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2014年8月31日

 「御言葉を行う人」     詩編119:37-80、 ヤコブの手紙1:19-27
                              
 私は、今朝の説教題にしましたが、「御言葉を行う人」、皆さんにそのようになって欲しいのです。22節に「 御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」とあります。
 ここで22節をじっくりと読みますと、前提として、神様が御言葉を通して、今も働いて下さっているということです。そして「神様の働きかけを無視して、自分を欺いて聞くだけで終わる者になってはいけません。」神様は私たちに語りかけておられます。そうした神様の語りかけ、働きかけなど自分にはないと言って、あるものをないとしてしまうことが欺いていることです。
 御言葉を聞くだけで終わる人は、「鏡に自分の顔を写して眺めている人に似ている。そしてその鏡の前から立ち去ると、その顔がどのようなものであったのか、すぐにわすれてしまいます。」とあります。ここの鏡を御言葉と読んでみると解ってきます。御言葉を聞くだけの人は、御言葉に自分の顔を写して眺めても、その御言葉から離れると、自分の顔がどのようなものであったのか忘れてしまうのです。さらにいうなら、御言葉に触れ、御言葉を読んだり聞いたりしていると、自分の姿が、自分のことがわかってきます。自分の性格、特徴、さらに自分の内にある、弱さ、もろさ、悪、罪が解ってくる。しかし、そのまま眺めているだけでは、いつしか慣れ切り、飽きてしまいます。そして御言葉から離れていき、御言葉によって示された真理が薄らいでいき、いつしか忘れてしまうのです。いつしか御言葉も忘れてしまい、元の黙阿弥となってしまいます。こうなると不幸です。それに対して、御言葉に示された真理に動かされて、小さくくても行動をする人は幸いです。なぜなら、御言葉に示された真理に動かされることは、聖書の御言葉を聞き、そして行動へて導かれます。信仰というのは、まず聞くことから始まります。
 しかし、わたしたちは聞いているようで聞いていない面があります。聞くよりも、話すことが多いし、話すことが先になりがちです。よくよく考えてみると、なかなか聖書の御言葉に聞こうとしていません。それはわたしたちが日頃、生活していることからもわかるのではないでしょうか。誰かと話をする時「聞いて、聞いて」と連発し、相手の言うことを聞くよりは、相手に聞かせることが多いのです。
 しかし、聞きっぱなしでは成長しません。聞き、そして御言葉によって生きること、行動すること、そこに成長の第一歩があります。神様は、聞いてそこに留まることを求めておられません。失敗しても御言葉のベクトルに従って生きることが大切なのです。失敗したなら、また悔い改めて、戻って行けばいいのです。失敗はしないとは、わたしたちには断言できません。むしろ、失敗するのが、わたしたちです。わたしたちの中には完全な人はいません。失敗しながら、成長していきます。それは神様がわたしたち一人一人をご存知であり、愛して下さって、御言葉を与え、御言葉に生きていくように、導いておられるからです。そこに成長があり、幸いがあります。
 信仰者であったヤコブは言います。「神様の言葉を聞いて実践する人になりなさい」と。信仰によって、御言葉を信じて生きようとする人には、試練があります。ヤコブはこの前の所で試練について語っています。1章12節では「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」と言っています。普通、試練というのは、つらいこと、苦しいこと、いやなことです。どうして、試練にあって耐え忍ぶことが幸せなのでしょうか。試練にあってどうしてこんな目に遭わないといけないのかと不満をいう人がいます。そして神様をもう信じないと言って神様から離れるたりします。神様への疑いを持って、信仰から離れていくのです。こうしたことから考えると、試練とは一歩間違えるとつまずきの石です。しかし、この試練と言う言葉の原語は、「試練」と同時に「誘惑」の意味も兼ね備えています。試練が誘惑ともなります。ですがヤコブは言っています。「神様は人を誘惑したりなさらない、むしろ、人はそれぞれ、自分の欲望にひかれ、そそのかされて誘惑に陥るのです。」(14節)と。神様は、わたしたちを愛しておられ、成長を願っておられます。ですから、試練があるのです。試練は御言葉を聞いて、生きようとする時に会います。そうでない時には会いません。その時、神様はあなたを見捨てようとされているのではなく、あなたを成長させ、幸いを与えようとされています。このことを覚えていて頂きたい。だからこそ、御言葉を行う人となって欲しいのです。小さな歩みであっても、一歩一歩、御言葉に生きていって欲しいのです。そこに神様から与えられる幸いが、あるからです。
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by higacoch | 2014-08-31 17:40 | ヤコブ

2014年8月24日

「待ち望んで備える」   エゼキエル12:21-28、ルカ12:35-48
     
 今朝、与えられましたルカ福音書の12章38節に「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあります。ここでは、主人はイエス様を示していて、僕たちはわたしたちを表しています。主人であるイエス様が帰ってくることとはっきりと語られています。そして僕であるわたしたちは、イエス様の帰りを目を覚まして迎えることが大事だと語られています。これは寝ずの番をして目を覚ましていなさいと言うことではありません。肉体の目ではなく、信仰の目を覚まして、いつでも信仰をもって生きていきなさいと言うことです。自分の計画で信仰の目をつぶったり、覚ましたりするのではありません。いつイエス様が帰ってこられるのか、わたしたちには解りません。だから、いつ来られてもいいように日頃から備えていることが大事なのです。このイエス様が再び地上に帰ってこられることを、再臨と言います。「再び」、地上に「臨まれる」からです。
 さて、信仰の目をもって、目覚めていることについて学びたいのです。目覚めているということは、イエス様が地上に帰ってこられるかを、今か今かとそのことだけを考えて、何も手がつかないような生活することではありません。信仰をもって、一日一日を過ごしていくことであり、宗教改革者マルチン・ルターが「明日に、世の終わりが来るとしても、わたしはリンゴの木に水を注ぐ。」と言ったようにです。
 わたしはこうした目を覚まして生きる生き方は、こうも言えると思っています。それは、主イエス様が教えて下さった「主の祈り」を祈って生きていくことだと。主の祈りでは「み国を来たらせたまえ。みこころの天になるがごとく地にもなさせたまえ」と祈り求めます。求めて生きるのです。どんなに小さくても神様のみこころを求めて生きる歩みをしていることが大事なことなのです。日々の歩みの中で罪を犯すことはありますが、神様に「ごめんなさい」と言って、悔い改めて、再び、神様の方に方向転換して生きていくのです。
 明治時代に生きた人物に田中正造という人がいます。彼は日本で初めての公害事件を公に告発した人物です。足尾銅山の精錬所から出る毒によって渡良瀬川が汚染され、川魚は死に、周囲の山々の木々が枯れ、近くの村人たちも死んでいきました。こうして鉱毒による被害が目に見えて大きくなっていきました。そこで彼は明治政府の帝国議会で鉱毒被害を訴え、精錬所の活動を止めるように訴えました。しかし、当時は富国強兵が第一の国策であったので政府は一向にやめようともしませんでした。彼は帝国議会で大演説をし、「亡国に至るを知らざれば、これすなわち、亡国だ」と叫びました。彼は11年間の議員生活の後、辞職しましたが、鉱毒被害を訴える活動をやめませんでした。彼は、いつも懐には袋を持ち、その中には、三つのものが入っていました。憲法の本、聖書そして石ころでした。憲法を学び、聖書をよく読み、そして人に踏まれているその辺の石ころ3つを大事にしました。また彼は日記の中に「真の文明とは、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さゞるべし」と言う言葉を残しています。彼は聖書の言葉に生きて、神に、人に仕えて生きていきました。そして、真の文明を求めて行きました。それは聖書に教える神の国に通じるものであったと信じます。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と聖書にあります。彼の中には、イエス様が何時、来られてもいいように、信仰に目覚めて生きていったとのです。
 この世が終わってしまう、滅びてしまうと、終末思想に怯えて生活をしている人もいます。しかしキリスト者は、単なる世が終わるという恐れの念で怯えて生きるのではありません。イエス様が再び来られるのは、神の国の完成のために来られるのであり、今、生かされている私たちは、神の国を求めて生きることが求められています。それは大きなことをするというよりは、小さくても神の国に目を向けて、信仰の目を見開いて生きることです。それは「主の祈り」を祈りつつ、生きることでしょう。もしも、その道をそれた時には、またもう一度悔い改めて、神の国を求めて生きることが求められています。「み国を来たらせたまえ。みこころの天になるがごとく地にもなさせたまえ」と神の国を待ち望んで、御心に沿う歩みをしていくこと、それが待ち望んで備える生き方です。イエス様は言われました。今朝の箇所の少し前12章31節に「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は、喜んで神の国を下さる」と言われています。主イエス様を待ち望み、神の国を求めて備えて生きていきましょう。
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by higacoch | 2014-08-30 17:37 | ルカ

2014年8月17日

「生活の規範」     出エジプト22:20-26、ローマ 12:9-21
     
 先週の月曜日に上甲さんの息子さんが教会に来られて、「母のものを片づけていたら、こんなものが出てきました。これは母が大事にしていたものだと思いましたので」と言って一冊の大きな本を渡されました。私はそれを一気に読みました。題は「十戒について」で、十戒について理路整然と説かれていました。十戒は大別して二つに分けられ、前半部(第1~4戒)は神様に対する宗教的な義務が述べられ、後半(第5~10戒)は隣人に対する道徳的義務が述べられています。そしてこの順序はとても重要です。なぜなら、神様に対しての正しい信仰応答がなければ、次の隣人との道徳的義務は成り立たないとありました。
 また次のようにも書かれてありました。日本の戦後、道徳教育が必要だと言われたりしましたが、そうした道徳教育に反対する人々がいました。そうした人々は、道徳に反対するのではなく、それを教える自信がなかったからです。それは道徳を教える権威の裏付けを持たないからでした。戦前には教育勅語があり、天皇の言葉として天皇の権威を持って教えられました。それが戦後、解体され、教育の権威のよりどころがなくなり、権威が失墜したと言われました。そこで戦後は、憲法の権威が言われるようになりましたが、法律ではどうしても解釈の問題が残り、解釈を巡って法廷闘争がよく行われました。それは人間が作った法律だからで、解釈の違いから、権威ある裁判が揺らいだりしました。この本の最終部では、わたしたちキリスト者は、モーセの十戒を神様の権威のもとでただ守るだけでなく、進んでイエス・キリストがそうであったように、愛の奉仕によって喜んで自分を捧げなければならない。モーセの十戒は、愛の精神で生かしていくところにこそ、命がある。十戒を真に生かすには、キリストによって与えられた愛の奉仕によって行わなければならないと、結論づけられています。このように、十の戒めを守るだけではなく、愛をもって自ら積極的な仕えていかなければならないとありました。
 それに対して今朝与えられた箇所は、ユダヤ教の指導者からキリスト教の伝道者になったパウロが、キリスト者の「生活の規範」をまとめて書いています。ここをそのまま読んでも多くのことが学べます。その中で特に10節を学びたいと思います。私が信仰者になって、このローマ書を読みだして、ここを読んだ時、大きく心が動かされました。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあります。はたして自分は、どうであっただろうと思わされました。そして、すぐに、これとは反対のような生き方をしていた自分を教えられました。「あいつはバカだ」、「のろま」だと、よく考えていました。私が誰かを尊敬する
その人が、この世で何らかの業績をあげた人、立派な行動をしている人、人々から尊敬されている人でした。そのような人こそ、この世において価値ある人、優れた人だと考えていました。そのように人を値踏みしていたことを知らされました。自分が持っている価値基準をもとにして、自分よりは価値ある人、価値のない人と区別していました。ですから私は、愛するに値する人には、尊敬の念を持ち、そう見、そう考える、けれども、他方、そうではない人には、それなりの理由を挙げて、その人を軽蔑したり、見下げたりしていました。そんな私でしたから、相手を優れた者と思うよりは、軽蔑していることの方が多かったのです。
 パウロも以前は学者、しかもトップリーダーとしての歩んでおり、人々から「先生」と呼ばれていました。そんなパウロがキリストの十字架の愛、赦しの愛によって変えられました。そして、「愛には偽りがあってはなりません。兄弟愛をもって互いに愛し合いなさい。」と勧めています。ここから考えますと、互いに愛し合うには、偽りの愛では成り立ちません。パウロは、イエス様が弟子たちに教えた「互いに愛し合いなさい」を知って、パウロなりに、それは「互いに尊敬し合い、互いに価値ある者としてみなし、さらに相手を自分よりも優れた者と思いなさい。」と受け止めていたのです。そしてローマの教会の人たちに勧めたのでしょう。
 わたしたちの救い主イエス様は、たとえ話で人々に教えられました。「あなたがたは、どう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたなら迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」と言われました。ここには、迷い出た一人の者の価値を尊いとみておられるのです。
 わたしたちもイエス様から真実の愛によって愛され、救われました。この事によって今、生かされています。この真実によって愛された者として、イエス様が小さい者を愛されたように、わたしたちも互いの愛をもって、自分よりも優れた者として隣人をみなし、共に生きる者となるように求めていきましょう。今朝の箇所の一つでも「生活の規範」して生きることはキリスト者として歩みと言えるでしょう。
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by higacoch | 2014-08-23 17:33 | ローマ

2014年8月10日

 『神のものは神へ』     ルカ福音書 20:20~26
                                   荒瀬 正彦 師
 
 旧約聖書の詩編には「新しい歌を主に向かって歌え」との呼びかけが幾つも見られます。何を歌うのかと言えば「神様のシャローム」でありましょう。新約聖書のパウロの手紙では「神様の恵みと平和があなたがたにあるように」という言葉が冒頭にあります。
 神様が賜る平和・平安。神のシャロームこそ恵みと慈しみのエッセンスであり、神の正義と愛の本質であり、神の守りと導きの確かな証しなのだ、そう歌い挨拶するのです。
 私たちが「平和」を考える時は、どうしても「バラ色の平穏や安全を自分たちの手でどう作るか」という発想になりがちです。そして「平和を守るためには戦争の準備をしなければならない」と踏み出してしまう。平和は武力で守られるという本末転倒が大手を振ってまかり通るのです。
 今日の聖書箇所は、国家と教会という二つの主権の緊張関係がテーマになっていると思います。当時ユダヤの国はローマの属国であり、国家の主権と神の主権との間にある緊張関係の中に置かれていた。ローマ政府は税金徴収のためにデナリ銀貨を鋳造し、それに皇帝カイザルの肖像と刻文を施した。それは「何ものを神としてはならない」「偶像を作ってはならない」という律法に抵触する二つの事柄でした。この納税問題は政治的・行政的問題を超えて、宗教上の問題、信仰上の問題としてユダヤ社会を分裂の危機に陥れていたのです。ローマの支配者・皇帝を神とするか、神様を唯一の支配者とするか、厳しい二者択一が民衆の前に置かれたのです。イエス様はこの問いに対して「皇帝のものは皇帝に。神のものは神へ」と言われます。
神を神として生きることはこの世から遊離して閉鎖的に生きることではありません。
 信仰の世界とは、この世的なものと関わりを持たぬことでもない。そうではなく、今、カイザルの支配下にある現実に直面しつつ神の言葉に生きるのです。この世の権力に身を晒しつつ生きるキリスト者は「この世から遊離して生きるか、この世に埋没して生きるか」という単純な二者択一の問題ではなく「聖でありつつ俗の中で生きる。俗でありつつ聖とされている」のです。
 かつて太平洋戦争時代、キリスト教会は苦しい選択を迫られた。天皇を神とする国家体制の下にキリスト教信仰への弾圧が強まった。当時の教会の指導者たちは弾圧の矛先をかわし教会閉鎖を避けようと、皇国必勝を祈り連合国撃破を祈るべしと指導しました。
 それは涙ながらの苦渋の決断であったかも知れません。しかし唯一なる神への信従を貫く姿勢が失われてはいなかったか。「カイザルのものはカイザルへ」へという言葉が安易に語られてはいなかったか・・。
 「皇帝のものは皇帝へ」ということは「神のものは神へ」という条件の下でのみ成り立つものです。この条件を外したり無視するならば国家が神になってしまう。あの戦争の時、日本の教会は「神のものは神へ」という言葉を忘れてしまったのか、聞かなかったのか・・。これは教会の罪でした。
 人間は神に造られたものとして神に属する者であり、神の像をその身に刻まれた存在です。神の主権の下に立つ者です。すべての権威は上から来るのです。国家の権威も支配の権限も神に委ねられたものです。神から委ねられたものであるがゆえに、私たちは国家の支配に従っているのです。もし国家が神の権威・神の支配に服従せず自らを神とする時には「神のものは神へ」との御言葉のゆえに、徹底的にこれを拒否し、カイザルに対してその限界を思い知らせる使命があります。地上の権威は神によって、平和を築き愛に基づく統治を為すためにその支配権を委ねられているのみであります。
 私たちは日本の政治を問います。世界の平和を論じます。自民党・安倍政権を批判します。そうすべき権利があり、そうすべき義務があります。がその時「あなたは神のものを神にお返ししているか」と問い返されていることを忘れてはならないでしょう。
 すべては神のものであり、神の栄光のために用いられ、お互いに神のものとして尊び合い、神の子として神のシャロームの中に生きていきたいと思います。
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by higacoch | 2014-08-16 17:27 | ルカ

2014年8月3日

「女性たちの働き」    詩編97:7-12、ルカ福音書8:1-3
                              
 今朝の1節には、十二人の弟子たちがイエス様に従っていたとあります。そのすぐ後の2、3節には、何人かの婦人たちも一緒だったとあります。ですからイエス様と共に旅を続けたのは、男性の弟子たち十二人と何人かの女性たちでした。その女性たちの中には、悪霊を追い出して病気を癒して頂いた者もおり、七つの悪霊に取りつかれていた女性マクダラの女、マクダラとは地名ですので、マクダラ出身のマリア、またヘロデ王家に仕えるクザの奥様であるヨハナ、それにスサンナの3人が記されています。スサンナという女性は、聖書にはこの箇所だけにしか記されていませんので、どんな人だったのかよく解りません。マクダラのマリアとヨハナとは、イエス様の復活の時に、一緒に墓に出かけ、天使によって、「イエス様は、復活して、この墓におられない」との知らせを聴いています。しかし、イエス様についていっていたのは、この3人だけではなくもっといたのです。ひょっとしたら、女性も12人位いたかもしれません。
 その女性たちが一行に奉仕していました。一行とありますから、イエス様だけに仕えていたわけでなく、12人の弟子たちにも仕えていたということになります。では具体的には、どんな奉仕をしていたのでしょうか。それは現代とそう変わりません。すぐに思い起こせるのは食事です。パンや魚、野菜などの食事の調達や、給仕をしたことでしょう。また洗濯、また病人の看護などもあったでしょう。そうした時の財政面での援助もしていました。ここには記されているヨハナは、夫がヘロデ・アンティパス王の財政をつかさどる重要な役職についていた人でしたので、それなりのお金はあったのでしょう。お金が残り少なくなってくると、女性たちは、自分が持っているものを持ち出して、売ったりしてお金の工面をしていたのです。このように具体的な奉仕に加えて、財政面でもイエス様の福音宣教の影の力となっていたのです。そして女性であることで、身の危険をも伴っていたと言わざるを得ません。この女性たちは、イエス様の一行を、後方支援として財政的な援助をしたのではなく、その一行と共にいて奉仕していたということは、決して忘れてはならないことだと言えます。
 またパウロの時代の教会は、ほとんどは家の教会で、立派な礼拝堂が備わった教会はまだありませんでした。小さな集会がある信徒が家を開放して、そこで礼拝が守られていました。そうした家の教会で、家を開放してくれた中には、女性が多かったのです。そうしたことから、パウロは、いくつかの手紙でその女性たちの名を挙げてよろしくと言っています。こうした中には、伝道のために献身して、働いた女性宣教者がいたはずです。弟子とか使徒と呼ばれるような働きをした女性がいたと思われます。
 ただ、「使徒」や「弟子」というギリシア語は、どちらも男性も女性も含む言葉ですので、区別が難しいのです。ですから、男性か、女性かを現すために、冠詞を付けて男女を区別します。しかし複数になると、その中に、男性が何人いて、女性が何人いるかは解らないのです。教会の歴史から言えば、最初の教会の頃にはそのような使徒や弟子と考えられるような働きをする女性もいたようですが、何時しか、使徒も弟子も男性のみと考えられるようになっていきました。
 女性たちは、財政面と生活面の両面で仕えていました。福音のために、神の国の宣教のために、イエス様と弟子たちに仕えていたのです。現代の教会でも、多くの兄弟姉妹が、神様から導かれ、召され、信仰が与えられて、教会であるキリストの体の一部とされています。今朝、与えられた箇所から「仕える」ということが大事だということを学びたいのです。イエス様の時代に神の国の宣教が行われていたように、今も宣教はなされていますが、そうした働き人に仕えて、共に宣教の働きを担うことです。そうした奉仕に、小さくても共に参与することが、私たちに求められているのです。イエス様に、弟子たちに、仕えた女性たちの働きは、神の国の宣教に通じるものであったということが言えます。私たちも、小さくてもそうした奉仕を、主に捧げていきましょう。
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by higacoch | 2014-08-09 17:24 | ルカ