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2013年5月26日

「神の霊に導かれる者」    詩編97:7-12、 ローマ8:12-17
                             
 今朝、与えられましたローマの信徒への手紙に「わたしたちには一つの義務がありますが、それは肉に従って生きていかなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」とあります。これは伝道者パウロの言葉です。
 パウロは肉と霊とを対比させて語っています。「肉に従って生きるなら死にます。霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」と。ここを注意深く見てみますと「霊によって体の仕業を絶つなら、生きる」ということは、肉に従って、体の仕業を絶たないのなら生きることができないということです。この生き方は死だとはっきり言っています。もし体の仕業を、霊によって絶つなら、そこには命があると言いたいのです。これをまとめると、肉は体の仕業、霊は神様の仕業と言いうると思います。肉は、私たちが持つ仕業、霊は、神様がわたしたちに働いて下さる仕業ともいえます。これはいろいろに言いかえることもできるでしょう。肉は、人間の知恵や力や行動、判断等、これに対して霊は神様が導いて下さっている神の知恵、力、働きです。
 パウロは、今朝の箇所の直前(11節)で、こう言っています。「霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かして下さるでしょう」と。私たちは死ぬ体だったのです。その体を神は霊によって生かして下さるというのです。
 こうしたことから、パウロが言いたいことが解ってきます。「わたしたちには、一つの義務があります。それは肉に従って生きなければならないという義務ではなく、霊によって生きるべきだと言いたいのです。なぜなら今は霊によって導かれているからです」と。それは私たちは「アッバ、父よ」と呼ぶことができることからも解ります。私たちが天の父に祈ることができるということは、神様が霊を送って下さっているからなのです。このように神の霊に導かれて生きるようにされています。

 皆さんの中に、上原令子さんをご存知の方がおられるでしょうか。上原さんは40年近く前から、そして今もゴスペルシンガーとして活躍されています。沖縄で生まれ、お父さんは米軍兵士でお母さんが日本人、生まれてすぐに養子に出されました。物心がつく頃から、自分が親にも兄弟にも似ていないと感じていましたが、5歳の時、遊んでいた友達から「あんたは貰い子よ」というショックな言葉を浴びせられました。それ以来、育ての親に反発し、「自分は望まれて生まれた子じゃない、だから価値のない人間なんだ」と思うようになり、心の奥にむなしい寂しさを感じて、どうする事も出来ずに荒れていきました。親の財布からお金を抜き取って酒を飲んだり、万引きをし、薬物マリファナにも手を出しました。それでは駄目だと思って再起を願い、歌手になろうと上京しました。ですが、再びマリファナに手を出してパニック状態となり、歌手への道も閉ざされていきました。そして沖縄に戻り、絶望して、もうこんな人生、生きていくのもいやだと、死を願うようになりました。そんな中で不思議にもアメリカンスクールでいつも自分のことを心配してくれた先生を思い出し、先生が通う教会に行って礼拝を捧げました。その礼拝で、イエス様の愛を知り、賛美歌を歌った時、涙があふれ出て止まりませんでした。自分は価値がないのではない。神様にあって価値があり、神様がわたしと共にいて下さるとの確信が与えられたのです。その後、音楽の賜物を生かしてゴスペルシンガーとして各地の教会、集会に出かけて、コンサート活動を続けられています。また学校、少年院、刑務所を慰問し、イエス様の救いを喜び感謝して讃美されています。ついペンテコステの日にも被災地南三陸に出かけて、三つの特設ステージで歌われたとのことです。
 上原さんは、イエス様に出会う前は、どうせ自分は貰い子、望まれて生まれた子じゃないと叫び、自分は無価値だと思い、無茶苦茶な人生を歩んでいました。しかしイエス様に愛されて自分は無価値な人間ではなく、神様から愛された価値ある者だと知らされ、神に生かされて生きていくことができました。上原さんは、以前、神様を知らなかったのです。それゆえ自分の思いで生きていて、肉の生き方になっていました。
 パウロはローマの教会の人たちに言うのです。「私たちは一つの義務がある。それは肉に従って生きていかなければならないというものではありません。」このことは私たちにも言えます。私たちも肉によって生きて行かなくてはならないのではありません。私たちは、神様によって愛されて、神様の霊を頂いたものです。神様によって愛され、生かされています。そのことを忘れずに、イエス様の救いを知らない人をも愛して下さっていることを伝える者となって欲しいと願われているのです。
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by higacoch | 2013-05-31 16:28 | ローマ

2013年5月19日

 「約束の聖霊が降る」  詩編122:1-9、使徒言行録2:1-11 
                           
 皆様と共に、ペンテコステの礼拝を捧げることができて、本当に嬉しく、神様に感謝します。弟子たちに聖霊が注がれて、彼らは力を頂き、大胆に説教し始めました。弟子たちが、イエス様が救い主だと説教し始めたのはこの時が最初でした。彼らはこの日を境にキリストの福音の説教者となったのです。なったというよりは、なさしめられたと言った方が正確でしょう。彼らの人間的な力でなったのでは決してないからです。神の聖霊の力で説教し始めました。そしてそれを聞いた人々は心動かされて洗礼を受けて信仰者となりました。こうして信仰者の群れが起こされ、教会が誕生したのです。ですからペンテコステは教会の誕生日でもあります。
 先週、荒瀬先生が歴史を大きく分けると3つになると話されました。その3番目が教会の時代です。この時代の起点がペンテコステの日です。こうしたことから、教会の時代は聖霊の時代だとも言えます。なぜなら教会の背後に、聖霊の働きがあるからです。しかも聖霊の働きはペンテコステの日限りの出来事ではありません。今も世界の多くの国々、地域に教会がたてられていることからすれば、今も働かれています。ここ東小金井教会も聖霊の働きがあったからこそ、ここにあるのです。
 さて今朝、与えられた聖書箇所は、ペンテコステの出来事を記している所です。この聖霊の注ぎは、イエス様によって約束されていました。この日、突然、激しい風が吹いてくるような音がし、彼らがいた家中に響きました。この音は彼らがいた家だけではなく、周りにも響きました。それで大勢の人が集まってきたのです。その人たちは、あらゆる国々から祖国に帰ってきたユダヤ人たちでした。彼らはその場に出くわして、驚かされます。それは自分たちが育った異国の言葉が弟子たちによって語られていたからです。それらの国とはユダヤの国の周辺の国々でした。
 ここで起こっていることをまとめますと、突然、大きな音がし、その音に誘われて、多くの帰国者たちが集まってきました。このことは神様の側から言えば、神様が激しい音でもって人々を集められ、人々に弟子たちを通して救いの出来事を聞かせられたのです。人々はびっくりしました。遠くの国から帰ってきた人たちが、育った国の言葉が、それも一カ国の言葉ではなく、なんと十二カ国の言葉だったのです。しかも単なる日常会話の挨拶ではなく、神の救いの出来事を聞く事ができました。しかし外国の言葉が解らないユダヤの人々は弟子たちが酒に酔っていると言い馬鹿にしました。そこで今度はペトロが同胞のユダヤ人に向かって説教し始めました。するとユダヤ人も含めて心動かされて多くの人たちが洗礼を受けました。こうして教会が生まれました。
 さて、今朝は特に、聖霊が注がれることは、弟子たちに約束されたことであったと学びたいのです。イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちに最後の説教をされました。その際、イエス様は「わたしは去っていく。わたしが去っていかなければ、弁護者はあなたがたの所に来ない」と言われました。この弁護者が聖霊です。そして「その弁護者が来たならば、真理を悟らせる」と言われました。その後、イエス様は十字架上で殺されてしまいました。三日の後に、イエス様は復活し、弟子たちに再び約束されました。それが使徒言行録の1章8節「あなたがたの上に、聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤ、サマリヤと地の果てまで、わたしの証人となる」です。このように聖霊の注ぎは、その出来事が起こる前に約束されたことだったのです。こうして約束は成就していきました。弟子たちは、この日を境にイエス様の復活の証人となったのです。そして、ペトロも「イエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そして罪の赦しを受けなさい。聖霊を受けなさい。」と語り、「(聖霊の注ぎは)あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、与えられているものです」と主の約束を語りました。こうして、教会の時代が始まり、宣教地域は拡大し、地の果てまで伝えられつつあります。
 こうした福音の広がりは約束された聖霊が降ったことによって為されています。決して弟子たちの力によってなされているのではありません。聖霊による力によってなのです。これは「今も」であり、また「これからも」です。そして聖霊によって力を与えられるのは牧師だけではありません。皆さんにもです。皆さんも約束された聖霊を頂き、信仰者とされ、また福音の宣教者になっています。
弟子たちに約束された聖霊が降ったのも弟子たちを福音の宣教者とするためであり、弟子たちによって洗礼を受けた者たちも福音の宣教者とするためなのです。その点で言えば、私たち一人一人も、約束された聖霊を受けて、福音の宣教者となっているのです。このように神様があなたを祝福し、あなたを用いられています。神様の思いを受け止め、神様に隣人に仕えて、イエス様の福音を一人でも多くの方に伝えていくことができるように、聖霊を祈り求めていきましょう。
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by higacoch | 2013-05-25 16:46 | 使徒言行録

2013年5月12日

 『 道普請の神 』
   イザヤ書 40:3~11、ルカ福音書 3:1~6 
                           荒瀬 正彦 牧師


 ドイツの神学者コンツェルマンに『時の中心』という論文がある。それによれば、
福音書の著者ルカは歴史を「3つの時」に分けて考えているという。
 第一の時は、イスラエルの時。旧約聖書の時代である。
 第2の時はイエス・キリストの時である。
 第3の時は教会の時である。
歴史というのは「キリストの時」を中心として、「イスラエルの時」と「教会の時」に分かつことが出来る。歴史は、権力者や時の流れに動かされるのではなく「時の中心」から見ると、本当に歴史を動かし歴史を支配しているのは、神であり、救い主イエス・キリストである。人間が力と不正と不条理をもって支配しているかに見える時代にあって、その只中に「神の言葉が、荒れ野でヨハネに臨んだ」。
「荒れ野」とは不毛で希望の見えない所。それゆえにこそ神と出会い、神から訓練を受ける所。また「言葉が臨む」とは「神の言葉が出来事となった」という意味である。つまり、私たちの世界、この日常の生活の場に神様の出来事が関わって下さった。
 神はヨハネを通して言われた。「主の道を整え、その道筋を真っ直ぐにせよ」。
キリストの福音を聞き、福音に生かされるために、即ち、この世的な支配から自由にされ、自分自身から解放されて、真に自由な神の民として生きるために準備せよ、と言われるのである。この世界が神の国となるのを妨げるものは取り除かれねばならない。自由と人権を踏みにじる政治や経済は改革され、権力や金力が横行する社会は正されねばならない。同時に、その根源となっているドロドロした黒いものを心の中から排除しなければならない。ヨハネはイザヤ書を引用して言う。
 「谷は埋められ、山と丘は低くされる。曲がった道は真っ直ぐに、凸凹道は平らにされる。(そして)人は皆、神の救いを見る」。(5~6節)
 私たちの心の内にある根源的な罪の塊――谷や山や曲がり歪んだものを人間は自分では直すことも正すことも出来ない。しかし、その現実に向かってヨハネは福音の言葉を呼び掛けるのである。
 「あなたがたが、神様の愛と憐れみを待ち望む心を持つならば、あなたがたが悔い改めて救いを望むのであれば、人間が自分の力では遂に果たすことが出来ない、妨げとなるものを取り除く仕事を、イエス・キリストが十字架によって成し遂げて下さる。
谷を埋め、山を削り、曲がりを直し、凸凹を平らにする本当の道普請をして下さるのはイエス・キリストなのだ」。今こそその時だ、と呼ばわるヨハネの叫びは、現代においては教会に委ねられている。神様がなさる道普請を「福音」というのである。
愛と慈しみに満ちた福音の呼び声を聴き取り神様の道普請に感謝したいと思う。
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by higacoch | 2013-05-18 17:57 | ルカ

2013年5月5日

「悲しみは喜びに変わる」   
             詩編15:1~5、ヨハネ福音書16:12-24

                            
 私は半年前、「ヤコブへの手紙」という映画を観ました。この映画の出演者は、主に二人、一人暮らしをしていた老牧師ヤコブと一人の女性レイラです。レイラは事件を起こし、刑を受けて何年も刑務所暮らしをし、出所して、盲人ヤコブのもとで働くことになります。孤独で無愛想なレイラをヤコブは温かく迎え入れます。
 レイラに与えられた仕事は、ヤコブのもとに届く手紙を、代わりに読み、ヤコブが語る言葉を代書し、それを出すという単純な仕事でした。そのためレイラは嫌気がさして、出ていこうと決心します。そこでタクシーを呼び、運転手に「どこへ行きますか?」と聞かれ絶句してしまいます。彼女は帰るところがどこにもなかったからです。こうしてやむなく牧師館にいることになり、あいかわらず手紙の代読と代書をしますが嫌になり、ヤコブ牧師への手紙を郵便ポストから取り出し、ゴミ捨て場に投げ捨てます。毎日、届いていた手紙が来なくなり、ヤコブは気落ちしていきます。そんなヤコブをレイラが励まそうとある日、芝居をうち、目の見えないヤコブの前で手紙を読むふりをします。しかし作り話をしていく中で詰まってしまいます。そんな中でつい自分のことを語り出してつないでいくのです。そしてどんどん自分のことを話していきます。手紙の主が解らないようにしますが、しかしヤコブはレイラ自身のことだと解ります。それはこれまでにレイラの実姉から数え切れないほどの手紙を貰っていたからです。レイラは手紙の最後の方で、刑務所帰りで、天涯孤独だと言います。そして悲しくて、苦しくて自殺未遂をしたと明かします。 ヤコブ牧師はそれを聞き、「あなたは決して孤独ではない。あなたの存在こそが必要だ」と語って、ここで初めて実姉からの手紙を知らせるのです。それを知ったレイラは激しく泣きます。
 さて、今朝、与えられたヨハネ福音書の箇所は、いわゆるイエス様が十字架刑にかけられる前夜の出来事であり、ここでイエス様は弟子たちとの最後の時を過ごされています。そのために大切なことを語られました。この最後の説教を、告別説教とも言いますが、イエス様は「しばらくすると、あなたがたはもう私を見なくなるが、またしばらくすると、私を見るようになる」と言われました。意味ありげな言葉に弟子たちは戸惑い、これはどんなことなのかと論じ合っています。それを聞いたイエス様が言われました。「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」と。
 映画「ヤコブへの手紙」に対して、ある映画評論家が、こんなことを言っていました。この映画は「人間のピリオド、神のコンマ」だと。これだけを聞くと良く解りませんが、これは、人間はもうピリオドだと思う。もう先がない、これでおしまいと考える。しかし神様の側から言えば、それで終わったのではない。それは、まだコンマなんだ、この後があるのだと言うのです。つまり、悲しみで終わりだというのではない、悲しみを超えて続きがあるのだと。今朝の言葉で言うと「悲しみは喜びに変わる」ということです。
 マザー・テレサは「地上での最大の病とは、何か。それは、誰からも必要とされていないという病いだ」と言っています。自分でピリオドの結論を出している病気なのです。この病の治療は、主イエス・キリストを知ることです。
 私たちには悲しみがあります。悲しみが生じると意外と視野が狭くなる。あたかも自分の周りには悲しみが満ちているように感じたりする。さらに自分の人生は、悲しみのみしかなかったと感じたりする。こうして心の視野狭窄に陥っていく時には人の助言が煩わしくなってきたりして、自分の悲しみなんか解ってもらえないとはねのけてしまうことがあります。
 もしもイエス様があなたがたには悲しみがある、しかし、その悲しみは喜びに変わるということを言われていなければ、弟子たちはどうなっていたでしょうか。弟子たちは、イエス様が十字架上で殺された後、家に籠ってしまいました。人々を恐れ、部屋には鍵を掛けてひっそりとしていました。彼らはイエス様を失った悲しみとこれからどうしたらいいのかわからないという不安の中で過ごしたに違いありません。そんな弟子たちに、イエス様は復活した体を見せ、新しい命を示されました。このように弟子たちに臨んで、悲しみから喜びに生きるように導いて下さいました。彼らも復活したイエス様の姿を見て、喜びに溢れました。イエス様を信じる者にとって悲しみはそれで終わるものではありません。その悲しみの先に喜びがあり、その喜びに満たされることができます。イエス様は弟子たちに、またわたしたちに悲しみを与えるために、この世に来られたのではありません。イエス様は私たちを救うために、そして救いの喜びを与えるために、来られたのです。
 イエス様は、福音宣教の最初の頃にも言われました。「悲しんでいるものは幸いなり、彼らは慰められるであろう」と。悲しみは、それだけで終わらない。悲しみは、喜びに変わるのです。イエス様にある人生は、決して悲しみで終わらない。悲しみは喜びに変わり、喜びが与えられます。私たちに今、イエス様を信じて生きていく中で悲しみを味わっていたとしても、それだけで終わらないのです。その悲しみは喜びへと変わるのです。その喜びを主が与えて下さっていることが解るのです。今、悲しみの中にあっても希望を持って歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2013-05-11 16:16 | ヨハネ福音書