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2012年12月30日

「星が先立って進む」  イザヤ49:7-13, マタイ福音書2:1-12
                              
 先主日のクリスマス礼拝では、共にイエス様の誕生を喜び祝い、神様をほめたたえることができました。私たちの救い主イエス様の誕生物語は、4つの福音書の中の2つの福音書、ルカ福音書とマタイ福音書にしか記されていません。ルカ福音書には、ユダヤ人たちの中で最も貧しい人たちと言われた羊飼いたちが記されていて、その羊飼いたちに、まず最初に「あなたがたに告げる」と言って、天使が、「すべての人に与えられる大きな喜びを伝える」と語りかけ、伝えました。大きな喜び、これは、「最も大きな喜び」と言っていいのです。すべての人に与えられているのですから。
 もう一つのマタイ福音書では、イエス様に出会ったのは「学者たち」です。羊飼いたちは、どんなに貧しくても彼らはユダヤ人です。ユダヤ人は自分たちは神に選ばれ愛されている民だという選民意識が強かったのです。その反面、非ユダヤ人を異邦人と呼び、神様から選ばれていないと蔑みました。では、学者たちは神様に選ばれ、愛されていないのでしょうか。そうではありません。愛され、選ばれています。彼らも赤子のイエス様に出会いました。神様はユダヤ人だけでなく、すべての人を愛されたのです。
 学者たちは、ユダヤにやってきました。それは星が導いたからです。学者たちは星に導かれて、ここまでやってきました。今朝は、このことを大事なこととして学びたいのです。
 星の光は、大きく言えば、彼らを二つに分けて導いています。第一は、東方の国からユダヤの国まで、もう一つは、ユダヤの都エルサレムからイエス様の誕生の地、ベツレヘムまでです。ピンポイントで誕生の場所を照らしました。彼らは喜び、そして、中に入って、イエス様を拝みました。これが最初のキリストの礼拝、つまりクリスマスです。クリスマスとは、キリストとマスとの合成語であり、マスとは礼拝を意味しています。ですから、クリスマスとは、キリストを礼拝することなのです。ここで、初めて礼拝がなされました。
 星は、彼らの先に輝き、彼らを導きました。夜空に輝く光、暗闇の中に輝く一条の光が、学者たちの先に立って動き導きました。そして、ある所を照らして止まっりました。ついにたどり着いたのです。学者たちは、それが解って喜びに溢れました。彼らは、心からひれ伏して、その幼子イエス様を拝み、用意していたプレゼント、宝の箱を開けて中から取り出して黄金、乳香、没薬を捧げました。その後彼らは夢を見て、「ヘロデ王の所に行くな」と告げられて、それに従い、来た道とは違う道を通って自分たちの国に帰って行きました。
 私は、学者たちを導いた星の光のことを思いめぐらすと、必ずと言っていいほどに思い出すことがあります。それは今から43年前、私が高校生の時のことです。私は山岳部に所属し、九州の山々をよく登っていました。私たちが良く知っている地元で簡単に登れる背振山(1054m)で遭難事故が起こりました。雪がちらついているある日のことです。一人の登山者が山頂近くで道に迷いました。そんな中で彼は人の足跡を見つけたので安心し、その足跡に辿って歩き続けました。そして寒さも加わり、疲れが出てきて休み、眠気に襲われ、つい寝てしまって帰らぬ人となってしまいました。この人が誰かの足跡と思い込んでいたものは自分の足跡だったのです。この人は大きな円を描いて左回りにぐるぐる回っていました。自分が確信した考えに従って歩んでいたのですが、それは同心円だったのです。私は、人が自分の知識や知恵で生きる時、同じように循環的な歩みをして最期は死んでいくのだろうか、まさにこれこそが人の運命ではないかと感じました。
 人は自分の限界の中でぐるぐる回って人生を歩み、ついには死に至るのでしょうか。人生ってそれだけなのでしょうか。否、そうではありません。神は人をそのように生きるように運命づけられてはいません。神は導いておられるのです。学者たちを導かれたように、光は輝いています。それは、神が私たちを愛しておられるからです。神は私たちが死から命へと生きるように導いておられるのです。
 命の光は、今も輝いています。では何処にとなります。それは聖書の言葉です。聖書の言葉が今も輝く命の光なのです。この光は、今も輝いて皆さんを導いているのです。そして、イエス・キリストとの出会いを与えようとされているのです。命の光は、聖書の言葉が説かれている礼拝において示されるでしょう。しかし、すぐにはその光を見出せないこともありますし、なかなか見出せないこともあるでしょう。しかし、光は、確かに輝いているのです。なぜなら、神様は、私たちに、死ではなく、命を与えようとされているからです。
 今も輝いている命の光、それは神が、今も皆さん一人一人愛しておられるからです。星の光は、あなたに先だって進み、あなたを導いています。ぜひ、皆さんが命の光を見出して、キリストに出会って、人生の旅を歩んでいって欲しいのです。大事な一度限りの人生だからです。
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by higacoch | 2012-12-31 15:25 | マタイ

2012年12月23日

「幸いな人とはどんな人」  詩編113:1-9, ルカ福音書1:39-56 

 クリスマスはイエス様の誕生を喜び祝うものですが、それは神様を信じる者だけに関係したことではありません。ルカ福音書には、イエス様の誕生は「すべての人に与えられる大きな喜び」だと言われていますし、またヨハネ福音書には「すべての人を照らすまことの光」、「すべての人を照らしている」ともあります。
 さて、この日の説教題を「幸いな人はどんな人」と掲げました。幸いな人って、どんな人なのでしょうか。皆さんは、幸いな人って、どんな人だと思いますか。
 ある生命保険会社の調査によりますと、一般的に幸せな人と考えられる条件に、健康であること、経済的にゆとりがあること、家族関係もうまくいっていることなどがあげられたりしています。しかし、幸せは主観的なものですから、その条件が満たされないと幸福ではないと必ず言えるものではありません。生命保険会社の調査によってもそうであるとの結果が出ているのです。では、幸せな人ってどんな人なのでしょうか。
 さて、今朝、与えられたルカ福音書には、女性二人が記されています。エリザベトとマリアです。二人は親戚であったと記されています。どんな関係なのかは正確に記されてはいませんが、私はマリアから見れば、エリザベトが叔母さんにあたるのではないかと考えています。年もかなり離れていたようであります。その叔母さんのエリザベトが、マリアに対して、「あなたは何と幸いでしょう。」と言っているのです。直接「あなた」と言っているわけでありませんが、ここでは、確かに、マリアに対して「幸せ者」と言っているのです。45節に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」とあります。
 聖書を読みますと、マリアが完全に天使の言葉を信じたというよりは、人間的な心配があったりしていますが、最終的には、信じる方に心を向け、そして神様がおっしゃったことを受け入れたということです。聖書が言う「幸いな人」がここに示されています。神様がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人、その人なのです。マリアは、一般的な幸いの条件からすると、多くの子宝にあずかりますが、その後、愛する夫を亡くし、母子家庭となります。どうやって子どもたちを育てたのかは詳しくは解りません。さぞかし貧しかったことでしょう。経済的なゆとりなど全くなかったでしょう。ですから、一般的な幸福度からはかけ離れた人でした。でもマリアは、幸いだと言われています。
 ここで、親戚の叔母さんが、「あなたは幸いだ」と言ったことをお話ししました。皆さんも、親戚の叔母さんから「あんたは幸せ者だ」と言われたことがあるかもしれません。こうした、人間がある人に言ったことが、どうして、それほど重要なのかと疑問を持った方がおられるかもしれません。人がある人に「幸せ者」と言ったとしても、言われた当人が本当に幸せかどうか、定かではありません。ですが、ここで、エリサベトは単なる人の思いで言ったのではないのです。人が人に言ったのではないのです。詳しく学びたいと言ったのは、このことなのです。聖書をよく読むと、エリサベトは「聖霊に満たされて」言ったと41節にあります。聖霊、これは神の霊です。神様がエリサベトを通して語っておられるのです。そして、これを聞いたマリアは賛美しました。「自分は身分の低いものです、この私、主のはしためにも目を留めてくださったから」と賛美しています。「はしため」この言葉は若い人には通じないかもしれません。これは、解りやすく言えば「女中」です。家のお手伝いさんです。「こんな私に目を留めてくださった」と受け止めて、マリアは神様を賛美しているのです。
 これは洗礼を受けた人にも通じるものであり、教会に来て洗礼を受けた時に「こんな私に神様は目を留めて、憐れんで下さった」と思うその思いに通じるものです。そうなのです。神様の方から私たちを憐れんでくださり、愛してくださったのです。このことを知っている者が信仰者なのです。
 幸いな人とは、どんな人でしょうか。それは、神様がおっしゃったことは必ず実現すると信じた人です。あなたがそう信じるなら、あなたは幸いな人なのです。では神様がおっしゃったことは何なのか、あなたに神様が何を言われているでしょうか。それは聖書に記されています。伝道者パウロは言いました。「私が最も大切なこととしてあなた方に伝えたのは、イエス・キリストが聖書にかいてあるとおりに、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、そして復活したこと」と。そうなのです。このことが実現したのです。イエス・キリストが「私」の罪のために死んでくださり、復活されたと、自分のこととして信じるなら、あなたは救われるのです。
 有名な聖書の言葉に「神は、その独り子イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子イエス・キリストを世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子イエス・キリストによって世が救われるためである。世と言われているのは、「あなた」なのです。神は、救いをイエス・キリストによって実現されたのです。ですから、イエス・キリストを救い主と信じる者は、救われるのです。信じて生きる人こそ真に幸いな人です。
 その救い主、イエス・キリストの誕生が、クリスマスです。イエス様の誕生を喜びほめたたえましょう。
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by higacoch | 2012-12-29 15:33 | ルカ

2012年12月16日

「喜びの始まり」  イザヤ書40:1-11、マルコによる福音書1:1-8
                             関 伸子伝道師 

 
 「神の子イエス・キリストの福音の初め」。これが、わたしたちが今聞いた、マルコ福音書の最初の言葉です。ニュー・イングリッシュ・バイブルと呼ばれる翻訳では、ここを次のように訳していました。「ここに神の子イエス・キリストの福音が始まる」。頭から訳していくと、「ここに始まる、神の子イエス・キリストの福音」。「始まる」。
 この翻訳を読んだ時、わたしがすぐに思い浮かべたイメージは、開幕する前に劇場に座っている自分の姿です。オペラは今まで数回しか聴きに行ったことはありませんが、オペラや交響曲を聴きに行くと、ざわざわしているなかで、自分の座席を見つけて座って、プログラムを読む。お客さんがどんどん増える。オーケストラボックスも埋まっていく。音を合わせる楽器の音が響いてくる。やがて序曲が始まる。ほんとうに胸おどる思いがします。おそらく幕の向こう側で、これから舞台に出て行こうと思う人も、聴いている人よりもっと緊張してわくわくしながら、出番を待っています。幕が上がるのを待っています。
 2節以下を読みますと、そこにはまだイエス・キリストが姿も言葉も出てきません。しかし、その喜びの始まりが既に響き出しています。洗礼者ヨハネはイエスの先駆者であるということわたしたちは知っています。
 6節を見ると「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」とあります。何となくその姿を想像すると、あまりニコニコと、いなごと野蜜を食べていたという感じはしない。こわい顔をして、禁欲的な生活をしている。ちょっと気がゆるんで贅沢な生活をしているなあと自分で少しやましいところがある人間は、このヨハネ先生にちょっと会いたくない、敬遠する。そんなふうに厳しい預言者の姿を考える。そうするとイエスという方は、そのこわい、厳しいヨハネ先生と対比される、どちらかというとやさしいイエスになります。
 マルコはいきなり洗礼者ヨハネの話をしたのではなくて、まず預言者イザヤの書に、こう書いてあると言ったのです。そのイザヤの言葉のとおりに、洗礼者ヨハネが現れたと言っている。この光の中で、ヨハネを見ようというのです。
 3節の「荒れ野で叫ぶ者の声がする、主の道を整え、まっすぐにせよ」という言葉。これは旧約聖書の真ん中にある、イザヤ書40章3節の言葉です。イザヤ書の言葉として伝えられていますが、預言者イザヤそのものの言葉ではなくて、その後に続いた無名の預言者、もしかしたら複数であったかもしれない人たち、あるいはその人の言葉を書き記したものです。この第二イザヤの言葉は、イスラエルの歴史のなかでも最も悲劇的な時代だったバビロン捕囚の時代に書かれました。バビロニアに滅ぼされて、イスラエルの王だった人々がバビロニアの都に連れていかれた時代のことです。
 みなさんもご承知のように、あのヘンデルの「メサイア」という音楽は、主イエスのご生涯を歌い始める冒頭において、この言葉を含むイザヤ書40章を独唱、合唱で次々と歌わせて主イエスの物語を歌い始めました。神の民イスラエルが、神と共に解き放たれて故郷に変える。その声、その先駈けの声、それがヨハネです。マルコ福音書がヨハネの話をした時に、とうとうこの第二イザヤの預言が、ここに成就したと書けるのだという喜びがありました。
 「荒れ野」という言葉から、わたしは東日本大震災と原発事故によって、そこで脅かされているいのちのことを思わずにはいられません。荒れた大地に回復の日が訪れることをのぞみます。そのための道備えはわたしたち自身がしなければならないことです。
 当時、洗礼を施すということは、ヨハネだけがしていたことではなかったのです。たとえば、ユダヤ人でない人、つまり異邦人が、ユダヤの人びとが信じている神を、自分も信じたいと思ったときには洗礼を受けなければいけなかったのです。ユダヤ人は、生まれながら聖いから洗礼を受ける必要はなかったのです。逆に、また、洗礼運動があり、ユダヤ人でもだらしがない、いい加減な生活をしている人びとに対して、われわれは違う。そう言って、実際に集団生活をし、禁欲的な生活をした集団があり、そこでも、洗礼が行われました。
 しかし、ヨハネは、すべてそのような差別、区別を取り払い、皆が受けることができる、そういうものとして、バプテスマの運動を始めたのです。なぜなら、罪の赦しは皆が受けなければならないからです。マルコが大切だと信じたのは、罪を知った者は赦されるということでした。そして、その運動のなかで彼はこう言ったのです。「わたしよりも優れた方が、後から来れる」と。この「優れた」という言葉は元の言葉を直訳すると「力ある」というのです。この力とは何か。8節の言葉で言えば、「聖霊でバプテスマを授ける」ということです。もちろん主イエスのことです。
 そして、ここで始まったイエスのわざ、洗礼者ヨハネを先駆けとして始まったわざは、主イエスをもって終わらない。主イエスのみわざはわたしたちが受け継ぐ。ここで聖霊が働く。マルコによる福音書を福音として読むことは、ここに主の恵みがあるということを確信する、自分の良心など吹き飛ばしてしまうような思いで、そこに生きるということです。神であるイエスがここに来てくださった。聖霊によってバプテスマをあなたがたに施してくださるのです。わたしたちのところに主が来られたのです。喜びの主がわたしたちをもてなしてくださり、送り出してくださること、それが、わたしたちの希望なのです。
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by higacoch | 2012-12-17 22:40 | マルコ

2012年12月9日

「神様の言葉を伝えなさい。」
             エレミヤ36:1-10,テモテ二3:12~4:5

                                 
 今朝の箇所の小見出しに「最後の勧め」とあります。パウロは手紙を終える前にどうしても言っておきたいことがあったのです。テモテに対して「あなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それを誰から学んだかを知っており、また自分が幼い日から聖書に親しんできたをも知っているから、この書物(聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵をあなたがたに与えることができます。」と力強く語っています。パウロはテモテにどうしても知って欲しいのです。つまり、あなたは幼い頃から聖書に親しんできていた、その聖書があなたに信仰を与え、救いに至る知恵を与えて育てて下さったと言うのです。それに続けて「聖書は、すべて神の霊の導きの下に書かれていて、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするので、有益」だと教えています。これは私、パウロがあなたを教え、正し、訓練を与えたとか、与えることができるというのではなく、神様が、あなたを教え、正し、訓練を与えてくださることをはっきりと教えています。
 「聖書は、あなたに与えることができる。」聖書の言葉が、神様の働き、それは聖霊の働きですが、その聖霊の働きがあって、与えられるのです。聖書そのものも、聖霊によって導かれて、人が用いられて、書かれたものです。人が書いたものですが、その著者の考えによる勧めの言葉ではなく、神の御旨による言葉です。そして書かれた聖書の言葉が、聖霊の働きによって神の言葉になっていくのです。そこに、目には見えなくても、神様は働いて下さっているのです。この神様の働きがあることをしっかりと知らなければならないとパウロは言いたいのです。
 また、聖書の言葉が神の言葉となるということは、人が聖書を読み、その人の知識や知恵によって神の言葉になるというのではありません。聖書の歴史、言語(ヘブル語、ギリシア語)、地理などの知識が豊かになれば、人に教え、人を戒め、誤りを正して義に導くことができるのではないのです。ですから、「聖書学者」にこうしたことはできないのです。人間の知識や知恵の為せることではありません。神様の聖霊の働きがなければできないのです。その働きを頂くためには神に祈るしかありません。ひたすら、神様に祈り、神様に働いて頂くだけです。私たちが中心ではありません。私たちの知恵だけに頼っていろいろなことをしていくべきではないのです。「三人によれば、文殊の知恵」というように、何人かが集まって、知恵を絞って、教会活動をしていくのではありません。もし教会で、祈りをせずに、教会の活動計画を立案したなら、それは教会ではありません。教会の名を借りた団体に過ぎません。神様の働き、聖霊の働き、神の霊の働きを信じないのなら、どんなに多くの人がそこに集まる大教会であっても、それはバベルの塔でしかないのです。いずれ、神様が臨んで解体されるでしょう。人間の自己傲慢な行動をする所に、神の祝福はありません。
 だから、パウロは、人間の知恵に従って活動計画を立ててはいけないと戒めるのです。人の知恵で、今は伝道に良い時期、否、悪い時期と決めて、良い時期にのみ、御言葉を伝えれば良いというのでは決してないのです。
 パウロは生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、キリストの出現とその御国を思いつつ、厳かに命じています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても、悪くても励みなさい」と。これは単なる勧めではありません。命令です。しかもパウロは「厳かに」命じると言っています。最も大事なこととしてテモテに伝えたのです。
 このことはテモテだけではなく、私たちにも伝えられている、教会が為すべきことなのです。どんな時代になっても、伝道すべきであって、たとえどんなに小さな教会でも、御言葉を伝えなければなりません。神様の言葉を伝えていく、それが教会の務めであります。私たちの教会、今年の教会標語に「キリストを伝える」を上げました。御言葉の中心はイエス・キリストです。そのイエス・キリストを証している神様の言葉を、どんな時代になっても伝えていきましょう。そこに救われる人が与えられていくのですから。主に仕えて、今も、これからも、どんな時代になっても伝えて、主に仕えていきましょう。
 
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by higacoch | 2012-12-10 22:35 | テモテ

2012年12月2日

 「神と共に生きるために」 イザヤ51:4-7, テサロニケ一 5:1-11

 アドベント第1主日を迎えることができました。教会の暦は、ここから1年が始まります。アドベント第一主日にクリスマス・クランツのろうそくの1本に火が灯されました。このろうそくの光は、希望の光を象徴しています。希望の光が灯ったということ。ヨハネ福音書の冒頭には、「まことの光が来て、すべての人を照らす」(1:9)とあります。一部の人(善人、信仰者)たちだけを照らしているのではありません。すべての人を照らしているのです。本人が気づいていなくても照らしています。このことはイエス様が地上に来られて、すべての人のために十字架上で死んで下さったことに通じています。イエス様はすべての人の罪のために、その罪を赦して、その人を救うために死んで下さったのです。
 先主日は、アドベントとは「到来」の意味があり、二つの出来事を表しているとお話ししました。第一の到来はイエス様の誕生であり、もう一つはイエス様の再臨です。先主日は第一のアドベントであるイエス様の誕生を覚えて、イエス様は何のために誕生されたのかを共に学びました。要約すれば、イエス様はこの世の罪人を救うために来られたということ、決して善人、信仰者だけのためではなく、罪人を救うために来られたとお話ししました。
 それにつづいて、今朝は第二のアドベント、イエス様の再臨の目的は何かを学びたいのです。イエス様が再び地上に到来されるのは、いつなのでしょうか。今朝の新約聖書の箇所は、まさに、再臨の待望のことについて、伝道者パウロ自身が書き送った箇所です。パウロは「兄弟たち、その時と時期については、あなたがたに書き記す必要はありません」と書いています。どうしてでしょうか。もしその時と時期を書き記したなら、その時と時期が特別な時となり、人がそこに合わせて生きていくようになるでしょう。そうなると、特別な態度と行動を取ることになっていきます。これまでの信仰生活から離れ、特別なことをしていくことになるのです。はやって焦ったり、動転したりするでしょう。教会の歴史を見てみると、2世紀に女予言者が出て、その日時を予言したため、人々は高揚し、特別な行動に走りました。そしてその日が来て何も起こらず日が過ぎていくと、多くの人々は信仰を失っていきました。こうした偽の予言は昔の出来事だけではありません。20世紀にも何度かあり、現代でも起こりうることなのです。
 イエス様自身も再臨のことで「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。ただ父だけが御存じである」と言われ、弟子たちに「人の子は、思いがけない時に来る」と言って、十人の乙女の譬えを語り、日頃から油を用意しておくように言われました。「人の子が来られた」と聞いて、あわててしまうのではなく、普段から信仰を持って生き続けなさいということを教えておられるのです。
 だから伝道者パウロは、その時、その時期を書き記す必要がないと言ったのです。パウロは、再臨の時に「主の日が来る」と言っていますが、人の子が再臨される時は主が中心となる日であると強調したいのです。周りの人々が「無事だ。安全だ」と言っている矢先に「破滅が襲う」。丁度、妊婦に産みの苦しみがやってくるのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、苦しみ続けると言いたいのではありません。産みの苦しみは必ずあります。しかし、それはずっと続くのではないのです。新しい命が産まれたなら、喜びがあります。苦しみ以上に、喜びが溢れるのです。このことを言いたいのです。ですから、苦しみがある。「しかし、兄弟たち(姉妹たち)、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。あなたがたは、光の子、昼の子なのです。だから、目を覚まし、身を慎んでいよう。私たちは昼に属しているので、信仰と愛を胸あてとして付けて、救いの希望をかぶととしてかぶり、身を慎もう」と勧めています。人々のように不安と恐れ、苦しみの中でおびえるのではなく、信仰をもって生きていこうと言っているのです。
 ここでパウロがはっきりと言っているのは、何よりも、神様はわたしたちを怒りに定められたのではなく、主イエス様によって救いに預かるようにと定められたということです。怒りではなく、救うために、見捨てるためにではなく、主イエス様と共に生きるようになるためだというのです。ですから、互いに励まし合い、お互いの向上を求めて生きていこうと勧めています。パウロは、主イエス様が再び来られるのは、あなたがたを救いに預からせて、救いの完成をもって神様と共に生きるようにしてくださることなのだ、だから、信仰を持って互いに励まし合い、生きて欲しいと言っているのです。
 アドベント第1主日を迎えて、希望の光が輝きました。私たちも、救いの希望のかぶとをかぶり、しっかりと希望を思って、生きていきましょう。
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by higacoch | 2012-12-03 22:28 | テサロニケ