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2012年10月28日

「現代社会と苦難―ヨブ記から学ぶ」 
            ヨブ記 12章 22節       平山 正実 先生

 ヨブが遭遇した苦難は、自然災害、略奪者による家畜等の財産の喪失、子どもや雇い人の死、配偶者の無理解、本人の病気などであり、これらの苦難は現代人のそれと共通している。ヨブ記が普遍性をもっているのは、このような現代的な苦難に関するテーマを扱っているからである。
 ヨブが、たび重なる辛い試練の中にあって、苦しんでいるという噂を聞きつけ、彼の3人の友達がやってきて、神に代わってヨブがこんなにも辛い苦難を受けているのは、自らの罪の結果である断じる。ところが、ヨブはこのような正義と苦難を結びつける善悪二元論は、観念的議論となりやすい、もっと現実を自分の目で見る必要があると言う。ヨブは倫理的な次元での罪と神の義による裁きは認める、しかし、この考えを突きつめてゆくと完全な義人はおらず、死ぬ以外になくなる。他方、応報の論理では理解できない苦難や悲惨がこの世にはある。難病や自然災害などがそれにあてはまる。しかし、そこに神の不義があると攻撃しても、究極的には自己が“神”となるか、“自己喪失”に陥る。
 この難題について、示唆を与えるのは、ヨブ記16章21節である。この聖句を5つの翻訳(新共同訳、新改訳、フランシスコ会研究所訳、口語訳、文語訳)を比較してみると、キーワードとして、「神が、神を裁く」(新共同訳)、「裁く」「執り成す」「弁論する」「論辨する」が抽出された。
われわれが、不条理な苦難に遭遇したとき、これらのキーワードの中に、解決策が隠されているのではないかと思う。
(1)裁くということ
神の本質は、正義であると同時に愛である。正義を貫くためには裁きが必要である。
(2)とりなすこと
 神のもう一つの本質である愛が成就するためには、とりなしが必要である。
(3)弁論すること
正義のために裁くことと愛のため執り成すことを同時に成立させるためには、神と神とが争うこと。この事態 を法廷にたとえるならば、原告と被告が、弁論し合うことが必要になる。
 この三つの原理を、苦難に対する対応策としてまとめると次のようになると思う。
(1)苦難に会っている人に対しては、誰かがその苦難の代償を支払う必要がある。
(2)苦難に会っている人に対しては、解決してくれる人を探し出し、執り成しする人が必要である。
(3)苦しみの現実を弁論し合い、客観化し、どこに問題点があるか明らかにする必要がある。
この3つを完全に成就するのは神(キリスト)であり、そのことを人間に知らしめるのは聖霊である。
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by higacoch | 2012-10-31 18:57 | ヨブ記

2012年10月21日

 「与えられているものを生かす」 
            詩編31:20-21、マタイ福音書25:14-30
                                
 今朝の箇所は、よく知られた箇所です。タラントンというのは、テレビに出てくる「タレント」の語源であります。タレントとは、才能、天賦とかの意味があります。ここにも、主人から5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けられた僕が出てきます。このたとえでは主人は、神様であり、僕はわたしたち人間であります。私たちの中には多くの才能を与えられた人がいます。皆同じ才能が与えられてはいません。それぞれが違った才能を与えられています。それぞれが与えられたものを生かすことが大事なのだと思うのです。
 さて、今朝の聖書のたとえ話では、ある主人が旅に出かける時、3人の僕を呼んで主人の財産を預けます。一人には5タラントン、一人には2タラントン、そしてもう一人には1タラントンです。この1タラントンは当時の肉体労働者の一日の賃金の6千日分です。1日の賃金を仮に1万円だとすると6千万円です。1タラントンが6千万円ですから、2タラントンの者は1億2千万円、5タラントンの者は3億円を預けられたのです。1タラントンでも莫大なお金です。それぞれにその財産を預けて旅に出かけます。この3人はそれぞれの歩みをします。5タラントン預かった者は、それを元手に商売をして、他に同額の5タラントンを儲けました。2タラントンの者も出かけて行ってそれを生かして同2タラントンを儲けました。そして、1タラントン預かった者は、それに手を触れようともせず、地に穴を掘って埋めました。当時、泥棒に盗まれない最大の隠し場所が地中だと考えられていたのです。
 さて、日が経って主人が帰ってきて、それぞれの僕を呼び出しました。最初に5タラントン預けられた僕がやってきて、預かった5タラントンを渡し、さらにもう5タラントンを差し出して、「ご覧ください。もう5タラントン儲けました。」といいました。すると、主人は「忠実な良い僕だ。良くやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と祝福の言葉をかけました。次に、2タラントン預けられた僕もやってきて、先ほどの5タラントンの僕と同じように、「ご主人様もう2タラントン儲けました」と言って、別の2タラントンも差し出しました。すると、主人は、同じように2タラントンの僕にも祝福の言葉をかけました。
 3番目にやってきた僕はどうだったでしょうか。彼は最初にこう言いました。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました」と。これは「あなたは略奪者」だと言っているのです。それで、恐ろしかったからあなたから預かった1タラントンをすぐに地中に隠しておきました。これがあなたのお金です。」と言って差し出しました。すると、主人は大変厳しい言葉を語ったのです。
 ここで、3人の僕と主人のやりとりを見てみましょう。5タラントン、2タラントンとそれぞれ預けられたタラントンは違いますが、主人が語り掛けた祝福の言葉は、全く同じです。5タラントンの僕には特別な祝福の言葉を語ったのではありません。全く同じで、「忠実な良い僕だ。良くやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」と言っています。こうしたことから主人の祝福は、タラントンの違いではなく、それをいかに生かしたのかによっているのです。第一、二の僕は、預かったタラントンをフルに生かしました。他方、第三の僕は、生かさなかった。それどころか、主人を恐ろしい方だと言っています。しかし主人は、この僕を信頼し、愛していたからこそ、莫大な財産1タラントンを預けたのです。この主人の信頼を、愛を、僕は受け止めていないのです。
 イエス様が話されたこの話は、天国のたとえです。ですから、ここでの主人は神様です。そして僕たちは、人間であり、私たちなのです。こうしたことを考えてみますと、神様は、5タラントンも2タラントンの者にも同じ態度です。人間の側では与えられたものが違っていると思っていても、神様の祝福は全く同じなのです。神様は人が多くのタラントンを預けられているからということで、区別した祝福を与えられではいません。同じ祝福なのです。神様の側には祝福のランクがあって、タラントンに合わせて祝福されたのではありません。神様の祝福は同じです。
 主人は、第一、二の僕に、同じ祝福で「忠実な良い僕だ」と言いました。他方、第三の僕には「怠け者の悪い僕だ」と言っています。ここで主人が僕たちの何を見ておられるのか解るのです。それは「忠実さ」です。主人はこうも言っています「お前は少しのものに忠実であった」と。
ここから学びたいのです。神様は、すべての人にそれぞれのタラントンを預けておられます。その預かったタラントンをいかに生かすかが大事なのです。預けて下さった神様を見上げて信じて生きることが、私たちの忠実さなのです。一人一人は、神様からタラントンを与えられています。そのタラントンを生かすように、小さな歩みの中でも、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-10-27 22:06 | マタイ

2012年10月14日

 「神のものは神に」  イザヤ33:1-6、マタイ福音書22:15-22                             
                                  関 伸子 伝道師

 今日の聖書はファリサイ派の人々に殺意が生まれたというところから始まっています。この15節から40節まで、三つの質問が、今度は、イエスに対して投げかけられています。「今度は」と言うのは、21章の半ばから続いたいくつかの記事は、すべてイエスの方から、人々に問いが投げかけられている話だったからです。
 15節を読むと「どのようにイエスを言葉しりをとらえて、罠にかけようかと相談した。」とありますから、はじめからイエスに問いを投げかけます。しかもその問いはイエスを危機に落とし込み、復讐しようと考えて質問をしたのです。
 ここでファリサイ人とヘロデ党の者とがいっしょにイエスのもとにやってきます。この「ヘロデ党」というのは、この地方を当時納めていたヘロデ・アンティパスを支持する人々のことです。ユダヤ人たちが大事にしてきた神からの戒めである律法を厳密に守ろうとするファリサイ派の人々と、ローマの支配者を支持する人々ですから相いれない立場であったことは明らかですが、ここで、わざわざイエスを殺すために一つに結託して罠を仕掛けようとしたのです。そして、イエスに対してこう質問しました。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方だと存じています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか。皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか。適っていないことでしょうか」(16,17節)。
 もちろん、イエスはこれが罠であることを見抜いておられます。ですからこれに対して「偽善者たち」と語りかけます。イエスは彼らの中にあるこの大きな悪意を、「偽善」と言われました。なぜこういうことを言われたかというと、18節では、「イエスは彼らの悪意を知っておられた」と書いてある。偽善は悪意なのです。
 イエスは税金として納めるデナリを手にして、ここに誰の銘があるかと尋ねられます。ここで問題になっているのは、紀元四年と言われますから、ちょうどイエスがここで問答しておられる30年ぐらい前に、この地方に導入された人頭税、一人いくらという税金です。この時代、一人当たりの税金は一デナリとなっていました。一デナリは大人が一日働いた労働賃金にあたる金額です。所得税、その他の税に並んで、その家庭の収入が、多い少ないにかかわらずこれを納めました。貧しい人々が多かったところでは、辛いことであったに違いありません。
 19節に「税に納める貨幣」という表現があります。税金はローマの貨幣を用いるようにと定められていました。この皇帝の像の刻んであるものをローマに差し出せと定められていたのです。使徒言行録5:37にこういう記事があります。「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりち゛りにさせられた」。この「ガリラヤのユダ」は、やはりローマへの納税に反対して反乱を起こした人です。イエスが、お生まれになり僅か数年前、紀元前6世紀頃です。このころには、まだ人頭税は採用されていなかったようですけども、ローマの皇帝に税を納めることを拒否する運動を起こした人でした。屈辱に耐えられないとしたのです。律法学者であったと言われていますけど、人々を糾合して反乱を起こしました。しかしこの反乱は空しく、彼とその仲間たちは、すべて十字架につけられて殺されたと記録にあります。しかも、この使徒言行録が伝える言葉を語ったのは、34節によれば、律法学者ガマリエルというファリサイ人でした。このガリラヤ人ユダの反乱は、神のみ旨に従っていなかったから、滅ぼされるのは当然であったという判断をここで下しているのです。
 そういう反抗は空しかったけれども、ユダヤの人々、特に潔癖に信仰を重んじようとしていたファリサイ人にとって、これは非常に腹立たしいことであったに違いないと思います。救いのひとつの意味は、もうこんな金を払わなくて済むようになる、ということです。税に象徴される圧迫の力に対抗するものとしてのメシアを待ちこがれていた。そこでは、信仰の期待は政治的な解放の期待と深く結びついていた。救いがそこで期待されていた。ここで私たちを満たしてくれる者こそ、真実の救い主であるという物差しが出来上がっていたのです。
 この貨幣を見ながらイエスが答えられたのが有名な「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」との答えです。イエスはここで、このデナリにカイザルの銘が刻まれているのであればカイザルのものだから、カイザルに返せばいい。しかし、「神のものは神に返しなさい。」と言われました。このイエスは、神の国を建設するため、また神の支配を明らかにするために来られた方です。しかし、そのイエスにとって、カイザルはいかなる者だったか。はっきり言って、相手にするには足りなかったのです。
 カイザルにカイザルのものを返すのは、自由のしるしです。喜んでお返ししましょう。あなたは神によって用いられ、神によってこの世界を支配する者として建てられた。あなたは気づかないかもしれないけれども、神はあなたにとっても神であられる。みこころに従って、あなたのものはあなたにお返ししましょう。その自由に生きるように、イエスはここで促しておられるのです。私たちはイエスが与えてくださったこの自由の中へと、自分自身が変えられていくその喜びを、すでに今知るのです。私たちが畏れるべきなのは、私たちのいのちを支えてくださる主イエスご自身です。
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by higacoch | 2012-10-21 16:44 | マタイ

2012年10月7日

「信仰によって生きる」 
          ヨシュア6:1-20、ヘブライ11:17-22、29-31
 
                              
 先主日は講壇交換で、荒瀬先生が説教奉仕をして下さいました。今朝はクロス礼拝で、わたしたちの教会には、めぐみ教会の二姉妹が出席して下さっています。こうした教会員の方々が互いの教会に出席し、その教会員と共に礼拝を捧げることは、わたしたちが進めていますジョイント・ミッション、共同の働きにとって、良いことだと信じています。しかも、この日は、三教会ともに、主の聖餐を頂いて、主の救いの出来事である十字架による罪の赦しを思い起こし、復活の命の希望と共に、天国での食卓に預かる者と招かれていることを覚えます。
 さて、3ヶ月ほど前に、頻繁に相談のメール交換をしていた方が、しばらくぶりにメールを下さり、「あの頃、私は罪悪感にさいなまれていて、失礼なことも書いたと思いますが、ごめんなさい」ありました。私は、その返信メールで、「私こそ、失礼なことを書いたかもしれませんから、書いていたなら、ごめんなさい」と書きましたが、その方が書いておられた「罪悪感にさいなまれて」と書かれてあったことで「罪悪感に悩まされる」ということを思いめぐらしました。「罪悪感」の反対の言葉は何だろうと考えてみました。「罪悪感」は自分はダメな、つまらない人間、罪深い人間で生きていてもしょうがない人間だと、自分で自分を責め立ててしまいます。ですからその反対は、神様が自分を愛して下さったと信じ、神様が生かして下さっていることを喜び、希望を抱いて生きることです。「喜び、望みをもって生きる」ということから、「罪悪感」の反対は「喜望感」ではないかと思い至りました。喜び、望むで「喜望」、これは私の造語ですが、この言葉を使って、相手の方に、神様を信じて「喜望感」を持って生きて行きましょう。と、イザヤ書43章4節、「わたしの目にはあなたは値高く、貴く、わたしはあなたを愛しています。」との聖句と共に、返信メールしました。
 さて、今朝の新約聖書の箇所にも、信仰によって生きた人が記されています。この人たちは、いろいろなことがあっても、信仰によって「喜望感」を抱いて生きて行った人だと思います。
 この手紙はヘブライ人への手紙とあります。ヘブライ人とは、ユダヤ人と言ってもいいでしょう。ですから、ユダヤの国の人々、弟子たち、都エルサレムに住んでいた人々、ユダヤ教を信じている人々に向けて、「イエス様は、神様の独り子であり、救い主キリストである」ことを伝えた手紙です。また、いろいろなことが述べられていることから、もともとはいくつかの説教が編集されて作られたのではないかと言われています。
 今朝与えられた11章は、読んで頂くとすぐに解るのですが、「信仰」という言葉が、何度も出てきます。11章の小見出しにも「信仰」とあります。こうしたことも考えながら読み返しますと「信仰」が、この箇所の中心の言葉です。先ほど読みました箇所だけでも、7回も出てきます。17節「信仰によって、アブラハムは」、20節「信仰によって、イサクは」「信仰によって、ヤコブは」「信仰によって、ヨセフは」と次々に続き、最後の31節には「信仰によって、ラハブは」と結ばれています。ここに出てくるアブラハム、その子イサク、その子ヤコブ、その子ヨセフと、旧約聖書の創世記に、それぞれの物語が書かれてあります。その人物の悲しみ、苦労、人間的な失敗、兄弟間の憎しみと愛、別離と再会などが記されていますが、ユダヤ民族の系譜であり、皆ユダヤ人で、すべて男性です。男中心主義の歴史の中での主要な人物です。しかし、31節に出てくるラハブはユダヤ人ではありません。しかも女性です。さらに言いますと遊女なのです。歴史の中心人物ではないのです。ユダヤ人ではない、つまり異邦人であり、素姓の解らない女性と言っていいでしょう。そのラハブについても「信仰によって、ラハブは」と語っています。アブラハム、彼はユダヤ人から「信仰の父」と仰がれている人であり、その子イサク、孫ヤコブ、曾孫ヨセフと正当な血筋の人物をあげて、「信仰によって彼らは生きた」と言っているのです。しかし、そのすぐ後に、それとは全くつながらない異邦人の女性、しかも遊女ラハブをあげて、「彼女も信仰をもって生きた」と述べています。こうしたことから言えるのは、血筋、血統ではない、信仰によって生きることが大事なことであると言っているのです。
 イエス様も母マリアがイエス様の弟たちとやってきて、イエス様をつれもどそうとした時に言われました。「神のみ心を行う人が、私の母、私の兄弟、姉妹」と。ヨハネもヨハネ福音書で、「イエス様を信じた人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と言っています。
 このヘブライ人への手紙は、旧約聖書に通じている人、以前はパウロが書いたと言われていましたが、最近の研究では、伝道者アポロが書いたのではないかと言われています。彼は雄弁な説教者であったと使徒言行録に記されています。またコリントの信徒への手紙にも「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」とあります。
 一人一人の人生があります。その人生に神様を信じる信仰を与えて、神様は生かして下さっているのです。神様は、一人一人が生きるように、わたしたちに御子であるイエス様を与えて、神の愛を表して下さいました。それは「わたしたちが生きるようになるため」とヨハネの手紙一の中にも書かれています。(4:9)
 アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ラハブも皆、信仰をもって、生きて行きました。私たちも信仰によって生きたいものです。死に至るまで。
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by higacoch | 2012-10-13 17:19 | ヘブライ