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2014年3月30日

『 荒れ野を行くあなたに 』
       イザヤ11:1~10、マルコ福音書 1:9~15

                    荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)

 荒れ野の誘惑の記事である。マルコ福音書版は、サタンの誘惑の中味を詳しく語るマタイやルカと比べると非常に短い。しかしここから汲み取ることができるものは非常に豊かである。
① 主イエスは洗礼の直後に誘惑を受けられた。「そしてすぐに」 荒れ野に導かれた。あたかもこの二つは1セットであるかのようである。洗礼の豊かな恵みの直後に、荒れ野の体験がある。そういうものなのである。我々は困難に直面すると「神から見離された」と思い、「この信仰は正しくないのではないか」と不安になる。しかし、誤解してはならない。神から遠ざかると試練に遭うのではなく、正しい道を行こうとすればこそ悪魔の妨害にあうのである。
② 「霊」がイエスを荒れ野に追いやった。ヘブライ書はこう記す。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」
 神の救いの意志が、イエスを荒れ野に送りこんだのである。本質的に無関係なものを救うことはできない。神が人となられたということは、苦しみ喘ぐ脆弱な存在に敢えてなられたということなのである。
③「40日間そこにとどまり」。40という数は、出エジプトの荒れ野の40年から来ているとみてよいだろう。4年ではなく40年、4日ではなく40日である。試練には長さがあるということだ。そう簡単には終わらない。だからこそ試練なのだ。しかし主イエスはそこにとどまられた、ということ。
④「野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」という不思議な表現。ユダヤ教の終末観が背景にあるのと聖書学者は指摘する。イザヤ書11章を想起せよ。サタンの誘惑を受ける荒れ野にあっても、そこに人知を越えた終末的な平和が見えており、神の守りがあったということ。荒れ野はサタン暗躍の場であり、試練の時であったが、そのさなかに、神の支えと守りを経験するということ。

 受難節の始まる灰の水曜日に、ヘンリ・ナウエンの言葉を友に教わった。「私たちの栄光は私たちの痛み苦しみの中に隠されている。もし私たちのその痛み苦しみの経験のうちに、神が、神御自身を贈り物として与えようと入ってこられるのを、受け入れるのなら。」(私訳)
 簡単に受け入れられる言葉ではない。痛みにおいて、我々は最も頑なになり拒否的になる。しかし神は、御自身を贈り物として与えようと入ってこられる。あなたが戸を開くのを待っている。苦しみ痛んでいるあなたに、「私はあなたと共にいたいのだ」と神が言われている。イエス・キリストという御方において。
 3年目の3月11日を前にして、『なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記』という本のことを思いだした。クシュナーという米国在住のユダヤ教ラビが書いた本だ。早老病という難病にかかった息子を14歳で失ったという方である。もう今までのような仕方では神を信じられないと、ヨブの苦しみを嘗めた。その苦悩の経過を率直に綴った手記である。最終章で彼は、ホロコーストを生き延びたあるユダヤ人のことを紹介している。戦争中の悲惨な体験の後、彼は南仏で財をなし、家庭を築き、再出発の人生は順調に進んでいた。しかしある日、山火事のため家も妻も子らも失ってしまう。気が狂うような苦悩に陥る彼に、人々は火災原因の追及をするべきだと迫った。しかしその人はそうはしなかった。残った財産を投じて、このような災害から自然を守るための運動を始めたのである。彼は未来に目を向けたかったのだ。「人生とは何かに敵対して生きるべきものではなく、何かのために生きるべきもの」と彼は考えた。ラビ・クシュナーも共鳴して言う。私もまた「なぜこの私にこんなことが起こったのか」から脱却し、目を未来に向け、「現状はこうなのだ。私はこれから何をすべきだろう」と問わなければならない、と。「苦難についての最も重要な問いは、それが誰の為のものか、ということです。私たちの苦難は神の為になるものなのか、それとも悪魔の為になるものなのか。私たちを活かす原動力になるものなのか、それとも道徳的麻痺状態に私たちを陥れてしまうものなのか。」(ドロテー・ゼレ)

 神様は魔法を使って苦難を消したりはしないだろう。しかし神は主イエス・キリストにおいて、まさに我々の苦しみ痛みの中で共におられ、我々がそこからいのちへと向かって歩み出すのを助けてくださる。荒れ野の40日の後、主イエスは「神の国は近づいた」と福音を告げ始められた。そして十字架の苦難の後、主は復活によって新しい命を示されたのである。
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by higacoch | 2014-03-31 13:08 | マルコ

2014年3月23日

「神の言葉はつながれてはいない」  
            イザヤ書63:7-14、テモテ二 2:8-13
                                
 先週の水曜日の午後、アメリカの伝道運営協議会の総主事であるイーディス姉を迎えて、三教会の特別集会が国立のぞみ教会で行われました。その会でイーディスさんは今アメリカの教会で少しずつ取り入れられてきた黙想の実践方法を紹介してくださいました。これはラビリンス(「迷路」の意)と呼ばれ、迷路の道を歩きながら黙想するのです。聖書の御言葉を深く味わうためのもので、一人でも教会でもできます。今回は詩篇119編1節から16節までを1人1節ずつ読み、黙想しました。これはカトリックや聖公会の教会で行われている祈りの道、特に、レントの時に行われるヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれているイエス様の十字架への道を辿りながら、祈りの巡礼をするものと同じようなものだと思いました。
 さて、今朝の聖書の箇所で、伝道者パウロが若き伝道者テモテに対して、手紙を送り、改めて福音を伝えているところです。パウロは「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と言っています。つまり、イエス・キリストのことを、しっかりと思い巡らしてほしい、さらに言うと、イエス・キリストのみに集中して欲しいということです。「福音はイエス・キリストがダビデの子孫であり、死者の中から復活された方だと言うこと、この福音のために私は犯罪人のようにつながれています。」と。そう言いつつ、彼がもっとも言いたかったことは、「しかし、神の言葉は、つながれていない」と言うことでした。当時パウロ自身はつながれていて獄の中でした。以前も獄中生活を強いられ、そうした中で手紙を書きました。それが獄中書簡と言われている、エフェソ、フィリピ、コロサイ、ピレモンの手紙です。しかし、このテモテへの第二の手紙も獄中から出されたもので、パウロが殺される直前の手紙だと考えられています。ですから、パウロの遺書と考えてもいいのです。
 さて、パウロと同様「神の言葉は決してつながれてはいない」と説教し、権力者と闘った人がいます。それは、マルティン・ニーメラーという人で、ナチスのヒットラーと闘いました。彼は強制収容所で説教しました。その説教集のタイトルが『されど、神の言は繋がれたるにあらず』です。死の危険を犯して語った6つの説教が収められていて、キリストの誕生、シメオンの歌、死に勝利した復活のいのちの希望などを説教しています。
 パウロはここでテモテに「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」と、書いています。このことはわたしたちにも語られていることです。この個所で、私たちが気になるのは、12節の後半です。そこには「キリストを否むなら、キリストもわたしたちを否まれる。」とあります。私たちは信仰生活の中でキリストを否むことはないのでしょうか。いや、あります。否む自分がいると思って苦しむ。パウロもこうした苦しみを味わったでしょう。しかし、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことはできないからである」と書いています。「わたしたちが誠実でなくても」ということは、「わたしたちが不誠実だ」ということです。何がわたしたちの不誠実でしょうか。 それはキリストを否むこと、これは罪です。だからといってキリストはわたしたちを見捨てられるでしょうか。私はあなたを知らない、と言われるのでしょうか。キリストは憐れみ深く、わたしたちを愛される方です。途中で愛想を尽かして、関係を断たれる方ではありません。キリストは御自身を欺くことができません。愛なる方ですから、見捨てることができないのです。「知らない」と言われません。キリストは、常に、真実であられます。わたしたちが不誠実であっても、キリストは真実であり、わたしたちを愛してくださいます。神様は愛なる方だからです。十字架の上でわたしたちを愛し、わたしたちの罪をゆるして下さいました。
 だからパウロは最後にテモテに、キリストに集中し、福音を語って欲しいと言っています。福音を語り、神の言葉を語って欲しかった、このことは私たちにも望まれています。どんな時代になっても福音を示す神の言葉を語っていかなければなりません。なぜなら、神の言葉は繋がれてはいないのですから。
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by higacoch | 2014-03-29 18:25 | テモテ

2014年3月16日

 「神を知る人とは」  詩編140:2-8、ヨハネの手紙一 4:1-6
                              
 今朝は、説教題を「神を知る人とは」と掲げました。与えられた聖書箇所の6節に「わたしたちは神の属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。」とあります。ですから、神を知る人とは、わたしたちに耳を傾ける人、わたしたちに耳を傾けない者は、神を知らない人だと言うのです。私たちとは、信仰者です。
 ここで「神の知る」とは「知る」「知らない」という知識として、事実を知っているとか、数学の公式を知っているとかと、言う類のものではありません。聖書には知識として知っている意味で使われている所もありますが、ここは、そうした意味ではなのです。ヨハネ福音書17章3節に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とあります。ここで、父なる神とイエス・キリストを知ること、これが永遠の命だと言われていて、「交わり」を意味しています。父なる神とイエス・キリストとの交わりに生きることが永遠の命なのです。
 こうしたことで、今朝の「神を知る」は、神との霊の関わりを語っているのです。1節に「どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出てきているから。」とあります。
 私は霊についてよく本を出している「幸福の科学」の創始者、総裁である大川隆法氏は、偽善者の一人だと思っています。大川氏は1981年に霊の力を受けたと言い、1986年に「幸福の科学」という宗教団体を創設しました。これまでの28年間の活動で、著書を649冊出版しています。単純計算すると1カ月にほぼ2冊を書き続けるということになります。そんな中で多いのが「誰々の霊言」という本です。たとえば「モーゼの霊言」「織田信長の霊言」「太閤秀吉の霊言」とか、最近では「黒田官兵衛の霊言」といったものもありますし、「イエス・キリストの霊示集」もあります。このように霊に関する本をたくさん出し、大川氏はあたかも霊界の世界に生き、霊界の人物と会話ができるような口ぶりです。私は、どうしても大川氏を信用できません。この人の霊の言葉は神様からの霊ではなく、人間の霊だと思っています。
 今朝の手紙を書いたヨハネは、はっきりと「イエス・キリストが肉となって来られたと言うことを公に言い表す霊はすべて神様から出たもの」と言っています。
 イエス様は、私たちと同じ人間(肉となった)になられました。そして地上をわたしたちと同じように歩まれ、私たちと共に歩まれました。だから、イエス様は人間の痛みを知り、苦しみを味わい、地上の悲しみを経験されました。しかも人々に仕えられる方としてではなく、仕える方として、かつ徹底的に仕えるものとして歩まれ、十字架の上で死んで下さいました。その死はイエス様が罪を犯し、その刑罰によって死刑にされたのではありません。そうではなく、すべての人の罪を背負い、その罪の赦しのために自らの命さえも捧げられたのです。1人1人が、それを受け止め、イエス様を私の救い主と信じることによって救われました。この救いの出来事を教えて下さる霊が真実の霊であり、神様からの霊です。もしイエス様のことを知らせない霊なら、それは真理の霊ではあり得ません。偽りの霊です。イエス・キリストの救いを知らせる霊は、信仰者を神の子だと言います。信仰者は、神によって生かされているからです。こうして神を知る人とは、神様に属する者とされ、神の言葉に耳を傾けて聴く人であり、かつ神との、イエス・キリストと交わりをして生きる人たちです。また神を知る人とは、神の愛を知り、その愛によって生かされている人たちです。だからヨハネは、神の愛を語るのです。その愛は、わたしたちの罪を償ういけにえとして死ぬことではっきりと現わされました。こうして神の愛がわたしたちすべてにささげられたのです。そして私たち(信仰者)を永遠の命に生かします。これはずっと生き続けることができるという不滅の命ではありません。罪赦され、生かされ、神とイエス・キリストとの交わりによって与えられる命です。この命の交わりよって、魂の最も深い所から、その人が生かされます。神の愛に生かされて、隣人を愛して生きようとしている人こそが、神を知る人なのです。

                             
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by higacoch | 2014-03-22 17:33 | ヨハネの手紙

2014年3月9日

「主の名を呼び求める者」  詩編66:13-20、ローマ10:5-13
                              
 3年前、震災後に中会の機関紙である「ぷれすびてり」133号では、震災をテーマに編集し発行されました。その中で丹羽先生が、ルカ福音書13章1~5節を取り上げて、「生き方を転換せよ」とのメッセージを書いて下さいました。先生はまず事故死は天罰ではないと書かれています。イエス様の時代、誰かが災害や不幸な出来事に遭うと、人々は神の裁きだと考えました。しかし主イエス様は真っ向からその考えを否定されました。
 今朝の箇所も、同じようなことが書かれています。心の中で誰が救われて「天に上るのか」と言ってはならない。そして誰が裁かれて「底なしの淵に下るのか」と口で言ってはならないとあります。そのように、心の中で誰かが救われ、誰かが裁かれると口に出したりするなと、パウロは戒めています。そうではなく、聖書にはどう書いてあるのかを知るべきだと言って、「聖書には『御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある』」と言っています。その御言葉は、神様がイエス様を復活させて下さったと言うこと、そしてイエス様が救い主だと告白することなのです。
 この箇所はとても大切な箇所です。洗礼の時、心に信じて、自らの口で告白し、その後に受洗します。パウロは、口で公に言い表すことを、短い中に二度も言っています。それは口で告白することは、とても重要で、しかも勇気が必要であったからです。この時代のローマ社会では「皇帝は主」だったのです。ですから「主はイエスだ」と告白する者は、捕らえられて、獄に投げ込まれ、殺されたりしました。そのような状況の中で、パウロは、コリントの教会に宛てた手紙に、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言えないと言っています。こうしたことはパウロの当時だけではありません。20世紀、第二次世界大戦の時、ドイツでは、主はヒットラーでした。日本でも天皇でした。これを否定する者は獄に入れられました。だから「イエスは主だ」いうことは命をかけたことだったのです。今は、いのちの危険は、ありませんが、でも何らかの抵抗があって、いじめられたりすることがあったりします。家族の中でも自分だけが信仰者だと、なかなか理解してもらえません。
 またこの箇所は別の面で議論が起りました。それはこの箇所がとても重要な箇所であったが故に教会に不和を生じさせました。それは「口で言い表す」ことが求められていましたが、言語障害の人、口の不自由な人、ものが言えない人たちにとっては、口で告白することがとても難しいことでした。そこで心で信じていても、いざ口に出せない人は救われないのか、という議論が出てきました。聖書の言葉通りに受け止めた教会は、言語障害の人に厳しい態度を取りました。しかし私はそうは思いません。大事なことは、洗礼希望者が心から神様がイエス様を復活させられ、イエス様がわたしの救い主だと信じる人なら、たとえ健常者のように口で告白ができなくても、その人の体や行動で告白を現わすなら、洗礼を授けるべきだと私は信じています。
 パウロは、主を信じる者は、誰も失望に終わることはないといい、さらに、具体的に、ユダヤ人とギリシア人との区別はなく、すべての人に同じ主イエス様がおられると語っています。主イエス様の名を呼び求める者であるなら、民族の枠を越えて、すべての人に救いが与えられます。だから、あなたもイエス様の名を求めて生きて行って頂きたいのです。イエス様の名を求めるということは、イエス様を信じて生きることです。ぜひイエス様の救いを信じて、洗礼を受けて、信仰の道を踏み出しましょう。そこにはつきることのない喜びと平安と希望がありますから。
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by higacoch | 2014-03-15 16:45 | ローマ

2014年3月2日

「重病人の行動」  詩編103:1-13、 ルカ福音書5:12-26 

 私は現在、歯の治療中です。イエス様の時代、歯の痛み、またちょっとした風邪などで熱が出たりしたなら、人々はどこに行ったでしょうか。それは現代と変わらず、医者に診てもらいに出かけました。聖書にも記述されていて、良く知られているのは、イエス様の言葉「医者を必要とするのは健康な人ではなく、病人である」です。また12年間出血が止まらなかった女性が、多くの医者に診てもらったが治して貰えず、全財産を使い果たした話があります。このように当時も医者は多くいました。
 しかし重病人は伝染を恐れられて隔離されました。当時はそうした施設が整っていませんでしたので、重病人たちは、人々が住んでいた町や村の共同体から追放されて山間に住まざるを得ませんでした。ほら穴か、小さな小屋での生活を強いられたのです。しかも人と会った時は「私は汚れたものです。汚れたものです」と大きな声で言わなければなりませんでした。このように重病人は人々の生活圏に入ることさえできませんでした。
 今朝の箇所では、そんな重病人がなんと町中にやってきています。イエス様が町の中におられた時、そこに全身重い皮膚病にかかった人がいたとあります。この人はイエス様のことを聞いて、イエス様の所にやってきたのです。ここには記されていませんが、こうした重い皮膚病患者が町中にやって来たなら、石が飛んできました。また「山に戻れ」と激しい言葉を投げかけられました。人間社会から追放され、否、人間社会だけでなく、宗教的にも神様から罰せられ者と言われ、神様から見捨てられた者たちと呼ばれていたのです。
 重病人の彼が、どうして人々から石を投げつけられても罵倒されても町中に、イエス様の所にやってきたのでしょうか。治りたいということもあるでしょう。しかしそれだけではなかった私は思います。もし治して頂きたかっただけなら、ルカはあえてこの人だけを取り上げて書かなかったでしょう。この福音書を書いたルカは医者でした。そのルカが注目して、この人を取り上げたのは、もう一つの重要な理由があったからです。それは、この人の信仰です。この人は、イエス様がただ病人を癒すだけの活動をされていたのではないことを知っていたのです。  
 イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と語り、福音を宣べ伝えておられました。この言葉をしっかりと彼は聞いました。人の国ではなく、神の国が近づいたこと、そのために、悔い改めて福音を信じること。これは、こうも理解できます。悔い改めて福音を信じて生きることによって、神の国の一人として生きることができる、と。この人は人の国では、排除され、人々から見捨てられて、言葉の暴力を受けていました。しかしながら、イエス様の「悔い改めて福音を信じなさい。」を聞き、神の国に生きていきたいと願ったのです。こうして彼は信仰によって行動を起こしました。この彼の信仰が込められた言葉が、「主よ、御心ならば」です。もし癒されることだけを求めていたのなら、「主よ、あわれんでください、癒してください」と願ったでしょう。しかし、彼はそうではなかった。「主よ、御心ならば」と深い言葉をイエス様に語っています。
 これを聞いたイエス様は、彼の信仰を受け止められました。そしてイエス様の方から手を差し伸べて、その人に触れて言われました。「よろしい。清くなれ」と。ここで「よろしい」と訳されているのは、ギリシア語で「私は望む、そうしたい」という強い意志を現わす動詞です。彼が「御心なら」と問いかけたのに、イエス様は、私はそうしたいと強く思われ、癒されました。
 私は「悔い改めて福音を信じる」こと、そしてイエス様の前に出ることが、どんな人でも新しい歩みを踏み出すことになるのだと信じます。人が自分の運命はこうだと信じ込み、周りからそうだと言われて、信じ込んでいるのなら、そこには新しい歩みはありません。神の国に生きるということは、人の世に縛られた生き方ではなく、イエス・キリストを信じて生きることです。そこに新たな道が備えられています。イエス様がこの世に来られたのは、私たちを滅ぼすためではなく、生かすためです。生きる喜び、力、希望を与えるために来られたのです。ですから、イエス様を信じて歩み出して頂きたいのです。イエス様の救いを求めて、イエス様に近づき、イエス様を見上げて、イエス様を信じて、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2014-03-08 16:02 | ルカ