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2013年11月24日

「私と一緒に楽園にいる」
            詩編18:47-51、ルカ福音書23:35-43
                            
 先週、「やっぱり見た目が9割」という新書版の本を読みました。著者の竹内氏がいう「見た目」とは、単に外見的な美しさを意味しているのではありません。中心にあるのは、非言語的コミュニケーションです。つまり、言葉ではない目の動き、目の輝き、瞬き、また顔の表情、さらにしぐさなどによって発信しているもの、それが9割の情報を相手に伝えているということです。ですから、コミュニケーションの主たる手段と考えられている言葉、それは残りの1割程度の情報しか伝えていないというのです。心理学の面でも相手に伝達する情報の中で、話す言葉の内容そのものが占める比率は、7パーセントに過ぎないと言われています。
 この本を書いた竹内氏は、マンガ家で、ヒットしたマンガも書いている方です。今や、マンガは日本の社会に浸透していて、日本の出版物の3分の1がマンガであり、マンガが原作となったアニメは日本から世界中に輸出されているそうです。こうしたマンガの中では、言葉よりも顔の表情、目の書き方、文字の大きさや、形、それを斜めにして書いたりといういろいろな書き方で、言葉以上に読んでいる人に訴えているとのことで、この本でもかなりのページを割いて、マンガによる情報伝達力について書いています。このように、私たちが語る言葉、その言葉だけでは伝わっていないことが多いのです。これを裏返して考えれば、言葉だけでは信用できない、言葉ではなく、見せて欲しいということになります。
 まさに今朝の箇所は、人が「見せてくれ」「見ないと信じない」と叫んでいる所です。イエス様が十字架刑に処せられて、その十字架の周りには、マタイ、マルコ福音書の平行箇所をみると、巡礼者、民衆、ユダヤの指導者たちがおり、みなで十字架のイエス様を見て愚弄しています。そして、「十字架から降りてみるがよい。それを見たら信じよう」と彼らが語ったと記されています。この言葉も本当に見たら信じるというのではなく、非言語的なことを考えると、彼らは十字架のイエス様を見て、嘲笑い軽蔑し、憎んでいます。
 私はこの箇所を読む時、人間の深い罪を思わざるを得ません。自己中心的な、エゴのかたまりのような罪が、十字架の周りで、深くえぐられるように思うのです。しかし、そのような彼らをイエス様は、十字架に掛けられて苦しみで死んでいくような中で、赦しておられる。そして祈られたのです。「父よ、彼らを赦して下さい」と。それはどうしてなのか、それを考えると、その答えがこの後の二人の犯罪人のうちの一人に示されています。一人の犯罪人は、もう一人の犯罪人に「この方は、何も悪いことをされていない。」と諭し、今度は、イエス様に向かって「イエス様、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出して下さい」と願っています。この言葉は、もう少し説明を加えて言い代えると、「イエス様、罪を犯したこの私ですが、あなたが御国に行かれる時には、どうか、この罪人のわたしを、お忘れないならないで、思い出してください。」と言えます。罪を犯した私、こんな私ですが、どうか、よろしくお願い致します。この人は、自分の罪を知っています。犯罪人として刑の判決を受けて、処刑されようとしている、自分の罪を隠そうとしても隠しきれない、どんないい訳も言えないでしょう。
 苦しみながら祈られたイエス様は、その言葉や態度を通して犯罪人に語りかけておられるのではないでしょうか。イエス様は、その罪が赦されるとはっきりと断言されました。「あなたは、今日、わたしと一緒に、楽園にいる」と。「あなたは、地獄ではない。楽園にいる」。確かに言っておくといって、いわれた約束の宣言だったのです。
 イエス様は、罪人を憎まれ、見捨てられませんでした。むしろ、罪人に、遊女に近づいて行かれたのです。あなたがたが失っているものを、もう一度、回復するようにと、避けるのではなく、受け入れて愛して下さったのです。
 伝道者パウロは、こう言っています。「神は、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、一切の罪を赦して、キリストと共に生かして下さったのです」と。そうです。イエス様は、あなたを愛されたのです。罪に死んで義に生きるために、神様の愛によって生かされていくようにと。
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by higacoch | 2013-11-30 17:05 | ルカ

2013年11月17日

 「人はみな神によって生きる」 
       出エジプト3:1-15、ルカ20:27:40     
                      関 伸子 伝道師(高座教会)


I. 『天国についてのすべて』
 今年の夏頃、『天国についてのすべて』という表題の、信仰に関する本を読みました。クリーフトというアメリカのボストン大学の哲学の先生が書いた、天国についての書物です。天国はおもしろいところか、それとも生真面目なところであるのか。天国に行くと、私たちはどのように年を取るのか。小さな子どもが死んで天国に行くと、いつまでたっても子どものままなのか。天国に動物もいるのか。そうした質問に丁寧に答えています。
 この書物の特色は、ユーモアに溢れているところにあります。こんな話が登場します。イギリスでのことですが、ある牧師に、友人の牧師が、「いったい君は死んだらどうなると思うのか、自分の死後に何を期待しているのか」と聞いた。その牧師はこう答えた。「そうだね、おそらく自分も永遠の祝福に入るだろう。しかし、何も、今そんな陰気な話題を持ち出さなくてもいいではないか」。著者は言います。牧師が、こんな考えだから現在の教会に喜びがないのではないか。天国の祝福を語る時に、そんな陰気な話題はよそう、などと牧師が言えるのかと問いかける。なぜこの人がこういう書物を書いたか、それは明らかに理由があるようです。初めのほうにこういう文章が出てきます。「退屈こそ、信仰の最大の敵です。愛の最も大きな敵が憎しみではなく、無関心であるように」。
II. サドカイ派の人々とイエスの問答
 主イエス・キリストが地上の生活をしておられる時に戦われた、その戦いもまた、退屈になった信仰ではだめだということ、そのことをめぐってであったと思うのです。退屈でない生き方、退屈でない信仰を獲得するということは、主イエスの、その救いのみわざによって生かされている者となる必要があるのです。主イエスの受難週における記事には論争が多くあります。サドカイ派の人々はレビラト婚の規定(申25:5)を用いて、イエスの復活の有無を問います。レビラト婚とは、子どものいないやもめがその義兄弟と行うことのできる結婚のことです。この議論もまた、なるほど筋が通っているようですが、子どもも与えられないまま、夫を失ってしまう妻に対する同情のひとかけらもない。いったい、人間の生活において、ただおきてに書いてあるからといって、まるで子どもを生む機械のように、次から次へと夫を取り替えてしまうことがあり得ることなのだろうか。そういう想定をすることが、どれだけ非人間的なことであるかということに、サドカイ派の人々は少しも気づいていないようです。子どもを得られないというところから生まれてくる夫婦の苦しみや悲しみについて、何も語られていないし、死によって次から次へと夫を奪われていく者の恐れや悲しみについても何も考えていない。律法、法律、あるいは、何らかの原則を立てようとするとき、私たちもまた、しばしば、同じような非人間化を繰り返すものです。これは、私たちが、サドカイ派の人々を笑ってすますわけにいかないものです。
III. 人はみな神によって生きる
 しかもそれだけではありません。このサドカイ派の人々が犯している、もう一つの、むしろ、もっと大きな過ちは、おきてが定めているような人間の世界が、そのまま、どこまでも続くと思い込んでいるということです。めとったりとついだりして血筋を保って生きる。甦りの世界、死を越えた世界においても、なお依然として、そのような血筋だけを守り続ける生活が続くのが当然と思い込んでしまう。それしか見えなくなっている。もっと別の可能性、別の世界があるということに気づかなくなる。それに対して、主イエスは明確にお答えになっています。主イエスの答えは長いものですが、その最後の結びの言葉になっている38節の、「すべての人は、神によって生きている」、ここにすべてが集約されています。人はみな神によって生きる!
IV. 生きている神に仕える
 35節に、「次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々」とあります。この「ふさわしい者」というのは、「復活にあずかるのにふさわしい者と認められた者」という意味です。36節には、「復活にあずかる者として」という言葉があります。これは、原文のギリシア語で読みますと、「甦りの子であるがゆえに」というのです。「甦りの子であるがゆえに神の子」というのです。「この世の子ら」には死があるので、子孫を通して自分が生き残れるように、結婚をして子どもをもうける必要があります。しかし、「死者の中から復活するのにふさわしい」者はもはや死ぬことがないために、めとることも嫁ぐことも不要になります。主イエスご自身が、お甦りになりました。その甦りのいのちにふさわしい者として、私たちを、いま生かしていてくださいます。この「甦りの子」はまた「天使に等しい者」であると主はいわれます。天使のごとく、神に遣わされ、神に仕えることに専心する。自分を生かす神のいのちを信じているからです。そういう人たちにとっては、退屈な生活などあり得ないでしょう。仰ぐべきものが見えてくる。仕えるべきものが見えてくる。そのように退屈を知らず、いきいきと生きる天使のようになる。
 主イエスがサドカイ派の人々に求めたのも同じことです。こんな退屈な議論は、さっさとやめよう。人はみな神によって生きる。生きておられる神に仕えよう。その時、あなたたちは、永遠のいのちに生きることができる。それ以外に、真実に人間が生きる道があるか、との問いかけに応える者でありたいと思います。
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by higacoch | 2013-11-23 17:15 | ルカ

2013年11月10日

「神の救いを仰ぎ見る」     詩編105:1-11、ルカ福音書3:1-14
                            
 最近、食材偽装問題が取り沙汰されています。三越伊勢丹ホールディングズの9つの施設に入る飲食店14箇所で、52のメニューで表示と異なる食材を使っていたと新聞に載っていました。他にも大手百貸店、高級料理店でメニューの表示と違う、もっと安い食材が使われていたということがありました。いずれも、会社の重役たちが「大変申し訳ありませんでした。」と深々と頭を下げ、お詫びしている映像が、何度でもテレビに写し出されました。こうした食品偽装は、今に始まったわけではありません。これまでも何度となく、深々と頭を下げて、挨拶するのを見ました。このように、人間社会には、偽りがはびこっています。
 さて、今朝のルカ福音書にも、偽っていた人が記されています。それは税金を集める人です。彼らは同胞のユダヤ人からごまかして多く税金を徴収していたのです。そのような時代に、一人の預言者が現れて、荒れ野に流れるヨルダン河で、激しい怒りモードで説教をしました。その預言者ヨハネの所に多くの人がやってきました。彼は、その人たちを容赦なく「蝮の子」と呼び、罪の悔い改めの洗礼を迫りました。ヨハネの説教は、人々の心に深く突き刺さりました。「では、私たちは、どうしたらいいでしょうか」と人々はヨハネに問いました。そこでヨハネは「あなたは、こうしなさい」と具体的に教え示しました。ここには代表的な三つの例を上げてあります。
 このことはずっと以前に預言者を通して語られたと言って、預言者イザヤの言葉が記されています。「荒れ野で叫ぶ声がする。」その声はこう言う。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と。ここには、ヨハネの後から来られる方、イエス・キリストによってもたらされる出来事が預言されています。「谷はすべて埋められ、山と丘は、みな低くされる。曲がった道はまっすぐにされ、でこぼこ道は平らになり」とありますが、これは単なるインフラ整備ではなく、たとえて語られているのです。それは、イエス・キリストが、高慢な者を低くされ、偽りの人間を悔い改めさせ、戦争の道を平和の道にされるということ、そして皆が神様の救いを見ることになると語っています。神の救いを見るかもしれない、とか、将来いつか見るであろうと言ったのではないのです。人は皆、すべての人が神の救いを見るとはっきり言っています。まさに現実の出来事として見るのです。ヨハネは自分の後から来られる方が、救い主メシアであると明言しました。そして、そのメシアの救いは、ある一部の人だけしか与えられないとか、社会の指導者たちにしか与えられないのではなく、皆に与えられる、と言ったのです。
 イエス様の救いは、ある特定な人に与えられ、ある人には与えられないというものではありません。ここで言うのなら、奪っていた人、ごまかして税金以上の税を取り立てて、私腹を肥やしていた人、軍の力で恐喝していた人、そのような悪い人にも、救いは用意されているということなのです。それはヨハネが言う後に来る人が、救い主イエス・キリストであり、神がこの世に送られた方だからです。そういう面でヨハネは、最後にメシアが来ることを人々に伝えた、最後の預言者だったのです。救い主の出現は、預言者イザヤもエレミヤもその他の預言者も語っています。旧約聖書に出てくる預言者は、メシアなる救い主を預言しました。そのメシアこそ、私たちの救い主イエス・キリストであり、イエス・キリストこそ、皆のために来られた救い主なのです。
 今朝の聖書の箇所では、その時期が、どのような時代なのか、歴史上の時代背景をできるだけ詳しく、人物名を挙げて現わしています。このことはメシアであるイエス・キリストの誕生は、架空の出来事ではなく、歴史上の出来事であると示しています。神が、御子イエス・キリストによって救いを、実際に与えて下さったと記しているのです。
 イエス・キリストを信じる人は、救いを仰ぎ見る、救いを事実として与えられて生きることができます。これは、皆に開かれた神様が与えて下さった恵みなのです。救いを求めておられる方は、神の救いを仰ぎ見て、イエス様の救いを信じて、イエス様を信じて歩んで欲しいのです。一人でも多くの方が、救われて欲しいと願います。
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by higacoch | 2013-11-16 14:39 | ルカ

2013年11月3日

「多くの罪があっても」 創世記9:8-17、ローマ 5:12-21
                           
 今年、ハイデルベルク信仰問答が世に出てから450周年を迎えて、先月記念講演会が行われました。この講演を聞き、改めて「ハイデルベルク信仰問答」に教えられました。この信仰問答の第一の問いはこうです。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」答えは「私が私自身のものではなく、体も魂も生きるのにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」この問いから始めて、最初は「人間の悲惨さ」についての問答があります。ここでは、人間の罪を問うのです。私たちは、人の前に立ち、人々の間だけで生きているものではありません。神の前に立って生きているのです。だから、神の前に生きる者として自らの生き方を問うのです。
 その点、今朝の聖書箇所は、そうした生き方をしている人にとって重要な所です。神様の前に生きようとしている者にとって自分の一番惨めな問題は、私たちの罪の問題です。伝道者パウロは、まずどうして人が罪を犯すようになったのかと言う問いに対して、それは「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」からと言っています。
 ここで二つのことに注目したいのです。一つは、「入り」と言う言葉です。12節には、罪が世に入りと、罪によって死が入りとあります。入るということは、それ以前はなかったことです。以前は罪も死もなかったのです。ここでの死は肉体的な死であり、霊的な死でもあります。そのように入ってくる前は、罪もなく、死もなかったのです。人は神の形に似せてよいものとして創造されていました。そこには罪も死もありませんでした。しかしながら、アダムに罪が入り、その罪が入ることによって、死も入ってきたのです。こうして、人は罪を犯すようになり、死ぬものとなりました。これはずっと昔の話ではありません。罪の出来事は今の私たちにも身近なことであり、現実の出来事です。現に私たちは今も罪を犯します。全く罪がないというのなら、私たちは自らを欺いており、私たちの内に真理はありません。
 もう一つは、「すべて」ということです。この「すべて」も12節に罪と同じように、二度も語られています。死は「すべて」の人に及んだ、「すべて」の人が罪を犯した、とあります。これは誰もが罪を犯し、すべての人が死ぬようになったということです。こうして罪は、すべての人には無関係ではないということです。
 神様は、罪が入った、死ぬようになってしまった人を見捨てられませんでした。放置されませんでした。神様は、憐れに思い、御子なるイエス・キリストをこの世に送って下さいました。伝道者パウロは、このキリストがこの世に送られたことは、恵みの賜物であって、罪とは比較にはならない、比べることができないほどに大きなものだと言っています。そして18節では、12節の「罪」と「すべて」に対応するかのように、「一人の正しい行為によってすべての人が義とされて命を得ることになった」と語っています。今や、すべての人が死ぬのではなく、すべての人が命を得るように変えられています。だから、恵みの賜物は、罪とは比べ物にならないほどに素晴らしいものだと語っているのです。
 そして16節には、「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても無罪の判決が下されるから」とあります。ここには「多くの罪があっても」とあり、「多くの」とは、ユダヤ的な表現では「すべて」を含んでいます。
 そうした関連の箇所を取り上げますと「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)は、すべての人の身代金ですから、イエス様は、すべての人のために死んで下さったのです。こうしたことが解ると16節の「恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるから」というのは、「恵みが働くときには、いかにすべての罪があっても無罪の判決が下されるから」と言えます。パウロは、このことを言いたかったのです。イエス・キリストが与えて下さった恵みの賜物は、罪とは比較にならないほどに大きい。そして、どんな罪を犯していたとしてもその罪は赦されるという恵みです。神の前にあって罪を悔い改めてキリストを信じて生きる者は、どんな罪をも赦されるということです。
 私たちは、そのキリストの福音を伝えるために、隣人よりも先に救われたのです。私たちは小さくても、神様を愛し、隣人を愛して、恵みの賜物であるキリストの福音を伝える務めを果たしていきましょう。
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by higacoch | 2013-11-09 16:26 | ローマ