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2014年1月26日

「あなたが心から聞いた時」  
           詩編111:1-10、ルカ福音書4:16-30

 
 今、私たちは礼拝を捧げています。このような礼拝が、ほぼ2千年前にも、父なる神様に向かって捧げられていました。その様子が今朝与えられているルカ福音書に部分的にですが、記されています。当時のユダヤ教の礼拝の式次第は、こうでした。招詞、モーセの十戒の朗読、信仰告白(申命記6:4-9)、十八連祷、モーセ五書からの朗読、解釈、賛美、預言書朗読、説教、賛美、祝福、施し(献金)。
 ルカは、こうした礼拝の一つ一つを順序立てて記してはいません。大事な所だけで、預言書の解き明かしを記しています。その日、選ばれた預言書はイザヤ書でした。会堂司はイエス様にイザヤ書の巻物を渡し、イエス様がそれを広げて、61章1,2節を読まれ、解釈ではなく、「聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と宣言されました。聖書の言葉が実現したということは、ここで読まれた一つ一つが実現したということで、「主の霊が注がれたのは、この私(イエス様自身)。主が遣わされたのは、この私。とらわれている人を開放するのは私。」と言われていることなのです。これを聞いた人々は驚愕しました。なぜならこれまで律法の教師から「終わりの日に聖書の言葉は成就する」と聞かされてきたのに、「今日、聖書の言葉が実現した」と言われたからです。これを聞いたナザレの人々の反応は、イエス様を誉めた人たちもいれば、イエス様を軽蔑した人たちもいました。
 ナザレの人たちは、イエス様を幼いときから見て、知っていた人たちでした。そうした目で見、理解していましたから、イエス様が言われたことを心から聞けなかったし、ヨセフの子じゃないかと軽蔑したと思われます。ナザレの人たちがイエス様に期待したのは、イエス様が他の町で多くのしるしをなされていたので、ここ故郷で、もっと大きなしるしをして下さることでした。こうした人々の心を知られたイエス様は、はっきりと言われました。「預言者は、故郷では歓迎されない。聖書の中にも記されているエリヤの時代、一人のやもめや、エリシャの時代のナアマン以外は、神に清められた者はいない」と。どちらもユダヤ人ではない、異邦人ですので、ユダヤには神を信じて生きようとしている者がいなかったと暗に言われているのです。実際、彼らはそうだったと思います。だから彼らは怒りだしました。会堂内にいた人々は皆、腹を立てて、総立ちになり、すぐにイエス様を会堂から追い出し、町の外に連れ出して山の崖から突き落として殺そうとしました。
 しかし、ここを良く見てみると、イエス様は「聖書の言葉は、今日、実現した」とだけを語られてはいないのです。「聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と語られています。「あなたがたが耳にした時」とは心から聞いた時なのです。聞くことが大事なのです。「耳にした時」は、ギリシア語の原文でいえば、「耳の中に」と訳せます。ですから「あなたがたが、あなたがたの耳の中に入れた時」、つまり、あなたがたが神の言葉を耳に入れた時、それは受け入れた時です。神の言葉である私(イエス様)を信じた時なのです。その時、あなた自身の中で、神の国が実現しているのです。イエス様は、ここ、ナザレにも神の国の到来を伝えたかったのです。 
 「あなたがたが耳に入れた時」イエス様を信じたとき、あなたは神の国に生きている、否、生かされているのです。このことが起こっているのです。今も起こるのです。
 教会は、聖書の言葉が読まれ、聞かれる場所であり、その言葉が聞かれた時が恵みの時なのです。私たちは、人生でいろんな経験をして、自分なりにある考えを持っています。その考えに凝り固まっている部分があります。その考えにとらわれています。見えているようで見えていないところがあります。圧迫されて、自由に考え、行動できないでいたりします。そしてどこかで、自分が考えていることがすべてだと考えて生きているところがあります。ナザレの町の人たちもそうでした。その彼らを解放するために、イエス様はナザレの町にこられ、救いの宣言をなされました。それほどにナザレの人たちを愛されたのです。
 ここに集われたみなさんも愛されているのです。ぜひ、イエス様の言葉を信じて、恵みの中に生きましょう。「神は、その独り子を賜る程、この世を愛されました。それは御子を信じる者が一人でも滅びることなく、救われるためである。」(ヨハネ福音書3:16)この言葉をこう言いかえることができます。イエス様は、あなたに恵みを与えるために、この世に来られました。それはあなたを恵みによって生かすためです。
 ぜひ、今年も、新しい人が一人でも多く、救いの恵みを受け、救われて恵みの年を迎えられますようにと祈ります。救いを求めてここに来られた方が、イエス様の言葉を心から聞いて、救われて頂きたいのです。
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by higacoch | 2014-01-30 17:13 | ルカ

2014年1月19日

「人生を変える招き」ルカ5:27-32
                    唐澤 健太 牧師(国立のぞみ) 

 昨年の秋、ラジオを聴きながら車を運転していたらプロ野球のドラフト会議が始まった。私の好きな広島は大瀬良という大学生No1投手を3球団競合の末、抽選で引き当てた。くじを引いた若林というスカウトは大瀬良投手が高校生時代から目をつけ追い続けてきた人だった。当たりくじを引いた彼は、「あまりの嬉しさに頭が真っ白で言葉が見つからない」とその喜びを語っていた。大瀬良投手も「誰よりも早くから自分に関心を寄せて、見続けてくれたカープに入れるのはとても嬉しい」とコメントを寄せていた。自分のことを本当に考え、関心を寄せている事が相手に伝わる「見方」があるのだと思う。
 主イエスは「レビという町税人が収税所に座っているのを見て、『わたしに従いなさい』と言われた」。ここにある「見た」という小さな言葉は、ちらっと目に入るという意味ではない。長時間かけて綿密に見る。すべてを見通す。そういう意味の「見る」という言葉。スカウトマンが関心を寄せる選手を長い時間かけてじっくり観察するのと同じ「見方」を意味する言葉だ。主イエスは徴税人のレビに関心を寄せた。そして神の国のドラフトに徴税人を指名されたのだ。
 徴税人はユダヤ社会の中で最も嫌われていた存在だった。支配国ローマの手下。異邦人と一緒に仕事をする「汚れた人」、そんなレッテルが徴税人たちには貼られていた。徴税人も徴税人でローマ帝国の巨大な権力がバックにあることをいいことに、必要以上に取り立てを行なうことが常だったようだ。民衆にしてみれば、徴税人はいいがかりをつけて金を巻き上げて行く「やくざ」のような存在でもあった。
 だから、徴税人とは食事の席を一緒にすることなど考えることはできないことだった(30節)。人々は、収税所の前を通る時も徴税人たちとは目を合わせないように通り過ぎたことだろう。それが収税所の前にある普通の光景だったのではないか。
 しかし、主イエスは違った。徴税人のレビを直視し、そして神の国の働きに加わるように弟子としてお招きになったのだ。当時の世の中の基準、常識で考えると選ばれる可能性がない者が選ばれた。これが主の驚くべき選びであり、神の選びである。
 レビはこの主イエスの招きが本当に嬉しかったのだ。だから「何もかも捨てて、イエスに従った。そして自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した」(29節)。レビはこの時、主イエスは自分に関心を寄せてくれていることが瞬時に分かったのだと思う。本気で自分を信頼し招いてくれていることが分かったのだ。それまで徴税人というカテゴリーでしかレビのことを人々は見てこなかった。「徴税人と罪人」という社会的な分類の中で埋もれていた一人の人間の声にならない叫びをレビは抱えていたのではないか。主イエスの招きはレビの人生を変えたほどの喜びの招きだったのだ。
 以前、東小金井教会が伝道集会でお招きした元祖便利屋の右近勝吉さんに、私は神学生として研修をしていた泉教会でお会いしてお話をうかがったことがある。右近さんはやくざとして、新宿界隈で粋がって生活をした。ある日、自分を見てにっこりと笑ってくれた人がチラシを渡してくれた。やくざの彼から顔を背ける人は多かったが、笑顔で話しかけてくれる人は誰もいなかった。彼は、その人の笑顔が見たく、チラシに書かれていた場所に足を運んだ。そこが教会であり、その人は宣教師だった。右近さんは教会で「やくざ」ではなく、「右近勝吉」という一人の人間として迎えられたことが本当に嬉しかった。やがてイエス様を信じ、変えられて何でも屋になった。声をかけられることで人生が変わるってことがある。
 この主イエスのまなざしと招きは今も私たちの人生に与えられている。私たちの誰もがこの世で立派であるからとか、優秀だから主イエスが招いてくださったのではない。むしろそのように自らを自負する者たちはファリサイ派の人々がそうであったように主イエスの招きを喜びの招きとして受け止めることができない。「わたしに従いなさい」という招きに喜びをもって従ったレビは自らの人生の飢え渇きを認めた人だった。この主イエスの招きこそがすべてであると受け止めた人だ。パウロもそうだった。そして何もかも捨てて主イエスに従ったのだ。主は今も私たち一人一人に関心を寄せ、そのまなざしを向けて、そしてそれぞれのところから「わたしに従いなさい」と招いておられる。神の国のドラフトにあなたも指名されている。
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by higacoch | 2014-01-25 16:51 | ルカ

2014年1月12日

 「わたしの愛する子」  ヨシュア3:1-17、ルカ福音書3:15-22
 
 アニメーション作家として有名な宮崎駿氏が、昨年の9月に公式引退の辞を発表しました。私はとても残念な思いがしました。アニメの製作場所であるスタジオジブリは、ここから近く、小金井駅の北口の梶野町であり、私は自転車でその脇をよく通ります。私は普段、映画をほとんど見ませんが、宮崎氏のアニメだけはよく見ました。その宮崎氏の引退会見でのインタビューと質疑応答を聞いていて、私の心に響いてきた言葉がありました。それは「思い入れのある作品に、こう言うメッセージを入れようとしていたことがあれば、そのことを教えて下さい」という質問に対して、「(私は)児童文学の多くに影響を受けてきて、この世界に入った人間です。ですので、基本的に子どもたちに『この世は、生きるに値するんだ』ということを伝えるのが根幹にあると思ってやってきました。今でもこれは変わっていません。」というものでした。宮崎氏は「この世は、生きるに値するんだ」ということを子どもたちに伝えることを大事にしてきたというのです。そうした思いをもって何本もの長編アニメーションを制作してこられました。宮崎氏は子どもたちに、この世に生きる喜び、生きる希望を与えたかったのでしょう。
 こうしたことを思い巡らしていたら、それとは異なるメッセージの作品を思い出しました。それは芥川龍之介の「河童」という小説です。この作品は河童の社会を通して人間社会に問い掛けていると私は思うのですが、その中で河童のお産の時、母河童のおなかの中にいる赤ちゃんに父河童は「おまえはこの世界へ生まれてくるかどうか、よく考えた上で、返事しろ」と何度も尋ねるのです。するとお腹の中の赤ちゃん河童は「僕は生まれたくありません。僕は河童的存在を悪いと信じていますから」と答えます。その答えは、この世に生きる価値、希望を見出せないというものです。この世に希望を持つのか、持たないのかの違いは、実に大きな問題です。その点、宮崎氏が「この世は、生きるに値するんだ」というメッセージを込めて作り続けたということは素晴らしいことだと思いました。
 聖書は、この世についてどう言っているでしょうか。ヨハネ福音書3章16節には「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。」とあり、この世は価値があるとか、ないとかを言ってはいません。そうした価値観を言うのではなく、神は、この世を愛された、という神の愛の行為を語っています。それも御子をお与えになった程の愛だというのです。私は、ここでの「世」というのは、ある方向に集中していくものだと思っています。それは、愛するということで考えたなら、人に向かうということです。ですから、ここでの世は「わたし」とか、「あなた」と言い換えることができます。神は「この私」を愛された、神は「あなた」を愛されたということができるのです。
 さて、今朝のルカ福音書の箇所はイエス様がヨハネから洗礼を受けられた所です。天が開け、聖霊が鳩のように降ってきてイエス様の上に注がれ、天からの声がありました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と。これはイエス様に注がれた言葉ですが、同時に私たちにも注がれている言葉だと私は思います。あなたは神から愛され、大事にされているということであり、あなたは生きる価値がある存在だと、神が語りかけて下さっているのです。しかも、あなたが、知恵があるからとか、才能があるからとか、ある条件のもとに愛されたというのではありません。あなたの存在を愛されたのです。かけがえのない存在である「あなた」を愛して下さいました。その恵みによって「あなた」は生かされています。
 現代の日本での養護施設の子どもたちは、親から虐待を受けている子どもたちが多いと言われています。そのような子どもの人権のためにもう25年位、働いてこられた坪井節子さんは、今、子どもたちの中に、「生きていたくない、死んだ方がましだと言って、自殺未遂をする子が多い」と言われます。自分が生まれてきて、生きているのは、親の迷惑だと思っている子が多いのです。そして「あなたに生きていて欲しい」という言葉をかけてもらっていない子どもが多いと言われます。こうしたことが言われて、もうずいぶん経っていますから、子どもだけでなく、若者も大人も自分をこの世の邪魔者のように考えているような人が増えてきているのではないかと私は思います。
 神は、「あなた」を愛されました。それは「あなた」が救い主イエス様を信じて、生きる喜びと見出し、神様から生かされる命に生きるためです。神は独り子を世にお遣わしになりました。それは、あなたが生きるようになるため、とヨハネの手紙にあります(ヨハネ一4:9)。神様によって愛された者として生きていき、自分を愛し、隣人をも愛していく歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2014-01-18 17:23 | ルカ

2014年1月5日

「なすべき礼拝」  サムエル記上1:12-28、ローマ12:1-8

 今朝与えられたローマの信徒への手紙の箇所で、パウロは「自分に与えられた信仰の度合いによって慎み深くあるべき」と勧めています。個人(私)に与えられた恵みによって生きなさいと言いながら、「私たちは、キリストに結ばれて、一つの体を形づくっており、各自は互いに部分であり、すべてが同じ働きをしていない」と言っています。一人ひとりは、同じ働きをしていないのだと。それは、私は私の恵みを頂いているけれども、私たちは皆、同じ恵みを頂いていないし、同じ働きをしていないと言うのです。そして、私の恵みは私だけのものとしていいと言ってはいません。一人ひとりの恵みは違うけれども、それはキリストに結ばれて一つの体を造っているのだ、と言ってから、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていて、あなたが預言の賜物を恵みとして受けているなら、信仰に応じて預言をしなさい。奉仕の賜物を恵みとして頂いていたなら、奉仕に専念し、教える賜物を恵みとして頂いているなら、教えなさい。勧めの賜物なら、勧めに精を出し、施しなら、惜しまず施しをしなさい」と勧めています。こうして、私という個人が、私たちという教会に組み込まれて、一つの体を造り上げていると言うのです。
 しかしパウロは、こうした「私」がそのままでいいと言ってはいません。変えられなければならないというのです。では何によって変わるのか、年が新しくなることによってなのでしょうか、心機一転して、変わらなければならないと言うのでしょうか、そうではありません。自分の知識や知恵で変わるのでもありません。またこの世にならってはなりませんと言いますから、この世の価値観、現代の歴史観によって変えられるべきではありません。今は、特に日本は、うさんくさい世になろうとしています。いつか来た道、戦争への道をたどるような歩みがちらちらしています。昨年の暮れに、特定秘密保護法案を現政府が強行採決しました。政府の暴走を感じます。国家の暴走を監視するためにある憲法、その精神に基づき、暴走を食い止めなければならないと思います。私たちは、世の動き、世の考えだけで、世にならって「私」を変えてはならないのです。「むしろ、何が神の御心であるか、何がよいことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを、わきまえるようになりなさい。」とパウロは勧めています。ここで自分を変えて頂くようにと言っていますが、神様によって変えて頂きなさいと言うのです。何が神様の御心であるのか、何が神様に喜ばれることなのか、が大事な視点です。
 私はここに深いメッセージがあることを最近読んだ本によって知らされました。それは宗教改革の時代に往復書簡した二人の手紙をまとめたものです。一人はカトリック教会のサドレート枢機卿(教皇の最高顧問)であり、他方は宗教改革者カルヴァンです。枢機卿は言います。「あなたは神が建てて下さった教会に対して、その教えは間違いだと言い、教会を混乱させています。どうしてそんなことをするのですか」と。それに対してカルヴァンは「私は教会の働きに対してすべて反対してはいません。ただ古代の教会が大切にして守ってきた大事なものをあなたがたは取り替えて、間違った教えを説いています。あなたが大切だという教会は、教会のためにあるのではありません。教会は神のためにあるのであって、教会のためだけを求めて歩むべきではありません。あくまで神のみ心を求めていくのでありますから、教会の言葉に従うのではなく、聖書の、神の言葉に従うのです」と答えています。こうしたことから言えるのは、何が、教会の御心であるのか、何が教会にとって良いことで、教会に喜ばれることなのか、ではないのです。何が神の御心なのか、何が神に喜ばれるのか、そこに尽きるのです。こうしたことで、何が、信仰者として大事なのかという時に、パウロは、それは礼拝だと言っているのです。それは礼拝で神の言葉を聞くからです。決して教会に喜ばれるように捧げなさいと言ってはいません。「聖なる」とは、神様の前にあってということであり、「生ける」とは、死んだように自分の考えに凝り固まっている心ではなく、変えられていく心を持ってということです。そして「いけにえとして」とは自分自身を神の前に差し出すように、神に捧げることです。これがなすべき礼拝なのです。
 礼拝と言うのは、ドイツ語で、ゴッテス・ディーンストと言います。直訳しますと、「神の奉仕」となります。これは神様が、まず私たちに仕えて下さったということです。まずイエス様が私たちの罪の贖いのために命を捧げて死んで下さったことです。その救いの恵みに応えて私たちは礼拝を捧げるのです。
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by higacoch | 2014-01-11 14:31 | ローマ