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2013年2月24日

「神に依り頼み、強くなれ」 詩編18:2-7、エフェソ6:10-20 
                          
 パウロは手紙で「あなたがたは、キリストを信じる以前の生き方に戻ってしまうような生き方をしないでほしい」と訴えています。「以前、貪欲で欲に迷い滅びに向かって暗闇の生き方をしていました。憐れみ深い神様はそんなあなたがたをこの上なく愛して下さり、罪のために死んでいたあなたがたを救って下さいました。そのようにしてあなたがたを光の子として下さったのです。だから互いに愛し合い親切にし、憐れみの心で接し、神様がキリストによってあなたがたを赦して下さったように、あなたがたも互いに赦し合いなさい。あなたがたは神様に愛されているのですから、神様にならうものとなりなさい。」と勧めています。
 こうしたことから考えますと、教会の人たちがいつしか以前のような生き方になってきていたのでしょう。だからパウロはもう一度、キリストに救われた恵みを思い起こして、悔い改めて光の子として生きていって欲しかったのです。そうでないと暗闇に生きるような生活となってしまうからです。こうしたことを語ってきて最後のまとめに入っています。
 パウロは最後に「主に依り頼み、主の力によって強くなりなさい」と勧めています。ここは実にローマ兵の武装にたとえて勧めをしています。当時、エフェソの町にローマ兵が多く駐屯していました。彼らは武具を付けていて、頭には兜、手に剣か槍、体には胸あて、そして帯を締めていました。こうした武具をもって、パウロは身構えなさい、というのです。だからと言って、ローマ兵と同じような武具をー鉄製の胸あて、鋭い鉄製の剣を身に付けなさいと言っているのではありません。比喩で語っています。真理の帯、正義の胸あて、救いの兜、神の霊の剣を付けなさいと言っています。つまり戦争のための武具ではなく、人生の戦いに神の武具を身に付けなさいと勧めています。こうした信仰による武具を身に付け、そして霊の剣である神の言葉を取りなさい、つまり、神の言葉に従って生きていきなさい。と言うのです。 
 さて、こうしたパウロの言葉を読みながら、私は、現代の私たちの生き方を考え巡らしてみました。現代日本は少子高齢社会と言われます。先週の金曜日の夜、NHKの特別番組で2030年には超少子高齢社会になると言われていました。そのために、どのような生き方が今後求められるのか、将来の予測も踏まえながら専門家の意見なども交えて討論会が行われていました。その時代にはどんな環境になるのか、空き家が増えていき、ますます高齢者の孤立死が増えてくると言われていました。孤独死ではなく、孤立死という言い方に日本の社会がますます人との関係が薄れていくのだと感じました。番組では、その対策として、人と人とのかかわりが必要、互いが互いとの関係をもっていかなければならないとまとめていました。人が人との関係が薄らいでいくと、孤独高齢者の孤立死は増えていくことでしょう。神は人が孤立していくことを望まれたのではありません。そうではなく、互いに愛し合うことを望まれ、イエス様が自らの命さえ犠牲にしてまでも、私たちを愛されたのです。
 今朝の箇所でパウロがエフェソの教会の人たちに勧めていることは、わたしたちの生き方にも通じる勧めです。パウロが手紙で何度も神様が、憐れんであなたがたを愛されたと言っていますが、これはまたわたしたちにも通じます。神様は私たち一人一人を愛されました。神様の方がまず私たちに近づいて、私たちを愛して下さったのです。それは神様が私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うためであります。このことはこう言い換えていいでしょう。神様がわたしたちを受け入れて下さったように、私たちも隣人を受け入れていくということです。
 ここでパウロが「主に依り頼み、その力によって強くなりなさい」と言っています。この力は私たちが力んで出すのではありません。神様を心から信頼して、神様から頂くのです。自分の力を発揮するのではなく、与えられるのです。与えて下さる神様に依り頼むのです。これは祈りでもあります。神様に祈り求めるのです。パウロ自身も自分には人を愛する力があると言ってはいません。そうではなく、私(パウロ)にも人を愛する力はないと思っているので、「どうか私のために祈ってほしい」と願っているのです。神様の働きをしていくためにも、神様の愛を伝えるためにも、人々を愛していくためにも、私のために祈ってほしいと言っています。
 私たちは今年の教会標語として掲げているのは「隣人に仕える」です。それはわたしたちの力でそうしていくのではなく、その力を神様に求めて生きることなのです。神様が私たちに近づき愛して下さったように、私たちも小さな愛であっても隣人を愛し、隣人に仕え、隣人と共に歩んでいく者でありたいと祈り願います。
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by higacoch | 2013-02-28 17:40 | エフェソ

2013年2月17日

「賛美する者たち」  エレミヤ31:27-34、ヘブライ2:5-13

 先月28日に私たちは原田宣子姉妹を天に送りました。その原田姉が施設や病院に入院されていた時、時々教会員の方々とお見舞いに行きました。その時、いつも「主われを愛す」を賛美しました。また聖歌の「歌いつつあゆまん」も賛美しました。そして宣子姉が天に召され、葬儀の時もこれらを賛美しました。宣子姉のお姉様である淵江千代子先生から、お母様は実に熱心なクリスチャンで、子どもの頃から家族みんなでよく賛美していたとのことでした。
 賛美と言ったら、教会の礼拝ではなくてはならないものです。必ず賛美をします。賛美しない礼拝など考えられません。ではどうして礼拝で賛美をするのでしょうか。そうするようになった理由の一つが、今朝のヘブライ人への手紙の12節の言葉です。その後半に、こうあります。「集会の中であなたを賛美します」と。
 この「集会」は礼拝です。私たちにとっての主日礼拝、今まさに行っている礼拝です。もう少し丁寧に12節を最初からみますと「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」とあります、この12節はカッコでくくられていますので、手紙を書いた人の言葉ではありません。旧約聖書の詩編(22:32)からの引用です。しかし、この手紙の言葉は少し違っています。それは「御名」が「あなたの名」となり、「兄弟たち」が「わたしの兄弟」となっています。それはより明確に、「わたし」と「あなた」が、はっきりと浮かびあがるように書き加えられているのです。この「わたし」はイエス様であり、「あなた」は父なる神様なのです。
 歌と言ったら、いろんな歌があります。恋愛の歌、失恋の歌、悲しみの歌、故郷を思い出す歌、季節の歌など種々あります。しかし礼拝の中で歌うのはただ一つです。「あなたを賛美します。」(12節)とあるように、神様をほめたたえるのです。また「わたしも共に」とあります。わたしとはイエス様ですから、イエス様も共におられて共に賛美されているのです。この手紙では、イエス様にいろいろな呼び名を使っています。9節では、わずかな間、天使よりも「低い者とされた方」と呼んでいます。天使よりも低い、ということは、「天使ではない」ということですが、それで何を言いたいのでしょうか。それには天使とは何者であるのかが解れば、はっきりします。
 天使は肉体を持っていません。そうしたことで天使は死なない。死なないので死の恐怖もありません。肉体がないので肉体の痛み、苦しみもありませんし、解りません。ですが、イエス様が天使よりも低くなられたということは、人間になられたということです。肉体を取られたということであり、肉体が滅びる、死を味わう者になられたということです。死があるので死への恐怖心があり、肉体があるので痛み苦しみをも味わわれたということです。しかしながら、イエス様が人となられたことを信じない人々がいました。彼らはイエス様は神の子なんだから、死なないし、私たちのように苦しむこともない。そして十字架にかかられた時も、死ぬ直前に、イエス様の魂は天に挙げられたと主張したのです。だから、死んだのではないというのです。こうした理解は間違っています。
 神様のご計画では、イエス様を救いの創始者とすることでした。救いを地上で始める方、それがイエス様だったのです。そのために、神様はイエス様を天使よりも低くされ、人間とされました。こうしてイエス様が地上で救われる人を起こされたのです。このように救われた人たちが礼拝の中で、神様をほめたたえると言っています。また続けて、14節以降でこう語っています。「人々がみな血と肉を備えているように、イエスも肉体を備えられ、死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためだった」と。このようにイエス様がご自分の血と肉を供えられたことによって、死の苦しみや肉体の痛みを味わわれたと言っています。
 私たちは、今レントの時を過ごしています。イエス様が私たちのために十字架に向って歩まれたことを覚える時です。イエス様は、私たちと同じように人間として、肉体の苦しみ、死への恐怖を担って下さっいました。そして私たちのために命を賭けて死んでくださったのです。このことを深く覚えて、このレントの時を過ごしましょう。またそれと同時に、私たちの罪を赦し、神の国を作り上げていくようにと祝福して下さったのです。このことを深く受け止めて、イエス様の愛を、心から喜び、神様を賛美して歩んでいきましょう。神様から愛され、今も生かされていることを覚え、小さな歩みであっても主を賛美して生きていきましょう。主がまず私たちを憐れみ、愛して下さったのですから。    
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by higacoch | 2013-02-23 16:04 | ヘブライ

2013年2月10日

「新たに生まれた」  詩編109:21-31、ペトロ一1:22-25 

 今朝のペトロの手紙の箇所には、「生活」という言葉が三度も出てきます。(15、17、18節)こうした「生活」という言葉は新約聖書全体で調べてみても少ないのです。四つの福音書にはたったの三回だけ。出てくる箇所は皆さんもすぐに思い出されると思いますが、貧しいやもめの捧げものの箇所で「やもめは、生活費を全部入れた」という箇所です。また福音書以外ですと、伝道者パウロが書いた手紙が多くありますが、その中で一番長いのはコリントの教会に宛てた二つの手紙で43ページありますが、その中で14回出てきます。それに比べてペトロの手紙は二つ合わせて13ページですが、13回も出てきています。またパウロのよく知られたローマの手紙も長いのですが、そこにはたったの2回しか出てきません。それに比べて今朝の箇所には、短い中にも3回も出てきています。こうして考えると、パウロは「生活」にそう関心を持たなかったと言えます。しかし信仰については、パウロはローマの手紙で重要なことを述べています。たとえば「正しい者は、信仰に生きる」、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのだ」とかです。このように信仰についてはよく書いているのですが、信仰と生活との関係はあまり書いていません。こうしたことからパウロは理屈っぽい人だと想像できます。それもそうでしょう。彼は学者であり、当時の一流な教育を受けていたからです。その点ペトロは違います。彼は漁師でガリラヤ湖で魚を捕って生計を立てていました。つまり体を張って生きてきた人でした。そんなペトロがイエス様に召し出されて弟子となったのです。ペトロは弟子になって性格も変わったのではありません。ペトロはペトロ、ペトロの持っていたものをイエス様は良い方向に用いられました。彼には実践力があり、行動力、指導力がありました。彼は弟子たちのリーダー格として活躍しました。学者肌のパウロとは違って生活力があった彼は突飛なことを言ったり、また仕出かしたりして失敗も多くしました。しかし、ペトロが偉いのは失敗をしでかした時でも、うずくまり自分の内にこもってしまうことなく、イエス様の所に言って「ごめんなさい」と言ったのです。そして悔い改めました。何度失敗をしてもそのたびにイエス様の所に戻って行って悔い改めました。そんなペトロが書いた手紙なのです
 18節にこう書いています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものによらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」と。ここには、はっきりと「金や銀」のような朽ち果てるものによってではなく、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によっているのだと書いています。これはイエス・キリストの十字架の死によって罪が贖われた、ということです。つまりペトロはこう言うのです。神様の前に多額の寄進をする、それによって救われ、聖なる者になったのではないということです。
 私は「金と銀」ですぐに思い出すことがあります。それは私自身の献身を促された言葉であります。「金銀は私にはない。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」(使徒言行録 3:6、口語訳)という言葉です。ペトロは神殿に詣でて祈りの時を持とうとして神殿の庭に入って行こうとしました。すると、「美しい門」の手前で足の不自由な物乞いの男と出会います。ペトロがこの男に言ったのです。「あなたに差し上げる金銀はありません」と。私は「金銀」これはお金でしょうが、それだけでなく、この世の価値あるものも含んでいると考えています。それを私は何も持っていませんでした。しかし、だからと言って、何も持っていないわけでない。私にあるものがある。それは与えられたものだけれど確かに持っている。それはイエス・キリストの名によって生きること、イエス・キリストを信じて生きること、私はそこに生きよう。そしてそれを分かち合っていこう。そして献身していきました。
 ペトロは「あなたがたはキリストの尊い血によって贖われた」と言っています。あなたがたは以前、むなしい生活をしていた、そんなあなたがただった。金や銀のような朽ち果てるものに頼っていたむなしい生活をしていたというのです。そうしたむなしい朽ちる歩みではなく、聖なる者とされている歩み、喜びと希望にあふれ、人と共に生きる歩みがあると勧め、朽ち果てない神様を信じて、生活をしていくようにと語り掛けているのです。それは変わることのない神の言葉によって、新たに生まれた者として生きて行くことなのです。
 私たちも新たに生まれた者として神様を信じて生活をしていきましょう。私たちの生活の中にも、神様が働いて下さっているのですから、キリストの愛を伝えて歩んで行きましょう。
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by higacoch | 2013-02-16 15:23 | ペトロ

2013年2月3日

「あなたの体とは何か」 詩編51:12-19、コリント一、6:12-20

 最近、朝日新聞にも取り上げられたのですが、若者の中で売れている本に「ネガポ辞典」というものがあります。この辞典は大学生の二人がまとめて、本となって売り出されたものです。この本はネガティブな言葉をポジティブに変換する辞典です。たとえば、ネガティブな言葉、八方美人、一般的には「自分の本音を偽って周りの人の意見に賛成する」というネガティブな印象を持つ意味となっていますが、前向きに「フレンドリー」「愛想がいい」「気配り上手」などとポジティブな意味の言葉に置き換えることができます。「あいつ誰にでも調子よく接して八方美人じゃねーか」これをポジティブに変換すると、「あの人、自分の主張をぐいっと飲み込んで、フレンドリーに接しているんだなあ」となります。こうしたネガティブ言葉をポジティブな表現に変換した辞典なのです。この辞典の利点は、前向きになる、自分に自信が持てるようになる、苦手な人をちょっとだけ好きになれる、気がついていないことに気づくということです。いつしか自分や相手の暗い面しか見ていない、その別の面を見出すことができるということです。 私はこの本読み進んでいく中で、この本は現代の人間関係が難しい時代に、一つの潤滑剤となるような辞典だなあと思いました。時代がこうしたものを必要としているのだなあと思いしました。
 さて、今朝、与えられました聖書の箇所は、コリントの信徒への手紙の一です。これは伝道者パウロが、ギリシアで当時、最も栄えたコリントの町にあった教会にあてた手紙であります。この教会は現代で言えば、新宿区の歌舞伎町にある教会のようなもので、悪徳と虚栄の町にありました。そんな教会にパウロは大胆に切り込んでいます。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と言っています。この箇所を良く見てみると「わたしには、すべてのことが許されている」という言葉がカッコで括られています。しかも、同じように、二度もそうしてあります。ということは、ただパウロが述べている言葉というよりは何らかの意味を持っているということです。これはコリントの教会の人たちの口癖だったようです。これをもう少し説明を加えるとこう言えるでしょう。「わたしは、神様を信じることで出来て、神様によって罪赦されているから、どんなことでもしていい。それ程わたしは自由だ。だから嬉しい。すべて許されているのだから何やってもいいのだ」と。教会の人たちの中にいろいろな欲にかられて好き勝手にする人たちがいたのです。具体的にどんな人がいたかと言いますと、今朝の箇所のすぐ前の6章10節にありますが、「泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人のものを奪う者たち」がいたのです。また、この町は性的にも乱れた町でしたので、9節にあるように「姦通するものや、男娼、男色をする者たち」もいました。パウロも11節にはっきり言っています。「あなたがたの中には、そのような者もいました」と。
 実際、パウロも「私たちは律法のくびきから自由にされている」とか、「キリストはわたしたちを自由の身にして下さった」とか、「自由を得るために、あなたがたは召し出された」とか言っていました。こうしたパウロの言葉を取って、彼らは好き勝手なことをしていたのでしょう。だからパウロはここで、繰り返して言っているのです。「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と。これは、わたしは欲に支配されることはないと言っているのです。そして、ここでパウロは欲に駆られた人たちに対して、「これこれをするな」「欲に駆られるな」「酒におぼれるな」「人を悪く言うな」とただただ禁止命令を出しているのではありません。そうではなく、もっと大事なことを伝えています。それは、あなたがたは神様から恵みを頂いた者たちなんだということ、そしてあなたがたの体は、神様から頂いた聖霊が宿って下さる神殿なのだというのです。だから、「あなたがたの体を、もはや自分自身で勝手にしないで、むしろあなたの体で神様の栄光を現しなさい。」と語り掛けています。
 先程のネガポ辞典は、ネガティブな言葉をポジティブに変換する辞典ですが、これは人間関係や自分や隣人の新しい面を発見するにはいいとは思いますが、もっと根本的な価値を発見しなければならないと思うのです。言葉の上でのコミュニケーションだけではなく、もっと隣人の根底にある価値、また自分の価値を見つめてのコミニュニケーションでなければならないと思います。それが、パウロが語っていることでしょう。パウロは「あなたがたの体は、神様から頂いた聖霊が宿って下さる神殿だ」と言っています。私たちは、こんなことを聞くと、「そんな!」と否定したくなります。「そんな、清いものではない」というでしょう。そうです。私たちの体は清いものではありません。聖霊が宿って下さる神殿と言っていますが、神殿というのは神様ご自身ではありません。ですから神殿を拝むのではありません。そこで神様を見上げるのです。イエス様も言われましたが「神殿は祈りの家」です。神がそこを清めて下さいますが、いつでもどんなときにも清いというのではありません。神が清くして下さる所なのです。そして、今も聖霊を注いで下さる所となのです。ですから、神様に感謝して、この体で「神様の栄光を現すように生きていきなさい。」とパウロは勧めているのです。
 どんな体であっても、神様が聖霊を下さる器として下さっていることを覚え、小さな歩みであっても遣わされた所で、神様をほめたたえて生きていくものでありたいものです。
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by higacoch | 2013-02-09 16:28 | コリント