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2012年8月26日

 「忍耐して待ち望む」 ハバクク3:17-19、ローマ8:13-30
                            
 私は先日日本キリスト教団の西国分寺教会で行われた子どものための伝道集会に出席致しました。集会は、童話の読み聞かせのプロの川島昭江さんの読み聞かせと、アイスクリームの食べ放題でした。川島姉は感動深い語りをされ、その後、ご自身の証しを語られました。6歳の時に、おたふく風邪から髄膜炎を併発し、視神経委縮になって両眼の視力を失いました。川島さんは、幼稚園の頃、絵を描くのが好きで、一人でよく絵を描いていたそうです。庭に咲いた花々、飼っていた猫、絵本の挿絵など。川島さんご自身が本に書いておられますが、「自分の人生といいながらも、人間、自分で選べることって意外と少ないかもしれない。生年月日、家柄、性別、容姿、その他もろもろの自分で選んだおぼえはないのにそういうことになっている。自分の意志とは、無関係にそうなってしまったことは偶然の出来事と考える人が多いだろう。でも私はそう思えない。人間の力ではコントロールしきれない絶対的な力が働いているように感じる」と。川島姉は肉体の目は見えなくても、心の目は確かなものを見ておられる、確かな将来の希望を見ておられると、その生き方に、私は感動しました。今朝の箇所にも「目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望む」とあるようにです。
 さて、今朝与えられたローマの信徒への手紙は、伝道者パウロが書いた手紙であります。 
 パウロが将来における希望を固く信じていることが記されています。パウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないと私は思います。」と言いきっています。現在と将来を見ています。現在の苦しみとありますから、彼は、この時も苦しめられているのでしょう。パウロの伝道の旅行には、多くの苦しみがありました。(Ⅱコリント11章参照)しかもパウロは、苦しみつつ、もがきうめいていると言っています。パウロは自分だけでなく、被造物のうめきも見ています。被造物とは、人間たちや自然界の動植物や創られたすべてのものを表しています。そうしたものたちが、もがいているというのです。これは特に、近代になって重要な問題として受け止められ、キリスト者の管理の務めが取り上げられるようになりました。わたしたちの信仰告白の中には「すべての命と創造物は、神から委託されたものであり、神の栄光と奉仕のために用いられるべき」と告白しています。
 パウロは、被造物のうめきを見つめながらも、わたしたち信仰者のうめきをも語っています。そして、さらに神様である聖霊のうめきも語っています。神様の霊自ら、言葉に表せないうめきをもってとりなして下さる。それは私たちが弱く、どう祈るべきか、解らないのを助けて下さる。このようにして、神の霊は弱い私たちを助けて下さり、万事を益となるように共に働いて下さると言うのです。私たちは人生の苦しみをどう受け止めるのでしょうか。この苦しみは無駄な時だったと思ったりするかもしれない、しかしそうではなくて、そうした苦しみを通して、無駄だと思われたことをも、決して無駄にはされない。神は霊を注いで万事が益となるように働いて下さるのです。パウロが語っていることを注意して聞きたい。ここでパウロは万事が益であると言っているのではありません。すべての人生の経験が益であるとストレートに言っているのではなく、万事が益となると言っています。これはこうも言えるでしょう。人生の経験の一つ一つが死んでしまうのではなく、生かされてくる。再び生き返ってくる。その人に与えられた経験が生かされて、その人が生きるようになるということです。
 神を愛するから、益となることを人が知ることができるのではありません。これは人間の力、知恵で知ることができないのです。神の霊によって知らされて、知っていくのです。パウロは、言いたいのです。神を愛する者たち、ご計画に従って召されたものたちには、万事が益となるように神様が働いて下さることを知っている。ぜひ、ローマの教会の人たちは、知って欲しい。このことは、ローマの教会の人たちだけではない、ここにおられる皆さんにも、知って欲しいということです。
 パウロにとっては、現在の苦しみは、将来、私たちが現される栄光、これは与えられる栄光に比べれば、取るに足りないのです。この歩みを私たち信仰者は与えられているのです。現在の苦しみから一時も早く逃れるのではなく、その苦しみの中にあっても、神に与えられる栄光を信じて、今を生きていただきたい。決して今の苦しみは、無駄にはならない、神の栄光につながる歩みであることを覚えたい。人生において益となる時が備えられるのです。そして、天に召される時、神の子として迎えられます。この希望が与えられています。まだ私たちは完全ではありませんが、御子に似る者とされる歩みを与えられています。パウロが言うように、今は苦しみにあっても希望を抱きつつ、忍耐をもって生き抜こうではありませんか。キリスト者として、主である御子を見上げて、忍耐して待ち望みつつ。
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by higacoch | 2012-08-30 16:58 | ローマ

2012年8月19日

 「イエスの家族となろう」  詩編1:1-6、マタイ12:46-50
                            関 伸子 伝道師


 「血は水よりも濃い」ということわざがあります。その血族関係は、いつも二つの面を持っています。父母・兄弟姉妹、これらは親しみ深い愛情を表し、しばしば美しい言葉で飾られます。しかし現実はそうとばかりいえません。それは人を義理・人情で拘束し、つまずきを与え、重荷にさえなります。血の争いは、他人との争いよりも遠慮がなく、エゴイズムのむき出しになることが多いのです。
 今日の聖書箇所マタイによる福音書12:46-50には、「イエスの母、兄弟」と小見出しが付けられています。並行箇所として、マルコによる福音書3:31-35とルカによる福音書の8:19-21が記されています。これらの3つの記事の中で、おそらく1番初めに書かれたのはマルコによる福音書で、マタイの記事の基になったと思われる福音書です。マルコによる福音書では今日の話の直前「ベルゼブル論争」があります。そのベルゼブル論争の中で、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。」(マルコ3:21)とあります。マルコはそのすぐ後に「イエスの母、兄弟」のことを記しています。イエスの元に家族が来たことの目的が明らかにされています。身内の家族の者たちはイエスの「気が変になっている」と聞き、取り押さえに来たのです。
 マタイによる福音書ではどうでしょうか。本日の出来事が起こったのは、46節にもあるように「イエスがなお群衆に話しておられるとき」でした。このことはマタイによる福音書だけが明らかにしています。イエスが群衆に神の国の福音をなおも話しておられる時だったのです。イエスが群衆に話しておられるとき「その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。」と46節の後半にあります。「その母」とはマリアのことです。その兄弟たちとは、マタイによる福音書の13:55によれば「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」などのことです。このように母や兄弟たちは、身内としてイエスを心配して、イエスの元にやって来たのです。この行動の中にわたしたちは、マリアを始めとするイエスの家族の人々の願い、願望を明確に示されているように思います。彼らは善意をもって、イエスの身を案じ、何とかして事態を無事に収拾したいと願ってこの場所にやって来たに違いありません。親としてわが子のことを案じ、心配するのは当たり前でしょう。また兄弟姉妹として、自分の兄弟姉妹の身を案じて心配するのは当然です。
 「外に立っている」とはどういうことでしょうか。ある距離を置いているということが込められています。イエスと距離を置いて、少し離れたところからイエスを見るのです。イエスの言葉を聞くのです。物事を見るときにある距離を置いて見た方が、客観的に、正確に見ることができる、ということもあります。イエスとその教えについても、「外に立って」、少し距離を置いて見ることが必要なのかもしれません。実際にそのようにイエスの外に立って、距離を置いてイエスを見ていた母や兄弟たちは、イエスの話を聞いているその人々の中に入っては来ないのです。
 イエスは、外に立っている母や兄弟たちについて、「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と大変厳しいことを言われました。明確な断絶です。はっきりした拒絶の言葉を語られた後で、弟子たちの方に、手を差し伸べられて、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」と言われました。弟子たちこそ、外ではなく内にいる人々です。この弟子たちこそ、わたしの母、わたしの兄弟、つまりイエスの本当の家族であると言われたのです。つまりここで、イエスの本当の家族とは誰か、を示されたのです。そして、「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」というみ言葉によって、ここに新しい家族がある、との宣言がなされているのです。ここに新しい家族の歴史が始まるのです。その家は、血のつながりによるのではなく、天の血筋によって造られる新しい家族です。
 イエスはそのように、イエスのもとに集い、その教えを聞き、み業を間近で見ている弟子たちこそ、ご自分の本当の家族なのだと言われました。49節に、イエスは弟子たちの方を指して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言われたとありますが、この「指して」という言葉は、前の口語訳聖書ではここは「弟子たちの方に手をさし伸べて」となっていました。イエスは弟子たちに手をさし伸べて、「ここにわたしの家族がいる」と言われたのです。その「手をさし伸べる」というのは、マタイ8章3節では、イエスが重い皮膚病にかかっている人に手をさし伸べてその人に触れ、癒して下さった時のしぐさです。手をさし伸べて下さるというのは、イエスが守り、支えて下さるということなのです。
 イエスの家族になるとは、主の御心に聞き、主の御手に導かれ、御心を行うことです。「みこころが天に行なわれるように、地にも行なわれますように」と祈り始めるのです。この祈りをするところで、わたしたちもイエスの家族となるのです。
 イエスは、新しい天の血筋の絆の中に入ることを求めておられます。だれでもキリストを信じることによって、関係の中へと招き入れられるのです。そして神の家族となるのです。わたしたちはこの東小金井教会の礼拝を通してイエスの家族となるように招かれ、互いに祈りあい、神の家族となる幸いを覚えながら、信仰の旅を続けて行きたいと願います。
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by higacoch | 2012-08-25 11:33 | マタイ

2012年8月12日

「朝ごとに主は」  
   詩篇5:1~13、ルカ福音書 6:12~16    濵崎 孝 牧師

 私どもカンバーランド長老教会の草創の出来事を想い起こして描かれた絵(テネシー州ディクソンの森にあったマカドゥ牧師の丸太小屋)の中にcame morning と書き添えられたものがありました。私どもの教会は、特別な朝を記憶して来た教会なのです。1810年2月3~4日にかけて、マカドゥ牧師たちはあの丸太小屋で徹夜の祈りをささげました。そうして迎えた信仰の朝に、「新しい教会を形成するのが主の御心だ」という確認がなされたのでした。
 旧約聖書の詩編は、「いかに幸いなことか」という祝福の言葉から始まっています。そして、その信仰の詩人は、「主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)が幸いだと語っていました。詩編第1編の信仰者の朝は、どのようなものだったのでしょうか。「昼も夜も」と表現し、朝のことは語りませんでした。しかし、詩編第5編の詩人は、「いかに幸いなことか」と祝福されるような「朝」を語っています。この信仰者は、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。/朝ごとに、わたしは御前に訴え出てあなたを仰ぎ望みます。」と祈っているのです。この聖句は、前の口語訳聖書では、「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。/わたしは朝ごとにあなたのために/いけにえを備えて待ち望みます。」という祈りになっていました。つまり新共同訳聖書のような祈願ではなく、主なる神さまから朝ごとの祈りに耳を傾けていただいたという恵みの体験から語られた信頼の表明になっていたのです。そして、そういう恵みの確認が出来る神の民なら、これからも、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」と祈ることへ導かれるに違いありません。
 皆さん、キリスト教会にとって朝は、どういう意味をもっているのでしょうか……。私どもは、「その夜、主は、彼ら(神の民)をエジプトの国から導き出すために、寝ずの番をされた」(出エジプト記12章42節a)という慈しみ深い神さまから見守られながら夜を過ごし、朝を迎えるのです。私どもは、主なる神さまから朝を祝福されているのです。私どもは、「見よ、イスラエル(神の民)を見守る方はまどろむことなく、眠ることもない」(詩編121編4節)と教えられています。私どもは、そういう偉大で全能な神さまから目覚めを与えられ、朝を祝福されているのです。ルカによる福音書は、父なる「神に祈って夜を明かされた」イエスさまが、「朝になると弟子たちを呼び集め」たことを語っていますね。ですからキリスト者は、例えば朝ごとに主イエスさまから、「お早う、気分はどうだい……」とお声をかけていただき、微笑みかけられているのだということを信頼して良いのです。ヨハネによる福音書21章12節は、復活されたキリストのことで次のように伝えています。「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。」――そういう恵みがありますから、教会の人々の朝はしばし
ば平和であり、「ゆっくりと瞑想し祈りの言葉を並べられる……祈りのための好機」も豊かに祝福されるのです。
 ただ、詩編第5編の信仰者が語りだした「朝」は、ゆっくりと瞑想できるような朝ではなかったようです。彼は、「主よ、わたしの……つぶやきを聞き分けてください」(2節)と訴え出ているのです。彼の朝は、「助けを求めて叫ぶ声を」(3節)をあげる試練の朝だったのです。「わたしを陥れようとする者がいます」(9節)という苦難の朝……。そして、そういう朝ごとに祈りの路づくりをしたことが尊く、やがてかけがえのない意味を持ち、隣人愛に結晶して行く朝にさえなったのでした。
信仰の詩人の朝ごとのたたかいは、神殿にその場を移してもいます。8節がそれを示しています。彼は、言わば礼拝堂で迎える「朝ごとに」の大切さを体験的に知っていたのです。試練や苦難に翻弄されても、礼拝堂で迎える主日礼拝の朝がたたかいとられていれば、「主よ、恵みの御業のうちにわたしを導き/まっすぐにあなたの道を歩ませてください」(9節a)といった祈りは、きっと祝福されるのです。
 苦難のただ中での「朝ごとに」でしたが、そこでしなやかにたたかい続けた詩人の祈りは、信頼の表明を結語にすることが出来ました(12~13節)。預言者的な信仰に高まった祈りの路づくり(イザヤ書33章2節を参照)……。どうか、東小金井教会の皆さんも、主イエスさまにあって、個性的な「朝ごとに」の祈りの路づくりに健闘されますように。
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by higacoch | 2012-08-18 17:47 | 詩篇

2012年8月5日

 「遣わされた者」  詩編71:14-19、マタイ福音書10:1-10

 今週8日から夏の全国高校野球大会が始まります。県大会では県によって違いますが、試合のベンチに入れるのは、大体20人だそうです。しかし、甲子園では18人に絞られます。その18人は最終的に監督が選びます。その選考基準は、やはり、野球の実力によって決められていくでしょう。それは当然であります。
 さて、今朝与えられた聖書箇所は、主イエス様が弟子12人を選出された箇所です。イエス様が弟子たちを選んだのを基準はと考えてみると、わたしたちの常識とは全く違い、非常識であるように思われます。12人は気が荒い漁師たち、疑い深い人、人々に毛嫌いされた人、政治的な活動に熱心な人であったりし、何とイエス様を裏切る者も含まれていたりで、選ばれた基準が全く解りません。彼らが弟子たるに相応しい資質と才能を持っていたとは思えないのです。しかし、イエス様はそのような12人を選ばれているのです。  
 しかもどうして彼らを伝道の初期に選ばれたのでしょうか。ある期間の訓練と修養の後に選ぶのでは遅かったのでしょうか。それはイエス様が町や村に出かけて行かれた時、人々が飼い主のいない羊のように弱りはて、打ちひしがれているのを見られたからなのです。イエス様は、その人々を深く憐れまました。この「憐れむ」というギリシア語は「はらわた」と言う意味があります。そうした所から、はらわたがきゅうと締つけられる痛みを伴うことを意味し、イエス様が表面的な同情の心を持たれたのではなく、もっとはらわたが締めつけられるような痛みを覚えられたのです。そして「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われ、その思いから、弟子たちを呼び寄せられたのです。
 わたしたちの時代も、同様で人が生きるのに大変な時代であります。もう14年間も自殺する人が3万人を降りません。生きようとして、生きる力、喜び、希望を見いだせないでいる人が多く、弱りはて、打ちひしがれている人たちが多いのです。
 イエス様は12人を選ばれたのです。この12という数字には、深い意味がありました。それは、イスラエル民族がエジプトで奴隷状態で苦しんでいた時、預言者モーセが立てられて民族がエジプトから脱出して救われました。その時イスラエル民族は12の部族によって構成されていたのです。この12部族が12弟子を選ばれた根拠であり、そこにはイスラエル民族の復興ではなく、全く新しい神の民、神によって救われ、生きる民を表しています。
 こうして12人の弟子たちは、神の国に生きる者として、イエス様から、まずイスラエルの民の失われた羊の所、特に、弱り果て、ひしがれていた人たちの所に遣わされて行きました。その人たちに「天の国は近づいた」と述べ伝えるためでした。これは、「天の国が近々、やってくるから待ちなさい」と言うことではなく、「天の国は、(すでに)来た。」と言うものです。それは、イエス様が「神の国の福音を述べ伝えられた」ことと同じことだったのです。神の国が将来、やってくるというのではなく、今、ここにやってきて広がっている、それは、イエス様がこの世に来られたことによって始まっているということでした。神があなたを見捨てるのではなく、あなたを愛されたということなのです。このことを伝えるようにまず失われた人々、打ちひしがれている人々に弟子たちが遣わされました。弟子たちは、そうした人々だけに遣われてのではありません。後にはサマリヤの人々にも、また異邦人の人々にも、つまり地の果ての人々にも福音を伝えられていくことになったのです。
 では、12人の弟子たちは、選ばれた後、模範的な働きをしたかと言いますと、そうではありません。失敗をする、欠けの多い者たちでした。しかし彼らは、神の国の働き人として、聖霊の力のよって励まされていきました。
 今朝の聖書の箇所に、イエス様は「12人の弟子を呼び寄せられた」とあります。この「呼び寄せ」は今も行われています。それは礼拝においてです。今、皆さんを呼び寄せておられるのです。だから、12人の弟子たちとは、呼び寄せられ、イエス・キリストを信じる者たちです。信仰者は神の国の福音を伝えるために遣わされています。教会の勢力を増すためとか、教会の財政を豊かにするため、教会が政治的に力を持つようになるために、遣わされているのではないのです。教会の歴史を見ていく時、そのような誘惑に陥り、教勢が増し、財政的に豊かになり、政治的な力を持って、この世を支配するようになった時代がありました。そして罪を犯したこともありました。しかし、イエス様が弟子たちを呼び寄せられたのは、この世での権力を持つためではなく、神の国の良き訪れを宣べ伝えるためでした。
 イエス様は言われています。「私が来たのは、仕えられるためではなく、仕えるためにきた」また「私は、羊に命を与え、豊かに与えるためにきた。」と。弱り果て、生きる望みを失っている者たち、これは命を失っている人たちだと、言い換えてもいいかもしれません。そのような人たちに、神の到来を知らせ、命を与えるために、遣わされたのです。弟子たちがそうであったように、今は、皆さんが遣わされています。そういうと、「私はまだまだです。そんな資格はありません。」と躊躇される人がいるでしょう。しかし、小さな歩みであっても、福音を伝える者として遣わされていることを覚えて、祈り願い、神様の力である聖霊を頂き、伝える者となりましょう。ここにわたしたちの使命があるのです。
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by higacoch | 2012-08-11 16:00 | マタイ