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2014年9月28日

  「 いのちの光の中で生き、死にます。 」   詩編27:1-14、ローマ8:35-39
                              
 皆様と共に、今年も多くの遺族の方々とご一緒に、礼拝を捧げることが出来て、大変嬉しく思っています。昨年の召天者礼拝を捧げてから1年が経ち、その間に教会では二人の方を天に送りました。お一人は上甲節子姉、106歳で天寿を全うされ、召されて行かれました。もうお一人の方は奥井茂之兄、74歳の時、洗礼を受けられ、その3年後に天に召されて行かれました。お二人とも純粋な方で、そしてお二人とも昨年の12月に召されました。
 つい1カ月前に召された方も純粋な方でした。その方は加藤さゆり姉、加藤常昭先生の奥様です。さゆり先生は、説教者の妻として、また自らも牧師として歩まれました。召される前に、説教集を出されました。この本の中に、今朝、取り上げました詩編27編の説教があります。その箇所の説教題は「主は、わが光、わが救い」、主とは神様です。詩編27編の1節を読んでみますと「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。」とあり、説教題はこの箇所から取られていることが解ります。詩人は、神様がわたしを守り、支え、導いて下さる、との確信を持っています。3節には「さいなむものがわたしに対して陣を敷いても/わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても/わたしには確信がある。」と歌い、神様が守って下さるという「確信」を持っています。
 さゆり先生の説教の中に、この確信についてこう語られています。この確信とは、自分に対して持っている確信と言うよりも、これは主なる神様に対する信頼、神様にのみ依り頼むと言うことです。そして最後の方の13節には「わたしは信じます。命あるものの地で、主の恵みを見ることを」とあります。神様の恵みを見る、この恵みこそ、イエス・キリストの恵み、イエス様の恵みにほかなりません。
 先程読みました新約聖書の箇所にも「わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・
イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」とあります。「死もわたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」という確信です。
 加藤さゆり先生の本の題は「主が、新しい歌を」です。「主に、新しい歌を」ではありません。もし「主に、新しい歌を」でしたら、それに続く言葉は、私が、捧げるとなるでしょう。そうなると先生が語ろうとした本当の心が解っていないことになります。ここは、「主に」ではなく「主が」なのです。「主が、新しい歌を」与えて下さる、こちらが、私たちが信仰し、私たちが信心を捧げるのではありません。ここは、神様が、新しい歌を与えて下さる、ということです。なぜなら、まず神様が私たちに光を与え、私たちを光によって導き、光によって救って下さったからです。この神様の光こそ、主なるキリストです。
 ヨハネの福音書の初めに、光について語られています。「光は、まことの光で、世に来て、すべての人を照らす。」と、そして「人間を照らす光は、命であった。」とあります。私は、この神様の光を受け止める時、こう言えると確信しています。わたしたちは、いのちの光の中で生き、そして死んでいくと。それはキリストの光、救いの光です。ここに並べられた写真の方々、天に召された方々の上に、神様が恵みを与えられて、神様の祝福の中にいらっしゃる事を信じます。わたしたちも、いずれ天に召されます。そうであるなら、今、生きているうちに、キリストの命の光を見上げ、光の中に生かされていることを知り、この命の光を信じて生きていこうではありませんか。知らずに生を閉じることは、不幸ではないでしょうか。光は輝いています。すべての人を照らしつつ、いのちの光は、あなたの上にも輝いているのです。共に、いのちの光の中に生きていこうではありませんか。皆様の上に、神様の祝福がありますように。
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by higacoch | 2014-09-30 17:56 | ローマ

2014年9月21日

  「十字架を背負って従え」  詩編142:2-8、ルカ福音書14:25-33
                       
 キリスト教にとって十字架というのは、大事なシンボルであります。地図にも教会の位置を示すのに十字架の記号が使われています。今朝の箇所には、イエス様が私の弟子となりたいなら、十字架を背負って、私についてきなさい、と言われています。一節には「大勢の人が一緒についてきた」とあります。普段は、12人の弟子と幾人かの女性たちが従っていましたが、ここでは、大勢の人々がイエス様の後についてきていました。そんな人々にイエス様は、足を止めて振り返り、こう言われました。「もし誰かが私のもとに来るにしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない」と。ここでの「憎む」というのは、わたしたちが考えている憎悪の憎しみではなく、ユダヤの国での意味では「少し愛する」という意味です。だから、この「憎まないなら」は「愛することが少なくないなら」ということで、これは「多く愛するなら」ということです。つまり「父、母、子ども、兄弟、姉妹、そして自分を、より多く愛するなら、あなたがたはわたしの弟子ではない。」という意味なのです。父、母、妻、子どもは、まとめて言うなら、身内です。イエス様は、身内を憎みなさい、と言われたのではなく、私を愛する以上に身内を愛するなら、あなたはわたしの弟子ではない、と言われているのです。身内第一主義では、私の弟子にはなれないと言うことなのです。
 わたしたちは、どうしても身内を第一に考えます。「身内優先が何が悪い、皆、そうではないか。まずは身内が大事だ」、「他人は他人、まずは身内だ」とある人は言うでしょう。。こうした考えを持っている人はイエス様の言葉でショックを受けたでしょう。イエス様は、最後にこうも言われました。「自分の持ち物を一切、捨てないならば、あなたがたの誰ひとりとして、私の弟子ではありえない」と。実際、イエス様の言葉を聞いた大勢の人たちが、その後どうしたかということは、聖書に書かれていません。わたしは思うのですが、多くの人たちがイエス様から離れていったのではないでしょうか。そのことについて聖書は沈黙しています。それは何人が離れたのかには、関心がないからです。それよりも、読み手がイエス様の言葉をどう聴くかということに関心があり、私たちにも問い掛けていると思います。
 さらに考えてみたいのです。身内主義はどういう視点でものを見るかということです。身内が、いかに損をしないように、否、いかに儲かるか、益になるか、いかに危険が避けられるか、そのような視点で考えるでしょう。そこには、正義、真理、また隣人への愛などは、顧みられません。身内主義は身内を大事にするのが、当然だと思い込んで行動します。こうしたことは身内だけでなく、自分が所属する団体、職場、そういう所でも、こちら側の優先性を重視します。そこには正義、真理は後回しになります。イエス様は、そこにメスを入れられました。そうした考えから、もっと視野を広げて考えなさい、それが本当に正しいことなのかと言われているのです。自分のためだけに生き、何も手放そうとしない、自己中心的な生き方をする人は、わたしの弟子ではないと、イエス様は強調して言っておられます。
 イエス様は、その視点の変換を、いやそれ以上に、正義、真理、隣人への愛に生きるようにと「自分の十字架を背負って私についてきなさい。」と命じられました。ここで、十字架の意味について考えなければなりません。十字架、それはイエス様の十字架です。自分が障害を抱えていたり、人生の途上で大病を患ったりしての自分の障害や病気、それが自分の十字架と考えている人が多いのです。しかしそれが私はイエス様が言われた十字架ではないと思います。イエス様ご自身は、自分のことで、自分の障害、病気で十字架を背負われたでしょうか。そうではありません。むしろ、その逆です。自分のことではなく、人々の罪のため、わたしたちの罪のため、すべての人の罪のために背負われたのです。それはすべての人を、またわたしたちを愛されたからです。
 伝道者パウロは、キリストの十字架は、あなたがたのためと言っています。(Ⅰコリ1:13参照)つまり、イエス様が十字架を背負われたのは、すべての人を救うため、わたしたちを救うためでした。だからイエス様が言われた「自分の十字架を背負って従ってきなさい。」というのは、不正や貧困、病気などで苦しんでいる隣人を愛するために、自らが背負う愛の行為なのです。イエス様がわたしたちを愛し、十字架を背負われたように、わたしたちもイエス様を見上げて、隣人を愛するために、自分の十字架を背負い、イエス様に従って歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2014-09-27 17:51 | ルカ

2014年9月14日

「恵みの深みに漕ぎ出そう」    イザヤ 55:8-11、ルカ福音書 5:1-11
                                関 伸子 牧師(高座教会)

 東小金井教会伝道50周年の記念の年に、説教者として招かれましたことを感謝します。伝道師になりたての頃、みなさまと共に過ごした9か月を懐かしく思いだしながら教会に来ました。今朝はルカによる福音書第5章から、私たちがみ言葉を聴いて、そのみ言葉に信頼して生きること、それによってのみ宣教が前進することを確認したいと思います。
 主イエスは、ユダヤの諸会堂で説教から説教への旅を続けられて、カフェルナウムに戻って来られたのでしょう。この時、群衆は、主イエスの語る言葉を聞きたいと願って押し寄せて来ました。あまりにも群衆が熱心に押し寄せてきたので、ガリラヤ湖の別名である、ゲネサレト湖畔に立っておられたイエスは、その岸辺に立っていることもできないで、そこに寄せてある二そうの小舟をごらんになり、そのうちの一そう、シモンの持っていた舟にお乗りになって、岸から少し離れたところまで漕ぎ出させて、舟の中から群衆に説教をなさったのです。
 シモンはイエスをよく知っていました。彼もまたイエスの説教に耳をかたむける喜びを味わっていたに違いありません。しかし、今は別です。なぜでしょう。一晩中働いて、何の益も得なかったからです。今は、ただ網を洗って、早く家に帰って眠りたいという一心であったに違いないと思います。その時、その心に神の言葉を聞こうなどという期待はなかったのです。その一介の漁師シモンが側におり、ご自分の説教に耳をかたむけようともしないで、ただ網を洗っているシモンのところに主イエスのほうから近づかれたのです。私たちは働いていて、いくら働いても、空しいとの思いに囚われることがあります。そのように、自分で自分自身の空しくして網を洗っているところに、主イエスが踏み込んで来られるのです。主がシモンを選んでおられます。説教が済みました。
 話が終わった時、イエスがシモンに、「沖へこぎ出して網をおろし、漁をしなさい」と言われるとシモンは「先生、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言いました。これは人の目から見れば、おろかなことです。シモン自身の目から見てもおろかなこと、無駄なことです。夜通し働いて、しかも、よく知っている漁師が選んだ漁場において何も収穫がなかった時、彼はいくらでも断る理由がありました。いくらでも断れたのに、この時、シモンは漕ぎ出して行きます。漕ぎ出した理由はただひとつです。「お言葉ですから」。この「お言葉ですから」という言葉は原文では、あなたの言葉だけを頼りに、あなたの言葉だけが理由で、あなたの言葉だけに基づいて、あなたの言葉に賭けて、というのです。
 先ほどイザヤ書55章を読みました。宗教改革者ルターはこの箇所の説教で、「大地そのものが雨を生み出すわけでもない。自分のわざで、自分が植えて、自分の力で手に入れることができるわけではない。ただ神のめぐみにより上から受けるだけである」と言っています。神の言葉はそれと同じであって、しかもそれをはるかに上回るものです。ヘブル語で言葉という語と出来事という語は同じ言葉、「ダーバール」です。神の言葉は創造的であり、人間と断絶しているものであり、天から降る水のように被造物に命を与えるものです。
 11節では神の意志は「むなしく」なることはなく、必ず神の意志は貫徹されることが宣言されます。それゆえ預言者イザヤは、絶対的な信頼をもってこれに聞き従うことを、民に常に訴えてきました。そのような言葉に出会うことで、人は自分の価値観を転換させられることが求められているのです。
 人生を、そして教会を動かすのは私たちではないのです。私はある仏教の雑誌を読んでいて、「人生は動く。動かすのはあなた自身」ということばに、そんなことがあるのかと悲しくなりました。「人生は動く。動かすのはあなた自身」という時に、そこで祈る祈りとは、神も仏も、全部自分の思うままに動かそうとする傲慢な支配欲だけが、祈りの力になっている祈りです。シモンは、夜を徹した労苦の空しさに、「人生を動かすのはあなた自身だ」などという言葉がふっ飛んでしまうような思いを抱いたのだと思います。私が動かすのではない、あなたの言葉に乗っかって私は沖へ行くというのです。ここに信仰が生まれます。主が語られる言葉。主が促す力。そこに乗るだけです。
 話はもっと続いています。驚くべき豊漁を経験した。シモンはその大漁に驚きました。これは、自分の祈りの力が強かったから、聴かれた祈りとなったということではありません。シモンが言ったのはただひとつです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。これは私たちの常識に反するのです。少なくとも、金もうけをするのは、自分の力が一番だと看板をかかげる宗教のこころとは全く遠のきます。主イエスが訪ねてくださるということは、神ご自身が訪ねてくださることです。その神の前にあって、自分は、この神と共にあったら滅びるよりほかないと知る。これが真実の信仰の体験です。
 ペトロはこの後何度も、「恐れるな」という言葉を聞かなければなりませんでした。ガリラヤの湖の荒れ狂う嵐の中で、自分の命を失うかと畏れを抱いた時に始まり、いくたびも不安を味わい、いくたびもこのみ言葉に支えられたのです。私たちも、主イエスの言葉に「しかし、お言葉ですから」というやり方で従い、シモンを訪ねた主イエスの訪問を何度も受け、恵みの深みへ漕ぎ出したいと思います。お祈りいたします。
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by higacoch | 2014-09-20 17:47 | ルカ

2014年9月7日

「生死は主のため」   詩編92:13-16、ローマ14:1-9
                               
 今朝の「主のために生き、主のために死ぬ」という御言葉は、葬儀の時によく語られます。皆さんもキリスト教式の葬儀に出られた時に聞かれたことがあるでしょう。故人は実にイエス様を信じて忠実に信仰生活を守られたと語られるのです。しかしここでパウロは、生きるにも死ぬにも、主のためと語っていますが、個人的な信仰者の生き方の模範を示しているのではありません。むしろ教会内の信仰者の倫理の問題を考えながら語っているのです。それは、教会にいる人々の中で見解の違いから、もめごとがあったからです。それは食生活のこと、日がらのことでした。食べるのか、食べないのか、日を選んで行事を行うのか、行わないのかが問題でした。
 パウロは言っています。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。」と。信仰者たちの中に軽蔑と裁きが満ちていました。かつてユダヤ教を信じていたキリスト者は、どうしてもユダヤの律法による食物規定から抜けきれない生活をしがちでした。キリストの福音に触れ、救われて、自由に生きることを知った信仰者の中にも、まだ食べ物のことが解決できないでいる人たち、悩んでいる人たちがいましたし、そうした人たちを上から目線で、軽蔑していた人たちもいました。さらに、同じ信仰者を軽蔑している人たちに対して、愛がないといって裁いている人もいました。こうして互いに、軽蔑し合い、裁き合って、共に生きることが出来なくなっていました。しかしある人がキリスト者になったというのは、その人自身に資格があったからではありません。その人の何かで、キリスト者になったのではないのです。裁きは、神がなさることで、パウロは「わたしたちは、一人一人、自分のことについて神に申しのべることになるのです。」と言っています。わたしたちはみな、神様の前に立たされます。それは、誰にも避けられないことなのです。
 私は、この箇所を初めて読んだ時には、8節の言葉「わたしたちは、生きるとすれば、主のために生き、死ぬとすれば、主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは、主のものです。」という言葉に、すぐに、そうではないだろうと思いました。人は生きるにしても死ぬにしても、自分のために生き、死ぬと思っていたからです。誰が人のために生き、死ぬのだろうかと疑いました。だから、自分の人生は、自分で切り開いていかなければならないと思っていました。しかしながら、今回、改めて、じっくりここを読んで教えられました。それは、キリストのために生きるというのは、何か、決まった生き方を強いられるのではなく、自由な生き方を与えられていると教えられました。ここ5節、6節を読むと「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」とあります。ここでは、食べる人、食べない人、どちらが信仰的だとか、不信仰だとか言ってはいません。行動は正反対でも、どちらもキリストのために生きていて、自分のために生きてはいない、どちらもキリストのために生きる行動の結果であって、キリストはどちら側の人のためにも死んで下さったのだと強調して語っています。ですから、どうして片方の者たちが、他方の人たちを裁くのか、キリストは、どちら側かに味方して、他者を裁かれはしないし、一方を取って、他方を捨てられたりはしません。どちらも受け入れて下さり、どちら側にいようとも、すべての人を受け入れられたのではないかと、裁く信仰者に対して、問い掛けています。裁きは、神様を超えて、人が為すべきではない。裁きは、神様のみが為されるのだとパウロは言いたいのです。
 人は、他人を裁きやすいものです。その時には、自分は他者よりは何かの点で、上にいると思い込んでいます。だから、人を裁くのです。どちらもキリストを見上げて、キリストのために生きているし、キリストのために死ぬのだから、相手を受け入れて生きていきなさいとパウロは言うのです。それは、キリストが私たち罪人を受け入れたようにです。キリストは、われわれの違いによって、ランクをつけて愛されたのではありません。ですから、救われた者たちも、行動の違いによって、互いが裁きあうことはやめましょう。そうではなく、互いを受け入れて、キリストのために生き、キリストのために死ぬものとなって行きましょう。共に、キリストに生かされている私たちですから。
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by higacoch | 2014-09-13 17:44 | ローマ