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2014年12月28日

 「学者たちが訪ねた場所」    イザヤ11:1-10、マタイ2:1-12

 今朝与えられたマタイ福音書には、占星術の学者たちのことが記されています。彼らは東の国からやってきたとはっきり記されています。この学者たちは、3人だというのが定着していますが、それは贈り物が3種類だったので、3人だったと想像されたからです。また、3人ということで3大陸、アジア、ヨーロッパ、アフリカ大陸と結びつけられ、黄色、白色、黒色の肌を持つ人と考えられ、それぞれの大陸を代表しているとも考えられています。三大大陸の異邦人代表たちに、幼子がキリストであることを公に現したとして、公現日として、クリスマスが祝われていました。今も、教会は1月6日を公現日として祝っています。日本のギリシア正教会では、その翌日の1月7日をクリスマスとしてお祝いしています。またカトリック教会も最近は、1月6日が平日の場合は、その日に近い主日を公現日として祝っています。ですので、今回は公現日までクリスマスの飾りを少しだけ残しておき、公現日を意識して過ごしていきたいと思っています。
 さて、学者たちのことを考えたいのです。彼らは、当時の知識階級に属しており、王に仕えていました。そんな彼らが、一段と輝く大きな星の光を見つけ、その光の出現は、新しい王がお生まれになる印だと信じました。その光が西の方に輝いていたので、その方角から、ユダヤの国だと確信しました。そして、その王に会うために旅立ったのです。3カ月以上かかるラクダの旅だったでしょう。彼らは、新しい王の誕生と考えましたから、ユダヤの宮殿に行きました。そしてヘロデ王に謁見し、尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」と。彼らは、ユダヤの国にくるまで、人間的な常識で行動してきたと思えます。王の誕生と言えば、常識的には、王宮で生まれると考え、当然のように、王宮に行ったのでしょう。一般常識では、学者たちの判断は、良く解り、正しいのです。
 当時は、王の出現は、新たな戦争が起こると考えられていましたから、ヘロデ王だけではなく、都エルサレムの住民も皆、恐れたとあります。ヘロデ王は国内の学者たちを呼び寄せて、預言書などを調べさせたところ、ミカ書に新しい王の誕生の地がベツレヘムと記されていました。ヘロデ王は学者たちに、それを知らせました。そこで学者たちが出かけると、再び星がベツレヘムへと彼らを導きました。そして幼子のいる場所を指し示して、星は動きを止めました。
 最初にその場所を見た時に、学者たちは大変、びっくりしただろうと思います。なんと家畜小屋だったからです。こんな場所に、こんな薄暗い小さな所にと、一瞬、たじろいだことでしょう。彼らの常識では、考えられなかった場所だったからです。学者たちは、迷いました。しかし、彼らは星の光を、これまで導いた星の光を信じたのです。彼らの常識からは、信じられない場所ではありましたが、一歩踏み込んで、入って行きました。彼らに、その力を与えたのは、光でした。こうして、彼らは、家畜小屋に入ることができました。そして、イエス・キリストとの出会いが与えられました。もしも自分たちの考えや一般常識に従っていたら、キリストとの出会いはなかったでしょう。こんな汚い、暗い、薄暗い場所に王が生まれるわけがないと考え、家畜小屋に入らなかったなら、キリストとの出会いはなかったのです。
 人が常識に留まっている以上、信仰へと歩み始めることは出来ません。人間の内側にある光、それがどんなに明るかったとしても、長年の知恵や知識があったとしても、信仰には入れません。信仰に入ることができるのは、外からの光、今朝の箇所で言うと、星の光によってなのです。この光は、神からの光であって人をキリストへの出会いへと導く光なのです。この光を信じて歩み始めなければ、キリストとの出会いもないのです。
 わたしたちも人間常識に留まらず、常識を超えた所に進んでいきましょう。学者たちを導いた星の光がそうであったように、今も生きて働かれるキリストの光(キリストの言葉)、いのちの光が輝いています。その光によって学者たちがキリストと出会ったように、その光があなたにキリストとの出会いを与えてくれます。そして学者たちにとって、その場所が礼拝した場所となったように、あなたにとっても、そこが礼拝の場所となり、信仰の道を歩んでいくことになります。
 求道中の方が、キリストとの出会いが与えられますように祈り、わたしたちも新しい年、主を見上げて信仰の道を歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2014-12-31 10:28 | マタイ

2014年12月21日

「主イエスの誕生」  イザヤ7:10-14、ルカ福音書 2:1-20
                               
 皆様と共に、イエス様の誕生を喜び祝うクリスマス礼拝を捧げることができますこと、大変嬉しく思っています。さらに私たちの教会に、新しく二人の兄弟姉妹を加えて下さる神様に感謝しています。お二人は、長年わたしたちと共に礼拝を捧げ、交わりを持ってきた薗田兄弟姉妹であります。一度にご夫婦を迎えることができ、心から嬉しく思っています。
 さて今年の12月13日(土)の夕方に吉祥寺カトリック教会で市民クリスマスが行われました。そのクリスマスでは聖劇を中心に礼拝をし、私自身、羊飼いの役で出演しました。こうしたことで、当時の羊飼いについて思い巡らしました。
 彼らは人々から軽蔑されていました。汚い、臭い、けがれた奴だ、と言われました。人々から石を投げつけられることさえありました。いつしか自分たちは、価値のない人間、生まれてこなければ良かったという思いへと追い詰められていました。また安息日の規定を守らず、生活していました。羊の世話をする仕事上、羊を野原において集会に出かける事が出来なかったのです。行かないのではなく、行けなかったのです。ですがこうしたことから、彼らは神からも見捨てられた人間たちだと言われ、神様のバチが当たっているとさえ言われました。この時、ローマ皇帝アウグストゥスからの勅令が出て、人々は生まれ故郷に帰って登録をしなければなりませんでしたが、彼らは、人口調査の対象から外されていました。ローマ帝国も彼らを人の数に数えようとはしませんでした。彼らは人間の屑と見られ、扱われ、また神からも見捨てられた救いようのないと決めつけられていました。
 このような羊飼いたちに、天使が現れ、そして語り掛けました。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日、ダビデの町であなたがたのために、救い主がお生まれになった。この方こそ、主メシアである」と。天使は天の高い所にいて、「恐れよ」と命じたのではありません。そうではなく、天から地に近づいてきて、彼らと変わらないところにやってきて、「恐れるな」と語り掛けました。天使は、偶然、羊飼いを見つけて告げたのではありません。羊飼いが選ばれたのです。それは神が羊飼いを選んだということです。
 こうしたことから考えますと、彼らは決して神に見捨てられてはいません。否、むしろ、大事にされました。彼らに告げられたことは、人々への初めてのメッセージでした。それを考えると、天使は、「すべての民に与えられる大きな喜びを、誰よりも先にまずあなたがたに伝えます」と語り掛けたのです。だから、神は人間社会で見捨てられていた彼らを大事にし、愛しておられると言えます。天使は伝えたのです。「あなたがたのために」と。ユダヤの国のためにとか、王様のためにとか、預言者のためにとか、ではありません。「あなたのために」と。
 この羊飼いとは、現代的な視点で言えば、どんな人でしょうか。夜の仕事、あまり目立たない人、見守りをしている人、そう考えていましたら、夜勤で介護をしている人々が浮かんできました。夜勤で、一人で30人位の高齢者の方の世話をしている人、あるいは夜勤の道路工事現場で、車の誘導をしている人…。そんな方に、天使が「恐れるな、神様は、あなたを愛している、あなたは価値ある人だ、神は見捨てたりしない。あなたのために救い主が生まれた」と語り掛けたようなものです。ですから、わたしたちは社会の片隅で生きている人たちに、「あなたは、神から見捨てられてはいない」とはっきり言うことができます。
 そして、与えられた大きな喜びとは何だったでしょうか。この世で価値ある金銀、この世で出世していく知恵、才能だったでしょうか。そのような世で価値あるものではなく、「人」でした。そしてその人は、あなたを、命をもって愛して下さる方でした。その方は、あなたを愛して、あなたが真実に生きるように救って下さる方でした。たとえ、あなたが、どんなに罪深く悪い者であっても、あなたを愛し、罪を赦し、生きるようにしてくださる方でした。この方こそが救い主イエス様だったのです。この方は、あなたの無二の親友ではなく、無二の救い主でした。この方は最も低くなられ、わたしたちを愛して、最も下から救いを成就して下さった方です。だからこそ、あなたも愛されているのです。あなたの友人、知人、家族も愛されていると言えるのです。
 だから、今日、私たちは救い主の誕生を喜び、賛美するのです。ここにいらっしゃる誰もが、神様に愛されているのです。この神様の愛を受け止めて、喜び、また感謝しましょう。羊飼いたちが、自分の持ち場に戻っていく時に、喜んで救い主イエス様の誕生を伝えていったように、わたしたちも家庭で、地域で、職場で、喜んで伝えていきましょう。共に喜び、共にイエス様を見上げて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2014-12-27 10:22 | ルカ

2014年12月14日

「ヨハネが教え示した方」  マラキ書3:19-24、ヨハネ福音書1:19-28
 
 先主日は証しについてお話ししました。今朝はヨハネが証ししていることについて学びたいと思います。今朝の聖書箇所には、祭司やレビ人たちに問い掛けられて、洗礼者ヨハネが応えた言葉が記されています。祭司たちは都エルサレムのユダヤ人に遣わされてヨハネの所に来ています。このエルサレムのユダヤ人とは、エルサレムの一般の住民ではなく、ユダヤの指導部の権力者たちと考えられます。権力者らがどうして彼らを遣わしたのかというと、ヨハネの正体を知りたかったからでした。遣わされた者たちが問い、ヨハネが応えていますが、最初にヨハネは、はっきりと「わたしはメシアではない」と応えています。その後、「エリヤでもあの預言者でもない。」と応えていますが、はっきり「自分は誰だ」とは語りませんでした。最後に語ったのは、「わたしは荒れ野で叫ぶ声だ。」、「『自分の後に来られる方』を差し示す者だ」と語りました。その方がメシアだと間接的に示しています。そして、その方こそ、イエス様でした。
 ここで考えてみたいのです。ヨハネは、現代で言えば、誰でしょうか。ヨハネがしたような事を求められ、ヨハネのような叫びをしているのは誰でしょうか。誰が、「わたしのあとから来る方」を指し示し「この方を見よ」といっているでしょうか。「わたしの後から来る方」とは、イエス様です。イエス様を伝えようとしているでしょうか。
 現代においてヨハネの働きをするのは、教会です。教会の主たる目的は、自己保身でも、自己満足でもありません。教会の中にいる人だけで、何かをすればいいと言うのではありません。教会内で互いに愛し合えばいい、互いに仕え合えばいいのではありません。また教会は、信者を獲得していくこと、教会の勢力を強くしていくことが目的でもありません。さらに言うのなら、教会が生き延びることが主要な目的でもありません。教会の為すべきことは、ヨハネが示した方、イエス様を知らせていくことです。罪のゆるしの救い、という喜びの福音、それを伝えていくことなのです。このことが教会存在の目的です。だから、人里離れた山に教会を立てるのではありません。人々が住み、人々が悩み、苦しみ、悲しみ、そうしたただ中に、教会が立っているのです。そこに建てられて、教会はイエス様の福音を伝えるのです。
 教会に、そのような目的が与えられているということは、実は、教会を作り上げているわたしたちに与えられた目的でもあります。教会の長老、教会学校の奉仕者たちだけに、求められていることではありません。限られた人に任されていることではないのです。皆さん、一人一人に、求められていることです。福音を神の言葉と言い代えることもできます。そうすると、福音伝道は、神の言葉の伝道であり、神の言葉である聖書の言葉を伝えることでもあります。
 わたしたちの東小金井教会は、今年、伝道50周年を迎えました。50年という期間、福音を伝道し続けてきました。この50年を思い起こし、ただ記念して、記念礼拝を捧げたのではありません。丹羽先生がマルコ福音書から「小船を用意しよう」と説教して下さいました。そして主に献身していくようにと促しを頂きました。献身し、これからも新たな思いをもって伝道していくことを薦められました。丹羽先生を通して、神様から勧められたのですから、わたしたちは、ここから再び出発していこうではありませんか。ヨハネが教え示したように、イエス様を、わたしたちも伝えていこうではありませんか。このことが今も、明日も求められていることなのですから。
 ヨハネは「わたしの後から来る方」として救い主イエス様を指し示しました。しかし、わたしたちにとっては、イエス様は、既に救いの御業を成し遂げて下さった方です。(そしてその後イエス様は天に昇られました。)既に来られ、再びイエス様が地上に来られる間に、わたしたちは生かされています。再び来られるイエス様をまだイエス様を知らない知人、友人、家族に伝えていきましょう。救われた喜びをもって。
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by higacoch | 2014-12-20 10:17 | ヨハネ福音書

2014年12月7日

「聖書は誰を証しするか」    詩編147:12-20、ヨハネ福音書 5:36-40
                          
 教会では時々、皆さんに証しをして欲しいとお願いすることがあります。そうすると「証しは苦手です。どう証したらいいのか、解らない」と言う方がおられます。そうした時に私は「証しはそう難しくはありません」と答えます。証しは神様を証しするものです。ですから神様を主語として、わたしたちの行動を表せば、それは証しとなっていきます。たとえば「私は、今朝6時に起きて、その後、顔を洗い、7時に食事をして、7時40分に家を出ました。」という文があるとします。これを神様を主語にすれば「神様は、私が6時に起きるように導いて下さいました。その後、顔を洗い、7時に朝食を食べることができるように、今日も元気を与えてくださり、いつものように家を7時40分に出かけることができるように導いてくださいました」となります。このように、神様を主語にすれば、ちゃんと神様を証ししたことになります。神様が生きて働いて下さっていることを証ししています。つまり証しとは、私中心ではなく、神様中心ですべてのことを受け止めることです。
 今朝の聖書を見てみますと、36、37、38節と何度も「父が」という主語が出てきます。父とは、父なる神様のことです。ここを注意して読みますと、イエス様が父を証ししておられることが解ります。ですが、それだけではありません。イエス様は、父(神様)が私(イエス様)を証しして下さっているとおっしゃっています。つまり、イエス様が父を証しし、父がイエス様を証ししている、ということです。これは実に解りにくいことですが、親子関係で言い代えますと、子が父を愛し、父が子を愛しているといいます。こうした時、父の愛は子を包む愛と言えるでしょう。それに対して子の愛は父を包むとは言えません。こうしたことは証しでも言えます。父(神様)の証しは子(イエス様)を包む証しだと。それほど父は子を思い、子を証ししています。イエス様はここで「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」(36節)と言われています。それが父(神様)の証しです。しかも父の証しは、過去の出来事としてではなく、今も、将来も、そうだと言うことです。
 父(神様)の言葉を受け入れない者は、父を信じていません。そんな人々に向かって、「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究しています。」と言われました。イエス様の周りに当時の聖書研究者がいたのでしょう。律法学者である彼らは人々から「先生」と呼ばれていました。そんな彼らの生き方を批判されたのです。当時の聖書は今の旧約聖書のことですが、ヘブル語で書かれていました。こうした学者たち、聖書を研究する人たちは、昔も今も、西洋にもまた日本にもいました。日本では高学歴の人が中心となって、その指導者の名をつけた集会、たとえば高橋集会とか呼んでいました。皆さんは驚かれるかもしれませんが、新約聖書を学び、研究する新約学会の中には、意外とイエス様を救い主と信じる人が少ないのです。むしろ、信仰は学問的な真摯な研究には妨げになると考えている学者が多いのです。まさにここでイエス様が言われているように、父がお遣わしになった者、イエス様を信じないのです。研究者が、聖書の言葉を言語学的に研究したり、聖書の編集の歴史に関心があって研究していても、イエス様ご自身を見上げないで、研究している人が少なくありません。
 イエス様はここで、聖書は究極の所、わたしを証しするものだと言われています。とどのつまり、父なる神様から遣わされた方、イエス様を証ししていると言われました。聖書を読み、聖書を研究しても、イエス様を信じない人は、聖書が語ろうとしている真実に触れてはいません。イエス様が、聖書はわたしについて証しすると言われた言葉の奥には、聖書の言葉に触れる者は、わたしに出会うと言われているのです。聖書が、救い主イエス様を証ししていることに気づくなら、その人はイエス様に出会います。そしてイエス様に出会うことは、イエス様を信じて、永遠の命を頂くことになるのです。
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by higacoch | 2014-12-08 10:12 | ヨハネ福音書