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2014年11月30日

 「救いについて」        イザヤ書52:7-10、ローマ11:11-24
                               
 ここでパウロは、接ぎ木にたとえて、異邦人の救いとユダヤ人の救いについて記しています。ここにある「オリーブの枝が折り取られ、そこに野生のオリーブが接ぎ木される」とは、ユダヤ人が神様に捨てられ、異邦人が神様につながって祝福されることで、ユダヤ人が捨てられたのは不信仰のためであり、異邦人が接ぎ木されたのは、信仰のゆえということです。異邦人も不信仰になれば、ユダヤ人と同様に折られると警告もしています。もしユダヤ人が、神様への信仰を取り戻すなら、再び接ぎ木されますが、その時は、元の木に接がれるのですから、つきやすいと言っています。こうしたことを言って、14節に述べている「何とかして自分の同胞(ユダヤ人)にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたい」と語るのです。どうしてねたみが、救いに必要になるのでしょうか。パウロはイエス様の十字架と復活の救いをユダヤ人に伝えましたが、ユダヤ人は受け入れず、拒否しました。そうしたこともあって、伝道者パウロはユダヤ人から離れて、異邦人に近づき、伝道していきました。すると、多くの異邦人が救われて、神様に祝福されていきました。それを見たユダヤ人は、「うらやましい」という感情以上に「ねたみ」を覚えるでしょう。ユダヤ人は「ねたみ」を覚えることによって、再び救いに導かれるとパウロは思ったのです。そのように「ねたみ」がいつも救いの邪魔になるのではなく、「ねたみ」によって救いへと導かれる事もあると信じていました。だからこそ「ねたみ」もユダヤ人にとっては大事だと言いたかったのです。
 私は、その人が結果的に救われるなら、素直に喜びたいと思います。なぜなら、そこにも神様の業があるからと信じているからです。神様が人を救われるのは、必ずしも正しいと思われる歩みからではないこともあります。神様は私たちから見たら罪の仕業と思われることからも救いへと導いて下さいます。神様はありとあらゆる方法をとって、何とかして、人を救いたいと願っておられると信じています。こうした事をパウロは知っていたのでしょう。よくよく考えると、私たちも罪人で、罪を犯していた者でしたが、そうした中から救われたのです。救いへの道はこの道しかないと言うのではありません。
 今朝の箇所は小見出しに「異邦人の救い」とありますが、私はそれだけでなく、パウロはユダヤ人の救いについても語っていると思います。文脈から言いますと、ここでパウロは「神様はユダヤ人を捨てられたのか」(11節)と問うていて、断じてそうではない、キリストの恵みから排除されてはいないと言い、信仰によって救われると語っているのです。その流れで、異邦人の救いをも語り続けていますが、ユダヤ人の躓きが、むしろ異邦人の救いへと広がり、その広がりから間接的にユダヤ人の救いを促進するという救いの歴史を語っています。そして救いは、信仰によることを明確にしています。ユダヤ人が救われるというのは、選ばれた民族だから当然救われるというのではなく、ユダヤ人も信仰によって救われると言っています。、どんな人であれ、どの民族の人であれ、神様が、救うためにいろいろな手段を使って、救われるのです。ただ、一つの道しかないと言うのではありません。信仰によって生きる者を救われるのです。その人が過去にどんな歩みをしたのか、またどんな感情を持っていたということに左右されず、それによって救いの道が閉ざされると言うことでもありません。救いは、神様からの一方的な恵みであり、一人でも多く救いたいという、神様の愛からの生じていることなのです。ですから、私たちは、その神の愛に応答していきたいものです。神様が為して下さった救いの業、十字架の死と復活の命を通して、罪からの解放を与えて下さった事をしっかりと受け止めて、わたしたちの救い主イエス様を信じて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2014-11-30 10:09 | ローマ

2014年11月23日

「これは何者か」       ヨブ記38章1-18節
                           荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 ヨブは正しい人だった。神を畏れ敬い、悪い事はせず、まっとうな生き方をしていた。そして人生うまくいっていた。事業も家庭も順調。かといって驕り高ぶらず、罪を犯しているかもしれないという自省をもっていた。実にできた人だ。サタンは腹が立って仕方がない。あれだけ恵まれていれば神に感謝もするだろうよ。ああいう奴はひどいめにあえばよい。そうしたら信仰など捨てるだろうよ。
 そんな舞台裏での仕掛けがあり、ヨブは災難に遭い始める。財産ばかりか、愛する子らを一挙に失うという悲劇。それでもヨブは神を呪うことなく、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と神礼拝を貫く。しかし更なる不幸が襲う。皮膚病に襲われたヨブの耐えがたい辛さ。しかも妻は、「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう」と責める。それでもヨブは「わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と節を曲げないのである。
 しかし不幸はやまず、やつれていくヨブ。遂には、私は生まれないほうが良かったかと嘆くようになる。口からは呪いがあふれてくる。そんな彼を心配してやってきた三人の友。最初の一週間は何も言えず、ただヨブと共にすわっていた彼らも、ヨブのあまりの嘆きに、諭し始める。「そんなこと言ってはいけない。あなたは神を畏れ敬う者ではないか。神だって理由なく苦しみを与えることはなさらないはずだ。何か正すべきことがあるはずだ。改めよ」と。でもヨブは納得できない。「こんなひどいことがあってよいのか。私に罪があると言わないでほしい。神よ、出てきて私に直接答えてほしい」と訴え続けるのである。
 38章。ついに旋風の中から、主なる神が現れ、ヨブに答える。「これは何者か。」あなたは誰だと言うのか。わかっていないのに理屈を重ね、神の経綸(はかりごと、計画)を暗くするとは!そう、神はヨブの訴えを放置されなかったのだ。ヨブとさしで向き合い、彼を圧倒する迫力をもって答えられる。神とはこういう御方だ。「出てこい」と怒鳴る失礼な者に、「さあ向き合おうではないか」と答えてくださるのだ。
 詰問し続けたヨブに、神は反対に問いかける。「わたしがこの世界をつくった時、あなたはどこにいたのか」。そしてマシンガンのように質問を連射する。
 わたしが大地を据えた時、お前はどこにいたのか
 お前は大地の広がりを隅々まで調べたことがあるのか。
 お前は空の星を並べられるのか。
 お前は洪水や雷雲を起こせるのか。
 烏の雛がおなかをすかせて泣く時、誰が餌を置いてやるのか。お前か。
 鷹が翼を広げて南へ飛ぶのは、誰が知恵を与えたのか。お前か。・・・
「お前はどこにいたのか」と言われても、どこにもいなかったのである。人間は創造者にあらず。烏の雛さえ養うことができない無力な被造物に過ぎない。
 ヨブを問い詰める神は、意地悪を言っているのか。否。神の「すべてわたしが創造した」という宣言は、「俺の勝手だ」という乱暴な突き離しではない。創造は気まぐれの遊びではない。神は丁寧に丹念に愛をこめて、一つ一つの被造物を世に送り出している。<あなたの知恵をこえた計画があるのだ>という宣言は、<この世界は尊い。あなたは尊い>という愛の迫りである。
 問う側から問われる側になったヨブは、神様の質問連射に、一つも肯定の返事ができない。でも何も言えないことで、納得したのである。彼は負けた。完敗したのだ。それゆえにすべてが腑に落ちたのである。
 「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」。これは喜びの悔い改めである。すがすがしく、自分を退けるのである。ヨブは心から納得した。全能の神の経綸のもとに自分を置くことができたからである。
 「これは何者か。神の経綸を暗くするとは」。今、我々は、貪欲に駆られて自己破壊をしていこうとする日本社会の一員として、この言葉を聞かなければならないのではないか。
 貴重な生物が棲む美しい辺野古の海岸に、国家のエゴイズムのために基地を作ろうとしている人間たちよ。地震、津波、火山の爆発と、これだけ続けて自然の凄まじい力を知らされながら、なお、危険な原発を再稼働しようと目論んでいる人間たちよ。そんな指導者たちを支持してしまう選挙民たちよ。これは何者か。神を畏れよ。自らの小ささを知れ。
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by higacoch | 2014-11-26 10:05 | ヨブ記

2014年11月16日

「神のドラマの続き」   エゼキエル書9:1-4 使徒言行録28:30-31
                                         濵崎 孝 牧師

 新約聖書の「使徒言行録」の結語は、「(使徒パウロは)主イエス・キリストについて教え続けた」という、どこか静寂を感じさせるものでした。様々な試練や苦難、そして生命の危機をも乗り越え、ようやっとのことでローマへたどり着いた使徒パウロは、当時の世界の支配者ローマ皇帝に福音を語ることが出来たのでしょうか……。大いに関心を抱かされた読者からは、「あっけない結末」、「尻切れトンボ的終り」という批評が語られています。しかし、私どもはそういう終わり方も悪くはないと想うのです。美しい夕焼けで終わる日がありますね。私どもは、使徒言行録の結語から使徒パウロの夕焼け(周囲を美しく染めた信仰の人生の終局)を想起させられるのではないでしょうか。その人生の晩年に囚人となり、番兵に監視されるような生活を強いられた使徒パウロですが、でもパウロ先生は「大胆に」(新改訳)神の国を宣べ伝え、キリストの福音を語り続け、フィリピの手紙(その美しい手紙を、著名な聖書学者たちがローマで執筆されたものだと指摘しています)を書き、周囲を美しい夕焼けのように染めて行ったのでした。そして、ルカ先生は、ご自分の福音書でシメオン兄の夕焼けやアンナ姉の夕焼け(ルカによる福音書2章22節以下参照)を語って来た信仰のライターでした。ですから、使徒言行録の終わり方は、その執筆者の個性が現れた結果だったのではないでしょうか。使徒言行録で聖霊の働きを証言して来たルカ先生は、この世の人生の終わりを感動のドラマにするのも聖霊なる神さまの御業にほかならない……と語りかけたのでした。

 結語は、「続けた」……。言わば、「つづく」と書き記されたようなものです。私どもはそこから、ルカ先生からのもう一つの大切な語りかけを聴きたいと思います。それは、「使徒言行録で語って来た神のドラマの続きは、どうぞあなた方が書いてください」というものです。私どももキリストにある人生の言行録を、この世の生涯の終わりまで書き続けるのです。そして、私どもが導かれたキリスト教会の礼拝堂は、主なる神さまのドラマの続きを観、その偉大な恵みを分かち合って行く楽しい聖なる劇場のようなものなのです。

 旧約聖書の「エゼキエル書」には、「腰に書記の筆入れを着けていた」という天使が登場しましたね。彼は、その時代にはびこった「あらゆる忌まわしいことのゆえに、嘆き悲しんでいる者の額に印を付けよ」という神さまのご命令に仕えたのです。そして、私どもの時代にも、キリストの福音を語り続け、人間らしく生きたいと願うようになった人々の額に印を付け、「この人にも神さまの憐れみをお与えください」ということをあらわす天使のような働き人が必要ではないでしょうか。

 しかし、その必要性は理解出来たとしても、私どもは、私どものような罪深く無力な者が、使徒言行録の続きを書いて行くことが出来るのでしょうか。

 詩人の藤井貞和さんは、ニューヨークのコロンビア大学で客員教授を勤めた折、日本文学研究者として著名なドナルド・キーン先生の研究室を半年間使わせてもらったそうです。そして、そこにあった蔵書を片っ端から勝手に読ませてもらった藤井さんは、ある時、手にした一冊から劇的な出会いを与えられました。その本から一枚の名刺が落ちたのですが、拾って見ると、「陸軍軍政地教授 藤井貞文」という父親の名刺だったのでした。慌てて本を調べたところ、「昭和十九年七月二十一日ジャカルタに於いて求む之」と書き入れてありました。本は、西田長男著『神道史の研究』(雄山閣)でした。藤井さんが、あとでキーン先生に聴いたところ、戦後に医科大学を訪問した折、図書館の片隅に放置されていた廃棄予定の本だったそうで、キーン先生はそれを貰い受けて来たということでした。廃棄処分で放置された本が心ある人に拾われ、海を渡り、思いもよらない感動のドラマが紡ぎ出された……。

 私どもは、主イエスさまのような慈しみ深い神さまから、その偉大な復活の御力で拾い上げていただいた者ではなかったでしょうか。しかも聖霊なる神さまという愛のドラマ作家が、私どもの個性が生きるようなシナリオを書いてくださるのです。いいえ、もう書いてくださっているのです。その嬉しい出来事を、祈りの路から引き出そうではありませんか。希望を新たにして、「どうぞ東小金井教会にも私にも、使徒言行録の続きを書かせてください」という祈りに生きて行きましょう。ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)。 
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by higacoch | 2014-11-21 10:03 | 使徒言行録

2014年11月9日

 「権威について」  詩編68:33-36 ルカ福音書 20:1-8
 
 今朝、与えられましたルカ福音書の聖書箇所の小見出しには「権威についての問答」とあります。そこで「権威」とは何かと国語辞書で調べました。そこには「優れた者として他人を威圧して自分に従わせる威力」、また「下の者を抑えつけ、従わせる力」とありました。
 さて、聖書の中に出てくる祭司長、律法学者たちは、当時、権力をふるっていました。ユダヤの社会は、宗教社会であり、宗教者が権力をふるっていました。ですから大祭司の権威が最大で絶対的なものでした。最初イエス様はガリラヤ湖周辺の町や村で伝道されていました。しかし、最後の伝道場所は都エルサレムの神殿の庭でした。そこは権威ある大祭司がいる場所であり、イエス様と大祭司とぶつかる問題が生じました。
 過越しの祭りの時には都エルサレムに何十万人という巡礼者がやってきました。彼らが向かったのは神殿、そこで神様への捧げものをするためです。牛、羊、鳩、スズメなどの動物を捧げました。その動物は汚れも傷もないものでなければなりません。ですから巡礼者が連れてきた動物は、ほとんど検定員にはねられました。神殿内には既に検定済みの動物が用意されていて、それらは市場の価格の5、6倍もしました。巡礼者たちは、それらの動物を買い、捧げていました。また神殿で捧げるお金は、ユダヤの硬貨シェケル銀貨と決められていて、外国の硬貨を必ず両替をしなければならず、高い手数料が取られていました。両替人も同じような手口で金儲けをしていたのです。こうした商売が神殿内で公然と行われているのを目の当たりにしたイエス様は、烈火のごとく怒り、彼らをその場から追い出されました。今朝の箇所の前日にそうした事件があったのです。それでこの日、神殿内の権力を持つ権威者たちが、イエス様の所にやってきて「あなたは何の権威で、あのようなことをしたのかと、またそうする権威を誰から与えられたのか」と詰問してきました。神殿内で特別な行動をする時には、大祭司の許可が必要でした。ですから彼らは大祭司から遣わされたのでしょう。こうした彼らの詰問に対して、イエス様も一つだけ質問したいと言われ「ヨハネの洗礼は、天からのものだったの、それとも人からのものだったのか。神からのものか、人間からのものか、どちらか。」と問われました。すると、彼らは皆で相談しました。正しい答えを見出すためではなく、自分たちが窮地に陥らない答えを見つけるためでした。そしてその答えを見出せなかったので「解かりません」と答えました。イエス様の問いに対して真摯に答えていません。そこでイエス様も「私も答えない」と言われたのです。
 イエス様の伝道場所は、今や田舎のガリラヤ地方ではなく、最高権威者がいる神殿でした。そこでイエス様の教えと行動は、はっきりと唯一の権威者大祭司と対立しましたので、権威の問題へと集約されて行きました。それはいみじくも彼らが質問した問いに現れています。あなたの行動は何の権威によるものか、しかもその権威を誰から与えられたのか、です。
 権威については、いろいろな分野で言われます。ここでは宗教的かつ政治的な権力による権威であり、神殿内では大祭司が権力を奮っていました。こうした大祭司の権威は誰も打ち消すことができない力がありました。もしその権威を持つ者が権力の盲者になったならどうなるのか、そこにはその権力者が考えている国が作られていくでしょう。神の、と言われても、神の国とは似て非なるものなっていくのです。
 日本も戦前、天皇制の時代、天皇の権威を否定することはできませんでした。そしていつしか天皇制による軍事国家になっていき、戦争に突入していきました。こうした事を踏まえて、歴史を顧みる時、国家権力をもつ権威は、限定的なものでなければならないでしょう。神によって限定され、地上の権威は相対化されなければなりません。どうしても絶対ではありえません。
 イエス様に立ち向かった祭司長たちの誤りは、彼ら自身の権力的な立場とそこに作られる権力構造を守り続けることに固守したことであり、神様が為されようとされていることを認めようとしなかったことです。神の国の到来とその救いに預かることは、権威によって拒否できないものです。そして人の救いは、地上の権威を超えて与えられます。だから、地上の権威は、神の救いを阻むことはできないのです。
 神様が為された救いの業を、地上の権威でつぶすことはできない、むしろそれを認め、かつ正当に受け止めなければならないとイエス様は求められたのです。そして、堕落して権力構造化した神殿を清められました。
 神殿・神の家は、すべての人の祈りの家でなければなりません。教会も人間が作り出す権威を第一とするのではなく、神様を第一とするものでなければなりません。そうでないと堕落してしまいます。そうならないためにもイエス様の言葉に聞いて、教会形成していかなければなりません。
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by higacoch | 2014-11-14 09:58 | ルカ

2014年11月2日

「祝福された子」    詩編37:1-6、ルカ福音書19:1-10

 今朝は、ザアカイの話です。ザアカイの話は、聖書の物語の中でも良く知られていて、紙芝居、絵本、また子ども讃美歌の中にもあってよく歌われます。ザアカイの名前は、日本名であれば清とか、純という意味を持つでしょう。しかし、彼は名前に相応しい生き方をしていませんでした。彼の職業は徴税人であり、人々から税を集める仕事をしていました。当時、ユダヤの国はローマ帝国に支配されていましたので、ローマに税を納めなければなりませんでした。徴税人はローマのために働いていました。そして不正な取り立てをし、定額の税金をローマに納めた残りを自分たちで山分けして私腹を肥やしていました。ですから彼らはお金持ちでした。ザアカイはその徴税人の頭でしたから、大金持ちだったのです。豪華の家に住み、贅沢な食事、服装をしていたでしょう。
 さて、イエス様の一行がザアカイのいるエリコの町に入ってきました。その噂を聞いたザアカイはイエス様を一目見ようと、一行が通る街道に急いで行きました。しかし、もうそこには人垣ができていました。彼は背が低かったので、中に入ろうとしましたが、嫌われ者の彼を中に入れてくれる人は誰もいませんでした。彼は思案し、そこに1本の木を見つけて登りました。街道がよく見えるようになった時、ちょうどイエス様がその木のそばを通りすぎようとされていました。彼は何とか間に合って、イエス様を見ることができ、満足したことでしょう。
 ところがその後、思わぬことが起こりました。イエス様がザアカイを見て、そばに近づいて、木の下までこられ、下の方から語りかけられました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と。ザアカイはさぞかしびっくりしたでしょう。でも心から嬉しかったのです。このような優しい語りかけを聞いたことがなかったでしょうから。これらの出来事を見ていた人々は皆、「あの人は、罪深い男の所に行って泊った」とつぶやきました。それまでイエス様を尊敬の目で見ていた人々が、イエス様がザアカイに声をかけ、その家の客になることで豹変し、イエス様を「あの人」呼ばわりするようになりました。他方、ザアカイは非常に喜び、イエス様を自宅に迎え入れて歓迎し、イエス様から、いろいろな話を聴きました。そして彼はイエス様を「主よ」と呼びました。彼がイエス様を信じた告白です。すると、イエス様は「今日、救いが、この家をおとずれた。この人もアブラハムの子なのだから。」と言われました。これはザアカイが救われたという宣言です。今日、この時に、です。
 人々はザアカイを「ローマの犬」(魂をローマに売った下劣な奴)と呼び、罪深い者だと蔑みました。しかしイエス様はザアカイの外面だけを見ておられませんでした。彼の心の中の深いところを見ておられた。失われた魂、悲しみと孤独の苦しみを見ておられた。だからこそ、ザアカイに近づき、失われた者を救い出すために彼の家の客となられました。
 イエス様は、ザアカイを「アブラハムの子」と呼ばれました。アブラハムは信仰の人だと言われていますから、彼の名をとって、「神に祝福された子」という意味を含んでいます。人々はザアカイを神から裁かれた罪深い者と蔑視していましたし、また彼自身も、自分を裁き、自分の価値を見出せず、自己卑下していたと思います。そんなザアカイが、イエス様と出会い、イエス様によって救われました。それは自分の存在が、神から創造された、価値ある者であるということに気づかされたのです。イエス様に出会ったザアカイは、自分が大事な人、価値ある人、神様から愛されている存在だということが分かったのです。
 今、日本は、自己卑下する若い人が多いと言われます。自分が嫌いだ、こんな自分は価値がない、死んだ方がましだと、心の中で叫んでいる人が多いのです。しかし、そうではありません。そんな人にイエス様は近づかれる。まさにそれがザアカイの物語です。神がザアカイを救われたように、わたしたち一人一人にも近づいて下さいます。それは、イエス様がこの世に来られた目的でもあります。わたしたち一人一人を救い、命を与えるために、この世に来られたのです。
 イエス様は、あなたも愛されたし、今も愛されています。愛するために、愛していることを知らせるためにこの世に来て下さったのです。
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by higacoch | 2014-11-05 09:55 | ルカ