<   2014年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

2014年4月27日

「わたしたちの心は燃えていた」  詩編16:1-11、ルカ福音書24:13-35
                 
 今朝、与えられた聖書箇所は「エマオへの途上」としてよく知られた箇所です。主イエス様の弟子で、一人はクレオパと言い、もう一人の名は記されていません。二人は一緒にエマオの村に帰る所です。そんな折、一人の旅人が近づいてきて「何を論じ合っていらっしゃるのですか」と話しかけました。すると、二人は急に立ち止まり、クレオパが「ここ数日に都で起こったことを知らないんですか。知らないのは、あんただけですよ」と答えました。旅人は「どんなことですか」と聞くので、今度は二人がかりで興奮気味に「ナザレのイエス様のことです。」と言ってイエス様の上に起こったことを話しました。この旅人はイエス様でしたが、二人の目が遮られていたので気づきませんでした。イエス様はこの二人に物分かりが悪く、心が鈍いと言われています。
 物分かりが悪く心が鈍いのは、この二人だけではありません。他の主の弟子たちも、私たちもそうです。婦人たちがイエス様の復活を知らせましたが、この二人は信じることができませんでした。イエス様が語られた受難の予告も聞いていたにも関わらずです。そんな二人をイエス様はどう扱われたのでしょうか。別れて行かれたでしょうか。見離されたでしょうか。勝手にしろと罵倒されたでしょうか、そうではありません。この後も同行され、さらに懇切丁寧に、聖書全体をもって、モーセから他の預言者たちの言葉と行動を細かく解き明かして下さいました。そんな中で彼らは心が燃えてきていました。鈍かった心が御言葉によって目覚めました。そしてイエス様の苦しみは私のためであったと気づかされていきました。それでも、まだイエス様が死からよみがえられたとは、信じていませんでした。
 二人は目指す村エマオに近づきました。二人は旅人からもう少し話を聞きたかったのですが、旅人は村を超えてさらに先に行こうとされていました。そこで二人は引き留めて「どうぞ、わたしたちと一緒に泊まって下さい」とお願いしました。イエス様はそれを受け入れ、ここに泊ることにされました。そして二人と一緒に食卓につかれた時、イエス様は二人の前でパンを取り、讃美の祈りをして、パンを裂いてお渡しになられました。イエス様は客人で、この家の主人はクレオパですから、本来ならテーブルの主はクレオパのはずです。ですが、イエス様が主導権をもって進められました。イエス様の祈り、讃美の祈り、その所作などが二人の心を貫き、二人の目を開かせ、イエス様だとわかりました。解ると同時にイエス様は消えてしまいました。二人は、道々、イエス様がお話になっていた時に心が燃えていたことにも気づきました。まさにイエス様は復活して、生きておられると、実感しました。二人は喜びにあふれて、イエス様が復活し、今も生きておられることを伝えようと、都の主の弟子たちの所に向かいました。
 暗くなってきた中を二人は、今度は急いでエルサレムへと向かいました。そして弟子たちがいる家に入って行き、イエス様は生きておられる、復活なさったのだ、と伝えようとしました。すると主の弟子たちの方が先に、ペトロにイエス様が現れて下さったと語って聞かせました。二人はそれを聞き、私たちも復活したイエス様にあったと証しして、共に喜びました。
 最後に、お話したいのです。クレオパともう一人の弟子は、夕食時にイエス様だと気づきました。目が開かれて、共にここまで歩いて下さった方から聖書全体を解き明かして頂いた時に心燃えたことは、二人に与えられた主の恵みです。その燃えた心を下さった方が復活されて生きておられるイエス様だと気づかされた時、彼らはどうしたでしょうか、このことに注目したいのです。二人は、すぐに都に上って行きました。それは、イエス様が生きておられる、私たちは、復活されたイエス様に出会ったと知らせるためでした。つまり二人は、イエス様の復活を知らせる人となっているのです。喜びに溢れてイエス様の復活の証人となっています。このことは、私たちも同じだと思うのです。私たちも、主が今も生きておられ、働かれておられるからこそ、罪の赦しの恵みを受けて、信仰が与えられて、救われたのです。私たちも同様に、今も生きて働き、恵みを与えて下さっているイエス様の復活の命に生かされ、復活のイエス様の証人として歩んでいきましょう。イエス様の復活を喜びつつ。
[PR]
by higacoch | 2014-04-28 21:56 | ルカ

2014年4月20日

 「なぜ」   イザヤ書 54:4~14、ルカ福音書 24:1~12
 
 皆様とともに、イエス様の復活を覚えて、主の御名をほめたたえることができますことを大変嬉しく思っています。そして主の恵みとして受け止め、神様に感謝致します。
 さて、今日の説教題を二文字としました。「なぜ」です。この短い「なぜ」と言う言葉は、私たちも時々使います。それは、こちら側からみれば、どうしても腑に落ちないとか、よく理解できない時に使います。「どうして、そんなことを考えるの、なぜ。」とか、「あなたのしていることがよくわからない。なぜ、そんなことをするの」とかです。こうした「なぜ」という問いかけは、今朝、与えられました聖書の箇所にもあります。この時に「なぜ」を投げかけたのは天使です。
 天使は「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか、あの方はここにはおられない。復活なさったのだ。」と言っています。天使は、イエス様は死から復活し、墓に納められたままの方ではなく、今は復活して生きておられるのだと言いたいのです。ですが、婦人たちの側から言えば、人は死んで葬られたなら死んだままで、そこに何かが起こるとは考えられません。だからイエス様が墓に納められて、その場所からいなくなるということはあり得ません。それが当然です。女性たちにとっては、イエス様の遺体は、ここにしかなく、それ以外には考えられなかったのです。
 しかし、天使はそうではありませんでした。天使はこうも言っています。「あの方が生きていた時に言われていたではないか、それを思い出しなさい」と。イエス様は「私は、必ず罪人の手に渡されて、十字架につけられて、三日目には、復活する」と3度もおっしゃっています。そこで女性たちは、そのイエス様の言葉を思い出して、天使が語ったことを受け入れました。
 ここで考えてみたいのです。語りかけた天使たち、語りかけられた女性たち、最初、それぞれが、違った所に立って応答しています。女性たちは死んだ方が復活するということはないという所に立っています。だから復活は信じられません。他方、天使たちは神様の側に立っています。神様の独り子であるイエス様が語られたことはそのようになる、と信じていますので、人の子であるイエス様が、言われたことなら、そうなるという所に立っています。だから、天使は問い掛けるのです。生前イエス様は「必ず十字架につけられて、死んで三日目に必ず復活する」と、言われていたことをどうして信じられないのか、なぜと問い掛けています。それぞれの側で考え、そこに立ち続けるのなら、両者はかみ合いません。どこまで行っても平行線のままです。ですが、空の墓の出来事を目の当たりした女性たちは、天使が語ったことを受け入れました。そしてこの出来事をまずイエス様の弟子たちに知らせようと、彼らがいる家に向かい、伝えました。しかしながら女性たちが話すことが、たわ言のように聞こえた弟子たちは、イエス様の復活を信じませんでした。
 ただ、弟子のリーダー格であったペトロだけは、この話をただのたわ言として聴ませんでした。それはずっと以前、ペトロ自身がイエス様から、「なぜ」と問われたことがあったからです。「信仰の薄い者よ、なぜ、疑ったのか。」と。(マタイ福音書14:25-31参照)
 ここでの天使の発言は主イエス様の復活宣言として聴くことができます。もし、このことを真実に聴くなら、イエス様は十字架上に死んで、すべてが終わった方ではない、ということです。死からよみがえって生きておられる。そうであるなら、今も生きておられる方だと言えます。そして今も生きておられるなら、今もイエス様の働きかけがあると、信じることができます。私たちの目には見えなくても、働いておられるということができます。
 こうしたことを考えますと、天使の「なぜ」は、私たちに神様の死の勝利を知るように喚起したものなのです。すべての人の罪を赦す神様の愛が、神の怒りのさばきに勝利したことを示していること。そして、この赦しの愛は、私たちを新たに生かす命へと導いてくれたものでした。神様の赦しの愛に、私たちも生かされ、私たちも赦しの愛をもって生きていきたいと願います。そこには愛による勝利が与えられるのですから。イエス様の復活を喜び、私たちも新しい命に生かされ、神様と隣人を愛していきましょう。
[PR]
by higacoch | 2014-04-21 21:53 | ルカ

2014年4月13日

「恐がらなくていい」   エレミヤ 29:8~14、ヨハネ福音書 6:34~40
                               潮田健治牧師(泉教会)

 今朝、私がここに招かれたのは、東小金井教会50周年の節目を祝う企画の一環ということだそうで、50年間、教会を支え続けた会員の皆様に、まずは心からお祝いを申しあげます。そしてまた、この間、伝道に携わった先輩方がしてくださった労を思うと、深い感謝を感じないわけにはいきません。私は、神学校1年生の時、東小金井教会で研修させていただきました。春休みに結婚し、礼拝の後、小さな新婚旅行に行ったのですが、東小金井教会の皆さまから送り出していただいたのです。ですから、東小金井教会は、私たちの結婚生活のスタートにもなった教会なのです。
 さて、主イエスは「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」と言われました。
 灰谷健次郎という、児童文学者の作品で、『兎の眼』という小説があります。小学校の先生が、ハンガーストライキをしている。子どもたちに、先生は、昔、おなかをすかせてドロボーした日のことを話します。恐くて四、五回でやめたが、お兄ちゃんはドロボーが平気だった、と思っていた。兄が捕まって死んだとき、ボロボロになるまで持っていた『シートン動物記』を見て、先生は一生、後悔するような勘違いをしていた、と思った。お兄ちゃんの命を食べていたのだ。お兄ちゃんの命を食べて大きくなったのだ、と。人間は、他の人の犠牲を食べているという、命の理解の仕方を書いています。
 主イエスは言われたのです。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」主イエスの犠牲の上に、私たちは立っている。主イエスの命を食べて、人は生きる、ということです。その人は、「人間らしい命」に生きるのだ、と。
主イエスは十字架ではりつけにされた時、「渇く」「成し遂げられた」という言葉を残したとヨハネは言いますが、イエス・キリストが渇き、だから、あなたは決して渇くことがないと言われたのです。
  私は、昨年もまた東日本大震災の被災地に行く機会がありましたが、津波で児童がたくさん亡くなった、あの大川小学校にも行きました。庭に、津波で壊れたコンクリートの壁があり、卒業生が贈ったという作品が描かれていました。宮沢賢治の「雨ニモマケズ」です。(しかし津波には負けたではないか)という声が聞こえた気がして、帰ってからこの言葉は何を言っていたか、改めて調べてみました。
  「雨にも負けず/風にも負けず…そういうものに/わたしはなりたい」(原文はカナ)という「そういう者」とは、斉藤宗次郎という人です。小学校の教師のときに洗礼を受けたために「耶蘇」と呼ばれ、日露戦争に反対したことから、教育会から追放されてしまったのです。宗次郎は新聞配達店を始めますが、配る家の前で立ち止まっては祈り、地域の人々のためには献身的に働きましたから、ついに花巻では「名物買うなら花巻おこし、新聞を取るなら斉藤先生」と言われるようにまでなるのです。この宗次郎と知り合ったのが宮沢賢治で、彼をして「そういうものに/わたしはなりたい」と言わせたのです。
 その詩の中に、「南に死にそうな人あれば、行ってこわがらなくてもいいと言い、」とあります。これこそ、イエス・キリストを知る者の言葉ではないでしょうか。主イエスは、わたしがパンである。だから、あなたは決して飢えることなく、決して渇かないと、言われたのです。この方と出会った者の言う言葉だったのです。死ぬことだけではなく、人間には、様々な恐れがある。不安も、悲しみも、痛みも、押しつぶされるような思いにもなる。飢えるのです。渇くのです。人間らしさがいくらでも奪われていくのです。その時、十字架に犠牲としてその身をささげた方が、わたしは渇く、しかしあなたは決して渇くことがない、と言われたのです。これが、主イエスが命のパンであるという意味です。そうであれば、あなたはこわがらなくてもいい。
 斉藤宗次郎の生き方をうたった詩が、津波で68人もの命が失われた大川小学校の校庭の、津波でへし折れたコンクリートの壁に書かれていたのです。あの津波の中にイエス・キリストも、子どもたちと共におられたのだ、と証ししていたのです。押し寄せる津波の中から、「決して飢えることがなく、決して渇くことがない」、人間らしい命に生きる天に、主は引き上げてくださった、と。
 私たちは、何を恐れて、いろいろ工作し、企てているのか。確かに現実は、(たとえ津波はなくても)厳しすぎるものがあります。だからと言って、地震によってもろくも崩れ去る工作など、もう、しなくてもいいのです。ただ、「わたしがパンである」と言われる主イエスを信じる祈りの道を、ひたすらに歩み続ける者でありたいと願います。一生、後悔するような勘違いをすることなく。
[PR]
by higacoch | 2014-04-14 21:41 | ヨハネ福音書

2014年4月6日

「捨てた石が親石となった」 哀歌1:8-14、ルカ福音書20:9-19
                              
  今朝与えられた箇所はイエス様が話されたたとえ話です。読めば大体のことはわかります。ある主人が広大なブドウ園を作り、それを小作人たちに貸し出して、自分は長い旅に出かけました。そして収穫時を迎えたので、自分の僕を使いにやり、ブドウ園の収穫の取り分を納めるように伝えたのですが、小作人たちはよってたかって僕を袋だたきにし、何も持たせずに主人のもとに追い返しました。そこで主人は、別の僕を彼らのもとに送り、同じように収穫分を納めるように命じたのですが、今度も僕は袋だたきにされ追い返されました。そこで主人は3人目の僕を送りましたが、これまでと全く同じに追い返されました。主人は困り果て、ついに自分の息子を送ってみようと思いたち、愛する息子を送りました。しかし小作人たちは息子を見て、互いに論じ合ったとあります。何を論じ合ったのか詳しくはわかりませんが、ほぼこんなことを話しただろうと推測できます。それは続けて聖書に記されているように、彼らは「あいつは跡取りだ、あいつを殺せば、このブドウ園は我々のものだ」と話したのでしょう。人間の欲からでた結論でした。こうして息子を殺すことを決め、小作人たちは息子を殺害しました。「ブドウ園の主人は戻ってきてどうするでしょう。この小作人たちを殺し、ブドウ園での仕事をほかの人たちに与えるでしょう。」とイエス様は話されました。すると、聞いていた人々は口をそろえて「それは、ひどい。そんなことがあってはならない」と言って反論しました。するとイエス様は、旧約詩編の118篇(22節)に記されている「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」を引用されました。これを聞いたユダヤの上層部の律法学者たちは気づきました。学者たちは聖書の専門家であり、ユダヤの歴史にもよく通じていました。だからイエス様のたとえ話は、自分たちに当てつけたものだと気づいたのです。そこで彼らはイエス様の殺害へと駆りたてられました。
  律法学者たちはこの話がユダヤの歴史物語だと気づきました。このたとえ話では、主人は父なる神様、僕は神様が遣わされた預言者たち、小作人らはユダヤの指導者層の人々です。ブドウ園はユダヤの国、そして息子はイエス・キリストです。父なる神様は歴史の中で、何人も預言者をユダヤに送りましたが、ユダヤの指導者たちは一向に預言者の言葉を受け入れませんでした。受け入れるどころか、彼らを迫害し傷つけました。そこで神様は、最後に独り子のイエス・キリストを送り込みました。すると、小作人であるユダヤの指導者層の人々は、独り子イエス・キリストを捕えて、十字架刑上で殺してしまうという預言でした。
  ここでイエス様が引用した詩編は、この出来事をはっきりと示しています。家を建てる者はユダヤの指導者たちで、彼らが捨てた石はイエス・キリストです。これが隅の親石となったということは、神様がイエス・キリストを復活させて、人間に救いを与える、唯一の大事な石とされたことを表わしています。つまり、ユダヤの指導者たちが、こんな石は必要ない、邪魔だといって、捨てた石が、なんと彼らの知識と知恵を超えたところでなされる神様の救いの出来事だったのです。彼らが十字架で殺したイエス・キリストは、もっとも大事な石だったのです。
  ユダヤの指導者たちが救い主であるイエス・キリストを捨てたことは人間の罪の極点です。そしてこの時は同時に、神様の最大の恵みの時でもあります。つまり、神がこのイエス・キリストの死を通して、全人類の罪を贖い、救いを成就された時でもあるからです。これはまさに人間の知恵を超えた神の人間へのミステリーであり、また同時に、神の愛の最大の出来事でもあります。
[PR]
by higacoch | 2014-04-07 21:38 | ルカ