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2013年9月29日

「使いなさい」 ルカ福音書 12:13-21   
                       荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)
 

 群衆の中から、イエス様に助けを求めて訴えてくる人がいる。何かと思えば、遺産問題で兄弟ともめているらしい。自分にも遺産を分けるよう言ってほしいという。
 なぜイエス様にそんなことを?おそらく彼の頭の中は、遺産相続でいっぱいだったのだろう。「最近評判のイエスという人なら、強力な弁護者になってくれるだろう」というわけだ。イエス様が説教しておられた「神の国」なんてまるで関心がない。神の国じゃなくて、金の国、である。
 遺産問題って不思議だ。なかったらないで、それで問題なく満足して生きていた人間が、それがあるのにもらえないということになると、「絶対にゆるせない」と思う。「ない」ことに猛烈にこだわるようになってしまう。初めから遺産がなければ、なんということはない。しかし「ある」となると、「自分が正当にもらえない」というその欠けが肥大化して、それこそが人生の最重要問題というまでになってしまう。
 イエス様は、「私はその遺産分割の裁定をする気などまったくないよ」とあっさりそのリクエストを却下して、譬えを話し始められる。

 単純な譬えである。金持ちの畑が、倉に入りきれないほどの豊作だった。どうしよう。もっと大きな倉を建てて、そこに穀物や財産をみなしまおう。ああ、これで安心だ。
 自分がこの金持ちなら、同じことをするのではないかと思えるような譬え話。しかし、彼の発言を注意深くみると、問題点が浮かび上がってくる。直訳すればこんな感じだ。「私はどうしよう。私の収穫を私が納めるべき場所を私は持っていない。・・・私は私の倉をこわし、私はより大きい倉を建てよう。そして私はそこに私の全穀物と全財産を納めよう。そして私は私の魂に言おう。・・・」
 彼の言葉はすべて独白。神への祈りはなく、周囲の人への相談もない。彼の視野には神も隣人も入っていない。彼は自分のために生き、自分にだけ語り、自分を祝福する。彼は自分の魂に自分で恒久安全保障宣言をする。しかしそれは虚しかったのだ。
 愚かな金持ちは、何をしたのか。彼は豊作を死蔵したのである。神はそのことを問題とされる。なんのための豊作か。分かち合うためではないか。「わたしの豊作」ではないはずだ。なぜ貴重な豊作を、「わたしたち」のために活かそうとしなかったのか。
 コリントの信徒への手紙二の8章に、エルサレム教会支援募金の話しが出てくる。 パウロはマケドニアの信徒たちのささげものについて証しする。マケドニアではキリスト者への迫害が厳しく、教会はとても貧しかったのだが、自分たちから進んで、エルサレムで困窮している兄弟姉妹への援助を申し出たのだった。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」。貧しさが溢れ出て豊かさとなる?とても不思議なことだが、しかしそれが事実起こったことだった。愚かな金持ちが豊作を与えられながら、まったくそれを活かせないままに死んでいったのと対照的ではないか。
 募金活動が頓挫していたコリント教会の人たちにパウロは、「自分が持っているものでやり遂げなさい」と勧める。そう、「自分が持っているもので」なのだ。あなたには持っているもの、神の託されたものがある。それを活かしなさい。それは言い換えれば、あなた自身をフルに生きよ、ということではないか。我々にも「持っているもの」がある。なのに「持っていない」もののことばかり気にして、「これがないから」と言い訳をする。ないものを嘆く前に、持っているものを本当に活用しているだろうか。半分も、いや一割も活かしていないのではないか。
 フルに使ったら自分が空っぽになってしまう、と言うかもしれない。確かにそうだ。でも空っぽになったら、神が新たなものを与えてくださるのではないか。マケドニアの諸教会の人たちは、そういう恵みを経験したのだ。
 使いなさい。主はあなたにそう言っておられる。あなた自身をフルに使いなさい。使って大丈夫だから。
 星野富弘さんがこんな詩を書いている。プリムラ・マラコイデスという花の絵に添えられた詩だ。
新しい命一式
ありがとうございます
大切に使わせて頂いておりますが
仕舞いこんでしまうこともあり
申し訳なく思っております
いつもあなたが見ていて下さるのですし
使いこめば良い味も出て来るでしょうから
安心して思い切り
使って行きたいと思っております

 遺産相続のことで頭がいっぱいになっていた人に、イエス様の譬えはどう響いただろうか。もし彼がそれを真剣に聞いたのなら、彼の人生の問題は、得られない遺産のことではなく、今彼が持っているものをどう使うか、ということになったはずです。
 主はその人に、そしてあなたに、「使いなさい」と言っておられるのだ。
「あなた自身をフルに使いなさい」。
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by higacoch | 2013-09-30 09:32 | ルカ

2013年9月22日

「共にいてくださる」  詩編23:1-6、ヨハネ福音書14:1-3
                           
 私は神学校を卒業して23年牧師として仕えた後、2年間老人保健施設で介護職員として働きました。その後も高齢者施設でパートの仕事を3年して介護福祉士の資格を取得しました。そして現在、教会でデイ・サービスを行っています。こうしたことから「婦人の友」社から原稿を依頼されて高齢者のことを書きました。特に認知症のことを書かせて頂きました。その時、高齢者の認知症はサンマの問題だと書きました。サンマと言っても秋の味覚の秋刀魚ではありません。サンマと言うのは三つの「間」のことで、時間、空間、人間の三つです。最初は「時」です。介護関係で認知症を調べる長谷川式認知症診断テストというものがあります。その最初の質問は「お年は、おいくつですか。」、次が「今日は、何年の、何月、何日ですか?」と時間的なことを聞きます。自分が何歳なのか、今日が何年、何月、何日なのか、解らなくなります。次は空間の問題で、先程の長谷川式でも、第三問で「ここはどこですか」と聞きます。今、自分がどこにいるのか、解らなくなります。老人の徘徊問題がとりざたされていましたが、それは自宅等へ帰りたいとの願いから、施設を出て家へ帰る道を探すのですが、道が解らないのです。その結果として、徘徊していると言われてしまいます。次は人間です。これは自身の子どもも解らなくなってきます。最初は解りますが、だんだん解らなくなってきます。そして、ある日、実の娘に対して、「あなた、だーれ?」「施設の方?」となります。このように認知症になると、三間がおかしくなってきます。 
 また、昨今の高齢者問題として考えたいのは、孤独、そして孤独死です。今では一人暮らしは若年、壮年の独身者よりも高齢者の一人暮らしが多いのです。人は、誰しも一人で生まれ、そして一人で死んでいくのです。人生のどこかで孤独を感じることがあるでしょう。それがいつなのか、それは人によって違うと思います。
 そのような中で、ぜひ、今朝与えられている聖書の言葉を思い起こして頂きたい。詩編23篇、この箇所は多くのキリスト者に愛されている聖書の箇所の一つです。私も高齢者の方を訪問した際には必ずと言っていい程ここを読みます。この詩編は神様が私たちを見守って下さり、訓練し、育てて下さり、何よりも共にいて下さると歌われています。1節の「主」は神様です。羊はわたしたちです。4節には、「死のかげの谷をゆく時も、私は災いを恐れない。あなたが私とともにいて下さる。」これを、もっと身近にいうのなら、「神様が、どんな時も共にいる」という確信からの言葉なのです。神様が「共にいて下さる。」皆さんは、ご存知でしょうか。クリスマスの時にイエス様の誕生をお祝い致します。そのイエス様の別名はインマヌエルと言います。このインマヌエルとは、「神様が私たちと共にいて下さる」という意味なのです。
 先程、私は「婦人の友」に認知症のことを書きましたとお話ししました。実はその最後の部分をお話ししていませんでした。それは私たちにとって最も切実な問題があったからです。三間の問題として三番目に人間の問題がある、親子の関係も解らなくなると話しました。しかしこれはもっと考えると、人間の関係だけでなく、神様との関係も解らなくなるということなのです。若い時、教会に熱心だった母、認知症になって娘の私のことも解らなくなってしまった。それと同様、神様のことも解らなくなってきてしまいます。母にとって神様ってなんだったのだろうか、認知症になって私のことも解らないように、神様のことも解らないようだと思われるかもしれません。実際、神様のかの字も言わなくなった信仰者もいらっしゃいます。もう聖書の言葉も神様に祈る言葉もちっとも口にのぼることはない人もいます。そのような人を私たち人間の側からみれば、元の黙阿弥ではないか、結局、何にもならなかったと言われてしまうことがあります。
 しかし、覚えて頂きたいのです。認知症の人がそうなったとしても、神様まで認知症になられるのではありません。神様は詩編23編で歌われているように共にいて下さいます。たとえ私たちは神様が解らなくなっても、神様は私たちを見捨てたりされません。新約聖書のローマの信徒への手紙8章で「死も、命も、現在のものも、未来のものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことができない」とあります。ここには認知症も含まれています。だからその人がたとえ認知症となって神様のことが解らなくなったとしても、神様の愛から切り離されることはないのです。
 ですから、天に先に召された人は神様と共におられると信じています。また私たちが天に召された時も、天国でイエス様が私たちと共にいて下さると信じます。召された方がたが、神様と共におられることを確信して、神様に感謝して祈りましょう。また私たち自身も、たとえどんなことがあっても、死を迎えても、神様が共にいて下さっていることを信じて、イエス様を見上げて、今生かされている人生を歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2013-09-28 17:57 | 詩篇

2013年9月15日

「栄光の希望」   詩編43:3-5、コロサイ1:21-29

 今日は礼拝後に、敬老感謝会をします。この感謝会は、敬老の方に感謝をするのが、第一ではありません。第一は、神様に感謝します。それは、ご高齢の方々の人生にいろいろなことがあったとしても、長寿は神様の恵みであるからです。今日も生かされているということは、本当に、神様の恵みなのです。伝道者パウロも、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」と言っています。パウロの言うのはただ年齢的に、長生きしたということではないのです。ここまで、いろんなことがあって生かされてきたという思いが含まれた言葉でしょう。
 パウロにとって、人生の前半はユダヤ教徒の熱心な信者として、ユダヤ教の教えを惑わすキリスト者たちを捕まえて、キリスト教を抑えようと必死な人生でした。そのパウロが、復活のキリストと出会い、キリストによって変えられていきました。ここで大事なことは、パウロはキリスト教に出会ったのではありません。キリストに出会って変えられたのです。皆さんも、キリスト教に出会ったのではありません。今も生きて働かれるキリストに出会って変えられていらっしゃいます。いいえ、私は、キリスト教に出会ってと言いたい方がおられるかもしれません。それは、キリスト教に触れてです。キリスト教に触れただけで、キリストを信じることはできないからです。
 また感謝会をするのは、年配の方々に感謝を現わすためです。私がここに赴任したのは2006年4月でした。それ以前の礼拝には、いつも礼拝堂の前の席に、ご高齢の仲良し三人姉妹が相並んで礼拝を守っておられたとのことでした。このように神様を愛して礼拝を守り、教会を愛して交わりを大切にし、教会のみんなに信仰者の模範を示して下さいました。こうしたことに私たちは感謝をささげます。そうした方々が若い時から教会に仕え、教会を愛して奉仕してきて下さったことを覚え、感謝します。
 さて、今朝与えられた新約聖書の箇所に、「福音の希望」、「栄光の希望」という言葉があります。「皆さんにとって『希望』はなんですか?」と聞かれたら、どう答えられるでしょうか。希望は、こうなって欲しいというようなわたしたちの個人的な願望のようなものでしょうか。聖書の中でこの「希望」という言葉は、圧倒的にパウロの手紙に多く出てきます。このコロサイの信徒への手紙もパウロのものですが、4回出てきていて、そのすべてが第1章に出てきています。5節に2回出てきますが、「あなたがたのために天に蓄えられている希望」また「あなたがたは既に、この希望を福音という真理の言葉を通して聞きました」とあります。あとの2回が、今朝の箇所です。   
 またパウロは、「私は、あなたがたのために苦しむことを喜びとしている」と言っています。これは普通では考えられないことです。私たちは苦しみを避けたがります。苦しみたくないのです。あえて苦しむのは、将来、自分にとって価値あるものを勝ち取ることができる時で、そうした時には、苦しみに耐えるでしょう。たとえば受験生は苦しんで勉学に励みます。それは念願の大学に合格したいためです。自分にとっての喜びのために、将来に喜びが待っていると信じて、苦しみに耐えるのです。では、パウロもそうなのでしょうか。自分のために苦しむのでしょうか。そうではありません。パウロは「あなたがたのために苦しむことを喜びとしている」と言っています。自分のための苦しみではないのです。「あなたがたのために、隣人のため」です。 
 神様は御言葉を伝えるという務めをパウロに与えて下さいました。だからパウロは教会に仕えたのです。そして伝える内容は、秘められた神の計画であって、すべての人にとって、どれほどの大きな希望があるのかを知らせようとしました。「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望だ」と言っています。だから、私パウロは必死になって、このキリストを伝えている、そしてそうしているのは、私の内に働くキリストの力によって、人々のために闘い苦しんでいるとのべています。
 パウロはこのようにしてまでも、栄光の希望、キリストを伝えています。そうせざるを得ないように神様によって押し出されているのです。なぜなら、この希望は、神の栄光を現わすものであり、すべての人に与えられているからです。神様が与えて下さった確かさ、平安、生きる喜び、生かされている確信だからです。
 今日は敬老感謝会をします。長寿は神様の恵みでありますが、生かされていることを覚え、天に蓄えられている希望を抱いて、信仰の道を全うして頂きたいのです。今、生かされている高齢者の方々に、そして皆様も、確信をもってキリストによる平和の希望を抱いて生きていって頂きたいのです。そして神によって生かされていることを証しして頂きたいと願うのです。
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by higacoch | 2013-09-21 18:55 | コロサイ

2013年9月8日

「ただ一度」  出エジプト12:21-27、ヘブライ9:23-28 
                             
 今朝は、説教題を「ただ一度」とつけました。私たちは、「ただ一度」では気が済まず、もう一回、いやもう一回と繰り返すことがよくあります。子どものゲームや大人のパチンコなどがそうでしょう。しかしこの「ただ一度」はそうではなく、唯一の一度だけで、すべてが現れ、すべてが成就したという「ただ一度」なのです。
 この「ただ一度」は、今朝のヘブライ人の手紙の短い箇所に、26節、27節、28節と三度も連続して出てきます。26節と28節の「ただ一度」はキリストがわたしたちに行って下さった神様の出来事を現わしています。まとめて言うと、「キリストが、ただ一度、身を献げられた」、キリストが十字架で身を献げて死んで下さったことなのです。わたしたちの罪のために、わたしたちの罪の赦しのために、死んで下さいました。それをヘブライ人への手紙を書いたアポロが強調しているのです。集中して「ただ一度」を繰り返して、ヘブライ人、つまりユダヤ人にこの「ただ一度」を知って欲しいと願いました。
 どうしてなのでしょうか。それは、「ただ一度」の反対の言葉は、「何度も」「何回も」です。ユダヤ人にとっては何度も、何回もが当たり前でした。特に罪の赦しについてはです。一年に一回、大祭司が神殿の一番奥にある至聖所に入って、ユダヤの民の罪の赦しのためのささげものをすることになっていました。毎年一回ですが、これはよく考えますと、毎年、毎年、繰り返されています。また祭司は、個人の罪の赦しのためのささげものとして、毎日のように、神殿の中にある祭壇に動物のいけにえをささげていました。毎日、毎年繰り返されてやっと罪が赦されると考えていました。このようなユダヤ人には「一度だけ」で罪が赦されるということは信じられませんでした。そんなユダヤ人に向かって、パウロと同様、伝道者であったアポロは、「ただ一度」のキリストの罪の赦しの出来事、イエス・キリストの十字架の出来事を語ったのです。神は「ただ一度」だけで、人々の罪の赦しを成し遂げて下さったのだ、だから、繰り返さなくていい。毎年、罪の赦しのために、捧げることをしなくていいというのです。
 では、ユダヤには、こうした「一度だけ」というのが、なかったのでしょうか。よく考えますとありました。それが今朝与えられました旧約聖書の箇所です。ここにはユダヤ人の出エジプトの時の経験が書かれていますが、この命の救いの出来事を思い起こし、特別な祭りとして祝っているのが「過ぎ越しの祭り」です。これは、ユダヤ民族に与えられた一度だけの救いの出来事です。このことをすべてのユダヤ人たちは、想起し、記念として祭りを行います。現代でも祝われているのです。
 しかし救いの出来事が、イエス・キリストにおいて、起こりました。それはユダヤ民族だけの救いではなく、全人類に救いをもたらす出来事でした。イエス・キリストの血が、すべての人たちの救いためにささげられたのです、「ただ一度」。この一度だけで人々の罪の赦しが成就されたのでした。何度か繰り返されて、積み上げていって頂点に達するものではありませんでした。この一度だけが、救いの成就の出来事だったのです。
イエス様の出来事は、全人類の救いの成就ですから、こうも言えます。「あなたもイエス・キリストに愛されています。」教会に来て、礼拝を守り、洗礼を受けた者だけが愛されているのではありません。まだイエス・キリストを知らない人も愛されていますから、伝道者パウロやアポロは大胆に、トルコ人、ギリシア人、イタリア人に「ただ一度」のキリストの十字架の救いを伝えたのです。
 これは、私たちにも通じます。私たちもパウロのように、イエス様のことを知らない人にも知らせることができるのです。否、伝えないといけないのです。神は、私たちを愛されました。ヨハネの手紙一4章9節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。」とあります。そして神様は「ただ一度」だけの十字架の贖いによって、わたしたちの罪の赦しを成就されました。このイエス様による救いを知らされている「わたしたち」は、救いの福音を伝えるようにと、この世に遣わされています。私たちも隣人に、「あなたも神様から愛されたし、愛されている」と伝えていきましょう。
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by higacoch | 2013-09-14 18:19 | ヘブライ

2013年9月1日

「喜んで与える人を」 申命記15:7-11、Ⅱコリント9:6-15
                            
 皆さんはこんな詩をご存知でしょうか。アメリカでは良く知られた詩で、ニューヨーク大学付属病院リハビリセンターのロビーに掲げられたレリーフに刻まれているそうです。
「大きな事をなそうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに
    慎み深く従順であるようにと、弱さを授かった。
  より偉大なことができるように、健康を求めたのに
    より良きことができるようにと、病弱を与えられた。
  幸せになろうとして、富を求めたのに、
    賢明であるようにと、貧困を授かった。
  世の人々の賞賛を得ようとして、権力を求めたのに、
    神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。
  人生を享楽しようと、あらゆるものを求めたのに
    あらゆることを喜べるようにと、生命を授かった。
  求めたものは一つとして与えられなかったが、
    願いはすべて聞きとどけられた。
  神の意にそわぬ者であるにかかわらず、
    心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。
  私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。」
 この詩を詠んだ人は、自己中心的なものをもっていた人でしたが、神様と出会って人生で大切なことに気づかされたのでしょう。自分の願いはそのままはかなえられなかったけれども、もっとも深い所で聞かれたのだと確信し、最後は神様に感謝し、神様を讃美して召されていったのです。
 さて今朝の聖書箇所は、献金について語られているところですが、ただそのことだけを語っているのではなく、献金のことを通して福音の真理をパウロは語っているのです。パウロはこう言います。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまずに豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」それに続けて「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。」とあります。以前読んでいました口語訳では「各自は、惜しむ心からではなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである」とありました。「惜しむ心からではなく」の方が私にはピンときます。ということは、私の心の中にも惜しむ心があるからだと思うのです。その点でパウロは「惜しんでわずかしか蒔かない者は、刈り入れもわずか」だと言っています。この箇所を宗教改革者カルヴァンは、「けちけちと蒔く者は、またけちな収穫しかしない」と言っています。パウロはこうも言っています。「各自は、惜しむ心から捧げるべきではありません。」 誤解を恐れずに言うのなら、惜しむぐらいなら献金しない方がいいでしょう。惜しんだ心で献金しても神様は喜ばれません。また強制されて捧げるべきでもありません。最後にパウロは「喜んで与える人を、神は愛してくださるから」と言っています。「喜んで与える人を」神様は愛して下さいます。これは神様からの約束であって、わたしたちの思いを超える神の祝福があるということです。この祝福は、すぐに気づくことができない場合が多いでしょう。しかし、リハビリセンターの一患者の告白の詩のように、すぐには解らなくても、神様の側では喜んで与える人を愛して下さっています。
 パウロはコリントの教会の兄姉に献金のすすめをしていますが、その捧げ物を通して、神様の愛と喜びの感謝が広がっていくと言っていると私は思います。まず、ここでの献金は困窮の中にいたエルサレム教会の人たちを助けるためのものでした。受け取ったエルサレム教会の人たちは感謝をします。その溢れる感謝が、捧げた教会の人たちに伝えられた時、その人たちに喜びが生じます。こうして感謝の輪が広がっていき、受け取った人たちにも捧げた人たちにも神への感謝が生じ、喜びが満ち溢れます。そして互いために神に祈るようになるというのです。
 ここでの喜びと感謝は、人間が作り出すことができるというのではなく、神様が共にいて下さることによって、神様から与えられている恵みなのです。だからこそ惜しむ心をもってではなく、喜んで、捧げようではありませんか。喜んで捧げる人を、神様は祝福して下さいます。
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by higacoch | 2013-09-07 17:26 | コリント