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2012年9月30日

 「光の子のトレーニング」  申命記 6:4-9、エフェソ5:6-20
                         荒瀬牧彦牧師(めぐみ教会)

 信仰とはどこにあるのでしょうか。頭でしょうか、心でしょうか。それとも体(行動)にあるのでしょうか。信仰の本質は教理にあるのか、実践にあるのか。エフェソ書全体を読むと、その両方であることがわかります。まずキリストによる救いとは何であるのかが語られた後、4章以下に「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」と、生活の中の実践が命じられ、生活態度、生き方の問題が語られます。教理と実践はどちらも不可欠。頭と心で受け止められたことが、生き方になって現れ、二つが一つとなって意味を持つのです。
 今日与えられている箇所は、キリスト者の生活実践に関する具体的な教えです。ですから、実践的な話をしなければならないと思います。観念論だけ語っていてもまったく意味がないところだからです。しかし、その実践的教えに入る前に確認しておくべき前提があります。
 前提とはこのことです。「あなたがたは以前は暗闇だったが、今は主に結ばれて光となっている」。これが起点になっています。以前は暗闇だったというのは、ネクラだったとか暗い環境にあったということではありません。性格や環境の次元ではなく、あなた自身が闇だったということ。それを認める必要があります。しかし今はそうではない。光となっているのだ。光なるキリストが来られたからです。
 光にさらされるというのは実態が暴露されて自分の恥部さえ明るみに出されてしまうことであって、恐ろしいことであるに違いないですが、しかし面白いことに、「だからおまえは失格!」と切り捨てられるのでなく、その反対に「明らかにされるものはみな、光となる」というのです。光に照らされると光になるというのです。
 闇だったあなたが、今は人に明りをもたらす「世の光」として燭台の上に置かれている。だからあなたがどう生きるかは、あなた自身のみならず、この世界のために重要なことなのだ。それが、聖書の発想です。そしてそれゆえに、生活の中で身に着けるべき実践的な教えが語られるのです。

○「むなしいことばに惑わされるな」。わたしたちはこの世にあって、むなしい(不誠実な、不真実の)言葉の洪水にさらされています。それに流されていたら、神に背く諸力のなすがままになっている世界にひきずりこまれてしまいます。
○「何が主に喜ばれるのかを吟味しなさい」。人は日々判断をしながら暮らしています。どちらの道に行くか、お金や時間をどう使うか、この誘いを受けるべきか断るべきか・・・。小さな判断の積み重ねの中で、実は重要な方向付けがなされていくのです。だから、判断にあたって常に「主に喜ばれることは何か」と考えることが重要。それを癖にしなければなりません。WWJD(イエス様だったらどうするかな)というロゴの入ったリストバンドは生活の中で「癖」を作るための一つの試みですね。私は腕時計や携帯に、WWJDというメッセージが浮かび上がってくる仕掛けがあると良いのかも、と思いました。
○「時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです」。時代の上昇気流をつかんで成功せよ、というのとは逆の発想です。「よく用いる」のギリシア語はエクサゴラゾーで、「市場の外へ買いだす」といった意味。「贖う」とも訳されます(ガラテヤ3:13、4:5)。悪い空気の中に閉じ込められているから、それを救い出して良い物とする、という使命が与えられているのです。
○「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」。晴天なら感謝して荒天なら不貞腐れ、といった程度ではない、深く広く感謝する、大きな感謝力を身につけるためには、賛美を歌うことです。詩編から聖書から同時代の創作歌をもって。
 良い習慣は才能にまさる。これは勉強やスポーツ以上に、信仰生活にあてはまる諺ではないでしょうか。良い習慣を身につけ、悪い時代にあっても光として生きよう。
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by higacoch | 2012-09-30 17:49 | エフェソ

2012年9月23日

「天のふるさとを目指して」  ヘブライ11:8-16
              
 今年も皆様と共に、召天者記念礼拝を捧げることができ、うれしく、感謝しています。
 皆様には<召天された方々のご紹介>というリストをお渡ししています。前に置かれている写真を見ますと、生前のお姿を思い起こし、いろいろと思いだされる方もいらっしゃるでしょう。私も生前、お交わりを与えられた方々を思い出します。お一人一人は、家族にとって、親族にとって、大事な方々だったでしょう。私たちは、こうして召天者記念礼拝を捧げていますが、これは、亡くなった方々の供養とか、死を悼む追悼のためではありません。またキリスト教の葬儀も会葬者が死者の冥福を祈って行われる供養ではありません。教会では人が亡くなると、天に帰る(帰天)とか、天に召される(召天)と言い、どちらも神様の許に迎えられたと考えているからです。
 聖書には、「主は与え、主は取られたのだ、主の御名をほむべきかな」とあります。主とは神様のことです。神様が命を与え、神様が命を取られた、神様は、ほむべきかなということです。私たち人間の生も死も、神様の恵みの賜物であると覚え、私たちは生きるにしても死ぬにしても神様と共にあると信じています。わたしたちの救い主イエス様は「父なる神のお許しがなければ、スズメ一羽でも地に落ちることはない」と言われました。これはどんなに小さな命でも、父なる神と関係ないところで死ぬということはないということですから、どんな人も父なる神のお許しがなければ死ぬことがないのです。ですから、教会で行う葬儀は、神様をほめたたえる礼拝であり、葬礼拝と言います。神様を見上げて礼拝し、故人の葬り、そして会葬者への慰めを祈ります。決して死者の供養ではありません。
 ここ20年位で葬儀の形がずいぶん変化してきました。葬式が簡素化され、家族、親戚だけで行う「密葬」と呼ばれたものが、今では「家族葬」と呼ばれて、どんどん増えてきています。しかも最近の「家族葬」は一回きりで、後日に本葬があるわけではないのです。この「家族葬」という言葉はある葬儀社が1990年代に使うようになってすぐに広まっていったそうです。またさらに多くなってきているのが直葬です。これは、通夜・告別式などの儀式は行わず、自宅または病院から直接火葬場に運び、火葬にする方式です。(参考に、仏教側では、「じきそう」と言い、一般では直葬(ちょくそう)と言われているようです。)こうした葬式の簡素化は急速に浸透してきています。今や友人葬とか、自然葬とかで、新しい葬式も行われるようにもなりましたし、これまでの家の葬式から個人の葬式になってきています。私はこの傾向は進んでいくと思っています。私はこうした傾向を良くないと言おうとしているのではありません。ただ豪勢な葬式や会葬者数によって、その人の価値が計られるような葬式は本質的なものではないと思っています。葬式の規模によってでも、その人の人生の業績によってでもなく、その人の存在によって、それを見つめての葬式が行われるべきであると思うのです。時代によって、葬儀の形式が変化しても、変わらない大事なことをしっかりと受け止める葬儀を行うべきだと信じています。
 私たちは、どんな人もその命は神様から与えられた命、その人が洗礼を受けようと受けまいと、その人の存在価値を神様の目から見なければならないと信じていますし、人の死は神様が取られたことだと信じていて、神様の許である天国に召されたと信じています。だから、わたしたちが行う葬儀や記念会も亡くなった方の冥福を祈って行われる供養ではありません。
 今朝、読みました聖書の箇所には、何度も「信仰によって」と書かれています。アブラハム、その妻サラの人生が短く書かれていますが、彼らは「信仰によって」生き、そして死んだ、そして彼らは故郷、すなわち天の故郷を熱望していたとあります。私たちは誰でもこの世の地上のどこかに誕生しています。その場所が地上の故郷でしょう。しかしここで言われていることは、この世の何かに、地上の財産、地位、名誉に心を向けて生きるのではなく、神様を見上げて生きたということです。これは地上の歩みから逃避して天国だけを見つめて、生きていくというのではありません。命を与えられたように、地上での歩みを与えられたものとしてしっかりと生き抜くことです。
 神様は私たちに命を与えて下さったばかりか、私たちが人生を生き抜いていくために、神様の御子であるイエス・キリストをこの世に送り、わたしたちに神様の愛を表して下さいました。それは私たちが生きるようになるためです。ヨハネの手紙に「神は独り子を世におつかわしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪をつぐなういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Ⅰヨハネ4:9-10)とあります。
 神様は人間の救いのために、イエス・キリストをこの世に与えられました。そのイエス・キリストは私たちの救いのために死んで下さいました。命をかけて私たちを愛して下さったのです。そして三日後、復活して、新しい命を表して下さいました。こうして死が終わりではないことを表して下さったのです。
 先に天に召された方々は、帰るべき所、天の故郷で、今は神様によって平安を頂き、憩われていることを信じます。
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by higacoch | 2012-09-29 16:40 | ヘブライ

2010年9月16日

 「 赦され、赦す」  
         創世記45:1-15、マタイ福音書 18:21-35

                            
 今朝の箇所には、兄弟の間の罪の赦しについて教えられている箇所です。「人が自分に数回罪を犯して損害を与えた場合、何回赦したらいいのですか」とペトロがイエス様に問うてきたのです。ペトロも誰からか害を受けて、どれ位まで赦せるのか、悩んでいたのかもしれません。こうした悩みは私たちも経験します。同じ人から繰り返し裏切られると、もう我慢できない、もう赦せないと心に決めたりします。それが私たちです。
 当時、律法の教えをまとめたタルムードという教本があり、そこには「3度まで赦せ」と書かれていました。弟子たちも、それを知っていたでしょう。ですが、ペトロはイエス様の行動をこれまで見ていて、3度よりもっと多い「7回までですか」と聞きました。すると、イエス様は「7の70倍までも赦しなさい。」と言われました。これを聞いたペトロも他の弟子たちもそんなことはできないとすぐに思ったでしょう。イエス様は、ある数まで「赦しなさい」ではなく、何回でも「赦しなさい」と教えておられます。
 それから、たとえを語られました。ある王は家来の莫大な借金を帳消しにして赦してくれました。他方、その家来は、仲間を赦さず、獄にぶち込んでしまいました。家来は王によって赦されていながら、仲間を赦さなかったのです。このことが王に知れて、王は怒り、家来を牢の役人に引き渡しました。そして、イエス様は「あなたがた一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」と言われました。
 考えてみたいのです。ペトロは「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら」と問うています。ここには「兄弟がわたしに」、つまり、自分は被害者だと考えているのです。私たちもよくそう考えがちです。わたしたちは、どうしても被害者意識が強いのだと思います。
 日本で裁判員制度が取り入れられて、もう3年がたちました。そして、これまでの裁判官による裁判に対して、裁判員裁判は、ある傾向を示しています。それは重罰化の傾向で、量刑がほぼ1.5倍になったと言われています。殺人未遂、傷害致死事件などでもそうです。どうしても被害者の側に立つような意識になってしまうのではないかと思うのです。わたしたちはどうしても被害者意識が強く、自己中心的な考えがあります。「あの人が私に」「彼女が私に」「彼が私に」と考えがちです。あの人が罪を私に犯したのだと考えています。あの人が罪を犯し、私は損害を被ったと、こうしたことは、ある面では、一方的な面があると思います。相手が罪を犯し、自分は罪を犯していないと主張しているのです。しかしどうでしょうか。私たちはいつも損害を被る側ばかりでしょうか。自分が兄弟に罪を犯すことがないのでしょうか。
 イエス様は言われました。「あなたがた一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、私の天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」ここに、たとえで言おうとされたことが示されています。「天の父もあなたがたに同じようになさる。」と言われています。これは、王が家来の借金、ここでは罪と言い換えたほうがいいと思いますが、家来の罪を赦してくれました。それと同じように、あなた方も天の父から赦されている、その赦されているあなた方が、この家来のように赦さないのなら、王と同じようになさるということなのです。そして、このたとえは、天国のたとえですから、王は神様であり、家来はわたしたち、私であります。この私が、赦されているのです。
 王様の赦し、家来の返すことができないほどの借金を罪と考えるなら、王様が家来の罪を帳消しにしてくれたことが、イエス様が十字架の上で「彼らを赦してください」と祈られたことと重なります。イエス様の十字架の死は、罪の赦しであり、借金の帳消しなのです。
 そうです。この出来事は、神様が皆さんの罪をも帳消しにして下さったことを現わしています。皆さん一人一人、またここにおられない方々一人一人のために、帳消しにして下さったのです。このことを知るとき、それほどまでにして、神様はわたしたちを愛されたのだということわたしは知らされます。神様は、わたしたちの罪を決して赦さず、裁き、罰する方ではなかったのです。神様は罪を犯した者の再生、悔い改めて生きることを願われている方です。放蕩息子のたとえに表されているように、再び生きることができるように、いつも愛して下さっているのです。
 その神様の赦しに生かされるとき、私たちも赦された者として、赦しに生きるように導かれているのです。そこに神によっては開かれる世界があります。神の国に生きる歩みが開かれていくのです。神の言葉を聞いて生きるように、「赦しなさい」を聞く歩みが与えられているのだと。
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by higacoch | 2012-09-22 16:30 | マタイ

2012年9月9日

  「キリストは今ここにおられる」
      エゼキエル書37:15-28、マタイ福音書18:15-20  
                                関 伸子 伝道師

 「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」とマザーテレサは言いました。現代は「無関心の時代」と言われています。人と人との関係が稀薄になり、互いに関わり合いを持つことをほとんどしなくなった孤立化・孤独化の時代、関係の成立しにくい時代です。家族を含めて、人とのコミュニケーションが希薄になっている現代に、あるいは濃密な人間関係を嫌うこの「無関心な時代」に、今朝のマタイの御言葉はどう響くのでしょうか。
 マタイ18:15-20では「罪」が中心的な事柄であるように見えますが、実は「キリスト者の真の交わり」あるいは「教会の真実の姿」というものが一番の課題です。イエス・キリストは今ここにおられる。そのイエスの愛を実感することができる、体験することができる、そのことが、わたしたちの信仰、あるいは救いがわたしたちの事実となる鍵です。
 15節で「兄弟」というのは、信仰の友、教会員同士を指すのです。信仰者も罪を犯しますし、教会内にもこの世と同じように罪があります。問題は、この地上の教会に罪や問題があることではなく、問題が起った時の処理の仕方です。
 その処理の仕方が信仰的でなくてはいけないのです。「一人の兄弟姉妹を得ること」こそ、第一目的なのです。ここではわたしたちは無関心でいることはできないのです。罪を犯す兄弟姉妹に対して傍観者であること、無関係であることはできないのです。わたしたちはここで他者の罪に積極的に関わってゆくよう、主に呼び出されているのです。
 ここでの「罪」は原語では複数形ですから、個々の罪、諸々の罪という意味でしょう。それ以上具体的には語られていません。「あなたに対して罪を犯したら」と訳される箇所では、「あなたに対して」という言葉がない有力な写本があります。そこでは「あなたの兄弟が罪を犯したら、行って二人だけのところで忠告しなさい」となります。罪とはその人自身の滅びに関わる事柄です。
 主の祈りで「御心が天におけるごとく、地にも行われますように」と祈りますが、神様は「小さな者が一人も滅びないように」という御心が「わたしたちを通して」この世で行われてゆくことを望んでおられるのです。一人の兄弟姉妹も失われてはならない。主は、失われた一匹の羊をどこまでも大切に追い求められる方です。わたしたちはここで真剣に罪を問題とし、徹底的に隣人に関わってゆきなさいと命じられています。
 「行って」とあるように、こちらから出向いてゆかなくてはなりません。愛がない場合、むこうが悪いのだから、向こうから来るべきだと言って、相手が来るのを待ちます。しかし、真の愛はこちらから先手を打って出向くのです。
 「罪」とは何か。ここでは具体的に何であるか語られていませんが、キリストを迫害する者から、キリストを宣べ伝える者となったパウロは「罪のリスト」をガラテヤ書の中に記しています(ガラテヤ5:19-21)。それらの「諸々の罪」は根源的なただ一つの「罪」を、すなわち、わたしたちが神との関係において逸脱しているという「罪」を表しているのでしょう。聖書は神との関係の破れを「罪」と言うからです。
 神の前には自らを誇ることはできないという点でわたしたちは皆、五十歩百歩です。そのように見てきますと、いったい誰が他者の罪を断罪することができるのでしょうか。誰にもできないのです。しかしイエスは、そのようなわたしたちの罪の現実をよくご存じでした。よく知った上でわたしたちを招いておられます。「兄弟が罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」とは、「交わりへの招き」の言葉です。非難や断罪への招きではないのです。
 罪を犯した兄弟姉妹と二人きりで向かい合うことが第一段階であるとすれば、第二段階はそこに一人または二人が加わって向かい合うことが求められています。それでもダメな場合は、第三段階として教会全体が関わることになる。これらの言葉の背後には、「一人の小さき者も罪に滅びてはならない。失われてはならないのだ!」という断固たる主の決意があります。なんとかして一人を滅びから救おうとされている。熱い愛があります。
 本日の旧約聖書、エゼキエル37:15-28の中心部分は、16-17節に記されているエゼキエルに命じられた象徴行為です。ユダとイスラエルが再び統一され、一本の木とされます。
 一つとなる神の民、神の民の教会における真の姿、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とイエスは語ります。「その中にいる」と訳されている言葉は、原文のギリシア語では「真ん中にいる」という意味の言葉です。「真ん中」というのは、誰からも等距離、誰にも一番近く、このど真ん中に、イエスはいてくださるのです。
 19節には「心を合わせる」という言葉があります。この言葉は、ギリシア語では「シュンフォネオ」、このギリシア語から生まれたのが、「シンフォニー」という、「響きを共にする」という意味の言葉です。
 祈りは聞かれる。そのために、心を合わせなさい。どんなに違った声でも、一つにしなさい。そこに教会がある。そこに、キリスト者の夢が生まれる。そこに、キリスト者の友情が生まれる。そのような祈りの輪を作りなさい。そこに兄弟姉妹が得られる。そこに、教会が造られる。これが、主イエスのみこころです。そのような主の交わりへの招きの言葉を味わいながら、ご一緒に新しい一週間への旅に出て行きましょう。
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by higacoch | 2012-09-15 17:31 | マタイ

2012年9月2日

「究極の望み」   詩編104:24-35、Ⅰコリント15:35-58
                            
 今日与えられました聖書箇所はよく葬儀の時に取り上げられます。その理由はここに記されていますように、人は死んだ後、どうなるのかということが書かれているからです。「朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」とあります。朽ちるものは朽ちると言っています。朽ちるもの、それはわたしたちの肉体です。ですが、パウロはそれだけを言っているのではありません。死者の復活を言い、朽ちる者が朽ちないものに復活し、また卑しいものが輝かしいものに、弱いものが強いものに、自然の命の体が、霊の体に復活するというのです。ここには希望があります。死がすべての終点ではありません。死を乗り越えた希望があります。愛する人が召された時、遺族や友人には別れの悲しみがあります。死に直面し、どうすることもできない悲しみが込み上げてきますが、そのような親族や友人の上に、慰めが与えられています。それはこの地上の死が最後ではなく、悲しみの中にも復活の希望が与えられ慰められます。ですから、私も葬礼拝で何度もここを取り上げて説教しました。
 復活と言うのは、人が死んだ後のことですから、捉えどころがありません。普通で考えたら、解らないのです。さらにこれをまともに語り出したら、信じられないことですから、馬鹿馬鹿しいと言われたりするかもしれません。パウロが知恵の国、ギリシアのアテネで伝道した時もそうでした。使徒言行録に記されていますが、人々は最初パウロの説教に耳を傾けて聞いていましたが、最後の方になって、パウロがイエス・キリストの復活の出来事を語り出しましたら、ある者はそんなことがあろうかとあざ笑いました。またある者はそんな話は聞きたくないと言わんばかりに、復活の話は、いずれまた聞くと言ってその場を立ち去ってしまいました。
 この出来事は、とても象徴的だと思います。それは復活の出来事は人間の知恵では信じられない、不可能だということです。しかし、キリストの福音を語る以上、この復活の出来事を語らないわけにはいきません。伝道者パウロは、はっきりと言っています。「もしも死者の復活がなければ、キリストの復活もなかった。そしてキリストが復活しなかったら、わたしたちの福音宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄だ。」と。
 イエス様の弟子たちが、約束された聖霊を頂き力を得て語り出した時も、そこで語ったことは、イエス様の復活でした。弟子のリーダ―であったペトロが立ち上がって大胆に、「神はイエス様を復活させられたのだ、わたしたちは皆、そのことの証人だ」と言っています。このように、弟子たちもイエス様の復活を宣べ伝え、説教しました。
 パウロは、もしイエス様の復活がなければ、私たちの宣教は空しいし、信仰も空しいと言いました。もしもイエス様の復活がなければ、これまで苦労を重ねて伝えてきた福音宣教の働きも無駄だと言いきっています。パウロは愛のない信仰は空しいと言いましたが、復活のない信仰はそれこそ全く空しいと言うのです。こうしたことからキリスト教は、キリストの福音を伝えますが、その真髄はキリストの復活だとするなら、復活教と言っても言いかもしれません。
 復活の出来事は、人間の知恵では決して知り得ることができないことなのです。では、どうして復活を知り得たかというと、神がイエス・キリストの復活を通して示して下さったからです。だから、ペトロもパウロもキリストの復活を語り得たのです。
 復活の命は死に勝利しました。この勝利を救い主、キリストによって神が与えて下さったし、これからも与えて下さいます。この復活の命の約束が約束されているのです。だからパウロは「主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」と語っています。
 これがわたしたちに与えられている死を乗り越えての勝利です。この約束が神によって与えられています。これこそ死を越えてわたしたちに与えられている望み、究極の望みではないでしょうか。この望みをパウロは、手紙を書き終える前に伝えたかったのです。この望みを信じて、今の持ち場で、主の業に、常に励みなさいと勧めています。
 どっちつかずの信仰に揺れることなく、この勝利を見上げて、復活の命の信仰に固く立って、主につながる歩みをしていきたいものです。そこで為される業は決して無駄にはならないのですから。それがどんなに弱く、小さくても無駄にはなりません。復活の命の約束を信じつつ、今おかれた所での務めを果たして歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-09-07 16:28 | コリント