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2014年10月26日

 「キリストの日に備えて」    詩編9:10~11、 フィリピ 1:1~11
                               
 キリスト教では、とりなしの祈りを重要なものと考えます。自分のために祈ることも必要ですが、隣人のために祈るとりなしの祈りを大切にしています。イエス様が弟子たちのために祈られましたし、伝道者パウロもとりなしの祈りをよくしています。パウロの手紙にもよくとりなしの祈りが書かれています。パウロはローマの信徒への手紙で「あなたがたを迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってはなりません」(12:14)と書いています。ここには究極のとりなしの祈りが勧められています。
 今朝、与えられましたフィリピの教会の人たちに送った手紙をじっくりと見てみますと、パウロは教会の人たちのために実に多くのとりなしの祈りを捧げていることが解ります。その中でも「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」、これはアメリカの神学者、ラインホルド・ニーバーの祈りに通じる祈りです。彼は「神様、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を、わたしたちに与えてください。また変えることができないものについては、それを受け入れるだけの冷静さを与えてください。そして、変えることができるものと、変えてはいけないものとを、識別する知恵を与えてください。」と祈りました。パウロはフィリピの教会の人たちが、知る力、見抜く力、見分ける力が与えられるようにと祈っています。なぜなら、フィリピの教会の人たちは、ギリシアの神々を崇めたり、迷信や占いなどに影響されていたからです。そして、何が神に喜ばれるのか、喜ばれないのかを見抜いてほしいと願っているのです。
 また「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、私は確信しています。」とも祈っています。神さまがフィリピの教会の人々を育て、導いて下さると確信しています。その確信は、パウロの揺るぎない信仰の結果でしょう。パウロがここで語っていることは、私たち信仰者が、善い業を積み重ねていくことでも、神様に喜ばれることをしていくことでもありません。ここでの主体は、神様です。善い業を始められた方、それは神様、イエス様と考えていいでしょう、イエス様があなたがたの中、私たちの中ですでに善い業を始めて下さっています。皆さんは気づかないかもしれません。反対に信仰生活をしていくと、自分がいかに至らないものであるかと思わされることがよくあります。自分はまだまだだと。しかし、これは悪くなっているのではありません。これはまさに逆転の真理です。つまり、神によって善い業が始まっているから、気づくことができるのです。至らない部分が見えるようになったのです。むしろ、至らなさに気づかない方が問題です。イエス・キリストを知れば知るだけ、自分の罪を知らされ、知らされるから、神への祈りが深まっていくのではないでしょうか。礼拝を守り、御言葉を聴きづづけ、とりなしの祈りをしていく人は、神様が育てて下さっています。キリスト・イエスの日まで、神様が育て続けて下さると信じています。キリスト・イエスの日とは、キリストが再び地上に来られる日のことです。天に召される日が先になるかもしれません。どちらにしても、神様につながっている人は、少しずつでも成長しているのです。
 そうした信仰生活で、大事なことは、自分のためだけでなく、隣人のために、とりなしの祈りを捧げていくことです。信じて祈る者の祈りを主は聴いて下さっています。そしてその人を成長させて下さっています。私たちも、キリストの日まで、神様による成長を頂いているのです。だからこそ、人のためにとりなしの祈りをしていきましょう。
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by higacoch | 2014-10-30 09:48 | フィリピ

2014年10月19日

「神の国」の歴史に共に参加して  コヘレト11:1-6、 マルコ4:30-32
                                  柳沢美登里姉(声なき友の輪)

 この地に種をまき、50年を導かれた主をほめたたえます。私が最貧国の一つ、バングラデシュに出かけたのは、大学のとき生きるための「真理」をイエス様に見出したことがきっかけでした。イエス様がイザヤ書から受け取った「貧しい人に福音を知らせる、・・囚われている人に解放を、・・圧迫されている人を自由にし・・」から、主は世界の顧みられない人をどれほど愛しておられるか、心を動かされました。80年代後半、日本はバブル真っ盛りでしたが、この聖書の言葉が蒔かれました。3年後に道が開かれるまで神様は私を日本のキリストの体の一員として整えられました。私の証を聞き、祈りに覚えてくださった東小金井教会の50年の歩みは、日本のキリストの体の一部として、この地域と世界になくてはならない祈りと働きであったことをあらためて感じます。 
 イエス様が全力で知らせ続けた「神の国」と聞くと、体の死後の「天国」を連想しますが、イエス様は3つの異なる時間区分で語られました。「未来に完成される神の国」、死にも悪にも勝利され「過去に成し遂げられた神の国」、「あなたがたの間にある神の国」です。「神の国」は過去も今も未来にすべてを網羅している壮大な神様の歴史です。そのたとえの一つが「からし種」。蒔かれたときとても小さかったのに、気がついたら大木に成長している。「人や社会、自然の回復」は神様の願いを受けた人が「小さな種を蒔く」ことから始まるのです。蒔けば成長させてくださるのは神様で、私たちは無力さにしり込みする必要はないのです。バングラデシュでの一つの「からし種」が、差別されたアウトカーストで教育を受けた第一世代の若者ミロン君です。村の食堂で同じ食器を使わせてもらえない。学校では先生にも馬鹿にされ、やめざるを得ない。彼らの深い痛みに主が造られた人の回復に私は心を動かされました。あるとき村内デモ行進に呼ばれ、6-7人の行進に参加しました。内心、これで何か変わるだろうかと思ったものです。ミロン君は数人で「救い」という人権団体を立ち上げ、私は励まし続けました。17年を経てどうなったでしょうか。ミロン君はバングラデシュの国の人権委員会の委員の一人になり、世界人権擁護団体アムネスティ・インターナショナルとも連携しています。あの「からし種」がこんな大木になっていたのです。神様の力であり、東小金井教会の皆様の祈りと支援で参加してくださっていたものです!
 神様は50年後の2064年に、教会に何を期待しておられるでしょうか。この時代に「神の国」の視点で未来をどのように待ち望むか今、私が教えられているのが知識と知恵を極めたコヘレトの言葉です。「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。」現代の私たちは「無駄。もったいない。非効率。」と思います。4節には余りにもたくさんのことを知っているので、何もできない状態に陥っているとあります。インターネットで情報があふれている今の時代のようです。コヘレトは5節で、私たちにはすべては判らないけれども「すべてのことを成し遂げられる神の業」を謙遜に告白します。無駄に見えることに手をつけないことが最善と考える現代の私たちは、神様が働かれる機会を失っているのかもしれません。 私は2010年に「声なき者の友」の輪という団体の設立に導かれました。大震災直前に関わり始めたインドの働きからの学びです。カースト制度で人間として扱われないダリットたちの尊厳回復を目指すプログラムでした。「圧迫されている人に自由を」という「神の国」の働きだと思い同意しました。やがて、私の理解はとても限られていたことに気づきました。村では最上層でなく、すぐ上の人口が最大の元奴隷層から最も屈辱的差別を受けていたのです。底辺同士で協力すればよさそうですが、何千年にもわたる上下関係はすさまじいのです。そこでは聖書の神様が人をどのように造られたかをヒンズー教の教えと対比して教えていました。今、彼らは新しい文化を生み出しています。あり得なかったことですが、元奴隷層の人たちがヒンズーの教えで禁じられていたダリットたちと食事を一緒にするようになったのです。今年、私は導かれてパンを水の上に浮かべたことに気づきました。私が全容を理解するものを選んでいたら手を出さなかったものです。完全に理解できなくても、人を回復すると信じ水の上にパンを浮かべると、驚く方法で後にそれを見出させてくださるのが「神の国」なのです。きっと神様は教会が100周年を迎えるとき、個人や教会として成長した「大木」や「水に浮かべて流したパン」のその後をみなで見ることを楽しみにしておられると思います。「神の国」の歴史に参加して「からし種」を蒔き、パンを水に浮かべて、主のお働きを期待する歩みをご一緒したいと思います。50年後も絶えることなく主をほめたたえる教会であるように、心から祝福をお祈りいたします。
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by higacoch | 2014-10-24 09:45 | マルコ

2014年10月12日

 「 人を分け隔てするな 」     詩編 73:27-28、ヤコブ 2:1-9  
                                
 人間社会では人が人を分け隔てして、いろいろな問題が生じています。学校、職場、諸々の団体ではいじめがあり、それがエスカレートして言葉や暴力による虐待が生じています。さらに出生や民族の違いなどで差別が顕在化していくと、大きな社会問題を起こしたりします。最近の民族的差別のヘイトスピーチもそうです。私は9月13日に早稲田奉仕園にあるスコットホールに出かけてきました。そこで「90年前、ここスコットホールで何があったか」をテーマに集会があり、「東京で起きた朝鮮人虐殺事件―目撃証言を中心に」と題して西崎雅夫氏が講演して下さいました。内容は今から91年前に関東大震災が起こり、多くの朝鮮人、中国人が虐殺されました。その1年後の9月13日に虐殺された人たちの追悼集会がスコットホールで行われるはずでした。しかし、その日警察隊100人が会場に押し寄せ、中止命令を出して集会を強制解散させました。関東大震災時の虐殺事件を覆い隠すためでした。関東大震災の当日、崩壊した家々に「朝鮮人が火をつけた」、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」と等のうわさが広がり、多くの朝鮮人、中国人が殺されたという歴史的事実がありました。それを隠し続けるために強制解散させたのです。日本の役所などには虐殺に関する文書等の資料は一切残されていません。このように民族的差別がエスカレートすると悲劇的な事件が起きてしまいます。
 こうした差別は障がいを持った人たちにも及んでいます。知的障がい者、身体障がい者、精神障がい者の上にも。私の友人に視覚障がい者の牧師がいますが、現在日本盲人キリスト教伝道協議会の議長をしていますが、その彼が協議会の機関誌「信仰」に次のような記事を書いていました。「従来の考え方の特徴は、『障害』は障がい者が負っている問題なので、障がい者個人の責任で問題に対応し、リハビリなどの努力で障がいを克服することが期待されている。この背後には、正常とか普通といった分類による『障害』の考え方があります。」とありました。こうしたことを考えてみますと、人間は人と自分とを区別し、分け隔てを生み出す心をもっているのです。こうした考え方の奥にあるものは、相手よりも自分が上だと思いたい心であり、無意識のうちに上から目線で人を見下しがちです。人は根深い差別心を持っています。こうしたことは私たち自身も気を付けなければなりません。
 ヤコブは言っています。「聖書に従って、隣人を自分のように愛しなさいというもっとも尊い律法を実行しているなら、それは結構だが、しかし、人を分け隔ててしているなら、あなたがたは罪を犯すことになるし、律法に置いて違反者と断定されます」と。隣人を自分のように愛するにしても、その隣人を、ある限定した人と考えるなら、それは律法が示している教えではないと言いたいのです。具体的に言うのなら、お金持ちだけを隣人とみなし、貧しい者たちを隣人の枠内に入れずに排除しているなら、どんなに隣人を自分のように愛していると言っても、それでは律法には違反していると言いたいのです。このように、自分の都合のいいように、選んで、律法を解釈しているなら、それは神の御旨ではありません。「人を分け隔てして人を見るなら、あなたは神から裁かれるのだから気をつけなさい」と勧告しています。ある人には、憐れみをかけ、別の人には、憐れみをかけないような分け隔てをして生きるような人は、裁かれます。そのような生き方はではなく、キリストがすべての人を愛し、憐れみをかけて下さったように、あなたがたも人に憐れみをかけなさい。そうしたところに、キリスト者の生き方があるとヤコブは言いたいのです。人を分け隔てて生きる人は、教会内にもいます。そうした人に、あなたはイエス・キリストを信じて救われたのですから、イエス・キリストを思い起こして欲しいというのです。ただ単なる道徳的に、倫理的に勧めているのではありません。
 人間社会には、人が人を分け隔てして、いろいろな問題が生じています。「イエス・キリストを信じているあなたがたは、そうした分け隔てをしてはいけない。」主イエス様は、すべての人を受け入れて、すべての人を愛して、すべての人の罪を赦そうと、命をかけて死んで下さったではありませんか。イエス様は、金持ちの人たちだけとか、健常者のためだけに、死なれたのではありません。すべての人のために、死なれました。ヤコブは、さらに「神は、世の貧しい人たちを、あえて、選ばれたのだ」とさえ言いきっています。わたしたちは、信仰者として、主の愛を、主の救いを知る者として、人間の考えだけで、人を見るのではなく、イエス・キリストを通して、見るべきだということです。それは、あなたも主イエス様に愛された一人であるように、目の前の人も主に愛された人だと見るべきなのです。キリストを見上げ、キリストに愛された自分として、キリストを通して相手をも見ていく歩みをしていきましょう。それは教会内だけではなく、遣わされた所で出会う隣人に対してもです。
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by higacoch | 2014-10-17 09:39 | ヤコブ

2014年10月5日

「金銭を追い求めると」   アモス8:4-7、テモテへの手紙一 6:2c~10
                                
 私が神学校に入ってすぐの頃、戦前、戦中、戦後を生きてこられた先生が「私の神様への願いはこれです。」と教えて下さった聖書の言葉は「 むなしいもの、偽りの言葉を/わたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせず/わたしのために定められたパンで/わたしを養ってください。 飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。」(箴言30:8-9)というものでした。忘れることができません。お金がなくて食べるのに窮する生活をされたのでしょう。
 イエス様もお金のことではこんなことを言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」(マタイ19:23,24)と。当時、ユダヤの国の家畜の中で、一番大きなものはラクダでした。そのラクダが針の穴を通るより、金持ちが天の国に入る方が、もっと難しいと言われているのです。そして「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)ともいわれています。つまり神様に仕え、お金に仕えるという二刀流はできないと言うことです。イエス様が、神に匹敵するものとして上げられているものが、お金なのです。それほど、人はお金の誘惑に陥りやすいのです。
 今朝の箇所から学びたい。ここでパウロは「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。」と言っています。お金の欲望、それを持ち続ける人は、滅亡と破滅に落ちていく。つまり、お金の盲者になれば、その道は破滅です。さらに「金銭の欲は、すべての悪の根です。」、「金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。」とパウロは言っています。金銭欲にかられての歩みは信仰の道からそれていき、さまざまなひどい苦しみの道へ迷い込んでいくことになると言うのです。
 ここでパウロは、金持ちになろうとする者、金を人生の目的にして生きている者に注目していて、お金持ちに注目して言ってはいません。あくまでお金持ちになろうとしている強欲な人に言っているのです。パウロの時代にも強欲は大きな問題でした。だから若きテモテに個人的な手紙で書いています。「信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないから。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。」と。ここには大きな利得の道と語られていますが、ちょっと解りにくいのです。普通、利得と言ったら、金儲けをすると考えがちですが、ここでは満ち足りることを知っている人たちだと言っています。それは無欲だからだと言うのです。では、どこに利得の道があるのでしょうか。それは強欲な者が、欲張って、さらにお金が欲しいと願う。そして誘惑、罠、有害なことなどを体験する、そうなれば、お金を守ろうと躍起になる。心労で不眠になり、体調不良を起こす。でもお金のためだと、背負い込んで苦労する。そのうち病気になったりしてしまう。そして病院通いをし、治療代、薬代とお金がかかっていきます。このように強欲な者は案外損をしているのです。それに対して、満ち足りることを知る人、主にあって無欲な人は、大きな視点から見ると、意外に損することが少なく、利を得ています。利を得ていると言ってもお金を得ているのではありません。自分の健康、人からの信頼などを得、それ以上に神からの祝福を頂いているのです。
 パウロが言うように、人は金銭を追い求めるうちに、信仰から迷い出ていきます。金銭を追い求めているうちに、迷い込み、自滅のみちへと進んでいってしまいます。ですから、金銭を追い求めているなら、それに早く気付くべきです。しかし人から言われても気づきにくいものです。礼拝を通して、神様の言葉を心から聴き、深く受け止めることによってはじめて気づかされます。強欲な道を離れることによってではなく、神様に近づいて、悔い改めて生きることによって気づくことができます。悪の根を摘み取る事が出来るのは、主イエス様ですから、その言葉に従って生きていかねばなりません。小さくても主の言葉に従って歩んでいきましょう。そこには真実の利得があり、神の祝福があるのですから。
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by higacoch | 2014-10-11 09:36 | テモテ