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2012年7月29日

「和解のための務め」  詩編107:1-9、コリントⅡ 5:14b-6:2
                              
 私は7月16日の海の日、代々木公園で行われた「さよなら原発10万人」の集会に参加してきました。その後、デモにも参加して「再稼働反対。原発いらない、原発やめよう。子どもを守ろう。大地を守ろう」とシュプレヒコールしてきました。「すべての命と創造物は、神のもの」と聖書にあります。福島原発で、空も大地も、畑も河川も海も、放射性物質で汚染されました。そして、農作物も畜産物も、水産物も汚染されました。私は初めて市民運動のデモに参加しました。決して原発を続けてはならないという強い思いに駆り立てられています。
 さて、今朝の箇所で、パウロは強い思いを持って駆り立てられていると言っています。14節にある「駆り立てている」と言う言葉のギリシア語は、どうすることができないほど、四方八方から攻め立てられている、という意味があります。外から迫害を受けて、攻め立てられているのではなく、内側から攻め立てられているというのです。だから、じっとしていることができない、抑えることができないという状態なのです。どんなもので駆り立てられているのでしょうか。憎しみや怒りからなのでしょうか。そうではありません。パウロは「キリストの愛が駆り立てる」と言っています。キリストが与えて下さった愛を思うと、いてもたってもいられないというのです。パウロは「一人の人がすべての人のために死んで下さった」、この一人の人、それがキリストなのです。キリストが、すべての人のために死んで下さったと言っています。
 ここでの「~ために」というギリシア語は、「~に代わって」とも訳せます。ですから、「キリストがすべての人に代わって死んで下さった」とも言えます。そしてパウロは言うのです。「生きている人がもはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活して下さった方(キリスト)のために生きることになる」と。
 生きていく目的は何か、人生の目的は何か、そうしたことがよく問われます。これは、昔の偉人ばかりではなく、今も、多くの人が問うていることです。もう随分前に、作家である五木寛之氏が「人生の目的」というタイトルの本を出しました。そこには、こう書いてあります。「人生に目的があるのか。私は、ないと思う。何十年も考え続けてきた末に、そう思うようになった。人生に決められた目的などというものはない。・・・要するに、身のフタもない言い方だが、万人に共通の人生の目的などというものはないと。」
 私も以前は、神様を信じることができませんでした。そのような中で、生きる目的は何なのか、悩み苦しみました。しかし今私は、五木寛之氏のようには考えていません。どこが違うのかと問うと、やはり決定的に違うのは、五木氏は神を、キリストを知らないということに尽きると思うのです。神を、キリストを知ることによって、生きていることの意味、命の価値を知ります。なぜなら、この命は神によって与えられていること、そしてこの世に生まれ、生きる目的は、自分が罪深い者であるけれども、神を、キリストを知ることによって、その罪を赦され、生かされ、愛されていることが解ってくるのです。
 人間の罪は、人と比べて自分の罪が解るのではありません。私は、あの人に比べたら、まだましだとか、そういう問題ではありません。数や量の問題ではなく、その動機の問題です。人間は自分の力では人を愛せない、自分を愛して自己中心的になってしまいます。ですから、どうしても私たちは、罪を犯してしまします。こうした罪が神とわたしたちとの関係を壊し、神とわたしたちは対立せざるをえなくなっていたのです。そのような中に、キリストがその間に立って、人間たちの罪を負って、神の前に立ち、人間たちに代わって死んで下さいました。ここにキリストがすべての人のために死んで下さった出来事があるのです。キリストは自らの命を持って、神とわたしたちの人間との間の和解の業を為して下さったのです。これがキリストの十字架の出来事であり、しかもキリストは十字架の上に苦しみながらも、「彼らの罪をおゆるし下さい」と執り成しの祈りをして下さったのです。
 ですから、和解は神の赦しの出来事です。罪を犯して神に対立していたすべての人を、神はキリストの犠牲をもって、赦し受け入れて下さった出来事なのです。このことが、パウロが言いたいこと、「キリストは、すべての人のために死んで下さった」ということなのです。このことを受けとめ、キリストを救い主として信じる者には、新しい生き方が与えれます。それを知らされた人は、自分ために、生きるのではなく、自分ために死んで復活された方、キリストのために生きるようにされているのです。
 キリストがすべての人のために死んで下さったことを知らない人たちが今も多いのです。ですから、私たちの身近の人にも、キリストはあなたのためにも死んで下さったと、伝える者として遣わされていることをしっかりと受け止めて歩んでいきましょう。神はそのために、あなたがたを遣わされているのですから。
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by higacoch | 2012-07-31 15:53 | コリント

2012年7月22日

 「信頼して歩みを起こす」
        イザヤ書55:8-11、マタイ福音書8:5-13  
                            関 伸子 伝道師


 マタイが8:1から始めたイエスの奇跡物語の第二話が今日の聖書箇所、「中風の僕の癒し」の物語です。百人隊長の僕は物語には登場せず、百人隊長が中心的な役割を担っていることに興味を惹かれます。物語は「イエスがカファルナウムに入られると」と書き出します。
 カファルナウムには弟子のペトロの家があり、イエスはその家を定宿としておられました。イエスは7章までの「山上の説教」を語り終えられて、山を降りられカファルナウムにあるペトロの家へと帰って来られました。そこにある「一人の百人隊長が近づいて来て懇願し」たのです。百人隊長とは、ローマの軍隊において定員100名の軍団兵の指揮を取った歩兵小隊長です。8:2に重い皮膚病を患っている人が「イエスに近寄り」とありましたが、それと同じ言葉がここに用いられています。イエスとその背後には、従って来ている多くの群衆がいるとありますから、皮膚病を患っている人がそこに近寄ることは大変なことなのです。この百人隊長がイエスに近づいて来たことも、別の意味で、大変なこと、驚くべきことであると言えるでしょう。百人隊長はイエスに近づき、自分の僕の救い、癒しを願いました。異邦人が、しかもユダヤ人たちを今支配しているローマの軍人が、ユダヤ人であるイエスにこのように救いを求めることは、普通はあり得ないことなのです。
 イエスは、彼の懇願を聞いて、「わたしが行って、いやしてあげよう」(7節)と言われました。しかしこの言葉は、このように訳すのがよいのか議論があるところです。別の解釈の仕方をするとこの箇所は、「わたしに行ってあなたの僕をいやせと言うのか」という意味になります。この話を、マタイ15:21以下のカナンの女の信仰の話と重ね合わせて読む時に、拒絶の言葉として読む必然性が見えてくるのです。15:21以下には、イエスがティルスとシドンの地方に行かれた時のことが語られています。そこで一人のカナンの女が、悪霊に苦しめられている自分の娘の癒しをイエスに願ったのです。カナンの女とは、つまり異邦人のことです。その女の願いを聞いた時、イエスは「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言いました。さらにイエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われました。ユダヤ人は子供たちであるのに対して、異邦人は小犬だというのです。イエスがそのように異邦人からの救いの願いをある意味で大変冷たく拒絶されたことと合わせて考えるならば、同じ異邦人の願いを、この8章において「わたしに行って癒せと言うのか、そんなことはできない」という意味にとった方がよいのではないかと思うのです。
 7節を拒絶の言葉と読む方をとるならば、百人隊長の言葉の意味は変わってきます。その場合にはこういう意味になるのです。「主よ、おっしゃる通り、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。異邦人である私があなたの救いを求めることなど分を超えたことであるとわきまえています。しかしせめて、あなたのお言葉をいただけないでしょうか。それだけで、私の僕は癒されると信じています」。百人隊長の言葉をそのように読むと、先ほどの15章のカナンの女の話と更に重なってくるのです。この百人隊長も、カナンの女も、異邦人であるゆえに、イエスの拒絶を受けたのです。イエスから、あなたに与える救いはない、と言われました。しかし彼らはそれであきらめなかったのです。彼らは、イエスの言葉を受け入れたのです。
 イエスは百人隊長に「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。13節に、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」というイエスの言葉があります。そして、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」とあります。イエスの一言で病気が治りました。その一言とは、「あなたが信じたとおりになるように」というものでした。つまりこの癒しは、百人隊長の信仰によってもたらされたのです。
 イエスが言われた「あなたが信じたとおりになるように」という百人隊長の信仰とは、「イエスにお願いすれば、病気も必ず治るに違いない」という彼の確信ではありません。人間の側の確信ではないのです。この百人隊長が、イエスのみ言葉にこそ権威があり、力があることを信じ、その御言葉を求めたということなのです。その信仰の通りに、恵みが、救いのみ業が与えられたのです。私たちが神様の救いのみ業にあずかるのは、このような信仰によってです。
 神の言葉は、神の御心を確実に成就する権威ある力だということが、旧約聖書の教える真理でした。イザヤ書55:10-11にはこう記されています。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」聖書は、神の言葉の威力を繰り返し語ります。
 信仰とは、神とその御言葉に信頼すること。それ以上でもそれ以下でもないのです。
 私たちに求められていることは、驚くということ以上にイエスの御言葉にこそ、わたしたちを救う権威と力があると信じることです。イエスの御言葉を求めていく時に救いがわたしたちたちに与えられていくのです。百人隊長は自分が異邦人であること認め、自分が神様の選びから漏れている人間であるということを知っていました。しかし、自分はただイエスの言葉だけが欲しいと求めたのです。神の業が及ぶ場所に何とかして近づこうとして、イエスにより頼んだのです。わたしたちもイエスの言葉を聞き、信頼してキリストによって明示された場所へと歩みを起こす者でありたいと思います。
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by higacoch | 2012-07-28 11:34 | マタイ

2012年7月15日

「いつもあなたがたと共に」  マタイ28:16-20   
                唐澤 健太 牧師(国立のぞみ教会)

 
 マタイ福音書はガリラヤで弟子たちが復活の主イエスに出会う感動的ともいえる場面で、「しかし、疑う者もいた」と書き記す。しかも、注解書などを紐解くとギリシア語の文法では11人の弟子たちの内の何人かが疑ったというのではなく、全員が疑ったという意味になるそうだ。復活の主イエスに出会い、ひれ伏し礼拝しているのに疑っている弟子たちの姿は何か矛盾しているようだけど、これは私たちの姿そのものではないだろうか。私たちも復活の主を毎週礼拝しながらなお「疑う者」である。
 しかし、十字架を前にしては逃げ出し、復活の主に出会ってもなお疑う弟子たちに、主イエスは「近寄って来て」言葉をかけてくださった。ここには原文では「するとそこで」という小さな言葉が使われている。「疑う者もいた。するとそこで」主イエスは疑う弟子たちに近寄って来てくださったのだ。「疑う」という言葉には「分離していく」という意味もあるようだが、まさに疑いの中で主イエスから「分離」していこうとする弟子たちに、主イエスは近寄ってくださる! この主イエスの行動そのものが疑う弟子たちにとっては、新たな招きであり、赦しであり、愛そのものであった。
 マタイ福音書に描かれる復活の主イエスは「疑う者たち」の疑いを晴らすために、復活された時の状況などを細かく語ることをしない。派遣の命令と約束を告げるだけだ(ヨハネ福音書やルカ福音書の復活の記事と比べてみよ)。マタイは、主イエスの派遣と約束に生きる時に、復活の主を確かに知ることができるということを伝えているのだ。復活の出来事は、何か復活について証明してもらって理解したり、知ったりするのではなくて、主イエス・キリストがいつも共にいてくださることを信じて、神の宣教の働きへと馳せ参じる時に深く知らされるというのが、福音書記者マタイが伝えようとしていることだ。
 私は3月に韓国を訪問した。その時に日本が韓国を植民地支配していた時代の独立運動や軍事政権下における民衆の抵抗運動にキリスト者たちが深く関わっていたことを改めて知った。韓国のキリスト者たちは主イエスの教えに誠実に従い、その教えを伝えるがゆえに苦難を引き受けることになった。時にはあまりの迫害の中で「疑う」に心を支配されることもあったと何度も投獄を経験された一人の牧師は告白された。しかし、その牧師は続けて、様々な事件を貫いて「十字架と復活の主こそが歴史を導いておられる」と確信するに至ったと言われた。宣教の働きに集中する時に、復活の理解が深められたという証の一つと言えるだろう。
 神の御心に従う時に、あまりの暴力の前に疑いが生じることがある。圧倒的な試練の前で私たちは嘆き、疑う者となる。私たちは、試練や困難に直面した時に、神様を近くに感じない、と嘆く。祈りが聞かれているなんて信じられない、とつぶやく。神様が共にいるなんて信じられない。感じられない。礼拝しながらも疑うのである。しかし、だけども大切なことは、主イエスを感じるということではなくて、主イエスを信じること。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共いる」という主イエスの「言葉」を信じることだ。
 主イエスは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共いる」と約束された。「いつも」とは直訳すると「すべての日々」だ。喜びの日も、悲しみに震える日も、怒りに支配される日も、困難に直面する時も、絶望し神などいないと嘆く日も、そしてこの世での生を終えて「終わりの日」を迎えるその日も、私たちの「すべての日々」において主は共にいてくださる。それが主イエスの約束であり、マタイ福音書がクリスマスの出来事から復活の出来事まで一貫して語るインマヌエルという「福音(よき知らせ)」である。この主の約束の言葉を、福音を携えて私たちはここから出かけていくことができる。
 復活の主と弟子たちが出会ったのは「山」であった。マタイにおいて山は神の言葉が語られ、それを聞く場所でもある。山とは、神の言葉を聞くことによって自分の人生や世界の問題を見直すことができる「高み」のこと。東小金井教会も東小金井で主イエスが指示された「山」なのだ。そして私たちもここから派遣されるのだ。「いつもあなたがたと共にいる」という約束と共に! 
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by higacoch | 2012-07-21 16:48 | マタイ

2012年7月8日

「信仰と生活」   ヤコブ1:1-8          生島 陸伸 牧師
 
 東小金井教会の皆さんと一緒に礼拝出来ることを嬉しく思います。
 今日は、使徒パウロの手紙とは少し違う手紙から豊かな恵みを頂きたいと準備して来ました。ヤコブの手紙1章1~8節です。
 この手紙から数えて7つの手紙を聖書学者は「公同の手紙」と呼びます。新約聖書の手紙は21ありますが、そのうち13は使徒パウロの手紙です。ヘブライ人への手紙も以前はパウロの手紙と見られていましたので、その次から7つの手紙のことを「公同の手紙」と言われます。
 パウロの手紙にはあて先が教会、または個人の名前がはっきり書かれています。ローマとかコリントとか、テモテとか。「公同の手紙」は、信徒全体に宛てた手紙と見られることから「公同の手紙」と言われます。
 歴史的にはこの手紙を新約聖書に入れるかどうかと議論の多かった手紙です。
理由は2つ、1)イエス様の出来事の内容がほとんど記されていない。
2)「信仰によって救われる」というキリスト教本来の信仰と違う「行いによって義とされる」という内容が書かれている。
「2:21 神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。2:22 アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。」。と書いています。(ローマ4:8 B「「アブラハムの信仰が義と認められた」のです。」とある。)
 これらの事で、この手紙を聖書の中に入れることにかなりの異論があった、ということです。その疑問も分かります。今日の個所を学んで見ましょう。
 この手紙の著者は1節で「ヤコブ」と書いています。ヤコブと言う名前は新約聖書にいくつか出てくるので推測がなされているのですが、使徒のヤコブは初めの頃に殉教の死を遂げています(使徒12:1)。それで、この著者はイエス様の弟のヤコブが書いたものだと伝えられています。
 イエス様の在世中、お母さんと兄弟達は、イエス様の活動が理解出来なかったと思われます。(マルコ3:31~35)多分身内の者でしたら、やはり、その当時の町や、国の指導者、祭司、律法学者たちがイエス様の活動を非難していたのですから、心配して連れ帰そうとしたのは仕方のない事だったと思います。
 しかし、使徒言行録のはじめを見ますと、イエス様の昇天後、弟子達はイエス様が勧められた言葉に従ってエルサレムで10日間、熱心に祈りました。その中に、お母さんと兄弟たちも参加していたと記されています。
使徒言行録の「1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」、また使徒言行録12:17。15:13。21:18--。などで、ヤコブがエルサレムの教会の中心にいたことが分かります。
 ヤコブは律法を忠実に守っていたので、「義人ヤコブ」と言われた程でしたから、ヤコブを見て、ユダヤ人たちが大勢キリスト教に入ったという記録があるようです。パウロが異邦人伝道に大きな働きをしたように、ヤコブもユダヤ人伝道に欠かせない働きをしていたと思われます。
 今日の御言葉の学びに入りましょう。
 「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」
使徒パウロの場合は、「キリスト・イエスの僕」と自己紹介で書いています。(ローマ1:1。フィリピ1:1など。)
 ヤコブの場合は、「神と主イエス・キリストの僕」と書き出しています。
創世記から黙示録までを正典として認めている教会に取りまして、「神とイエス・キリストの僕」と言いましても、「キリスト・イエスの僕」と言いましても、同じことなのですが、ヤコブはエルサレム教会の働き人として、表現の違いが出ていると思われます。多分ユダヤ教からキリスト教に入る人たちには、このような表現をするヤコブの存在は大きかったと思います。
 「僕」は奴隷と言う言葉です。この言葉は、二つの意味があります。
1)主人に完全に服従する。と言う意味で使われている。それは、初代教会で作られた考え方ではありません。イエス様がご自身と天の父の関係を語られた中にその源を見る事が出来ます。まずヨハネ5:19―「イエスは彼らに言われた「はっきり言っておく、子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事も出来ない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されたからである」。もう一つ7:16「イエスはお答えになった「わたしの教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである」と語られています。イエス様は父なる神様に従われていたと分かります。
 それが生活と密着していた。一番分かりやすい出来事がゲッセマネの祈りです。マルコ14:36―「アッパ父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願う事でなく、御心に適うことが行われますように。」と3度祈られたと記されています。 完全に父に従う姿を見る事が出来ます。
2)もう一つは、旧約時代から神に召された預言者や族長たちを意味する言葉です。創世記26:24-「その夜、主が現われて言われた。「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを祝福し、子孫を増やす。わが僕アブラハムのゆえに」ここでも、『わが僕アブラハムのゆえに』となっています。
 列王記上8:56にソロモンの祝福の祈りの中でこのように出てきます。
-「約束なさったとおりに、その民イスラエルに安住の地を与えて下さった主はたたえられますように。その僕モーセによって告げられた主の恵みの言葉は、一つとして空しいものではなかった」と。「その僕モーセによって」と書かれています。
 「神の僕」とは、神様に忠実な僕です。神の選ばれた偉大な指導者を意味しています。
 ヤコブも「神と主イエス・キリストの僕」と自己紹介しています。奴隷のように神とイエス様に従うと言う事です。
 手紙の宛先は、「離散している12部族の人たちに挨拶いたします」。
この個所が、この手紙全体の特色を示す大切なところだと思います。「離散している12部族の人たち」これは、世界に散っている神の民たちへと言う意味です。
 大抵の民族は国が滅びて、働ける人たちが捕らわれて連れて行かれますとその民族は消えるのですが、ユダヤ民族はバビロンに滅ぼされても消えなかった。12部族という言葉は、父祖ヤコブから生まれた子供たち12人が、始祖になって12部族が出来上がったのです。飢饉のために、この家族は息子のヨセフを頼って、エジプトに避難して一人一人の家族が大きくなって12部族となった。そして、モーセによって連れ出されて、アブラハムに約束された地に帰ってきた。その途中で、神と特別の関係を結んだ祝福された民族、それが12部族。
 この王国は、神様に背きまして国が滅びますが、50年後に帰国が許された。その時、ユダヤに帰らずに世界に散っていった人たちがいた。その人たちを「離散している人たち」と呼んだのです。しかし、彼らは律法に忠実であるために、奴隷として使うには不便で多くは自由が与えられたと言われます。それらの人たちは、町々で栄え、シナゴク(会堂)を建てて、聖書を教え、信仰を保っていたと言われています。
 彼らはアブラハムの神を捨てませんでした。この人たちはキリストの福音を聴くのに、大変良い条件を備えていた。集会の場所があり、旧約信仰の土台が出来ており、その当時は、ローマがヨーロッパ全土を支配していたので旅券なしで自由に世界中を行き来する事が出来た。
 このように12部族と言いますと、アブラハムからの民族、イスラエルを意味していましたが、彼らは預言者たちが預言した神の独り子、救い主が来られた時、自分たちが負いきれなかったモーセ律法を言い訳に使って、救いへの招きを拒絶しました。
 使徒たちと信徒たちによって、ユダヤ人もそれ以外の民族も救いに導かれました。この救われた人たち、世界中に散っている新しいイスラエルに挨拶する、と書き出しています。
 そして、この手紙を書いた頃には多分初代のクリスチャンの燃えるような熱心な時代が過ぎようとしていた。信仰が言葉だけになって、生活と離れた状態になっていた、と推察されるのです。
 しかも、かってはキリスト教の擁護者であったローマの官憲が次第にキリスト教迫害に転じる様子が見えてきつつある世界情勢も踏まえ、もう一度キリスト信仰が、生活から遊離するのでなく生活の土台となって、どんな出来事に出会っても、本来イエス様の愛の麗しさを生活の土台として、行動が保てるようにと書かれたのが、この手紙ではないかと思うのです。
 長々とその時代の背景を話しましたが、その背景をわきまえて、この手紙を読まないと、パウロの手紙と矛盾するように思えるからです。
 2-4節―「わたしの兄弟たち、いろいろの試練に出会うときは、この上ない喜びとしなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。1:4 あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」
 「信仰を持つと、神様が一緒にいることになるので、この世の生活ではお金が儲かり、楽しい生活が出来る。」とヤコブは書いていません。むしろ、いろいろの試練に出会う、信仰が試される時の受け取り方を示しています。
 世の中が悪いから、こうなったのだと嘆くのでは困ります。相手が悪いから私も同じようにするというのでもおかしい。私の個性だから、人を押しのけ目立つ事をするのは仕方がない、嫌なものは嫌、と言うのも主の僕の生き方ではない。それでは主の栄光は輝かないことになります。
使徒パウロも同じように書いています。ローマの手紙5:3で「苦難を誇りとします。わたしたちは知っています。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」と。
 ヤコブは、「試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と書いている。試練を我慢しているとストレスになります。その解消法は『この上ない喜びと、思う、方法を見出すことです。多分ヤコブも、しばしばそのような苦難に出会ったのでしょう。試練を喜ぶ、使徒パウロは「苦難は忍耐を忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」と書いていますが、成長に欠かせないものです。先取りして、喜ぶことです。
 イエス様の人生は、決して楽しく、気楽なものではありませんでしたが、イエス様の人生は魅力のある最高の人生でした。イエス様がかかった十字架は最悪の死刑の道具です。現在では、多くの女性がぶら下げている。愛の象徴として、魅力があると、悲惨なことを連想するはずのものも愛のしるしになる。驚きです。
 私の場合は、試練に合う度に、私の努力で乗り越えようと頑張って失敗していました。むしろ、試練の多くは乗り越えると言う為にあるのでなく、私を造り変えるために起きている出来事のようです。どん底に落ちて、そこで、主の声に励まされ、造りかえられるのです。試練で何が変わるのでしょうか。求めること、神様に聴くことがはじまるのです。
 ここでヤコブが「信仰が試される」と書いていますが、私が今、試みの中にいることは主のご計画と信じることです。外に目を向けるのでなく、主が働いてくださって私の内に栄光が現れるように忍耐して待つのです。もう一つ大切なことは、試練と関係なく、その中でイエス様のお言葉に沿った動をすることです。この場合、主の奴隷という私を実現するのです。イエス様の愛で言葉を出し、イエス様の愛で人に仕える。それで、主の方を見上げて待つことです。不思議なことが起きます。これは主の栄光です。絶対者が私を通して不思議な事を見せようとしておられるのです。
 牧会塾が金曜日にありまして、男性と、女性に分かれた。私のところで牧師先生たちは、どのように伝道したら良いか。教会が年寄りばかりになったので、若い人に伝道する方法を教えて欲しいというのです。どう思います?。お年寄りが、御言葉で喜びが溢れるようにする事です。年寄りが若者より、もっと若々しく、喜びに溢れて生活している。年取って頑固にならないで、若者よりももっと柔軟な生き方をしている。それは、イエス様のお言葉に聴いて、従って生活すれば出来ることです。奇跡は起きる。
 嫌々ながらではなく、イエス様の十字架の御足跡に従えば感謝でしよう。
4節―「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれています。
 試練の中で、試練を取り除いてください。と祈る。でも、祈っても、試練が取り除かれない、自分の望んだことが解決しない。それはイエス様が望んでいない、ことだからです。喜んで自分の願いを撤回して、主の喜ぶことを求めるのです。その御手本はイエス様がゲッセマネの園で祈った祈りです。
マルコ14:36 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
 イエス様は3度、ご自分の受難のことを語っておられますから、知っている事ですが、十字架にかかられる前日の夜、ゲッセマネの園で祈られました。そして、天の父の御心と分かったイエス様は、十字架の道を自ら進んで歩かれました。
 苦難のとき、私が頑張って苦難を取り除こうとするのです。ここが一寸注意する所です。自分で頑張ろうとすると、ストレスになる。特に教会で聖書を学んでいる人は、良いことをしようと過敏です。普通の人より高度に良くしようとするから、ストレスが強く掛かるのです。
 イエス様のゲッセマネの園でのように、分かっていても、自分の思いも祈ることです。それが安全弁なのです。4節をもう一度見てください。
4節―「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれています。
 どうです、「何一つ欠けた所がないように頑張りなさい」と書いていますか。一言も言ってないでしょう。驚き。
 祈るという事は、「私を変えてください。あなたの喜ぶことが出来る私にしてください」と祈るのです。イエス様はマタイ11:28で「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 11:30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
出来ないことがよく分かるのです。だから祈るのです。主は必ずそうしてくださると、しているのです。
 オリンピックが始まります。選手たちのトレーニングを見ますと、驚きです。良い記録がでる体になることが目的ですから、苦痛がむしろ喜びでしょう。お相撲さんが、自動車のタイヤを引いて走っている。普通の人が町でタイヤを腰につけて引っ張っていたら『馬鹿か』と言われるでしょう。
 私たちを素晴らしい人格に育てよう。根性の相当曲がった私を造り替えようとしたらこれしかないのです。醜い私を贖って、抱きかかえてくださるお方に『有難うございます』と祈るのです。平穏無事の時は、あまり熱心に祈らない。苦難を通して、天の父は、祈りの心を起させてくださるのです。そして、私を知り、苦難を恵みにする知恵をください、と祈るのです。それが5~8節です。
 「1:5 あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。 1:6 いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。 1:7 そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません。 1:8 心が定まらず、生き方全体に安定を欠く人です。」
 神様の望む知恵をくださいと祈るのです。イエス様は十字架を背負うことを受け取りました。私はイエス様から、自分自身を憎むほどに自己愛から離れて、私の愛のように他者に仕えなさいと勧められている。
 命を捨てて、私を愛してくださったお方が一緒にいて、支えるといわれるのですから、喜んで従いましょう。
 その恵みは大きい。『綾子先生は、今、幸せだね。』と言われて、『幸せよ』と返すことが出来た。それは充実した人生です。感謝です。
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by higacoch | 2012-07-14 17:36 | ヤコブ

2012年7月1日

 「まず神の国を求めよ」  
          イザヤ書49:14-21、マタイ福音書6:24-34
 
                             
 今朝、与えられた聖書の箇所は、多くの人々に愛されている聖書箇所です。「空の鳥を見なさい。野の花をごらんなさい」と皆さんの中には、暗記しておられる方もおられるでしょう。とても親しまれる聖句です。しかしこの箇所で、イエス様が一番良く言われた言葉は「思い悩むな」と言う言葉です。イエス様が弟子たちや人々に「思い悩むな」と言われているということは、当時の人々がよく思い悩んだということでしょう。日々の歩みの中で、自分の体や病気のことなどで思い悩んだとすれば、私たちと同じであります。私たちも思い悩みます。皆さんはどんなことで思い悩まれていることでしょうか。
 イエス様は、「自分の命のことで、何を食べようか、何を飲もうか、と思い悩むな。自分の体のことで、何を着ようかと思い悩むな」と言われています。自分の命のこと、自分の体のこと、とは、自分のことを思い悩むということ。他の人のことで悩むのではありません。自分のことのみを思い悩むのです。こうした思い悩んで生きている人に、イエス様は、大切なことを見失っていると教えておられます。そして「思い悩むな」と言われただけではなく、「見なさい」と言われました。
 あなたがたは、自分の命のことで、自分の体のことで、どうしよう、と思い悩んでしまっている、だから、そこから心の目を離しなさい。離れるだけではなく、「空の鳥を見なさい」と言われ、空に生きる小さな生き物を見るように言われました。また「野の花を見なさい」と地に生きる小さな野の花を見るように言われました。この二つとも「見なさい」が強調されています。こうしたことから「空に」「地に」目を向けるように命令し、神様が小さな生き物にも目を配り、養い育てて下さっていることを教えて、あなたがたも神様が養い、育てて下さっていると、しかも、あなたがたは鳥たちよりも価値ある者として、野の花よりも大切な存在として生かして下さっているのだと、教えて下さっているのです。
 「あなたがたが自分の命のことを思い悩んだとからと言って、寿命をいくらかでも伸ばすことができますか。」と問い、「あなたがた、信仰の薄い者たちよ。」と言われています。ここで、イエス様は、信仰がない、不信仰な者たちよ、と言われていません。そうではなく、信仰が「薄い」者たちと言われています。しかし、神様はその信仰の薄いあなたがたを愛しておられる、このことを知って欲しいと願われているのです。このことに気づかず、自分が労して「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩んで生きるのは、神様を信じることができない異邦人がしていることではないかと問われています。
 イエス様は、神様を信じる者たちに、「天の父なる神様は、あなたにとって必要なものはあなたよりも先に、ご存知」だと言われています。そして、あなたは神によって生かされ、養われ、愛された存在であり、尊い価値のある人なんだと教えておられるのです。このことは、イエス様の周りに集まった人にだけに言われたのではなく、ここにいらっしゃるお一人お一人にもおっしゃって下さっておられることです。だから、皆さん、一人一人は、神様から生かされ、養われ、愛され、尊い価値ある者なのです。神様によって愛された方々であり、その愛は、イエス様がわたしたちを、命をかけて愛し、十字架で死んで下さったことによって明らかにされています。私たちは、神様によって価値ある者とされて、今も生かされ、愛されているのです。
 だから、神様を見上げて、神様に従って生きていきなさい。神の民として神の国に生きていきなさい、神様に喜ばれる義しさによって生きていきなさい。と語り掛けておられます。神の愛が解らなければ、自分で何とかしなければならない、そうして生きようとする、その歩みが自分のことを自分で何とかしようと思い悩む、そうした思い悩みをしてますます神の愛が解らなくなっていく。そうした歩みではなく、神があなたを愛して下さっているのだから、何よりも神を見上げて、神を信じて、神の言葉に従い、神の御心に従うように生きて行きなさい。あなたは、明日のことまで思い悩むことをしなくてよい。明日のことは、神が用意して導いて下さるのだから、神を見上げて生きて行きなさい。そこにおいて、神を深く信じて生きることができるのですから。
 私たちは、今、この時代に、ここ日本で生かされています。そして、神の国を求めて生きて行く、個人的な務めもありますが、社会的な務めもあります。この世で、神の国を求めていくために、神の国の秩序を壊す、神が与えて下さった命、自然等を蝕み、滅ぼす物には反対して戦わなければなりません。この地上を放射能によっての汚染し、命を奪い、自然の秩序を壊すことは神の御心ではないと信じています。先月のマナの会の通信で、福島の原町教会の除染ボランティアの活動の報告で書きましたように、原子力発電所の事故による放射能汚染は、これ以上起こしてはならないのです。そのためにも、原子力発電所を安易に稼働させてはなりません。神の御心に沿うように生きる上で、脱原発を進めなければならないと思うのです。神の命の、自然の秩序を壊す道は、歩むべきではないのです。
 私たちは、個人的にも、また社会的に責任においても、まず神の国を求めて生きていくように生かされているのです。ですから神様を信じて祈りを持って、何よりもまず神の国を求めて生きて行きましょう。
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by higacoch | 2012-07-07 19:09 | マタイ