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2012年11月25日

「この世に来られたのはなんのため」 
                 詩編89:20-30,Ⅰテモテ1:12-17

 
 来週からアドベントに入ります。アドベントというのは、ラテン語で「到来」といいう意味があります。この到来はキリストの到来であり、アドベントはキリストの到来を待ち望む期間です。ですから待降節と言ったりします。またアドベントは、キリストの誕生だけを待つ期間だけではなく、キリストが再び地に臨まれるという再臨を待つ期間でもあります。今朝は最初のアドベントであるキリストの誕生を覚えて学びたい。キリストである御子イエス様は地上にお生まれになられ、人の世に来られました。それはなんのためであったのでしょう。
 手紙を書いたパウロは、その目的を短くまとめて「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」と言っています。善を行い、自分の知恵や力で、救いを達成しようとする善人を救うために来られたのではない、神の戒めを遵守し、捧げものをよく捧げて、神に喜ばれることをする人を救うために来られたのでもない、自分の知恵や力ではどうすることも出来ず、どうにも救いようがない者、神に見捨てられているような人、悪いことをする罪深い者たちのために、来られたのだと。そうした者を憐れみ、そうした者を生かすために、キリストは来られたのだと強調しているのです。イエス様の十字架の死は、善人のための死ではなく、まさにどうしようもない者、罪人を憐れんで、罪人のために死んで下さったことなんだと、とパウロが語っています。
 イエス様自身は「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」と言われています。(ヨハネ福音書 10章10節)ここでの羊は私たちです。ですから、私たちがイエス様から命を頂くということ。しかも豊かに頂くのです。パウロが「命を豊かに頂くために」とは言わずに、「罪人を救うために」と言ったのが解る気がします。「救う」ということから「死」が連想されています。パウロは別の手紙(エフェソ 2:1)で、「以前、(私は)罪のために死んでいた」と言っています。「死んでいた罪人を救う」とは「生き返えられた」ということで、「死んだ者」が「生きる者」となったということです。
 パウロは、「以前、私は神を冒涜するもの、迫害する者、暴力をふるう者でした」と告白しています。彼は、以前、キリスト者であるなら、女性であれ、子どもであれ、容赦なく捕まえては獄に投げ込んでいました。彼は元々、ユダヤ教の教師であり、律法学者であり、律法に反する、惑わす教えを説く者を厳しく糾弾し、ある時は石打ちで殺したりもしました。こんな彼が復活のキリストに出会って変えられたのです。それは、キリストによって自らの罪が赦されたと深く知らされたからです。パウロは「キリストは私を生かして下さっただけでなく、私を新たな務めへと就かせて下さった」と言っています。こうしてパウロはキリストの迫害者から伝道者となったのです。
 パウロは罪赦されたとの確信が与えられ、「わたしは、罪人の中で最たるものです」と言っています。パウロの思いからすると、こんな私をキリストは憐れんで下さったと。そうです。キリストは、あなたのために、あなたの罪のために、罪人のために、死んで下さったのです。あなたの罪のため、あなたを救うために。
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by higacoch | 2012-11-26 22:26 | テモテ

2012年11月18日

 「忍耐による勝利」 マラキ書3:13-18、マルコ福音書13:3-13
                            関 伸子 伝道師


 キリスト者の歩みとはどのようなものかについて、様々な表現が出来ると思います。今日与えられた御言葉に従うならば、信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。ここで「耐え忍ぶ」と訳されているのは、もともとは「しっかり立つ」という意味の言葉です。「しっかり立ちなさい、最後までしっかり立ち続けなさい」。イエスがそう言われたのです。
 聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、この世の終わり、終末を語ります。ですから信仰者は、この世の終わり、救いの完成を待ち望みつつ歩むのです。マルコによる福音書第13章は小黙示録と言われている箇所ですが、ここにも終わりの出来事が記されています。弟子の一人が神殿を見てイエスに問いかけます。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(13章1~2節)。ここで、弟子たちが驚嘆しているエルサレム神殿は、ローマ帝国の手によって、紀元70年には徹底的に崩壊させられることになります。しかし、イエスは先ず建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。この時、弟子たちを含め、イスラエルの民は、神殿を一つの偶像にしていました。偶像となるのは神殿だけではありません。自分の持っているものや、自分の行いを根拠にして、神が共にいて下さることのしるしとするのであれば、神殿ではなくても、偶像礼拝と同じことが行われているのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。
 終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちにイエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。続けて、イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。
 更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、私たちが今、現在、直面していること言ってよいでしょう。世界を見渡せば戦争や内紛があります。テロの恐怖も増しています。まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。昨年は特に、日本においても東日本大震災が起こりました。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されます。しかし、ここでイエスが語っておられる、もっと重要なことがあります。地震があり飢饉がある。さまざまな混乱が起こる。それが、しかし世の終わりであるとは言えない。だからここでイエスは、「あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」と言われました。
 10節に、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」とあります。この自分とは、福音を負わされている自分です。キリストの喜びのおとずれを、担わされている自分です。自分を生かしている喜びに目を留め続け、喜びの中に立ち続けることができるように、自分に目を注ぎ続けなさいとイエスは言われるのです。
 先ほどマラキ書を読みました。マラキ書だけではなく、特に旧約聖書の終わりにある預言書は、すべてが世の終わりのことを語っていると読むことができます。預言者たちは、しばしば復讐を語りました。今我々ユダヤ人、神の民イスラエルは、こんなに、ひどい目に遭っているけれども、世の終わりがくれば自分たちを苦しめる民は我々に仕える者となる。イエスは、しかし、ここで、そのような復讐心を満たすような神の勝利を約束してはおられません。あらゆる民に、福音が、喜びが語られる、告げられる。戦争の最中に、悲しみの最中に、苦しみの最中に、自分を苦しめている人々に向かっても、あなたがたのために、喜びの光が射したと身を賭けて証しをすることができる。それがあなたがたの堅く立つべき一点であると、そう言われる。だから迫害の中で、このマルコの福音書を読んだ人々は伝道にいそしんだのです。
 「福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」。この「ねばならない」というのは、大変興味深いことに、イエスがご自分の十字架の死を語る時にも用いられた言葉です。「人の子は必ず人の手に渡されて十字架につけられて殺されなければならない」。なぜ十字架が必要になったかというと、先ほどのマラキ書の言葉がはっきり示しているように、神の言葉をないがしろにする罪がいつまでも付きまとっていたからです。その罪に気づいてもらうことを願い、そこから解き放たれることを願って生きる時に、この神のご意志によって担われて、わたしたちは生きるのです。
 この歩みは人間の業ではありません。聖霊が、神ご自身の「霊」が、すでにわたしたちの中にあって、わたしたちの言葉さえ造ってくださるからです。そこに信仰の、忍耐によって勝利する確かな姿勢が現れるのです。わたしたちの信仰を支えるのは、イエスが再び来てくださるという信仰です。だからこそ、わたしたちは安心してイエスの再臨を仰ぎ望みながら、その目的に向かって歩いて行くことができる。ここに私たちの伝道に生き、愛に生きる心の立つところがあるのです。これは本当に幸いなことです。
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by higacoch | 2012-11-19 22:21 | マルコ

2012年11月11日

 「行いを生み出す信仰」 
             詩編105:1-15、ヤコブの手紙 2:14-26

                               
 当時の教会の中に自分は信仰を持っていると言いながら、身近な隣人を助けようとしない人たちがいたのでしょう。そうした人たちにヤコブは警告をしています。信仰によって生み出されるものによって生きようとしない者に、「あなたがたの信仰は今は生きていない、死んだも同然だ」と言っています。
 さて、信仰と言えば、皆さんかたの中には、宗教改革者マルチン・ルターを思い起こされる方がおられるでしょう。ルターは言いました。「信仰のみ。」「信仰によって義とされる。」「信仰によって正しいとされる」と。ルターは「人が救われるのは、信じることによってなのだ」と強調しましたが、それは当時のカトリック教会に対抗して語った言葉でした。カトリック教会は、「人は、善い行いをすることによって徳を積み、その徳が積まれることによって、上へ上へと上がっていき、そして人が神様に喜ばれるような所に達して、救われる」と教えました。善い行いが救いには必要なんだとカトリック教会は言っていたのに対して、ルターは、「救われるには、善い行いを積むことによってではなく、イエス・キリストを信じることで救われる」と強調しました。しかしだからと言って、信仰のみで、善い行いは無くていいと言ったのではありません。ルターが信じていたことは、アウグスブルク信仰告白の中に表わされています。その第20条には、信仰と善い行いとの関係についての条文があります。その中に「私たちの救い主イエス様を信じる時、その信仰によってのみ善い行いは生じるのです」とあります。もう少し説明しますと、善い行いは、救いの条件ではない。善い行いをすることによって救われていくのではなく、救われたことによって、その喜び、感謝によって生み出されるのだと言っています。救われた喜びの結果として生まれてくる行いこそが、善い行いなのだと言ったのです。救われるための行いではありません。~のための行いではなく、~の結果、~によって生み出されるものです。
 さて、ヤコブはアブラハムの信仰によっての行いを語り、また異邦人の女性のラハブの信仰から生み出された行いを語っています。こうした行いを思い巡らしていましたら、一冊の本を私は思い出しました。それは『それでもなお、人を愛しなさい』という本です。この本は、マザー・テレサにも影響を与え、感動させた本です。この本の副題には「人生の意味を見つけるための逆説の10カ条」とあります。この10カ条のうち、8つをマザー・テレサは取り上げて語りました。パソコンのネットで「マザー・テレサの名言」として検索すれば、そのトップに出てきます。その題は「それでも」というものです。この本の著者ケント・キース氏はアメリカのYMCA(キリスト教青年会)のリーダーの働きをしました。ケント氏の心にはキリストの救いの確信があり、キリストによって生かされている信仰が土台にあると私は思います。そして、信仰から生み出される歩み、つまり信仰から生み出される行いを勧めているのです。これは信仰の生き死に関連したことです。もし隣人に善いことをして、その隣人がよい反応を示さなかったからといって、そこでやめるのなら、その人の心は隣人からの善い反応を期待していたことになります。それはイエス様が私たちを愛されたことによる感謝と喜びの信仰から生み出されたものではないことになります。同様な事柄は教会にも時々あります。イエス様のため、教会のためにと言っていながら、周りを見て、他の教会員があまりしていないように感じられる、そうなると奉仕をやめたくなる、その奉仕はどうなのでしょうか。信仰から生み出されているものなのか、別のものから生み出されているものなのか、問うてみるのは大事なことではないでしょうか。今朝の箇所で言われているように自分は信仰を持っているという者が行いを伴わなかったり、あるいは別の思いからの行いであったりするなら、神様から問われていくのではないでしょうか。
 エルサレムの教会を守りながら、かつ教会内に起こる不信仰の思い、また今朝の箇所の後にも書いてありますが、人間的な誇りや高ぶりを持つ者に、「そのような高ぶりは悪いことだ」とヤコブは断言しています。ヤコブは、あくまで信仰から生み出されるものによっての行いを勧めています。そうでないと、人間的な思いが先になり、教会内の問題となっていくでしょう。私たちも礼拝後に大切な教会員総会を行い、来年度の活動計画を審議し、検討しますが、信仰から生まれるものによって教会の働きを内外に示すものでありたいものです。新しい年も主のみ心を求めて信仰によって生み出されるものによって歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-11-12 22:14 | ヤコブ

2012年11月4日

「目を覚ましておく」  詩編36:2-10、マタイ福音書25:1-13
                              
 先々週の金曜日に、C先生の妹さんであるIさんのご主人様、Sさんが亡くなられ、先週の火曜日に葬礼拝を捧げました。95歳の生涯でした。長寿の恵みを頂かれましたが、どんなに長寿でも、召される日は突然です。死は誰にでもやってくるものですが、そう解っている割には準備している人が案外少ないのです。生きているうちに備えをすることは、とても大事なことです。今朝の聖書の箇所には花婿を待つ10人のおとめの譬えが語られています。ここから信仰者にとって、もう一つの備えも大事だと教えられます。
 さて、10人の乙女たちは皆、花婿がやってくるのを待っていました。外はもう暗くなってきていましたので、ともしびを持って待ちました。ですが、想定外の出来事が起こります。何と花婿の到着が随分遅れて、やっと来たのは真夜中でした。誰かが大声で叫びました。「花婿の到着だ。迎えに出てきなさい」と。その大きな声で乙女たちは、びっくりして飛び起き、灯をもって外に出て花婿を迎えました。するとある乙女が、別の乙女に「私のともしびが、消えそうです。どうか灯のための油を分けて下さい。」と願いました。それに答えて「あなたに、お分けできる分までの油が、私にはありません。足りないようでしたら、どうか、近くのお店に行って自分の分を買ってきて下さい。」と言って断りました。10人の乙女たちのうちに灯の油を用意していた者が5人、他の5人は用意していませんでした。結局、花婿を迎えることができたのは油を用意していた5人でした。残りの5人は迎えることができず、婚宴の場にも入れてもらえませんでした。
 この話は天国の譬え話です。花婿とはイエス様のことで、イエス様は再び地に来られますが、その日、その時は誰も知りません。だから、いつ来てもいいように油を用意しておくべきです。この譬え話で、油を用意していた乙女たちは賢い者だと言われています。賢い信仰者とは、多くの知識を持っているとか、仕事をテキパキできるという者ではなく、油を用意しておく人なのです。では、用意しておく油とは、何でしょうか。それは信仰です。いつイエス様が再臨されてもいいように、常に信仰を持ち続けることです。
 さらに学びたいのです。10人の乙女たちは皆、待ちくたびれて寝込んでしまいました。眠らずに起きて待ち続けたのが、賢い乙女たちではありません。彼女たちも寝込んでしまっています。ですから、寝込んだかどうかが賢愚の判断基準となってはいません。徹夜をするような特別なことをすることが求められているのではありません。油を用意することです。
 教会の歴史を見てみますと、ある時に、予言者が現れて、イエス様の再臨がいつ、どこで起こると予言しました。人々はあせり、あおられて特別な行動を取りました。しかしその時が来てもイエス様は再臨されませんでした。だから「目を覚ましていなさい」とは、肉体の目ではないのです。それは心の目、信仰の目です。信仰の目が寝込んでしまってはいけないのです。信仰の目を覚ましておくこと、それは信仰を持って、イエス様がいつ来られてもいいように、日々の生活をしながら、信仰を持って生きていくことなのです。油を用意するということは、信仰を持ち続けるということで、神様のみ言葉に聞いて生きるということです。それは具体的には、教会の礼拝を守り続けるということです。
 ある特別な態度や生活ぶりをするのではなく、普段の信仰生活をし、礼拝をできるだけ守り続けることが、油を用意することなのです。そして、信仰と言うのは、誰かを頼りにして生きていくことではありません。人の油で、補充できないのです。信仰は借りることはできないのです。一人一人が神様の前に立つこと。自らの信仰を持って、信仰から信仰へと歩むことです。信仰の油を持ち続けて、歩んで行きましょう。その道こそ、神様の豊かな祝福を頂く歩みなのですから。
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by higacoch | 2012-11-09 16:51 | マタイ