<   2012年 05月 ( 3 )   > この月の画像一覧

2012年5月20日

「キリストに向かって成長」  
    エレミヤ書10:1-10a、エフェソの信徒への手紙 4:1-16
 
                       
 先々週、東日本大震災の被災地ボランティアに3日間行かせて頂きました。短い期間でしたけれども、仙台市若林区の荒浜地区、笹屋敷という所で活動してきました。ワークの内容は津波に運ばれてきた細い雑多な瓦礫を畑から除くことでした。手持ちの熊手を使って、土を掘り返し、石や鉄パイプや軍手やビニール袋やいろいろな畑にあって欲しくないものを丁寧に除去する手作業でした。  
 被災地の拠点となっているプレハブの正面の壁に大きなポスターが貼ってあって、私はそれに目を奪われ、じっくりと見ました。畳2枚ほどの大きさで、中央の文字を包むように笹の葉がたくさん描かれていました。その文字は、横書きで、「ささ」そして少しスペースを置いて、「へ」またスペースがあって、「あう」というひらがなでした。この文字を一気に読むと「ささへあう」です。それが、少しスペースをおいて書かれてあるのには、ある意味が込められていました。「ささ」は、笹屋敷を表し、「へ」は、そこへやってくる、そして「あう」、つまり笹屋敷へやってきて会いましょう、そして「支え合い」ましょうとかけてあるのです。 
昨年は、一年を表す漢字に「絆」が選ばれました。互いが結ばれて支えあい、「きずな」が生まれ、またこうした「絆」が大事だと考えられたからでしょう。
 さて、今朝の箇所に、結びあい、支え合うことが語られています。この手紙は伝道者パウロがエフェソの教会の人たちに送った手紙ですが、ここに「きずな」が語られています。「平和のきずなで結ばれて霊の一致を保つように努めなさい」(3節)とあります。「きずな」と訳されている言葉は新約聖書には4回しか出てきません。そのうちもう1箇所で「きずな」と訳されていますが、それはコロサイ書3章14節で「愛は、すべてを完成させるきずなです」というのです。このように「きずな」は人を結び合わせる意味がありますが、元々の意味は鎖であり、使徒言行録8章23節では同じ言葉が「縄目」と訳されています。日本では犯罪人を縄で縛って連行したからでしょう。こうしたことを思うと、パウロが自分のことを「主に結ばれて囚人となった」(1節)と言っているのが解ってきます。自分は主に鎖で結ばれていると言いたいのです。
 そのパウロが「あなたがたは神から招かれたのですから、その招きに相応しく歩みなさい。」と言っています。あなたがたとはエフェソの教会の人たちだけではなく、皆さんでもあります。皆さんは、神様から招かれ、主に結ばれているのです。パウロは「主に結ばれた者は招きに相応しく歩みなさい。」、そして「一切高ぶることなく、柔和で、寛容な心を待ちなさい」とも言っています。こうした生き方をするために、一つだと言うのです。体は一つ、霊は一つ、主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、そして、一つの希望にあずかるように招かれていると。ここで一つ、一つと語っているのですが、注意しないといけないのは、この一つは、同じという意味ではありません。信仰は同じ、洗礼も同じ、そういうことを言おうとしているのではありません。パウロが「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています。」と言っていますように一人一人は違います。キリストの賜物は同じものが与えられているのではなく、計りに従って恵みが与えられているのです。
 パウロが、賜物と言う時、それは霊の賜物、聖霊の賜物のことです。キリストの賜物は、聖霊によって与えられる賜物なのです。その賜物はその人が働くための力とか、知恵と言っていいでしょう。それはキリストの体を作り上げて行くために与えられる力、知恵です。パウロは言うのです。「私たちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つの者となり、成熟した人間となり、キリストの満ちあふれた豊かさになるまで成長するのです。」さらに、キリストに向かって成長していくとか、キリストによって成長していくと語っています。
 こうしたパウロの言葉を聞くと、自分は、どうかな、成長しているのかなと思ったりします。そして、信仰以前と以後とは、自分がどう変わっているのかなと思ったりします。私自身そのようなことを思い巡らしていたら、信仰以前と以後とで、決定的に違うことがあると気づかされました。それは祈りです。以前は、隣人のために、神に祈ることはしていませんでした。神の名を知らなかった時には、自分の中で、友人のこと、家族のことを、心配したり、世話をしたりはしていたけれども、祈ることはしていなかったと教えられました。また、教会員になった頃「教会に来ていなかったら、こんな人とは付き合うことはなかっただろう」と言ったこともあります。自分の考えや自分の好みだけで生きていったら、狭い範囲での出会いだけだったでしょう。しかし、主によって招かれて、主に結ばれたことによって、多くの信仰の友と結ばれて、生きるようにされたのです。
 このように、主に招かれ、主に結ばれた者は、信仰の友、求道者の友にも結び合わされています。ですから、主にあっての成長は、一人だけの成長ではありません。結び合わされての成長、絆によっての成長なのです。そして、その成長は、単に教会員の数が多くなるというものでもありません。キリストによっての成長は、体全体があらゆる節々が補うことによって、組み合わされて、おのおのの部分が分に応じて働くことによって成長させられていくのです。それは、愛によって創り上げられます。もし愛がなければ、成長もないし、結びあわされることもなく、バラバラになってしまうことでしょう。キリストによっての成長は、キリストに向かっての成長です。単なる人数、財力、政治力の成長ではありません。教会の拡大に向かっての成長ではなく、キリストの向かっての成長であり、パウロが言うように、愛の絆によって互いが結び合わされての成長なのです。
[PR]
by higacoch | 2012-05-26 15:51 | エフェソ

2012年5月13日

 「病む母のもとへ」  マルコ福音書 1:29-34
                     荒瀬 牧彦 牧師(めぐみ教会)
 

 イエス様と一行が、弟子になりたてのシモンの家に行きました。シモンはさぞ嬉しかったでしょう。でも家には一つ問題がありました。病人が寝ていたのです。「人々は早速、彼女のことをイエスに話した」ということから想像すると、どうもシモンが「妻の母親が病気で奥で寝ております。癒して頂けませんか」と言ったのではなかったようです。他の誰かがそれとなくイエス様の耳にいれたのでしょう。
 小さなことのようですが、これには大事な要素が含まれているのではないかと思えてなりません。シモンにとってイエス様の伝道に従っていくのが晴れがましい表舞台だとすれば、家族の病気のことは舞台裏です。あえて言いたくない、イエス様に面倒かけたくない、と思っていたかもしれません。
 教会でそういうことが時々起こります。以前、中会の某会でご一緒だったAさんが突然見えなくなりました。聞くと所属教会から離れてしまったとのこと。明るくて信仰熱心、奉仕熱心だった方だったので驚きましたが、実は御家族の問題で大変悩んでおられたそうです。それをなかなか教会の仲間には言えず、限界までいってしまって、遂に教会を離れてしまったようです。胸が痛むことです。
 自分の教会でもそれに似たことを時として経験します。ある方が礼拝から遠ざかりがちになる。なぜだろう。お聞きすると、「教会に行くと皆明るくて幸せそう。自分みたいな境遇の者が行くところでない。私の辛い気持ちなどわからないでしょう」といわれます。「そんなことないですよ。他の人たちもそれぞれ大変な状況を抱えているのですよ」と言いたいのです。でも、その気持ちはわかります。教会という公の場に行った時は明るい幸せそうな顔をしたいし、しかし心の中はそうはいかない。そのギャップに悩んでしまうのです。
 教会で明るく振舞う自分も、家に帰れば暗い部屋が待っている。自分も暗くなる。そんな裏の部分は変わらない。それは教会とか信仰とかの反対にある領域。そこではひとりで頑張って耐えていくしかない。そんな表と裏の乖離、二面性の問題を、多くの人が抱えているように思われます。
 イエス様は、家に病人がいるときいた時に、すぐにそこへ入ってゆかれました。奥の間で寝ていたのでしょう。イエス様はそこへ行き、彼女の手を取って起こされました。すると熱は去り、彼女は起き上がって、「一同をもてなした」のです。これはディアコネオーという動詞で、弟子として奉仕をしたということです。シモンの義母は、主イエスのミニストリーの一端を担う者となったのです。
 この出来事はイエス様の宣教の本質を端的に表わしているのではないでしょうか。イエス様は、よそ行きの、公の、日の当たる側面だけで私たちに関わるのではないのです。私たちが教会では簡単に人にあかせないような、自分の家の中にだけ秘めているような、裏にある生活にも入ってこられて、そこで手を取ってくださるのです。なぜなら、それも人間が生きていることの一部だから。主イエスは、私たちの知性や信仰の領域だけの主ではなく、私たちの心と体のすべての領域において主となってくださいます。病人のいる奥の間にも入ってきてくださる主なのです。
 その後に続いて書いてあることもそれを裏書きしています「夕方になって日が沈むと」(32節)病人や苦しむ人が次々と集まってきました。お天道様のもとを堂々と歩けぬような、「悪霊につかれている」といわれる人たちが、闇に隠れて集まってきたのです。イエス様はそういう人たちを迎え入れ、そこに神の国(神の支配)をもたらしてくださいました。人生の「裏通り」を歩んでこざるをえなかった人たちが、イエス様に出会って表を歩くものとなっていきました。
 シカルの町の井戸でのサマリア人女性との出会いもそうでした。彼女は、人に後ろめたい過去を持っている人で、人に会いたくないから真昼間の暑い時間に水を汲みにくるような人でした。最初はユダヤ人イエスによそよそしく “公式見解”で対応していたのですが、イエス様が彼女の過去を言い当てたら、彼女は驚いてイエス様に引き込まれていきました。救い主に出会って、彼女は町へ急いでいって人々に「さあ、見に来てください。わたしが行なったことをすべて言い当てた人がいます」と言うのです。彼女が人に触れられたくなかった裏の部分に主は入ってゆかれた。すると、彼女にとって「裏」は隠さなくても良いものになってしまったのです。むしろそのことを通して、イエス様が救い主だとみんなに伝えたくなったのです。
 教会へ来ても、裏とか陰とか、自分の抱える灰色の領域がなくなるわけではありません。大事なのは、表にも裏にも主が来られる、ということ。そして表も裏も意味がかわるのです。華やかな表だって、偽りだったら化けの皮を剥がされるし、裏もただの裏ではなくなります。裏にある弱さや病や苦しみを通して主の恵みがあらわれるからです。暗い部屋も、小さな灯をともされた暗い部屋になるのです。



    
   
[PR]
by higacoch | 2012-05-19 15:42 | マルコ

2012年5月6日

「言葉と業」  詩編98:1-9、ヨハネ福音書14:1-11
                                     
 社会人として生活をしていく時に大切なのは、自分の言葉には責任を持つということです。自分が語ったことには、責任が伴います。自分が言ったことに責任を持たずに、無責任な行動ばかりをしていると周りから信用されなくなります。軽はずみに、心に思ったことをつい口に出したりして失敗してしまったりします。口は災いのもとと言ったりもします。思ったことをすぐに口にしてしまうと、あの人は口の軽い人だと、揶揄されたりします。このように、言葉と行動とは、ある程度結びついていなければなりません。
 さて、今朝与えられた聖書箇所、ヨハネ福音書14章には、皆さんもよくご存知のイエス様の言葉「わたしは、道であり、真理であり、命である」があります。イエス様がこの言葉を語られたのは、ある脈絡があってのことです。突然に、ただ、これだけを言われたのではありません。ここは、イエス様が最後に為された説教、告別説教だと言われています。
イ エス様がまず言われたことは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、私をも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために用意しに行くと言ったであろうか」でした。もし父なる神様の家に住む所がなかったのなら、イエス様の言葉は嘘になります。その慰めの言葉は、偽りの慰めになります。そうではありません。イエス様は続けて「私は行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして私のいる所にあなたがたもいることになる。」と語って下さいました。このことを弟子たちにしっかりと受け止めて欲しかったのです。イエス様ご自身が場所を用意しに行って下さり、そして、その場所に弟子たちを迎えると言われています。しかしこれは弟子たちだけのために語られた言葉ではなく、私たちにも語り掛けられている言葉です。私たちもイエス様の語られた言葉の内容をしっかりと受け止めて、イエス様を信じればいいのです。
 しかし、聖書を見ると、そのイエス様の言葉のすぐに後に尋ねた人がいます。それは弟子のトマスです。彼は疑い深い弟子だと考えられています。ですが、私はここでのトマスの反応を見ると、この人はとても正直な人だと思います。イエス様が、「戻ってきて、あなたがたを私のもとに迎える。こうして私のいる所に、あなたがたもいることになる。私がどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言われました。するとすぐに「主よ、どこへ行かれるのか、解りません。」と尋ねています。さらに「どうして、その道を知ることができるでしょうか。」とも言っています。私にはその道が解りませんということです。このトマスの問いに対し、イエス様が応えて下さいました。「その道が解らない」に対して、「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃっいました。もっと解りやすく言い直すならば「あなたは道が解らないと言っていますが、この私が、道なのだよ。」ということです。「この私を通して、真理が解るし、命が与えられる。私を通らないと父なる神様の所には行けない。」と解りやすく話して下さっています。それで、イエス様は道なのだ。また真理なのだ、命なのだと解ってくるのです。ここでイエス様が言われたことを深く受け止めなければなりません。もしイエス様が「その道は君が捜さなければいけない、君が生きている間に、その道を捜すのだよ。」と言われていたなら、弟子たちは自分でその道を捜し、見い出さなければなりません。そうではなく「わたしが道だ」と言われたのです。
 道と言うのは、続いているものです。道は、終点ではありません。そして道には先があります。その先が、父なる神様なのです。だからイエス様は「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今からあなたがたは父を知る。いや既に父を見ている」と言われています。少し難しくなりますが、この部分を文法的なことも踏まえて説明しますと、ここの「知る」という動詞は、完了、未来、現在が語られています。そうしたことを踏まえて訳してみますと、イエス様は、「あなたがたは、既に、私のことを知っているならば、将来、必ず私の父のことを知るようになるでしょう。そうです、今からあなたがたは、父を知りますよ。いや、あなたがたは、既に父を見ているのですから」となります。父を見てはいるけれども、未だ父を知っていない。知っていないから、これからもずっと知らないままかというと、そうではなく、これから父を知りますと言われています。既に見ていることは、既に知っていることではありません。しかし今私を見ているのだから、父を知るようになると教えておられます。
 ここで考えたいのです。イエス様は、私は道であると言われました。父なる神の思いは、子なるイエス様の思いであり、父と子は一つです。こうしたことから、言えることは、イエス様が「わたしは道であり、真理であり、命である」ということは、イエス様が父なる神様に通じているということであり、真理も、命も、父なる神様に通じている真理、命であるということです。この言葉を弟子たちに伝え、私たちにも伝えて下さったのです。そしてイエス様を通して、父なる神様の御心が私たちに知らされます。それと同時に、私たちもイエス様を信じることによって、父なる神様と通じているということなのです。私たちは、そこに生かされているのです。イエス様の御言葉の約束、そして十字架の死と死からの復活の業によって罪を赦されて生かされているのです。しっかりとイエス様の言葉と業を受け止めてイエス様を信じて歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2012-05-12 16:14 | ヨハネ福音書