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2013年7月28日

「夫と妻との関係」  詩編127:1-2、エフェソ5:21-33
                           
 今朝の聖書の箇所は、伝道者パウロがエフェソ教会の人たちにあてて書いた手紙です。ここでパウロは「妻たちよ、主に仕えるよう、自分の夫に仕えなさい。教会がキリストに仕えるように、夫に仕えるべきである。」と言い、次に「夫たちよ、キリストが教会を愛したように、妻を愛しなさい。」と言って勧めています。 妻には「仕えよ」、夫には「愛せよ」と言って、夫婦関係をキリストと教会の関係にたとえています。つまりキリストを夫とたとえ、教会を妻にたとえて語っています。それはキリストが教会の頭であって、教会はキリストに仕え、キリストは教会を愛することをもって夫婦関係を短くまとめています。
 パウロはユダヤ人です。ですからユダヤの夫婦観を今朝の箇所で語っているのです。31節の「それゆえ、人は父と母を離れて、その妻と結ばれ、二人は一体となる」という教えがそうです。これは神様が人間を男と女とに創造された後に、言われた言葉として創世記にも記されています。そしてイエス様も安易な離婚をしていた夫たちに警告されています。ユダヤ社会では離婚が多く、夫側から離縁状を渡して離婚できたのです。イエス様は人々に、弟子たちに言われました。夫が勝手な理由をあげて離縁状を妻に渡して、離婚ができることにストップをかけ、安易な離婚をして、再婚する者は姦淫の罪を犯すことになると言われました。すると、それを聞いた弟子たちはそれくらいなら結婚しない方がいいとさえ言っているほどです。それほど弟子たちでさえ結婚離婚を安易に考えていました。イエス様は二人が一体となるためには、夫も妻も両親から離れること、精神的にも、経済的にも、離れなければならないと教えられました。(マタイ福音書 19章1~12節参照)
 古代ローマ帝国内では、離婚が多かったのです。エフェソの人々の中にも離婚をする人たちが多くいたでしょう。そこにある教会の人たちに、パウロは夫婦関係を「妻たちよ、キリストに仕えるように、夫に仕えなさい。夫たちよ、キリストが教会を愛されたように、妻を愛しなさい。」と勧めました。これは、夫と妻が一体となることを教えているのです。つまりキリストと教会が一体であり、切り離せない関係であるように、夫婦関係も一体だと語っています。夫が妻を愛し、妻が夫に仕えること、このことは双方が一体となるすべなのです。なぜなら、仕えることは愛していなければできないし、愛しているなら仕えるでしょう。自分中心の生き方では相手を愛することも仕えることもできません。ですから、仕えること、愛することはよく考えると、それは一つにつながっているのです。ですが、わたしたちは罪人であり、私たちには完全な愛などありません。愛に欠けています。だから、夫も妻も必ず持っていなければならないのは相手を赦す心なのです。どんなに純粋だといっても不純な面があったりします。だから赦しが必要なのです。夫と妻とのケンカには、仲直りするすべを持っていなければならないということです。その点、皆さんはキリストの赦しを知っておられます。自分が罪人である、と。そうです。あなたをキリストは命をかけて愛して仕えて死んで下さったのです。皆さんはこのことを知っており、キリストの赦しの中で生かされています。ですから赦しを知っているのです。そしてその赦しが生きていなければなりません。死んでいたなら、何の効力もありません。つまり信仰が死んでいたなら、赦しの心も死んでしまいます。
 私は離婚には絶対に反対だと言っているのではありません。イエス様は決して離婚をするな、離婚する者は、呪われると言われているのではありません。命の危険がある場合には、止むを得ないとのではないかと、私は考えています。
 イエス様から直接、教えを受けたペトロも、妻と夫の関係を語っている文章があります。ペトロの手紙一 3章1節~7節を参照して下さい。
 ここで二つのことに目が止まります。一つは、夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるため、とあります。これは、逆も言えます。妻が御言葉を信じない人であっても、夫の無言の行いによって妻が信仰に導かれるようになるために、夫が妻を愛するということです。もしどちらも信仰者であるなら、イエス様が言われていますように、「互いに愛し合いなさい。」なのです。「愛し合う」とは「仕える」ことも含んでいます。
 もう一つは、「夫たちよ、生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。」と言っています。ここでは夫に「妻を尊敬しなさい」と言っていますが、今朝の箇所では、パウロは「妻は夫を尊敬しなさい」と言っていますので、これらを合わせれば、お互いが尊敬し合うと言うことです。夫と妻との関係で、本当に大事なことは、実は信仰なのです。そして神によって結び合わされたものであること、縁結び、(この言葉は日本的ですが、)縁結びは神様によって与えられています。そこに立ち返って、夫と妻との関係を見つめ直すことが大事だと教えられます。そして、そのことを忘れないように神様の御言葉を聞き続けることが必要であり、さらに大事なことは、二人を結び付けて下さった神様に祈り求めていくことだと信じています。
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by higacoch | 2013-07-31 16:39 | エフェソ

2013年7月21日

「あなたは愛されている」  詩編94:12-15、ヘブライ12:3-13
                              
 6月30日に小金井市宣教75周年を記念して一致祈祷会が日本キリスト教団小金井教会で行われました。礼拝が終わって茶話会の時、佐藤岩雄先生のお連れ合いの鶴子さんのお父さん、鈴木英治牧師がこられて、ご自身が著された本「聖書におけるスポーツと福音」を下さいました。
 新約の時代は、新約聖書がギリシャ語で書かれていますように、ギリシャ文化の影響を受けていました。ギリシャと言ったら、古代オリンピックのスポーツを思い起すことができますし、スポーツが盛んでした。こうした競技に関連したことをパウロも手紙の中で書いています。
 「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」(Ⅰコリ9:24~)
 さて、今朝の聖書箇所であるヘブライ人への手紙にも「競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」とあります。当時、一般の人たちもスポーツに関心があったようです。そして今朝の箇所に何度も出てくる言葉があります。それは5節にある「鍛錬」です。調べてみると、7節、8節、11節と、短い中にも4回も出てくるのです。
 この言葉は「体育教師」と関係した言葉です。現代的に言うのなら、スポーツの専門職のコーチです。そしてこの言葉には肉体的な訓練を指導するというだけではなく、精神的な訓練や家庭での養育の意味もあります。ヘブライの手紙を書いたアポロは、ここでギリシャのスポーツ訓練と重ねて信仰のことを語っています。ここでのコーチは人ではありません。神様です。神様が指導して下さり、訓練を与えて下さっていると言いたいのです。聖書を良く見ますと、5節、6節は、カッコの中に入れられていますから、旧約聖書、箴言3章11、12節の引用です。そこには「 わが子よ、主の諭しを拒むな。主の懲らしめを避けるな。 かわいい息子を懲らしめる父のように/主は愛する者を懲らしめられる」とあります。ここには、はっきりと神様の懲らしめがある、と言っています。霊の父なる神様が、あなたのことを、あなた以上に知っていて下さり、あなたのために懲らしめを与えておられる。それは神様があなたをしごいて、いじわるされているのではありません。そうではなく、その鍛錬であなたを育てようとされているのです。あなたのためにです。神様の名誉のためではなく、あなた自身の成長のためにされているのです。だから、この手紙を書いたアポロは言うのです。「鍛錬を軽んじるな。それは主の懲らしめだと。懲らしめられて、力を落とすな。それは神様から出ているのだ」と。
 最近、コーチによる体罰、つまり暴力行為が問題になりました。暴力だけではなく、暴言もあり、さらにネグレクトの問題もあります。コーチによる体罰の問題、「しごきという名の暴力」であり、そこには上下の支配関係しかなく、選手の成長にはつながりません。
 アポロは言うのです。あなたがたは、主の勧告を忘れてはいけない。
「主は愛する者を鍛え、/子として受け入れる者を皆、/鞭打たれるからである。」
肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」
 そのように鍛錬はあなたの成長のためなのです。だから確かに言えます。主はあなたを愛しておられます。鍛錬を与えて、そしてすぐではないかもしれませんが、あなたに信仰による成長を与えて下さいます。懲らしめがあるからといって、あなたを見捨てておられるのではありません。否、むしろ、あなたを愛しておられるからこそ、あなたに関わって下さっているのです。
 鍛錬と言うのは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられたことによって、実を結ばせます。私もこの年になって、そうだったと思えることがたくさんあります。神様は、あなたを愛しておられる。だから、主の訓練を軽んじないように、否、むしろ祈り求めて、忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエス様を見つめながら。あなたは愛されているのだから、イエス様を見つめながら、信仰の道を歩み抜こうではありませんか。
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by higacoch | 2013-07-27 14:27 | ヘブライ

2013年7月14日

「主の慈愛の眼差し」  ヨハネ福音書 9:1~12     
                          生島 陸伸 牧師

 
 今日はお招きいただいて、この主日礼拝でお会いできたことを嬉しく思います。
●1節――まず、この目の見えない人の生きてきた環境ですが、8節からこの人が物乞いをして生活していたことが分かります。21節後半には両親の言葉がありますが、それは目の見えなかった息子にとって悲しい言葉です。また、町の人々は、ファリサイ派の人々と一緒になって彼を非難した(34節)。
 両親も、隣近所も、宗教も、また自分自身も、罪の中に生まれた者、厄介者、災いの素と言われ続け、生きるために物乞いをし、物乞いをするために生きてきた。この死んだような人を、イエス様が「見かけられた」。
●2~3節――イエス様と弟子たちとの会話が出ています。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」とは本人の前で言う言葉ではないと思いますが、本人も聞きたかった質問かもしれません。
 イエス様の答えは、誰も思いつかないというより、イエス様だけが言える言葉でした。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と。弟子たちは過去に原因を探している。しかし、イエス様は今から起きることを語っている。過去にいかなる事があったとしても、今、神の業がこの人に現れるためにこの事があるのだ、と新しい人生の始まりを示している。 
●4~5節――イエス様は天の父から遣わされたのですから、この地上にいる間に目的を達成しなければならない。それは、イエス様にしか出来ない。罪のない神の独り子が、私たちの罪のために十字架にかかって贖いを完成する。それが、父から派遣された独り子の使命です。
 この大きな犠牲を払った神の業は、何をしたら、どんな努力をしたら得ることが出来るのでしょう。イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と語られています(同6:27~29)。
●2~5節――目の見えない人は、イエス様と弟子たちの会話を聞いているだけです。イエス様の言われた言葉はよく分らなかったし、会話に入れなかったのかもしれません。
 でも、それで十分なようです。自分のことを代弁してくれる弟子と、暖かいイエス様の言葉、それだけでよかったのだと思います。イエス様の言葉が分かるようになるのは、イエス様のお言葉に従ってみて、信仰をいただいてからです。
 ところがこの後、イエス様は、あっと驚くことをされた。
●6~7節――イエス様が目の見えない人を癒す奇跡は、その人によって違います(マルコ8:23、ルカ18:37)が、共通点があります。イエス様とその人が「あなたと私」の関係になって奇跡が起きるということです。私たちの信仰生活も、イエス様と私の関係が「あなたと私」という二人称になって造り変えの変化が起きるのです。
 イエス様は唾で土をこねて目に塗ったというのですから、誰もそれで治るとは思わないでしょう。でも、彼は、イエス様がなぜシロアム(遣わされた者)の池で洗えとおっしゃったのか理解出来ないまま、お言葉のとおりに歩いて行って癒されたのです。神様から遣わされたイエス様のところに行くと、癒しの奇跡をいただける、ということを象徴しているように思います。
●8~12節――イエス様との出会いは、人に変化を起こします。この目の見えない人は、イエス様に出会って、そんな馬鹿なと思う言葉に従った。そして、人生が180度変わった。
 彼が「遣わされた者の池」で洗ったように、私たちもイエス様の言葉で洗うのです。御言葉を学びながら待つことです。
 天地創造の神様は、私を御国に迎える準備をされている。人の知恵では、自分も隣人も変わらない。イエス様があなたの罪のために十字架にかかって、あなたの罪の償いをしてくださいました。そんな馬鹿なことが信じられるか。そう思いながら教会の中に留まって、イエス様が御血で洗ってくださるのを待つと、不思議だけど信じることが出来た。それは、神様の業なのです。それ以後、苦難は恵みに変わることになった。
 今も、日々新しい恵みに目が開かれるのです。
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by higacoch | 2013-07-20 16:05 | ヨハネ福音書

2013年7月7日

 「祝福の家へ帰ろう」  
            詩編119:129-136, マルコ福音書8:22-26
 
                           
 聖書を読みますと、いろいろな障害を抱えた人が出てきます。今朝の箇所には、目が見えない人が出てきます。このように、視覚障害者の人もよく出てきます。この福音書の少し後の10章にも、バルティマイという盲人も出てきます。また他の福音書にも目の不自由な人がよく出てきます。
 今朝、与えられている箇所に出てくる盲人は、ずいぶんイエス様によって、よく世話をして頂いたということが解ります。イエス様の所に、人々がその盲人を連れてきました。イエス様に触れて欲しいと願ったのです。ところが、イエス様は、すぐに、彼らの願いを受け入れて、癒そうとはされませんでした。彼らの目の前で癒そうとされず、盲人の手を取って、なんと村の外まで行かれたのです。イエス様ご自身でこの人の手を握り締め、手引きして下さっているのです。この人は、どんなに喜んでいたでしょうか。
 皆さんもご存知のように、視覚障害の方々は、目が見えない分、手の感覚、耳の感覚が敏感になります。私は想像するのですが、この人はイエス様の手のぬくもりを人一倍、感じていただろうと思います。そして、村を出るまで、イエス様と何らかのやり取りをしただろうと思います。ですが、ここには、そのやり取りが記されてはいません。残念ですが、想像するしかありません。イエス様は、どんな生活をしてきたのか、そのようなことを聞かれたのではないかと、私は思うのです。
 イエス様は、どうしてみんなの前で癒しをされなかったのでしょうか。それは人々の前で癒しをされると、人々は、イエス様は奇跡を行うことができる方としてだけ見てしまいます。このことはイエス様の本意ではなかったのです。しばらく歩いた後、村の外に出ることができました。もう誰もいません。イエス様と盲人だけです。そこでおもむろにイエス様はご自分のつばを両手の手のひらにして、その両手をその人の目の上に置かれました。そして「何か見えるか」と訊ねられました。すると、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と答えています。ここにはイエス様とこの人だけで、誰もいません。となると、この人が「人が見えます」と言う「人」とは、イエス様のことだと解ります。そして「木のようですが、歩いているのが分かります」ということから、イエス様ご自身が歩いて下さっていることが分かってくるのです。イエス様は「何か見えますか」と訊ねただけではありませんでした。少し離れた所に移って、その人の正面に当たる所に立ってから「何か、見えますか」と訊ねられておられるのです。それから少し歩いたりされたのが解ります。どうして立ったままではなかったのか、もし立ったままだったら、よく分からなかったからではないかと思います。「木のようです。」と言っていますが、それは網膜内の異常現象であるケースでもあるからです。よく観察するためには静止よりも動く方がいい、だからイエス様は歩いたりされたのです。こうしたイエス様の行動を知れば、余計にイエス様の優しさが、一段と心に沁みてきます。
 こうして確かめられた後、再び、その人に近づいて先程と同じように両手をその人の目の上においてから、また同じように少し離れた所に立って、「どう、見えますか」と訊ねられたでしょう。すると、この人は、さっきよりもはっきりと見えるようになりました。それを聞かれたイエス様は、大変喜ばれたでしょう。
 そして「村に入ってはいけない。」と言われました。どうしてでしょうか。もしイエス様がこの人にこの言葉を言わなかったなら、この人は、一番に自分をイエス様の所に連れて来てくれた人々のところに行って、「イエス様が見えるようにして下さった」と言ったでしょう。そうなると、みんなの前で癒したと同じように、イエス様を奇跡を行う方だとだけしか見ないことになるでしょう。そうなってしまえば、どこで奇跡をしても同じなのです。イエス様は、そう受け止めてもらいたくありませんでした。
 そしてこの人に何よりもして欲しかったのは、この人の両親、家族のもとに戻って、両親に知らせて欲しかったのです。だから「家に帰りなさい」と言われました。こうしてこの人を家に帰されました。
 私はここで、もっと聖書が言おうとしていることを思いめぐらします。それは、「家に帰る」ということは、単に「自分の家に帰る」という意味もありますが、またそれ以上の意味も含んでいます。「帰る」と言うのは、「悔い改める」という意味を持っているのです。「家に帰る」という時、その人は「悔い改め」て、本来の家に帰る、つまり神様のもとに帰るということです。(ルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」ではっきりと示されています。家に帰ってきた息子を父親は、盛大なお祝いをして喜び祝福しています。)このように「家に帰る」と言うのは、神様の祝福の中に入るということなのです。イエス様がこの人に何よりもして欲しかったのは、神様のもとに帰ること。神様から愛され、祝福されていることを味わって欲しかったのです。
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by higacoch | 2013-07-13 16:31 | マルコ