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2013年3月31日

「神のめぐみの下にいる」  
             詩編118:22~29、ローマ6:3~11
 
                            
 皆様と共に、イスター礼拝を捧げることができて、嬉しく思っています。わたしたちの救い主イエス様が、苦しみの道を歩み十字架にかけられ死なれましたが、その死で終わったのではなく、死に勝利して、復活の命を現わして下さいました。そして今も生きて働いて下さっています。イエス様を信じる者に、死を超えた新しい命の希望を与えて下さっていることを信じます。
 さて、今月の13日にカトリック教会の新しい教皇が選ばれました。初めての南米出身の教皇であり、名前もフランシスコと名乗りました。この名はアッシジのフランシスコからだそうです。アッシジのフランシスコは資産家の家に生まれながらも家を捨てて、教会を建て上げるために貧しい者たちと共に生きて、有名な祈りを残しています。それは皆さんもよくご存知の「平和を求める祈り」です。
 選出された翌日に教皇がした説教の要旨が小金井カトリック教会から送られてきた教会ニュース「さくらまち」に載っていました。私はそれを読み感動しましたので、その全文をネットで読み、深く教えられました。教皇は聖書から3箇所を取り上げました。第一はイザヤ書2:2-5です。「主の光の中を歩もう」(5節)から「歩くこと」を語り、「わたしたちの人生は旅路、立ち止ったなら先には進みません。大事なことは神様の光の中を常に歩むことです。アブラハムがそうであったように歩み続けるのです」。第二はペトロ第一の手紙の2:4-9、「あなたがたは、尊い、生きた石、その生きた石として、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(3-5節)から教会を造り上げることを語りました。第三はマタイ福音書の16:13-19、弟子ペトロが主イエスを信じる告白をした箇所です。ここからイエス・キリストを信じることを語りました。こうして歩み続けること、造り上げること、信じること。この三つを語った後にまとめるようにして最後にこう締めくくりました。このペトロの告白のすぐ後にイエス様がご自身の苦難の予告をされた時、ペトロがそんなことがあってはなりませんと言っています。それは「苦しみである十字架について語ることをよしましょう。わたしたちには十字架は関係がないことです。わたしは十字架なしであなたに従います。」ということだと言い換えて話されています。教皇ははっきりと言われています。「もしわたしたちが十字架なしに歩み、十字架なしに造り上げ、十字架なしにイエス・キリストを信じ、告白するなら、たとえ司教、司祭、枢機卿、教皇であっても主イエスの弟子ではなくなるのです」と。続けて「わたしの望みはこれです。どうか皆様がこのめぐみの日々の後に、勇気をもって主イエスの十字架とともに、主イエスを信じて歩んで下さいますように。十字架上で流されたイエスの血の上に、教会を築いて下さいますように。唯一の栄光である、十字架に付けられたイエス・キリストを告白して下さいますように、そうすれば、教会は前進するでしょう。」と語りました。私たちはプロテスタント教会ですが、イエス・キリストを信じる者としてよき福音宣教の業が進められることに祈りたいと思っています。
 わたしたちの救い主イエス様は、十字架の道を歩まれました。その道は苦しみの道でした。それはわたしたちを愛するがゆえに担われた苦しみであり、愛するがゆえになくてはならない道だったのです。十字架にかかられたのもわたしたちの身代わりとなって下さったことであり、わたしたちの罪を贖うための死であったのです。ですから、もし十字架なしの歩みならば、神の愛がなかったということになるのです。十字架なしの死は単なる肉体の死であり、わたしたちのための贖いの死ではなくなります。こうした十字架なしの死はもはやキリストの死ではありません。そして復活の新しい命もありません。十字架の死と復活は切り離せないものです。十字架の死があったからこそ復活があります。十字架の死がなかったなら、復活もありません。
 イエス様がわたしたちの救いのために十字架の上で死んで下さったのであり、その死から復活されて新しい命を現わして下さったことは、何よりも神様の恵みなのです。それが既に与えられています。その恵みの中にわたしたちが生きるように招かれています。
 パウロは「あなたがたは、知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストの御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」と言っています。
 イエス様を信じて洗礼を受けるのは新しい命に生きるためなのです。ぜひともイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて頂きたいのです。そして新しい命に生きていって頂きたい。パウロは「キリストが死なれたのは、ただ一度、罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は、罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と言っています。神様の恵みによって、皆さんは神様によって生かされているのです。神様の恵みの下にいるのです。こうして、神の恵みを頂いていることを知らされたなら、キリストが十字架の道を歩まれたように隣人を愛する歩みをしていくように導かれているのです。皆さんは神の恵みのもとにいるのですから、どんなに小さな歩みであってもイエス様の救いを伝えて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2013-03-31 15:20 | ローマ

2013年3月24日

「へりくだって生きる」  イザヤ書50:4-11、フィリピ2:1-11 
                             
 パウロは言いきっています。「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。
 キリストは私たちと同じ人間になられました。それはなぜでしょうか。それは私たち人間を愛されたからです。だから人間になられたのです。しかも十字架の死に至るまで従順でした。ここにイエス・キリストの覚悟が表されています。
 預言者イザヤは語っています。「彼は、多くの痛みを負い、病を知っている。・・・彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのは、わたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだと、・・彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼が受けた懲らしめによってわたしたちに平和があたえられ、彼が受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために、執り成しをしたのは、この人(天使ではない)であった。」と。
 人々は最初、イエス様の所に集まってきました。ですが最終的には、イエス様を拒否し、最も屈辱的な十字架刑で殺したのです。パウロは、このようにイエス様は「へりくだって死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と言っています。このイエス様の従順は、人に対してではなく、父なる神への従順でした。父なる神が、すべての人の救いを実現するために、イエス様を地上に送られたからです。
 今朝の箇所を細かな説明をしていくのではなく、この言葉を素直な心でストレートに聞きたいと思います。「あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 人間関係で本当に難しいことは、3節の言葉、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい」ということです。このことは、いわゆる「先生族」と言われている人たち、議員、医者、弁護士、教師、牧師たちにとって、より難しいと思います。日頃、「先生、先生」と呼ばれていて、高みにいる人たちにとっては、余計に困難なことだと思います。ちょっと批判されると怒り出し、相手を見下したことを言うのです。その点、私自身も自戒しなければなりません。また皆さんもよくよく注意しなければなりません。
 パウロは、言っています。「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いに、このことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。」と言っています。
わたしたちの国は高齢化の時代を迎え、孤独な高齢者と言うより、孤立している高齢者が増えていくと思われてしょうがありません。一人になりたいと言う人がいます。これは高齢者に限ったことではありませんが、一人がいいということで、独身主義を貫く人がいたりします。自分で好んで一人を選ぶのです。それに対して、一人でいたくない、寂しい、誰かと一緒にいたいと願っても、結果的に、一人になってしまう。孤立状態になってしまう、そういう人が増えていく。人が人に近づかないようになっていくのです。こうしたことは、いろんな問題を引き起こしていくでしょう。人は、人との間で生きていく時に、人間となっていくのです。人間が人間らしく生きていくためには、どうしても人間関係が必要です。
 パウロは言うのです。キリストは、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまでへりくだって生きていかれました。だから、神様は、キリストを高く上げられたというのです。ここに神の心が見えてきます。キリストが、へり下さって生きて下さったのは、私たちを愛されたからです。ここに神の愛があらわされています。神はそのイエス様を死からよみがえらせて下さいました。そして「あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」
 イエス・キリストの生き方を模範として生きていきたい。
 受難週に入ったこれからの日々、わたしたちのために命をかけて愛して下さったイエス様の苦しみを覚え、わたしたちの罪を悔い改めて、イエス様の愛を覚えて歩んでいきましょう。信じて生きていきましょう。それこそが、真実の愛の歩みであり、私たちが模範とすべき歩みなのですから。
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by higacoch | 2013-03-30 17:15 | フィリピ

2013年3月17日

 「大胆な女 自由なイエス」 マタイ福音書15章21-31節
                     荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 謎多き箇所です。何度読んでもクエスチョン・マークがわき出てきます。まず、イエスはなぜこの時ティルスとシドンの地方に行かれたのか。ガリラヤからは離れた地です。勇ましく異邦人伝道に行ったというのでもなさそうです。普段の、村や町を巡って神の国の到来を告げる姿とは違っています。
 私の想像ですが、主イエスはイスラエルの人々の頑なさに辟易し、伝道に疲れ、思い悩んでおられたのではないでしょうか。神から離れてしまった神の民に、どうしたら聴く耳、従う心を取り戻すことができるのか。思い悩みを抱えつつ、静かな場所に逃れていかれたのでしょう。
 そんなところに、外国人の女の叫ぶような声が響いてきたのです。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。しかしイエス様は何も答えませんでした。しかも、弟子たちに「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言ったのです。
 おそらくこれは、旧約に示されている神の御計画と関係しているのでしょう。羊の世話をせずに自分のことばかり考えている羊飼い(イスラエルの指導者)に怒り、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする」と言われた主なる神。自分は、この神の意志を実行しにきたのだ。それゆえイスラエルという迷える羊をまず取り戻さなければならない。主イエスはそう思っておられたのです。神の計画による順序があるのです。
 でもこの女だって、簡単には引き下がれません。娘の命がかかっているのです。強引に近寄ってきて、イエスのもとにひれ伏しました。「主よ、どうかお助けください」。ところが、イエスはそれでも拒否されたのです。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と。三回目の拒否です。それほどまでに、「まずイスラエルを救わなければ」という思いに拘泥していたということなのでしょう。
 しかしこの女がそれを変えてしまいます。「主よ、ごもっともです」と彼女は言いました。おっしゃることはよくわかります。でも、小犬だって、主人の食卓から落ちるパン屑は食べるのですよ」。 
 
 彼女は自分が小犬であると認めてしまいました。まさに小犬。娘が苦しんでいるのに何もしてやれない。本当に小さくて無力な自分。何の特権も資格もないのです。でも、小犬だって、食卓から落ちるパンを食べさせてもらうのだ。主人は小犬のことだって気にかけてくれるはずだ。そう女は迫ったのです。
 聖書にはイエスと出会った様々な人が出てきますが、イエスを言い負かしたのは彼女だけです。彼女がイエス様の心を変えたのです。計画を変えてしまったのです。

 しかし、この女の大胆さだけでは、この出来事は起こりませんでした。イエス様の応答に注目しなければなりません。イエス様は、自分の計画が一人の人間によって変えられることを良しとされたのです。それほどに自由な御方なのです。人に物を教える立場にあるユダヤ人男性の教師が、異邦人の女性によって教えられて、自分の前言を撤回する・・・そんなことは、普通考えられないことではないでしょうか。しかし主はそうされたのです。なんと柔軟な魂!主は、名も知らぬ異邦人の「信仰」に心から感動し、自らの計画を変えたのです。そこに神のみこころを見たからでしょう。自分のメンツや感情を重んじるのではなく、神の導きを重んじる。自由なイエス様に従う者として、わたしたちも神の導きに従える自由をもっていたい。
 大胆な女と自由なイエス。この二人の出会いから大切なことを教えられます。大胆に、そしてとらわれずに、神の愛の中を生きましょう。
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by higacoch | 2013-03-23 13:45 | マタイ

2013年3月10日

 「仕える者」(東日本大震災を覚えて)  
          詩編27:7-14、Ⅱコリント4:1-6

                           
 明日は3月11日。あれから2年、今では、3.11として日本だけではなく世界でも、9.11と並んで忘れられない日となっています。否、忘れてはならないのです。今もその大震災によって家族を、親戚を、土地を、家を、仕事を失った人は数え切れないほどおられ、今も悲しみの中に打ち沈んでおられる方がいらっしゃるからであります。あまりにも急な出来事に、二年経った今も、時間が止まったかのように先に進めないで苦しんでいらっしゃる人がいるのです。特に高齢者の方々は、あまりにも大きな悲劇に生きていく力を失い、仮設住宅の部屋に籠っていらっしゃる方がおられるのです。私が仙台市の荒浜地区の仮設住宅にボランティアで伺った時も集会所に、朝の体操そしてお茶の会にも出て来られず、部屋に籠り気味の人が多かったことを思い出します。
 岩手県沿岸の気仙沼の地方にも大津波が押し寄せ大きな被害を受けました。そこで医者として働き、その近隣の人たちを診ていた山浦玄継氏が「3.11後を生きる」というシリーズの中に一冊の本を出されました。この方は福音書をケセン語に翻訳した「ガリラヤのイェシュー」という本を著され、昨年のキリスト教界のベストセラーとなり、本屋大賞に輝きました。こうしたことから信仰者に良く知られるようになった方です。この人が、大震災で大きな被害を受けた自らの体験を通して書かれた本の題名が『なぜと問わない』というものでした。この題名となったきっかけは、この問いを何度も聞かされたからです。大震災後、東京から取材に来たメディアの記者たちが揃いも揃って「実直な東北の人たちが、なぜ、このようなひどい目に遭わなくてはならないのか」と異口同音に質問してきたからなのです。そうした問いを聞くたびに山浦氏はよりによって「なぜ」を問うてくるのかと思ったそうです。それはあまりにも被災された方々とは対照的だったからです。山浦氏は医者でありましたから震災直後から何千人という患者さんを診て、多くの方の話に耳を傾けたそうですが、誰一人「なぜ、このようなひどい目に遭わなくてはならないのか」などと訪ねる人は、いなかったというのです。
 私はこの本を読んでショックを感じました。それは自分もメディアの記者たちと同じように、言葉には出さなくても心のどこかで「なぜ」を問うていたからです。被災者の方々が誰一人、この問いを投げかける人がいなかったというのは、私には想像も理解もできないものでした。イエス様もこうした「なぜ」の問いかけを戒めておられます。ルカ福音書の13章にこんな話があります。ある時、都エルサレムのシロアムの池の近くにあった高い塔が何らかの出来事で崩壊して18人の犠牲者が出ました。そうしたら、その住民たちが「なぜ」と問い、その答えとして、亡くなった人たちは神の罰が下ったと言い始めました。それを聞いたイエス様が、「あの人たちがエルサレムの他の人に比べてより罪深い人だった思うのか、決してそうではない。」と教え、そのような因果応報の考え方をする人こそが、罪を悔い改めなければ滅びると強い口調で語られています。こうした考え方は間違った考え方です。「なぜ、あの人たちが」と問うこと自体が因果応報の考え方に通じるからなのです。災害死は神の裁きであり、神が下した罰だと考えるのは神の御心ではありません。ですから口に出さなくても、頭の隅にでも考えたことは私自身も悔い改めなければならないと示されました。
 震災から2年が経とうとする時、震災直後とは、また違った課題が被災地では浮き彫りになってきています。私たちは昨年4月の東京3教会退修会で原発事故による放射能汚染地域にある原町教会の朴牧師から地域の声を聞きました。あれからほぼ1年が経って、最近新た届いた朴牧師からの文を通して知らされました。そこには地域の人たちの利権が絡んだ対立があり、地域のコミュニティーが壊れている状況が書かれてありました。そうした対立の中で、地域の人たちに仕えながら、一致のために、地域の人たちの和解のために、労していることが記されています。朴牧師はその地域に住み、地域の人と共に生き、地域の人たちのために仕えて生きようとされています。こうした生き方は、イエス・キリストの生き方です。イエス様も「わたしがこの世に来たのは、仕えられるためではなく、仕えるために来た」と言われました。これは人々の上に立って支配していくのではなく、むしろ人々の下になって仕えるために来たということです。
 今朝の聖書箇所で伝道者パウロも言っています。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身はイエスのために、あなたがたに仕える僕なのです」と。ここで、自分自身を宣べ伝える、ということは、自分自身の知識や考え方を伝え、隣人の上に立つことを願うことです。そうしたことをパウロは望まず、主であるイエス・キリストを宣べ伝えると言っています。これはキリストが人を愛し、人に仕えて、生きていかれたように、イエス・キリストの御心を伝えて、自分も生きるということなのです。だからパウロは言うのです。イエスのために、あなたがたに仕えるのだと。このことはコリントの教会の人たちだけではなく、教会以外の人たちにも仕えていくことであります。この御言葉は、今年のわたしたちの教会の標語「キリストに仕える」の主題聖句です。今年もキリストに仕え、隣人に仕えていきましょう。
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by higacoch | 2013-03-16 15:42 | コリント

2013年3月3日

「与えられる信仰と愛をもって」 詩編31:8-17、Ⅱテモテ1:6-14

 先週の金曜日(3月1日)は世界祈祷日でめぐみ教会に出かけてきました。世界祈祷日というのは、全世界のキリスト者が教派を超えて毎年定められた主題に沿って共に祈り合わせる日であります。祈りのためにパンフレットがあり、それを読んで祈りを合わせました。今年は、フランスの女性たちが取り組んでいる課題が取り上げられました。唐澤先生がネットでフランスの国内問題を調べて、今のフランスでは、移民政策が政府にとって最重要課題だと記されていたとお話して下さいましたわたしも帰ってきてから、ネットで調べましたら、本当に、問題が大きいなと知らされました。
 政府の移民政策は、制御と同化。制御は、フランスに都合のいい人を受け入れ、そうでない人は受け入れないということです。学者、研究者、優れたスポーツ選手等国益にかなった人は受け入れる、移民をあの人はNO、この人ならYESと選別するのです。次の段階としては、受け入れた移民の同化を促します。その人の宗教や文化の価値を認めず、国内の秩序や価値観に従わせ、それを拒否すると非難し、逮捕するのです。そして今から7年前の2006年5月には移民制御法案が国民議会で承認され、採択されています。
 こうしたフランスの移民政策で移民の人たちの苦しみの叫びがあります。この問題に対して旧約聖書からレビ記19章34-36節「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。」を挙げています。ここでの寄留者、それは移民の方々、そして不法移民と言われている人たちです。そして、新約聖書からはマタイ福音書25章31~40節が挙げられていました。「・・・わたしが飢えていた時に食べさせ、のどが渇いていた時に、飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、裸であった時に着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に尋ねてくれたからだ、すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしは、飢えておられるのを見て、食べ物を差し上げ、のどがかわいておられたのを見て、飲み物を差し上げたでしょうか。』・・・そこで、王は答える。『はっきりと言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ。』」と。ここは最後の審判のたとえであります。父なる神様が羊と山羊とを分けられる所です。
 レビ記にある寄留者は移民を、マタイ福音書にある旅人、これは単なる旅行者ではなく移民の人々を含んでいます。それらの人々は「わたしの兄弟(姉妹)なのだ」とそして移民にしてくれたことは「私にしてくれたこと」とイエス様は言われています。移民が祖国を離れざるを得なかった背景には、戦争、天災、気候変動による災害、経済破綻などがあります。こうした苦しみの中にいる人、外国籍の人の傍らに立ち、仲間になること、これはまさにイエス様が、徴税人や罪人と共に食事をされたりしたことに通じるのです。
 さて今朝与えられた箇所には、伝道者パウロが個人的にテモテに宛てた手紙です。彼が最後に出した手紙と言われています。彼はキリストに従って生きることで苦しみを味わうかもしれないが、それを耐え忍んでいくようにと勧めています。これは単に我慢し、耐えなさいと言っているわけではありません。6、7節で神から与えられた賜物は、臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊だと言っています。そして、神様は、永遠の昔にイエス・キリストによる救いの計画を立て、今や、キリストがこの地上に現れて救いが明らかにされたというのです。それゆえに、キリストの福音を人々に伝えるために、あなたも私も神様によって呼び出され、召された。神様はあなたに、神の力と神の愛と神の知恵による思慮分別の霊を与えて、神の子として生きるようにされているのだと。私たちが救われたのは、決して私たちの行いによって救われたのではなく、神の恵みによっているのだ、だから、あなたは決して臆病の霊を与えられたのではない。そのように臆病にならずに、キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって生きていきなさいと勧めるのです。またパウロと共に、福音のために苦しみを忍んで欲しいとも願っています。それは何よりもあなたも私も神様によって救われ、呼び出されているのだからと、語っています。だから、あなたも救いが与えられた今に生きるべきだ。キリストは私たちのために死に、新たな命を現わしてくださったのです。ここに生きることであり、まさにこれが神の国に生きること、神の民として生きることです。
 フランスのように移民を制御し、同化させていくのではなく、イエス様は、民族、文化の違いを超えて人々に救いを与えられたのです。キリストがすべての人の罪のために死んで下さったのですから、私たちの小さな歩みの中でも主を伝えて歩んでいきましょう。私たちもテモテと同じように、自分の内側に籠るような臆病な霊を神から頂いたものではなく、福音に生かされて生きるようにス様によって与えられる務めを果たしていきましょう。されていますし、それはキリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって生きることです。
 レントの時、イエス・キリストによって救われたことをしっかりと覚えて、イエス様によって与えられる務めを果たしていきましょう。
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by higacoch | 2013-03-09 17:49 | テモテ