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2013年1月27日

 「権威ある教え」 申命記30:11~16、マルコ福音書1:21~28 
                           
 当時、ガリラヤ湖の面した町の中でもカファルナウムは最大の町でした。イエス様は、この町をベースにしてガリラヤ伝道に励まれました。またイエス様の伝道活動の最初の場所でもありました。今朝の箇所の少し前に記されていますが、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と語り出して伝道を開始されたのです。そしてガリラヤの湖で漁業を営んでいたシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネを弟子として召し出されました。こうして伝道が始まり、イエス様は人々が礼拝を捧げる会堂に行って説教されたのです。そこには弟子4人もいたことでしょう。
 説教は現代のように立ってしたのではなく、座って行ったようです。どれくらいの時間語られたのか分かりませんが、説教を聞いた人たちはその教えに驚きました。今まで聞いたことのない教えだったのです。人々は「非常に驚いた」とあります。これはギリシア語で見ますと一つ言葉です。そう訳さなければならない、単なる驚きではないのです。大きな驚き、非常な驚きなのです。そして、同じ言葉が故郷のナザレの会堂で説教された時の人々の驚きでも用いられています。それは巡回教師であった律法学者のような教えではなかったからです。
 さらにこの箇所で、もう一つの「驚き」が記されています。それはイエス様の教えを聞いた人たち中で最初に応答したのが一人の霊に取りつかれてしまった、病いを抱えた人でした。この人がイエス様の教えを聞いて突然、叫んだのです。「かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と大きな声を張り上げて叫びました。私は、この人の叫びを聞いていると、こんな人ではなかったかと思えてくるのです。自分で自分が分からない、どのように生きて行ったらいいのか分からない。心が分裂していて自分で何をしたいのか解らない、そのようことで苦しんでいた人ではないかと思えるのです。誰に頼ったらいいのか分からない。頼ろうとしても誰も自分のことをかまってくれない。そんな孤独な人ではなかったのと思うのです。そして、会堂の隅の方に追いやられていたのではないでしょうか。その人が、イエス様の権威ある教えを聞いた途端、叫び出したのです。この人は「苦しめないでくれ、滅ぼしに来たのか」「おまえの正体は分かっている、おまえは神の聖者だから」と叫んでいます。神の聖者が、こんな俺を滅ぼしにやってきたのか、これ以上、苦しめないでくれと叫んでいるのです。この人が叫んだことは、ある面では正しいのですが、その半面は正しくありません。神の聖者、これは神に遣わされた者の意味であり、救い主を意味する言葉です。だから、この人はあなたは救い主メシアだと言っているのです。その反面、滅ぼしに来たと言っていますが、これは間違いなのです。この人は、イエス様のことを病気の自分を滅ぼしにやってきた、聖なる者と考えていました。病気の人、霊に取りつかれている人、そうした人を、当時の人々は、神様からも見捨てられていると考えていました。しかしそうではありません。全く、その逆です。イエス様は言われています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と。だから、病気の人・罪人を滅ぼすためではなく、救うためにこの人の前に立っていらっしゃるのです。
 この人は、自分は滅ばされる者、無価値な者だと自分でそう決めて込んで苦しんでいます。しかし、そうではないのです。そのような病気の人は、滅びなければならないのではありません。だから、この人の叫びを聞いてイエス様は、この人に真剣に関わられました。無視されたのではなく、逆にこの人にかかわって激しく命じられました。「黙れ、この人から出て行け」と。すると、汚れた霊がその人から出て行ったとあります。これは、その人がいやされ、回復したということです。またこうも言えます。生き返ったと。
 人々は、この出来事を見て、みんなが驚きました。この驚きは、前の驚きとは違います。ギリシア語でも違う言葉が使われています。こちらの驚きは、一種の畏れを抱く驚きです。恐怖の恐れではなく、畏れ敬う畏れです。
 こうしてイエス様に畏れを抱いたのです。そしてイエス様の権威ある教えを新しい教えだと言っています。ここでの「新しい」という言葉は全く新しい、これまで地上にはなかったもので、ここに出現した新しさを表す言葉です。こうしたことでイエス様のうわさは、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まりました。
 イエス様は、病人を滅ぼしに来られたのではありません。病人を生かすために来られたのです。イエス様の権威ある教えは、単なる言葉だけの教えではなく、出来事を起こす言葉なであり、人を滅ぼすためのものではなく、生かすものであります。どうか、今、救いをも求めている方々が、ぜひイエス様の権威ある教えを受け止めて、イエス様を信じて歩んで頂きたい。
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by higacoch | 2013-01-31 17:28 | マルコ

2013年1月20日

「心のフォルダを上げよ」  フィリピ3:17-21
                  唐澤健太牧師(国立のぞみ教会)


 「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者にとなりなさい」。パウロはキリスト教の歴史の中で類まれな人物の一人だ。彼ほどキリスト教会の歴史において後の時代に大きな影響を与えた人物はいない。だからパウロに「わたしに倣う者となれ」と言われても、これはなかなか簡単なことではない。
 しかし、パウロは決して自らが完全無欠であり、非の打ちどころがない者として自分を提示しているのではない。パウロは「わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。なんとかして捕らえようと努めているのです」と言う。そしてランナーが前のめりになって「賞」を目指してひた走るように、自分も今まさにその途上にあることを語っている。パウロが「わたしに倣う者になりなさい」と言っているのは、このひたむきに「目標を目指している」姿にことに他ならない。
 なぜパウロは、「わたしに倣う者になりなさい」と呼びかけるのか。なぜパウロは、「わたしに倣う者になりなさい」と呼びかけるのか。それは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多い」からである。十字架に敵対する歩みとは「(みずからの)腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えない」ことだ。「彼らの行きつくところは滅びです」(19節)。
 「しかし、わたしたちの本国(国籍、市民権)は天にあります」。パウロは、キリスト者は、この世においていったい何者であるのかを明確にする。このパウロの言葉はローマ帝国への愛国心が強かったフィリピに住む人々には、意味深長な言葉として届いたに違いない。ここにキリスト者のアイデンティティ、キリスト者の本性が凝縮されている。キリスト者とは、天の国の市民なのだ。
 「大使」と呼ばれる人たちがいる。彼らは外国で本国から全権を委任され、本国の命に従って職務を全うする人たちである。キリスト者は言うなればこの世にあって「天ある本国」の命に従って働く「大使」であり、教会は「大使館」なのだ。大多数の者たちが「この世のことしか考えない」中で、キリスト者は「天」のことを考える。この地に生きる者として、天の属する者として生きるのだ。
 以前、合同退修会でお招きした写真家の桃井和馬氏は世界各地の紛争地を巡る経験を通して、人間が生きる時に、「心のフォルダを引き上げる」ことの重要性を説いている。たとえば日本人というフォルダを一つ上げるとそこには中国や韓国を含む「アジア」がある。もう一つ引き上げればアフリカ、ヨーロッパを含む人間世界のフォルダ。さらに上に行くと、植物も動物も、地球に生きる同じ生き物。地球と言うフォルダの上は宇宙。宇宙の上は、人によって「神様」とか、「神々」とか、「絶対的存在」と呼ぶ。いずれにせよ「共通するのは、そこが人間の越えた領域」。つまり聖書の言うところの「天」がある。桃井さんは宗教紛争とか、民族紛争などの現場に立ちながら、わたしたちの今日の個所でいえば「天」までフォルダを引き上げる必要がある! と語る。
 第二次世界大戦の時にナチスの手を逃れるためにユダヤ人たちに「命のビザ」を発給し6000人の命を救った杉原千畝という人がいる。彼は本国(日本)からユダヤ人に対してビザの配給許可がおりない中で、彼は「私を頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」と言ってビザの発給を独断で行った。後に妻の幸子さんはその時のことを「『神は愛であり、愛は神である』と聖書にあります。異邦人であろうと人間と人間の愛は世界の幸せにつながるという、夫と私の考えは間違っていなかったと思います」と記している。彼は日本国では職務違反を問われたが、天の本国の職務に忠実であった。天に心のフォルダを思いっきり引き上げた人であった。
 今、非常にフォルダを下げる力が強く働いている。昨年末の国政選挙の結果いよいよその力が強くなることを危惧する。「十字架に敵対して歩んでいる者が多い」時代とは、今のことではないか。この時に国を超えて、天にまでフォルダを高く引き上げて生きる人間が必要である。心のフォルダを天にまで思いっきり引き上げよ!
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by higacoch | 2013-01-26 17:07 | フィリピ

2013年1月13日

「わたしの愛する子」  出エジプト14:15-22,マルコ1:9-11
                          
 今朝の箇所で、イエス様が、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられた時、天からの声があったと記されています。その声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」というものでした。この言葉は、相手に対しての肯定的な言葉か否定的な言葉かで分けると、肯定的な言葉であります。神様が「わたしの愛する子」と言われているのですから、「あなたを知らない」と言われていません。「わたしはあなたを愛している」と言われているのです。この愛の言葉は預言者イザヤの書にもあります。「わたしの目に、あなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(43:4)とあります。神様が預言者イザヤに言われたのです。あなたは価値ある貴い存在だ、「わたしはあなたを愛している」と。
 この愛の語り掛けは、イエス様に語り掛けられたものですが、私はイエス様だけにではないと思います。神様の言葉に従って生きる者にも語り掛けておられる言葉ではないでしょうか。また預言者イザヤへの言葉も、イザヤだけに語り掛けられた言葉ではないと思うのです。それは私たちに語り掛けられた言葉です。
 母親がわが子に語り掛ける言葉で、大事な言葉は肯定的な言葉であると言われます。「ダメだ」「あなたは良くない」「どうしてお母さんの言うことを聞かないの」と叱ってばかりいては良くない。躾と称して手を出す、たたく、つねる。言葉だけではおさまらない、暴力で強いる。今、大阪市立高校のバスケット部のキャプテンが顧問から体罰を受けて自殺したことで、過度の体罰が問題になっていますが、これも力にものを言わせる行動だと思います。こうした否定的な言葉、暴力は決して人を育てない、育てるどころか委縮させてしまい、人の顔色を窺う人間を育てることになります。ですから、子育ても、肯定的な語り掛けが必要です。ここで神様がイエス様に語り掛けられた言葉は、まさに肯定的な言葉であり、その中でも最も肯定的な言葉を語り掛けてくださっています。「あなたは頭がいい」とか、「学校の成績が良いから、いい子だ」というようなことよりも、もっと深い所からの言葉、それが「あなたはわたしの愛する子」に現わされていると思います。
 伝道者パウロも、こう言っています。人が、「たとえあらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ無に等しい。」と。またヨハネの手紙では「神は愛なり」、神様は愛の神様だと言っています。ということは、神様は、わたしたちに最も深い言葉を語り掛けておられます。「神様は、わたしたちの最も深いところまで愛して、語り掛けておられる方だ」とも言えます。
 日本語の聖書では一種類の「愛」と訳されている言葉は、原語のギリシア語では3つの言葉になっています。神の愛のアガペー、人の愛のフィリア、そして性愛エロスです。聖書は神の愛、アガペーが多く語られています。今朝の個所も、伝道者パウロも語っていものも、神の愛アガペーの愛なのです。
 さて、イエス様はヨハネから洗礼を受けておられるのですが、ヨハネが人々に洗礼を授けたのは、何のためでしょうか。彼は罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えたとあります。彼が授けた洗礼は悔い改めの洗礼です。では、イエス様は何か悔い改めをしなければならないようなことをされたのでしょうか、イエス様も何か罪を犯されたのでしょうか。そうではありません。イエス様は罪を犯されていません。では、なぜイエス様は洗礼を受けられたのでしょうか。それは、わたしたちのためだと思うのです。イエス様はわたしたちが神様の心に適う者として生きることを願われたので、洗礼を受けられたのです。自分のためにではなく、私たちのために、洗礼を受けられたと。
 このことは、教師として人々から尊敬されていたニコデモとイエス様のとの会話から教えられます。彼はイエス様の所にやってきて、「イエス様は素晴らしい方です。どうしてそのようなことができるのでしょうか」と問いました。それに応えて、イエス様は言われました。「はっきりと言っておく。人は、新たに生まれなければ神の国を見ることはできない」と。これに対して、ニコデモはもう高齢でしたので、「どうして、このような年取った者が、新たに生まれることができましょうか」と聞き返します。するとイエス様は、もう一度「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれた者は肉である。霊から生まれた者は霊である」と言われました。今朝の個所に、イエス様がヨルダン川の水で洗礼を受けられ、水の中から上がられると、すぐに霊が鳩のように降ってきたとあります。ここに水と霊が記されています。つまり、人が新しく生まれることが、神様の心に適う生き方なのです。そして人が新しく生まれるというのは、洗礼を受けることなのです。洗礼を受けることによって、霊から生まれ、新しくされるのです。ここで洗礼というしるしだけを強調してしまうと、誤解が生じてしまいます。洗礼さえ受ければ、もうそれでいいというものではないからです。洗礼を受けるということは、罪の赦しのしるしであり、罪の贖いをして下さったイエス様を信じて、イエス様を私の救い主と信じて受けるべきです。イエス様を信じて、洗礼を受ける人は、神様によって新しくされた霊の人となるのです。そして本当の意味で神様からの語り掛け「あなたは、わたしの愛する子」を聞くことができます。
 神様は、あなたを愛しておられます。あなたは罪人であった時から、愛して下さったし、今も愛して下さっています。あなたは、神様に愛され、生かされているのです。 
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by higacoch | 2013-01-18 17:10 | マルコ

2013年1月6日

 「相続人」  イザヤ書49:1-6、ガラテヤ書4:1-7

 聖書の言葉に「主のいつくしみは、決して絶えない。主の憐れみは、決して尽きない。それは朝毎に新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」(哀歌3章22,23節)とあります。主のいつくしみは、絶えることがありません。その憐れみは、尽きることはありません。朝毎に新しい恵みを頂き、今年も一日一日を歩んでいきたいと思います。
 さて、私たちの教会の今年の教会標語は、「キリストに仕える」であります。「キリストに仕える」というのは、イエス・キリストだけに仕えるだけでいいというのではありません。キリストに仕えると同様に、隣人に仕える、このことも共に受け止めて歩んでいきたいものです。
 さて、今年は元旦と祈祷会とが続くこととなり、こうした時は一つを選ぶことになっていて元旦礼拝を選びましたので、2日はゆったりと過ごしました。私は朝9時頃に教会の駐車場で簡単な大工仕事をしていましたら、踏切の方から、若いお父さんと3歳位の坊やがゆっくりとこちらに向かって歩いてきていて、可愛いいやり取りをしていました。坊やが小さな指でさしながら「ここは何屋さん」と聞くと、「文房具屋さんだよ」とお父さんは答え、「ここは、何屋さん」「ここは床屋さんだよ。」と答えていました。こうして教会の前まできて「ここは何屋さん」「ここはキリスト屋さんだよ」とお父さんが答えているのを私は聞いて、微笑ましくなりました。そして改めて「キリスト屋」さんと言われたことを思い巡らしました。すぐに思ったのは「キリストを売る」ということです。国語辞典で「売る」を調べてみると「世間に言い広める」という意味を見つけました。この凡例では「名を売る」があり、そうであるなら「キリストを売る」ということは、キリストを世間に言い広め知らしめることでも使用してもいいのではないかと思いました。
 そんなことを思いながら、今朝の聖書個所を読みましたら、パウロは教会の人たちに向かって「あなたがたは奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人である」と言っています。そうならば、神様の財産を受け継いで神様のことを売ることになる。つまり神様のことを世間に言い広めなければならない者とされているのではないかと思った次第です。
 日本では、民法が定める相続人とは、被相続人(=相続される人)、大体が、配偶者か、親などです。ですが、聖書が書かれた、伝道者パウロが生きていた時代、その国々をローマ帝国が支配していましたので、ローマ法によれば、相続人はあくまで子どもたちでした。現代法では妻は二分の一の財産を受け継ぐことができるのですが、古代ローマ法ではそうではありません。妻には特別な割合があるのではなく、妻も一人の子どもと同等で妻も入れた数で分けられました。
 パウロは、ローマ法にもよく通じていたのでしょう。彼は、ユダヤの国の法律(律法)の専門家であり、学者でありましたから、ローマ法にも関心があったに違いありません。ですから、「あなたがたは、奴隷ではなく、子です。」と言っています。相続人は子たちで、奴隷は、主人の相続人となり得ないのです。そして、パウロは、あなたがたは、単なる人の相続人ではなく、神の相続人だと言っています。直前には「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものとだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。」と語気を強めて言っています。
 伝道者パウロは、ユダヤ人もギリシア人もない、民族の優劣や対立があるのではない、どちらもキリストにあって一つだと言いたい、またそれだけでありません。当時の身分制度では、奴隷と自由人とに区分けされていました。しかし、そうした奴隷とか、自由人とかの区別や差別が正当化されるのではありません。人として、奴隷も自由人も、キリスト・イエスにおいて一つだと言っています。これはこうも言えます。教会の中では、身分制度が成立しないということです。神にあっては、その人が奴隷であれ、自由人であれ、その序列も階級もないのです。さらにパウロは、「男も女もない」「キリスト・イエスにおいては、一つ」なんだと言っているのです。
 パウロは、イエス・キリストを信じる者たちは神の子ですから、そうした人たちは、キリストにあって一つであり、神の子であり、神の相続人である、神様の財産を受け継いでいる相続人であると言いたいのです。その財産は「人が救われる」という救いの財産です。それを受け継ぎ、人々に分け与える人たちだと言いたいのです。そのように、神様があなたがたを「相続人」とされたのです。
 新しい年が始まりました。私たちは、神様から立てられた神の相続人としての歩みが与えられています。どうか、キリストの救いの財産を委ねられて、人々にも分け与えるように、隣人に仕えて歩む者として生きていきましょう。それがどんなに小さな歩みであっても。
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by higacoch | 2013-01-12 12:28 | ガラテヤ