私たちを愛してくださった王がおいでになる」、この預言が成就したのです。この王がおいでになったのは、何よりも私たちを、真実な命に生かすためでした。「あなた」を生かすためだったのです。このことを覚えて、自らの罪を悔い改めて、イエス様によって与えられた命に生きていきましょう。
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by higacoch | 2015-03-30 17:36 | ヨハネ福音書

2015年3月22日

「一粒の麦」   イザヤ書63:1-9、ヨハネ福音書12:20-36
                              
 今朝、与えられましたヨハネ福音書の12章24節の言葉はとても有名です。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」この言葉から「一粒の麦」と言う言葉がよく使われます。特にキリスト教関係でよく使われています。たとえば、日本全国に一麦教会という教会がたくさんあります。また一麦保育園も一麦会の名前で障害者施設や高齢者施設などもあり、出版社にも「一麦出版社」があります。こうした中の一つですが、私も「一粒の麦」と言う団体で理事の働きをさせて頂いています。また葬儀でもよく取り上げられる箇所です。私は今日の説教題を「一粒の麦」としました。この題で注目しているのは特に「一粒」です。
 イエス様はよくたとえ話を語られました。ルカ福音書の15章には、三つのたとえが語られています。迷える羊のたとえ、100匹のうちの1匹が迷い出てしまいますが、その1匹が主人によって見出される話です。その次は、10枚の銀貨を持っている女性が、その一枚を無くしてしまいます。その女性は、その一枚の銀貨を必死になって探し、見つける話です。三番目は、放蕩息子の話です。この三つの話に共通するのが「喜び」です。迷ってしまった一匹の羊が見つかった時、一枚の銀貨が見つかった時、一人の息子が帰ってきた時、共通して「喜び」が語られています。こうした「一粒」「一匹」「一枚」は人間「一人」を差し示しています。
 こうしたことから言えば、麦の「一粒」は、イエス様を表しています。ですから、ここで一粒の麦が死ぬと言うことは、イエス様自身が死ぬと言うことなのです。そして、「死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあります。ここでは、死んでしまって、おしまいと言われていません。「死ななければ」、そして「死ねば、多くの実を結ぶ」とあります。ここには深い意味があります。これはイエス様の死を現わしていて、その死はそれで終わりとなったのではないことが、はっきりと語られています。一粒の麦の命は死にますが、そうなることで多くの実を結ぶことが起るということは、イエス様が死なれますが、その死は決して無駄ではなく、むしろ多くの実を結ぶということが起こります。
 こうしたことから葬儀で語られる式辞となるのです。最近の出来事で言えば、後藤健二さんの死は決して無駄ではありません。無駄どころか、多くの実を結んでいると信じています。その実とは平和を求める心を抱く人たちが世界中に起こされ「I am KENJI」と書いた小さなプラカードを掲げる人たちが起りました。私も平和を求める者の一人として「I am KENJI」と叫ぶ者です。
 今朝の箇所はイエス様がはっきりと十字架の死を意識された所です。イエス様自身が「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われています。「人の子」というのは、イエス様ご自身のことで、その後に「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ」と言われています。栄光を受けるには死を通らなければならないのです。成功や繁栄を通して栄光に至るのではなく、痛み、苦しみの後の死を通しての栄光です。それを語られた後に、人々に「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」と言われました。ここで三回、命が語られていますが、原語のギリシア語では、最初の2つの命と3番目の命とは、はっきりと区別されています。最初の二つの命は「プシュケー」と言う言葉で、人間の魂という意味を持つもの、3番目は「ゾーエー」で、神様の命なのです。ですから、自分中心の考えを持つ人は、大事な神様の命を失うが、この世であって自分中心の生き方をせずに、神様に従う歩みをする人は神様の命を与えられて、生きることができると言っておられるのです。
 今はレントの時、イエス様は十字架への苦しみの道を歩まれました。そして十字架の上で死なれました。そこでは人々が驚くような不思議な出来事は起りませんでした。ですから人々はそれで何もかもがおしまいだと思いました。弟子たちもです。しかし、そうではありませんでした。死ですべてが終わったのではなく、その死を通して、新しい命によみがえられました。一粒の麦であるイエス様の死を通して、復活の命を示し、神の栄光を現わして下さいました。イエス様の死は神様によって豊かな実を結びました。このことによって多くの人がイエス様の愛を受け止め、イエス様を救い主と信じて、神の命を頂きました。ここにも神様の栄光が現わされています。
 イエス様こそが、私たちを神様の命に生かして下さる方です。私たちの罪のために死んでくださったからです。そして私たちを生かして下さいました。この出来事を深く受け止め、イエス様を救い主と信じて生きていきましょう。
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by higacoch | 2015-03-26 11:23 | ヨハネ福音書

2015年3月15日

「わたしたちの心に霊を」     詩篇2:7-12、Ⅱコリント1:15-22
                             
 今朝与えられた個所では「然り」と「否」とが語られています。ですが、「然り」とか、「否」とか、よくわかりません。平たく言えば、「はい」と「いいえ」でしょうか。この聖書の個所から、よく語られるのは「はい」と「いいえ」を曖昧にして語るのではなく、相手にはっきりと分かるように語ることを教えていると説教されたりします。私はそれも教えられていると思いますが、それだけでおしまいにするなら、パウロが本当にここで語ろうとしている本意をくみ取っていないことになると思います。この箇所にはもう一つ「アーメン」があります。「アーメン」は「はい」に近いのですが、少し違っていて、「わたしもそう思っています。同意します。」という意味です。誰かが祈り、「これらの祈りを、イエス様の御名によって祈ります」と祈る時、それを聞いた人は祈った人と一緒に「アーメン」と合わせるのです。
 ではどうしてここで、「はい」「いいえ」「アーメン」と伝道者パウロは書いたのでしょうか。その理由は、自分が「はい」と言いながら、途中で「いいえ」となってしまったことがあったからです。計画通りに進めていけば、よかったのですが、パウロは途中から計画変更してしまったのです。その理由は、このすぐ後の23節から2章4節に書いています。それは、あなた方への思いやりからだと言うのです。
 今朝の言葉から言うと、「はい」から「いいえ」に変わってしまったのです。こうしたことで、パウロは、いい加減だと言われたようです。それに対してここで弁明しています。パウロは「このような計画を立てたのは、軽はずみだったのでしょうか。それとも、わたしが計画するのは、人間的な考えによることで、わたしにとって『はい、はい』が同時に『いいえ、いいえ』となるのでしょうか。」と問いかけながら、神様は違うと言うのです。人は何かの都合で計画変更をするけれども、神様は違う、そして「神様は真実だ」と言います。神様は「はい」であると同時に「いいえ」ではありません。人は途中で「はい」を「いいえ」としてしまいますが、神様はそうではありません。パウロがコリントの人たちに伝えたのは、神の子イエス・キリストであり、この方は、決して「はい」を「いいえ」と変えられた方ではありません。この方においては、「はい」は「はい」であって、神の計画が実現したのです。
 だから、イエス・キリストを通して「アーメン」と力強く言っています。もっと分かりやすく言うのなら、神様が約束された「救い」はイエス様によって為されたということです。
 神様の計画が実現されるために、イエス様は父なる神様の御旨に従って歩み続きけられました。それは十字架への歩みです。途中でその道を逸れることはありませんでした。この道はピリポ・カイザリヤから始まります。そこはユダヤの国の最北端で、ユダヤの国でありながら、異教の神が祭られていました。そこでイエス様は弟子たちに真剣に問われました。「人々は、私のことをどう呼んでいるか」と。弟子たちは「洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか」と答えました。すると「では、あなたがたは、わたしを誰と呼ぶか」と尋ねられました。弟子ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。ここでイエス様は一大決心されたのです。ここから一路エルサレムに向かわれました。それは十字架への道、苦難の道でした。それは神様の救いの計画であり、すべての人の罪のために、死ぬということだったのです。
 イエス様は、常に、父なる神様の御旨を求めてまっすぐに歩まれました。苦難を覚悟した歩みの中でも、ゲッセマネの園での祈りには、最後の激しい葛藤があります。イエス様は「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願い通りではなく、御心のままに」と祈られました。そうして、父なる神様の御旨に従って歩み続けられました。預言者イザヤが預言しているように、イエス様は人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの人々の痛みを負い、病を知っておられました。そして人々の病いを担い、咎を負いつつ、十字架への道を歩み続けられ、十字架にかけられ苦しまれて、死なれました。これは神様の御旨であり、わたしたち人間のすべてを愛するという計画だったのです。こうして神様の「はい」が成就されました。
 そして、さらに神様の計画がありました。それは「聖霊の注ぎ」です。主の弟子たちに聖霊が注がれたように、私たちにも注がれました。このことも、聖書にある神様の約束でした。こうして最後の最後まで神様は、「はい」を「はい」として、実行されました。
 今は、レントの時です。イエス様は、苦しみの道を歩まれました。この道は、父なる神様の救いの計画の「はい」を実現するためだったのです。このことを覚えつつ、レントの時を過ごしましょう。皆さん一人一人は、これほどまでに神さまに愛されましたし、今も愛されて、生かされているのです。
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by higacoch | 2015-03-21 11:19 | コリント

2015年3月8日

「神に近づくということ」    レビ 22:20~22、ローマ 12:1~2
                                       和田 一郎 神学生
 本日は、礼拝する時の私たちのあり方、神に近づき礼拝する時に、大切にしたいことを御言葉からともに聞きたいと思います。
 ローマ書の12章2節の後半には「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれるのか、わきまえるようになりなさい」とあります。神様に近づき礼拝する時に、まず神さまの御心をわきまえる、よく知る、ということを考えたいと思います。旧約聖書には「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。」(箴言9章10節)という御言葉があります。私たちには知恵に対する憧れがあると思います。ソロモンが王となって、神さまから「何が欲しいのか、願い出よ」と言われて、ソロモンは財産とか永遠の命ではなくて「知恵が欲しい」と言ったのです。上智大学の英語名のソフィアの由来は、「人を望ましい人間へと高める最上の叡智」だそうです。人間の知恵には、おのずと限界があり不完全さがあります。「主を畏れることは知恵の初め」という知恵は、本当の真の知恵は自分の中にはないことを知る知恵です。本当の最高の知恵は神にあって、そのことを知る知恵であります。神さまの偉大さが分かるということです。すると、おのずと神さまを畏れ敬うようになるでしょう。さらに、神様に謙虚に従わなければなりません。私は納得しないと動けないという人もいます。しかし、謙虚になって従っていくことで、次第に神様の前では何が善いことで、悪いことなのかが見えてくるのではないか。まず自分の知恵よりも神の御心を知ること。それが神様の前で、わきまえた人ではないでしょうか。
 パウロはローマ書12章で教会について語っています。12章5節「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。と、この「キリストに結ばれて一つの体」とは教会のことです。「教会はキリストのからだ」。しかし、今日のテーマである、神様に近づく時 と考えた時に、「私の信仰は、神様と私の間にある事だ、神さまとの一対一の関係の中にあって、その間に教会が大きな存在ではないと」思われる方もいると思います。しかし、ボンヘッファーは「交わりの中にいない者は、一人でいる事を用心しなさい。あなたは教会の中へと召されているのです。」という言葉を残しています。神の御前に一人でいることと、交わりの中にいることは、お互いに関連しています。イエスキリストの召しを受けて洗礼を授かると同時に、一人の信仰者であり、教会の一員としての信仰生活が始まるのです。また、毎週の礼拝で唱える使徒信条には、「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」、これを信じるとあります。人間の業に見える教会を、信仰の対象にしていることに注目したいですね。これはなによりも教会が「聖なるもの」であることについての信仰であります。神様が聖なる方であるように、教会もまた聖なるものである。教会が聖なるものであると信ずることは、教会を建てたり、営むことにおいても、人を通して働かれる神様の業であると、信じることです。どんなに優れた人でも、罪人であり、過ちを繰り返す人の営みでありますが、神様の前に立って「聖なる公同の教会を信ず」と告白することで、選ばれた一人の信仰者として聖められるのです。
 旧約聖書の時代、ささげものとして動物をささげました。それには幾つかの条件がありました。レビ記22章20節「あなたたちは傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられないからである。」捧げ物の条件は「傷のないもの」「全きもの、完全なもの」でなければ、神の前に、捧げられませんでした。そして、イエス様によって私たちは、旧約の民とは違う、捧げ物を差し出すことが許されています。それが、ローマ書12章に「自分の体を、神に喜ばれる、聖なる、生ける生け贄として、献げなさい」と、記されているのです。今は旧約の時代のように傷の無い動物を捧げる必要はありませんが、本質としては捧げる条件は変わっておりません。礼拝する時に、神の御前で全き聖いものを捧げるとは、自分の罪の部分が顕わになっている状態です。自身の醜さを隠すことなく、全く露呈される状態をいうわけです。自分は正しいと人と競っていた、正しくないと人を裁いていた、そんな過ちもすべて、「罪の告白」をもって顕わになって、「赦しの確証」を得て、初めて傷のない、全き聖いものとされるのです。神さまはそれらを大きな愛で受けとめて下さいます。自分の罪をさし出そうとする、勇気の上にも、聖霊の力が働かれます。 そして、主イエスが十字架で流された血によって、傷のない、全き者とされるのです。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。
アーメン
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by higacoch | 2015-03-13 11:13 | ローマ

2015年3月1日

「イエス様も試練に遭われた」    出エジプト17:1-7、ヘブライ4:14-16
                                  
 今は、レントの時です。レントは、受難節と言って、イエス様が受難を受けられた、つまり十字架に向かって苦しみの道を歩まれたこと、そして私たちの罪の贖いのために死んでくださったことを覚えて、過ごす期間のことです。その期間は、イエス様が荒れ野で40日間、断食をされたことから40日間(ただし主の日を除く)となっています。今年は先々週の水曜日2月18日からイースターの前日4月4日までです。そして、主の復活を迎えます。
 さて、この個所で語られた「試練」は、ギリシア語ではペイラゾーという言葉が使われています。この言葉には大別して二つの意味があります。一つは「試練」であり、もう一つが「誘惑」です。この二つが同じ言葉から訳されるのです。では、ここでは、どちらなのでしょうか。イエス様は、わたしたちと同様に、試練に遭われたのか、誘惑に遭われたのか、どちらなのか。考え始めていったら、よくわかりません。もう少し考えてみましょう。ある出来事を「試練」と受け止めて生きていった時、どうなるでしょうか。ある期間が過ぎてから「ああ、そうだったのか、このことのためにあの試練が遭ったのか。」「ああ、このことのために、あの苦しみがあった」と気づかされます。後になって神様の御旨が解るのです。それに対して、「誘惑」だと思い込んでいたら、どうなるのでしょうか。時がたって、自分にとって新しい苦難に出会うと「ああ、あの時自分は誘惑に堕ちてしまった。だからこんな目に遭うのだ。」と思い込んでしまいます。そして、神様から裁かれたと思い悩むのです。こうして自分で自分をしめつけてしまいます。さらに、こんなことを思う人がいるかもしれません。「俺は、バカだった。あの時、これは誘惑だと気づいていれば、こんな目には遭わなかったはずだ。あの時、もっとしっかりと気づいていればよかったのに。」と自分を情けなく思い、自分を責めるのです。こうなると、心が自分の方にのみ、向いていて、神様に向かわないのです。神様の愛が見えなくなっているのです。15節に「わたしたちと同様に、試練に遭われたのです。」誰が、遭われたのか、それは大祭司、つまりイエス様です。イエス様も、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 このヘブライ人への手紙には、このペイラゾーという言葉が他に4か所に出てきます。そこには「誘惑」と訳されているのは、一つもありません。すべて「試練」と訳されています。そうした中から取り上げてみますと、2章18節、前節から読んでみます。「イエスは、神の御前において、憐み深い、忠実な大祭司となって、民の
罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあります。イエス様が試練を受けられたからこそ、試練を受けている私たちの苦しみや悲しみを知って、助けてくださいます。
 ヘブライ人への手紙の筆者アポロが言うように「わたしたちには、神の子イエスが与えられているのですから、信仰をしっかりと保とうではありませんか。」「大祭司(イエス様)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではありません。イエスは罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(15節)そして伝道者パウロも言います。「神様は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることをなさらず、試練とともに、それに耐え得るように逃れる道を備えてくださる」(Ⅰコリント10:13)と。
 最後に、学びたいのです。ここでは、イエス様は神様の子どもだけれども、わたしたちと同じように試練に遭われたと言っています。人間的な苦しみや悲しみや痛みを何も経験されずに、生きていかれたのではありません。否、むしろ、わたしたち以上に、大変な試練に遭われました。それは、預言者イザヤが53章で記しているように、イエス様は、人々に軽蔑され、見捨てられ、多くの痛みを受け、人々からは、神の裁きを受けているから、苦しんでいると言われ、そして、ついには、殺されていきました。これは、私たちが味わう試練どころではありません。それ以上のもっと大きな苦難でした。命まで取られるものだったからです。しかし、イエス様の試練を通して、復活という勝利が与えられました。ここに人間の罪を赦して生かしたいという神様の御旨が示されています。イエス様の十字架の死と復活は、神の愛による大勝利でした。
 イエス様は自らの命を捧げて、わたしたちの罪の赦しを為して下さいました。今レントの時、このことを覚え自らの罪を悔い改めて、祈りを捧げてイエス様に感謝して過ごしていきましょう。
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by higacoch | 2015-03-06 11:07 | ヘブライ