<   2014年 06月 ( 5 )   > この月の画像一覧

2014年6月29日

『 土台は大丈夫? 』    創世記6:1~8 ルカ福音書 6:46~49
                              唐澤 健太 牧師(国立のぞみ)

 東小金井教会はまもなく伝道開始50周年の一つの節目を迎えるが、国立のぞみ教会も今の場所に会堂が与えられて今年でちょうど50年を数えます。一度大掛かりな増改築工事をしている、一番古い部分は50年が過ぎている。将来的に建物をどうするかを検討し始める時になっているので、少し前に、土台の検査を行った。年数が経っている割にはしっかりとした土台であることが分かり少し安心した。しかし、教会の建物の土台が平気だったとしても、そこに集う私たちはどうであろうか? 私たちの信仰の基礎は大丈夫だろうか? 私たちの信仰の土台がどのような状態であるのかを教会の建物の土台以上に心を配らなくてはならないのではないかと改めて考えさせられました。なぜなら、教会(エクレシア)というのは、決して建物のことをいうのではなくて、神を信じる者たちの集まりのことだからです。
 「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行なわないのか」。ここで主イエスは、イエス様のことを主と告白する者たちの行為について問われています。イエス様は、家を建てるときに、深く掘り下げ、土台を据えたかどうかを主イエスの言葉を聞いて行なう人と、聞いて行なわない者の違いとして語られています。
 家の土台がどのように据えられているかどうかは、日常生活にはあまり関係のないことでしょう。普段の生活においては、土台がどうなっているかより床暖房があるか、照明や収納はどうなっているかの方がより問題になります。しかし、その家の建て方が問われる時があるのです。それが「洪水」の時です。
 旧約聖書の中で洪水は、「ノアの洪水物語」があるように神の裁きを意味します。神の裁きは、終末的な「最後の裁き」もありますが、神の裁きは、人間が悪を選び取ることにおいて、私たちの歴史の中で経験されるのです(CPC信仰告白7.06)。歴史の節目、節目に、神の裁きを人類は経験するのです。このことを私たちは今一度真剣に捕らえる必要があるのではないでしょうか。
 ナチスドイツ時代の小さな村の教会を舞台にした小説『嵐の中の教会』を読み直しています。ヒットラーが登場したドイツの教会は「洪水」を経験します。その中で、小説に登場するリンデンコップ村の小さな教会は、御言葉の説教に揺さぶられ、目を覚まし、聖書に新しく聞き直すことを始めるのです。30代のグルント牧師はイースターの説教において「全然気楽にキリスト者であることが出来た時代は、もはや過ぎ去りました。また、決断をせずに逃げまわっていられた時も、もう過去のことであります。今日は、もうキリストのそばをすり抜けることはできません。誰でもみな、キリストの味方か敵かを決しなければならないのです。……教会の皆さん。あなたがたにとって、キリストは生きていますか? それとも棺に入れられてしまっているのですか? 」
 この説教によって教会の一部の人たちが目醒め、御言葉に従うことを通して、教会が教会として建て上げられていきました。リンデンコップ教会の人々は新しく御言葉に聴き直し、それに従うことを通して、地面の上に建っていた教会から、深く掘り下げ、岩の上に家を建てるようにリフォームしたのです。歴史の中で人が悪を選び取ってしまうという「洪水」の中で、教会が教会としてしっかりと建つことができました。
 その同時代の日本の教会も嵐を経験しました。「天皇と主イエスとどっちが偉いのか」という問いの前に「主よ、主よ」と礼拝する者たちは立たされました。その時代を生きていない者が言うことにはためらいを覚えますが、歴史の中で経験した出来事として日本の多くの教会は「たちまち倒れて」しまいました。洪水が押し寄せた時、日本のキリスト教会は押し流されてしまい、その倒れ方も酷かった。
 歴史における神の裁きは決して過去のことではありません。今の世界は、まさに悪を選び取っている時代と言わざるを得ないでしょう。7月1日には政府は「集団的自衛権行使容認」について閣議決定を行おうとしていると報じられています。1945年8月15日にこの国はあの戦争の惨禍を歴史における神の裁きとして経験したのです。そこから悔い改めて、「二度と戦争しない」と誓いを立てて新しい出発をしたのです。それが今崩されようとしています。急速に戦争をする体制へと舵を切っています。原発の問題も再稼働の道を選び取ろうとしています。「洪水」は決して人ごとではなく、今、わたしたちの目の前にあることです。
 「主よ、主よ」と祈り、礼拝する私たちが、キリストの言葉を生きた言葉として、私たちの生活を揺り動かす言葉として聞いて行なうか、否かが問われる時です。キリストの言葉に従う者がいなければ、教会は教会としてたたないのです。私たちの土台はどうでしょうか? 平和を求めて出来る限りのことをしましょう。私たちの主は平和の主なのですから! ひたすら岩なるキリストに心を向けて歩むものでありましょう。それこそが私たちの土台を据える作業に他なりません。
[PR]
by higacoch | 2014-06-30 17:01 | ルカ

2014年6月22日

「イエス・キリストの名によって」    詩編133:1-3、使徒言行録2:37-47

 今朝与えられた聖書箇所は、弟子たちが、ユダヤ社会で最初に「イエス・キリストこそが唯一の救い主である」と説教した箇所です。こうした説教が後に彼らの投獄される理由になっていくのですが、ここはまだ逮捕される前の出来事です。弟子ペトロの説教に心動かされた人々が「では、ペトロ先生、わたしたちは、どうしたら良いですか」と問うたことに対して、ペトロは「悔い改めて各々、イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と勧めました。イエス様を信じるなら、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。」という勧めは、その後の教会が大事なこととして受け継いでいきました。そしてそれは今も同じです。だから私も言います。イエス様を信じるなら、「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい」と。
 ペトロは、この後「イエス・キリストの名によって」という信仰によって生きるようにという勧めを何度も語っています。このすぐ後の3章にも記されている「美しい門」での出来事にもあります。ペトロは足の不自由な男と出会います。この男は物乞いし、「何か恵んで下さい」とペトロに願います。するとペトロはこの男に向かって言います。「わたしには、金貨、銀貨は持っていません。しかし、わたしが持っているものがあります。それはイエス・キリストです。だからわたしは言います。イエス・キリストの名によって、歩きなさい」と。これは「イエス・キリストを信じて生きていきなさい」ということです。
 ペトロは聖霊の力を受けて変わりました。正確には変えられました。不信仰から信仰へ、聞く者から語る者へとされました。イエス・キリストを信じる者にされたというより、イエス・キリストを語る者に変えられました。
 第二次世界大戦中、ナチスと闘ったニーメラー牧師たちは、バルメン宣言を現しました。その声明の第一項にこうあります。「聖書において、われわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聴くべく、また生きているときにも、死ぬときにも、信頼し、服従すべき、唯一の神の言葉である。教会がこの唯一の神の言葉以外に、またそれに並んで別の出来事、さまざまな力、人、もろもろの真理をも神が示めされたものとして認め、宣教の源泉とすることができ、そうしなければならないと教える過った教えを、われわれは断固退ける。」ここに従わなければならない方は、イエス・キリストのみだと公けにしたのです。こうしたことは今朝、ペトロが説教したことと同じ線上にあります。ペトロは説教の最後をこう結びました。「イスラエルのすべての家の者たちは、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」と。
 私は皆さんに言いたい。「イエス・キリストを信じなさい。」「イエス・キリストの名によって歩きなさい。」と。これは皆さんにだけでなく、まだイエス様を知らない人にも言いたいのです。「イエス・キリストの名によって、生きていって頂きたい。」と。なぜなら、その人をイエス・キリストが真に生かすからです。
 今、日本では政治面で闇が広がろうとしています。現安倍政権が、戦争が出来る国へと舵を切ろうとしています。平和憲法の第9条を空文化し、新たな解釈によって軍を派遣し、戦争しようとしています。それはまた日本が死の商人として、武器を、ハイテクな武器を国外に売り出し、日本の経済発展につなげようとしています。そうした武器の国際展示会に出店し、売り込もうとしています。死の商人ほど儲かるものはないとも言われ、その戦略も練っています。現政権は、戦争へと暴走していると言わざるを得ません。先の戦争では「お国のため」「お国のために」と言われて、若者たちが戦場に送りだされていきました。今は「我が国の安全のために」「国民を守るために」と叫ばれています。そして先の大戦時に、治安維持法が法制化され、国民の声を封じ込んでいったように、同じような内容の法律の名前を変え「秘密保護法」として、法制化していこうとしています。わたしたちは目を覚ましていなければなりません。「人間に従うよりも、神に従わなければなりません。」、これは、イエス・キリストの名によって歩かなければならないということです。イエス様は「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われました。これはわたしたちにも語られていることです。深く考えていくと、現代でも、わたしたちを真に生かす方はイエス・キリストなのです。
 最後に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」(ヨハネの手紙一の4章9節)と言うみ言葉を心に深く刻みましょう。あなたを救い、生かす方は、イエス・キリスト以外には、いません。イエス・キリストの名によって、みなさんも生きていって頂きたいと願います。どんな時代になっても。
[PR]
by higacoch | 2014-06-28 16:51 | 使徒言行録

2014年6月15日

「ナザレの人イエスこそ」     詩編8:2-10、使徒言行録 2:22-36
                              
 イエス様は、ガリラヤ地方の片田舎であるナザレの村で育ち、成長されました。こうしたことから、人々はイエス様のことを「ナザレのイエス」とか、「ナザレの人」と呼んでいました。ナザレは、新約聖書にいくつも出てきますから私たちは親しんでいます。しかし旧約聖書には、ナザレは一切出てきません。ナザレの名さえ1回も出てきません。それほど知られていなかった村でした。実際、後にイエス様の弟子となるナタナエルは、フィリピにイエス様のことを紹介された時、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と疑っています。つまり「あんな田舎のナザレから偉大な人物は出ない」と言っているのです。そのように、当時は辺鄙な村でした。
 伝道者パウロは、イエス様のことを「ナザレのイエス」とも「ナザレの人」とも呼んでいませんが、弟子のペトロは、人々の前で「ナザレの人」と言って説教したことが幾度もあります。その一つが、今朝与えられた箇所です。「ナザレの人イエスこそ、神様から遣わされた方です」と言っています。
 ここに記されているペトロの説教を、原文のギリシア語で読みますと、その特徴が見えてきます。「神様が」という主語がわざわざ記されています。ギリシア語では、普通主語を省きます。それは動詞の語尾変化で、主語が「わたし」なのか、「あなた」なのかがすぐに解るようになっています。だから、あえて主語を書きません。訳す時は、動詞の変化によって「わたし」「あなた」として訳します。そのような中で、主語「神様」が確かに書かれていますので、神様が強調されています。ここでペトロが語ったことは「神様ご自身こそが為されたことだ」ということなのです。
 こうしたことを踏まえて訳すと、22節は、「イスラエルの人たち、これから話すことを聞いて下さい。ナザレの出身のイエス様こそが、何を隠そう神様ご自身から遣わされた方、その方です。」と語意を強めて語っています。「神様ご自身は、まことをもって、イエス様があなたがたの間で行われた奇跡、不思議な業、しるしなどによって、あなたがたに証明なさいました。そうです。まさにあなたがた自身が、すでに知っている通りなのです。」と。さらに23,24節、そして32節、36節も、神様を強調して訳してみますと、弟子ペトロが言いたかったことがよく解ります。「ナザレの人イエスこそがメシア(救い主)だ」と大胆に説教しました。そして「そのイエス様を、あなたがたは十字架上で殺してしまいました。しかし神様ご自身は、なんとイエス様を死の苦しみから解放して復活させて下さった」と語って、ペトロをはじめ、弟子たちはイエス様の復活の証人となっていきました。外国に住んでいたユダヤ人たちは過越祭で都エルサレムに帰郷していましたが、イエス様のことを知らなかったし、巡礼者たちも知りませんでした。そんな中で、弟子たちが彼らの国の言葉で、しかも救いの出来事を語り始めたので驚きました。
 ユダヤの中心である都において、片田舎の出身のイエス様をメシアということは、命の危険があることでした。でも弟子たちは、田舎育ちの「ナザレの人」こそ、メシアだと大胆に語り始めました。都には宗教的な権威のもとで生きていた神殿の祭司集団、そのトップである大祭司の権力が、これこそ人間による権威構造が厳然とありました。そんな中で、ペトロは人間によって作り出された権威ではなく、神様の権威によって造られる国こそが、まさに神の国であると語り、ナザレの人イエス様こそが、神様ご自身によって立てられた「すべての人の救い主メシアだ」と説教したのです。
 使徒言行録に記されているように、救い主イエス様を信じた人々が洗礼を受けて、教会が誕生していきました。イエス様の救いは、二千前の真理ではなく、今も真理です。そして、イエス様こそが救い主と信じて、イエス様を受け入れる者が救われていきます。このことは神様ご自身が与えて下さった救いの恵みです。ナザレの人イエス様を信じて、神と隣人を愛しつつ、歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2014-06-21 16:47 | 使徒言行録

2014年6月8日

「一人一人が語る」     詩編146:1-6、使徒言行録2:1-13 

 皆様とともに、ペンテコステ礼拝を捧げることができましたことを、大変嬉しく思っています。ペンテコステは教会の誕生日です。私たちの教会では、その月に誕生された兄弟姉妹を覚えて誕生会を行っていますが、今朝は教会の誕生も覚えたいと思います。教会とは建物をいうのではなく、「共に呼び集められた者たち」という意味です。
 今日は教会の誕生日です。ですから、ペンテコステは、教会がこの世で生かされた最初の日なのです。誕生ということを思い巡らすと、私は聖書の最初の文書「創世記」を思い起こします。その最初の言葉はこうです。「初めに、神は天地を創造された」、その後、神様は「光あれ」と言われて、光を創造されました。そして、神様は次々と言葉を語って、その言葉によって大空、大地、木々、草花を、そして動物を、最後に人間を創造されました。こうして創造されたものは神様の言葉と深い関係にあります。
 こうしたことを考えますと、教会の誕生も言葉との密接な関係があります。それは主イエス様の弟子たちに注がれた聖霊によって、彼らは言葉を語り出したからです。その時の出来事を聖書はこう記しています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れて」とあります。よく見ると、舌のような炎ではなく、炎のような舌です。舌でした。これはギリシア語でグロッサという言葉が使われていて「舌」と言う意味もありますが、それだけではなく「言葉」という意味もあります。今朝与えられた箇所に、他に2カ所に同じ言葉出てきて、ほかの国々の言葉(4節)、わたしたちの言葉(11節)とあります。ですから、舌が与えられたとは、言葉が与えられたと理解していいのです。
 主イエス様が約束された聖霊は「言葉」でした。弟子たちは「言葉」を頂き、新しい言葉、救いの言葉を語り始めました。イエス様が十字架で死んで三日目によみがえったということ、つまり救いの出来事を大胆に語り出しました。弟子たちは以前、イエス様が十字架に掛けられた時、隠れ家に鍵をかけてひっそりと過ごしてい
ました。そんな弟子たちがユダヤ人の前で語り出したのです。救いの出来事の証人として。
 聖霊は主の弟子たちに注がれました。それはまとめて十把一からげにではありません。一人一人に与えられました。一人一人と個別的に与えられた聖霊のことは、新約聖書に多く見られます。特に、コリントの信徒への手紙一と使徒言行録にあります。コリントの手紙をよく見てみますと、12章7節には「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるため」とあり、11節では「これらすべてのことは、同じ唯一の霊の働きであって、霊は望むままに、それを一人一人に分け与えて下さる」とあります。さらにパウロは「あなたがたはキリストのからだであり、また一人一人は、その部分です。」と。こうして教会が成り立っていると言っています。
ペンテコステは教会の誕生日、その日に聖霊が注がれて主の弟子たちが、言葉を頂き、語り出し、そこに教会が誕生していきました。そして今も聖霊は与えられています。それは新しい魂が今も救われることから解ります。東小金井教会も聖霊に生かされて50年、歩んできました。否50年生かされてきました。そしてこれからも生かされていくでしょう。
 パウロはコリントの教会の人たちに、大事なこととして言っています。「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい」と。ここでの預言は、主の福音を語ることです。イエス様の救いの出来事を語ることです。そうです。教会は聖霊によって創造されて、聖霊によって今も生かされています。具体的には、神様は一人一人に聖霊を注いで、キリストの体なる教会を形造って下さり、そして一人一人が主の偉大なる業を語るように力を与えて下さっています。このことは皆さん一人一人が神様に用いられているということです。すべての人が救われるように、皆さん一人一人を用いて下さり、一人一人が語るように。牧師だけではなく、皆さんが、なのです。
[PR]
by higacoch | 2014-06-14 16:43 | 使徒言行録

2014年6月1日

「信仰がなくならないように」  詩篇37:5〜9、ルカ福音書 22:31〜34
                          石塚惠司牧師(マッタ・デ・サンジョアン教会)
 
 私たちが祈る先に主イエスはわたしたちのために祈っていてくださる。このことを知った私たちは変えられました。希望が与えられました。
 2年前、日本中会のご配慮で、マッタ伝道教会はサンパウロに住む日本語、ポルトガル語の堪能な方を伝道師として迎えました。それは長年の祈りでした。しかしその伝道師はふた月後、新しい決断をされ、しばらくしてマッタ伝道教会をお辞めになりました。彼に期待していたわたしやマッタ伝道教会の人々は大変大きなショックを受けました。信仰を失うような苦しい時が一年続きました。そのとき日本中会はひとりの牧師を送ってくださいました。その交わりに支えられ、私たちは2013年7月、一つの決断へと導かれました。それは日本人が減少するジョタカの地でそこに住むブラジル人に伝道し、教会を続けていこう、というものでした。
 その決定をしてから教会が変わりました。一人の長老はどんどんブラジル人の子どもを教会に連れて来るようになりました。また15歳の一人の女の子は洗礼を受けていませんが、子どもたちのために働く人になりました。今年のイースターでは子どもたちが礼拝賛美すべての曲を伴奏するまでになりました。今教会は子どもの声にあふれています。
 「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。主イエスはペトロの信仰がなくならないように祈られたようにマッタ伝道教会のために祈り支えてくださっていたのでした。このことに気づいた時、私は身震いしました。たとえ自分には信仰が無い、と感じたとしても、大丈夫、大丈夫。主イエスが、私たちの信仰が無くならないように、と支えてくださり、生きる希望を与えてくださる。主から希望が与えられた私たちは目を遠くに向けるようになりました。
 クリスマス礼拝に出席した一人のブラジル人女子高校生からメールが届きました。「ジョタカのクリスマスはとてもよかったです。もし自分に子どもが出来たら、ぜひそちらの教会に連れていきたい、と思いました」。こんな言葉を高校生から聞くとは思いませんでした。私たちは今、10年後、20年後、50年後を目指しています。子どもや孫たちのために今出来ることをしっかりとやり抜いていこう、決心しました。信仰が無くなるような絶望を通りましたが、主イエスは私たちの信仰が無くならないように、と祈り、支えてくださっているのです。ぜひ共に主イエスに信頼し、福音の種を蒔き続けましょう。
[PR]
by higacoch | 2014-06-07 16:34 | ルカ