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2012年4月29日

「命の主に出会う」 詩編136:1-9、ヨハネ福音書11:17-27
                            関 伸子 伝道師

 
 教会の歴史の中では、ごく早い時期から礼拝の中で、先に天に召された人びとの名前を読み上げるということが行なわれました。死んだものの世界と生きているものの世界は交差し、思いや記憶がさまざまに混ざり合いながら礼拝が守られます。死と生は分断されたものではなく、一人の人がこの世の生を終わることは、その人の存在すべてが消失してしまうことではない、と教会の歴史は教えています。しかしそのことはどれくらいわたしたち一人ひとりにとってリアリティのある事柄なのでしょうか?
 今日の聖書箇所でクローズアップされているのは、兄弟であるラザロを失ったマルタとイエスとの対話です。物語はイエスがベタニアに着いたときには、ラザロが墓に葬られてから既に4日経っていた、と始まっています。当時、医者によって「死んだ」とされてから3日はまだ蘇生する可能性がある猶予期間と考えられていましたが、4日経ったということは、ラザロが完全に死んでしまったことを表しています。
 「多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた」(19節)。エルサレムからわずか3キロ程の距離のベタニアには多くの慰問客が訪れていました。そこには、深い悲しみと嘆きが支配していました。マルタはわざわざベタニアにまで来てくれた人びとをおいて、イエスを迎えに出ます。マルタは、イエスに向かってこう言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)。マルタは多くの病人たちを癒されたイエスの力を知っていましたから、イエス様さえここにいてくださったら兄弟ラザロは死ななかったのにという嘆き悲しみ、またイエスに対する抗議とも受け取れます。けれどもマルタの言葉にはその後があります。「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神がかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(22節)。この時マルタは、イエスを心から信頼していたのでこのように答えたのです。ここで大切な言葉は、「今でも」と言う一言です。どんな状況でも、わたしたちが「今でも承知しています」と言える時、わたしたちは信仰の道を走っています。
 イエスははっきりと「あなたの兄弟は復活する」(23節)と告げます。死は彼女の兄弟と彼女を永久に分断するものではないのだと。するとマルタはすぐに打てば響くように「終わりの日に復活することは存じております」(25節)と答えます。「復活することは存じています」それは知っている。ユダヤ人、特に信仰熱心であったファリサイ派の人びとは、終わりの日の復活を語ります。マルタもその信仰に生きていましたから、即答したのです。けれども、今のこのわたしの悲しみはどうしてくれる。今のこのわたしの喪失感はどうしてくれるのだと、マルタの中には収まりきれない思いが渦巻いており、そこでは、ただ聞いてきただけの、お仕着せの答えでは、兄弟を失った彼女の悲しみや喪失感を埋めることはできないのです。
 人間が「死はすべての終わりではない」と確信する、死の喪失を超えてなお希望を見出すことは、聞いて知っているだけでは不十分な事柄です。死の力は圧倒的に強いので、残された者は簡単に希望も信念も奪い去られてしまいます。死の力は対抗できなくなり、生きているものの生ものみ込まれてしまうことになります。「わたしは復活であり、命である」と言うイエスの宣言は、その意味ではここで死を克服する言葉として機能します。
 復活というのは、将来そうなるだろうというようなことではなく、わたしが復活なのだ。わたしが、死によって終わることのない命なのだ。だから、わたしとつながっている者は、肉体の死によってすべてが終わり滅ぶということがないのだ。イエスはそう告げられたのです。ヨハネにおける命の理解は、真の命が何であるかを明らかにするための手段として、肉体の死とそれへの勝利を用います。イエスの宣言は肉体的な死を相対化するものとして、ここで機能します。それゆえに、人は死がすべての終わりではないと確信するに至るのです。「わたしを信じる者は死んでも生きる」というイエスの宣言は、死の相対化という意味における死の克服なのであり、それゆえに重要なのは、究極的な命であるところのイエスに出会うことなのです。
 2007年2月、神学校でラテン語とキリスト教史を教えてくれた恩師、三小田先生が天に召され、葬礼拝に参列した時、礼拝堂の前にご遺体が安置され、今日の箇所が読まれました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」。実際にご遺体が目の前にあるところで「わたしを信じる者は、死んでも生きる」という福音を耳にすると、神聖な宣言に聞こえます。イエスの愛、神の愛を信じる者に、もはや死はないという天の宣言です。
 神がわたしたちを捕らえるのです。わたしたちは神の御手の中にあるのです。その時、キリストがわたしたちの中に生き続けるでしょう。「もはやわたしが生きているのではありません。キリストがわたしの中にあって生きているのです」(ガラテヤ2:20)。
 命の主に出会っているわたしたちは、マルタと一緒に真心込めて信仰宣言いたしましょう。キリストの教会の尊い信仰、「体の復活、永遠の命を信じます」と。「私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。私は復活であり、命である。このことを信じるか」、イエスはそうマルタに問いました。わたしたちは、今、マルタと一緒に「信じます」と信仰を宣言します。   
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by higacoch | 2012-04-30 15:43 | ヨハネ福音書

2012年4月22日

「ヨナのしるしとは」  詩編116:1-14、マタイ福音書12:38-42
                             
 今年も教会の花壇には、色とりどりのチューリップの花が咲き始めました。近所の家々の庭にもコブシ、モクレンが咲き誇っています。少し前は、梅が、あんず、桜が咲き、それに続いて、次々にいろいろな花が咲き始めました。はなみずきの花も咲き始めました。こうした花々を見ることによって、わたしたちは「春が来た」と解ります。手元にカレンダーがなくても春がやってきたと解るのです。このように自然の草花を見て、時の変化を知ることができます。このような変化は、聖書の言葉では「しるし」という言葉が使われています。ある変化を示すような兆候、あるいはある出来事の予兆などを「しるし」という言葉で表しています。この言葉は旧約にも新約聖書にも多く使われています。よく知られている「しるし」はヨハネ福音書に「イエスは最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光をあらわされた。」とかあります。また「イエスは多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。」とか、また人々はイエス様に「わたしたちが見て、あなたを信じることができるように、どんなしるしを行って下さいますか。」と願ったりしました。こうして見てみると「しるし」というのは、偉大な業、奇跡、そうしたものをも表す言葉として用いられていることも解ってきます。
 今朝の箇所に律法学者とファリサイ派の人々が、「先生、しるしを見せて下さい。」とイエス様に願っています。すると、イエス様は「よこしまで神にそむいた時代の者は、しるしを欲しがる」と言われました。目に見えるしるしを欲しがる。これは私もそうでした。「しるし」を見たら、信じよう、しるしを求めて、それが満たされたなら、信じようとしていました。自分の欲求が先にあっての神様でした。そんな私を主は憐れんで下さいました。今朝の箇所に出てくる人々と私は、何ら変わりませんでした。「先生、しるしを見せて下さい。」なのです。これは「先生、私たちがあなたを救い主であると信じることができるように、わたしたちにはっきりとした「しるし」を見せて下さい。お願いします」です。これに対して、イエス様は「何もあなたがたに示すような「しるし」はない」と冷たくあしらわれたのではありません。そうではなく、「しるしはある。ただ一つだけある。それはヨナの「しるし」だ」と言われました。
 皆さんは旧約聖書のヨナ書を読まれたことがあるでしょうか。とても短く4ぺージしかありませんので、すぐに読めます。短いなりに筋がはっきりとしていて読みやすいのです。簡単にまとめますと、神様が預言者ヨナに「あなたは、外国の都ニネベの町に行って神様の言葉を伝えなさい」と言われました。しかしヨナは行きたくはありません。そこで逃げました。ニネベとは反対の方角に向い海に出て、船に乗ってどんどん逃げて行こうとしました。船は出航しました。しかし、すぐにその船は大嵐に遭いました。船は壊れそうになり、そこで船員たちは恐ろしくなって、神様に「助けて下さい」と必死に祈ります。積んだ荷物を海に投げ捨てて軽くしますが、船の揺れは一向に収まりません。そんな状態なのにヨナは船底でぐっすり寝込んでいました。船長はヨナの所に降りてきてヨナを起し、激しく怒ります。「起きて、あなたも神様に祈って下さい」と。そんな時、ある船員がこの船に神様の怒りを買った者がいるに違いないと言いだし、それは誰なのかということで、くじを引くことになりました。すると、くじはヨナに当たりました。船員たちはヨナに詰め寄りました。そこで、ついに彼は自分は神様から逃げていたことを白状しました。そしてヨナの方から「わたしの手足を捕まえて海にほうり込んでくれ、そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐が起こっているのだから」と言って自分を海に投げ込むように願いました。しかしさすがにそうはできず、船員たちは何とか船を陸に戻そうとしましたが、どうしてもできませんでした。そしてついに、彼らはヨナの手足を捕かまえ、海へ投げ込みました。すると、荒れ狂っていた海は静まりました。
 ヨナは、大魚によって呑み込まれ、三日三晩、魚の胃の中で過ごし、三日目に岸にはき出されました。イエス様は、このヨナのしるしである三日三晩のしるしを取り上げて、しるしは、これ以外には与えられていないとおっしゃっておられます。それは、ヨナが大きな魚の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる、と言われています。このことは、何を表すのでしょうか。イエス様は十字架上で死に、その遺体は降ろされて、その日の内に墓に納められました。そして三日間、墓の中でした。それから、三日目に墓から出て来られたのです。復活なさったのです。死に勝利され、新しい命をもって、復活の体を示されました。イエス様は、このことを出来事が起こる前に話されたのです。ここでイエス様が言おうとされたことは、ヨナのしるしは救い主が示した「しるし」だということ、そして、この「しるし」はイエス様の十字架と復活を表すものだということです。そして、この「しるし」以外に救いの「しるし」はないのだと、宣言されているのです。そして、「私を信じなさい」と言われているのです。「しるし」がなければ信じられないという、不信仰な者に唯一の「しるし」を明らかにし、語られました。  
 私たちは、ここでイエス様に尋ねた人たちと決定的に違う所に立たされています。それは、私たちは「ヨナのしるし」である「救いのしるし」が起こった後に、生きているということです。すでに「しるし」は為されたのです。イエス様を救い主と信じて、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-04-28 18:18 | マタイ

2012年4月15日

「復活の後」  詩編16:5-11、マタイ福音書28:11-20
                              
 先主日は多くの兄弟姉妹と共にイースター礼拝を捧げることができ、心から嬉しく主に感謝致しました。そのイースターの礼拝でお話ししましたが、復活したイエス様はマリアたちに「私の兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」とことづけられました。こうして、マリアたちは、主の兄弟たちがいる所、都エルサレムに向かいました。他方、もう一組、同じように、都エルサレムに向かう者たちがいました。墓を見張っていた番兵たちです。彼らは、天使がマリアたちに語り掛けたこと「あの方はここにはおられない。復活なさった」を聞きました。彼らはマリアたちよりも早く都に行き、ユダヤの指導者たちに、イエスの復活を伝えました。すると指導者たちはすぐに仲間と共謀し、番兵たちに多額のお金を渡して買収し、「弟子たちが夜中に、こっそりとやってきて、イエスの遺体を盗んで行った」と言い広めるように命じました。こうして指導者たちはイエス様の復活を隠ぺいしようとしたのです。
 このようにイエス様の復活後に、二つの動きがありました。一つは、イエス様の復活を知らせようとする女性たち、それに対して、それを阻止しようとする番兵たちです。これは、一方が神様の出来事が起こったことを知らせる動きに対して、他方は、神様の出来事をもみ消す動きと言えます。イエス様が復活された後、イエス様の復活を何とか人間の知恵でもみ消そうと、ユダヤの権力者たちはやっきになっていました。
 社会的には弱い立場にあった女性たちですが、神の出来事であるイエス様の復活を伝えようとしました。自分たちが体験した出来事を正直に伝えようとしました。そんな女性たちにイエス様はすぐに現れて、復活した体を見せて「わたしの兄弟たちに、ガリラヤで、わたしに会えることを伝えて欲しい」と託されたのです。
 聖書には、詳しくは記されていませんが、イエス様が復活された後、弟子たちは、早いうちに都エルサレムから離れて行ったと思われます。逃げて行ったのではありません。復活のイエス様に会うために、都からずっと離れたガリラヤに向かっていきました。弟子たちは、イエス様の約束通り、ガリラヤで、イエス様から指示された山に向かって登って行き、ここでイエス様に再会しました。すると、イエス様は弟子たちにこう命じられました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を、わたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃったのです。
 ここで覚えたいのです。イエス様が言われたことを心に留めたいのです。イエス様は、「あなたがたは行って、すべての民を、わたしの弟子にしなさい。」と言われました。ここには「行って」とあります。行かなければなりません。出かけなければなりません。この「行って」というのは、英語で言えば、「go」です。「行きなさい」です。出かけるのです。どこへ、何しに、出かけるのでしょうか。人々のところへ、すべての民を、弟子にするためにです。すべての人が、対象なのです。自分の身内、仲間、友だち、知り合い、ではありません。自分の側で、この人だけと、選ぶのではありません。福音を聞いていない人の所に、出かけていくのです。あの人に、この人に、と。あの人が来るのを待つのではありません。こちらでずっと待機するのではないのです。出かけるのです。
 私は、自分は内に籠る性分があると思っています。しかしイエス様は、ここガリラヤに留まりなさい、人々があなたの所にやってくるのだから、と言われていないのです。そうではなくて、「出かけなさい。」と言われています。どんなに小さな動きであっても、自分の方から出かけて行くのです。福音を伝えるために、キリストを伝えるために。
 イエス様が、弟子たちに命令されたことを、私は知っていても、どこかで自分は留まってしまうと思っています。そういう自分を知っています。だからこそ、イエス様の言葉を聞かなければなりません。聞かなければ、自分の内に留まり、内向きになってしまいます。イエス様ご自身も、復活後、どこかでじっと留まられたのではありません。すぐに、ガリラヤに向かわれました。弟子たちよりも先にです。あなたがたの後から、私はガリラヤに行くと言われたのではないのです。先に行かれました。だから、ガリラヤで会うことになると言われたのです。この弟子たちに言われたことは、弟子たちだけのものではありません。これは、私たちにも言われていることです。あなたが、出かけるようにと。行きなさい。go と言われているのです。あなたにも「行きなさい」と言われており、主イエス様はあなたを用いようとされているのです。あなたを用いて、一人でも多くの人が神の恵みに生かされるようにと願っておられます。
 復活の後、二つの動きがありました。一つは、イエス様の復活を隠ぺいする動き、他方神が表して下さったイエス様の復活を知らせる動きです。私たちは、イエス様の復活の後に、どちらの動きをしていくのでしょうか。神様がわたしたちの救いのために為して下さった出来事、復活の福音、それを伝えるものとなりましょう。留まるのではなく、出かけましょう。女性たちのように、弟子たちのように、わたしたちも出かけましょう。イエス・キリストの福音、復活の出来事を伝えるために、出かけて行きましょう。それがどんなに小さくても、その働きをしていきましょう。
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by higacoch | 2012-04-21 14:18 | マタイ

2012年4月8日

 「わたしの兄弟たちに」  詩編66:1-9、マタイ福音書28:1-10 
                             
 イースター おめでとうございます。皆様と共に、イエス様の復活を覚えて礼拝を捧げることができ、心から感謝します。もっと聖書的に言うならば、主にある兄弟姉妹と一緒に、礼拝を捧げることができることを主に感謝しています。今朝の箇所は、イエス様が復活して婦人たちにメッセージを託した所です。イエス様は「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」と託されました。そのすぐ前に天使も、婦人たちに弟子たちに復活を知らせるようにと託しています。しかし、ここで天使が二人のマリアたちに託したことと、イエス様が託したことは同じではありません。天使は「恐れることはない。急いで行って弟子たちに告げなさい」と告げました。一方、イエス様は「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちに言いなさい。」と言われています。イエス様は「わたしの弟子たちに」と言われたのではなく、「わたしの兄弟たちに」と言われています。「弟子たちに」ではなく「兄弟たちに」です。この言葉に集中し、聞きたいのです。これは、もっと教会のことを考えて言い換えるなら、「わたしの兄弟、姉妹たちに」となるでしょう。そうです。イエス様は復活を知らせたかった、「わたしの兄弟、姉妹たちに」です。
 私自身、イエス様も天使と同じように言われていると思い込んでいました。ですから、イエス様も「弟子たちに」告げるようにとおっしゃっていると無意識のうちに読んでいました。それが改めてじっくりと読んで驚かされました。それで、他の福音書を見てみましたら、ヨハネ福音書にも、イエス様がマグダラノのマリアに会って「わたしの兄弟たちに告げなさい」と言われています。
 そこで、私は、イエス様が十字架にかかる前に、弟子たちをどう呼んでおられたのか、調べてみました。イエス様は弟子たちを「あなたがた、あなたがた」と呼ばれています。またイエス様が「兄弟」と呼ばれたこととの関連で言いますと、イエス様は以前、こんな説教をされました。「あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆、兄弟なのだ。」と。また、こんなこともありました。明日十字架で殺されるという最後の夜、弟子たちと最後の晩餐をされた後に説教されました。その中で「 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。」と。ここでは、「僕ではなく、友と呼ぶ」と言われています。僕は、主人に服従しなければなりません。主従関係があります。しかしイエス様は僕ではなく、友と呼ぶと言われました。友には上下関係はありません。並列の関係です。そしてイエス様自身、弟子たちに、あなたがたは先生と呼ばれてはいけない、とおっしゃっています。そのようにイエス様と弟子たちは先生と生徒の関係ではなくて、兄弟、姉妹の関係なのです。上下関係ではなく、共存関係であり、服従関係ではなく、互愛関係なのです。イエス様は、新しい掟だと言って、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と教えられました。このことを伝道者パウロは、ユダヤの律法とは区別して、キリストの律法だと言っています。「キリストにあって、互いに愛し合いなさい。」と。ここ東小金井教会の礼拝堂にも、このキリストによって与えられた新しい掟(彫られた壁掛け)が掲げられています。「互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:2 新改訳)と。イエス様は弟子たちを上から目線ではみておられません。「友と呼ぶ」とは、兄弟、姉妹と呼ぶ友だち目線ということでしょう。
 イエス様は、死からよみがえって、生きていることを「わたしの兄弟に」告げて欲しかった、共に歩んだ友に、兄弟に伝えて欲しかったのです。「ガリラヤで会える」と。この「ガリラヤ」とは、どんな所でしょうか。そこは、イエス様が最初の伝道をされた場所であり、また兄弟たちを召された場所、兄弟と共に伝道に励まれた場所であります。「そこで、また会えるのだ」と。また伝道するのだ、兄弟であるあなたがたに会って、生きて働き、神の国の福音を伝えるのだと。ガリラヤは福音を伝える場所、そして神様の御業を見せて頂く場所であり、神をほめたたえる場所です。
 では、私たちにとっての「ガリラヤ」とはどこなのでしょうか、ずっと遠いかけ離れた所でしょうか。そうではありません。ここ小金井市であります。あそことか、遠い地ではありません。ここであり、ここがわたしたちの「ガリラヤ」なのです。イエス様の復活を知らせ、主の救いの福音を知らせる所です。それは皆さんの生活の場であり、職場であったり、します。
 私たちも、今も生きて働かれているイエス様に会うことができるでしょう。ガリラヤというこの小金井で、ですから、私たちもイエス様が死からよみがえって今も生きておられることを伝える者となりましょう。今年の教会標語に示されているように、「キリストを伝える」者でありたい。キリストにあって兄弟姉妹として、主に仕えていきましょう。
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by higacoch | 2012-04-14 14:05 | マタイ

2012年4月1日

「イエス様の死は何か」 
           詩編118:19-29、マタイ福音書27:32-56


 今日は棕櫚の主日です。この日に、私たちは関伸子姉妹を迎える入会式を行い、さらに関伸子伝道師の着任式を執り行いました。この記念すべき日に、説教の後に、二つの式を行うことになりました。関姉妹、そして関伝道師の現場での働きが始まります。伝道師にとって宣教の場が、ここに与えられたと言うことでしょう。また、今日と言う日は、関伝道師の宣教活動の始まりと言うだけではありません。それはカンバーランド長老教会の日本中会にとっても一つの始まりの日でもあります。それは、日本中会での女性伝道者の活動の始まりでもあります。ずっと日本中会の牧師たちによっても祈られてきたことです。
 また今朝は、もう一つの始まりがあります。それは、説教の聖書箇所のことです。これまで、東小金井では、主の日の説教箇所は教会学校で使用していた「聖書教育」という教案誌を利用していました。しかしながら、4月から日本基督教団の聖書日課を取り上げることにしました。これは4年サイクルで、その最初の年を始める事にしました。そこで与えられた聖書箇所は、旧約聖書の詩編118編、新約聖書はマタイ福音書です。今朝は、新約聖書を中心として、御言葉を聞きたいと思います。
 今朝の箇所の最初の所に、小見出しで、「十字架につけられる」とあり、45節以降の所では、「イエスの死」とあります。この小見出しをまとめると、「イエス様は、十字架につけられ死なれた」となります。イエス様は十字架を負い、刑場まで歩まれました。この道を悲しみの道、ラテン語では「ビア・ドロローサ」と言い、カトリック教会では会堂の中に14の場面を覚える絵画、レリーフを順番に掲げ、その一つ一つに留まって祈りをささげます。第一場面はイエス様が死刑を宣告されたところ、最後はイエス様の体が墓に納められたことを覚えます。今朝は第5から12の十字架上での死にあたりますが、このイエス様の死は何であったのかを学びたいのです。
 十字架の周りの人たちーローマ兵士たち、ユダヤ人の巡礼者、ユダヤの最高議会の議員(指導者層)たちー、彼らは皆イエス様を侮辱し、軽蔑し、愚弄しました。しかし、イエス様は十字架の上で「彼らをおゆるしください。彼らは自分たちが何をしているのか知らないのです」と祈られました。そうです。彼らは解り得ませんでした。預言者イザヤが預言して「彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が負ったのは、わたしたちの痛みであった。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためにあった」と言っています。イエス様の苦しみ、それは、わたしたちのためであり、イエス様の十字架の死も、わたしたちのための死だったのです。
 信仰者がどんなに迫害を受けても信仰を捨てない、たとえ命を取られるようなことになってもその信仰を捨てない、棄教しないで死に至ることを殉教と言います。そのようにイエス様も父なる神様を信じて信仰を全うして死んでいかれたと受け止めている人がいます。迫害が激しくても最後まで信仰を捨てない死と受け止め、これこそ信仰者の模範的な死だと考える人がいたりします。イエス様の死、十字架で苦しまれて死んでいかれた死は、そういうものだったのでしょうか。イザヤが預言している「わたしたちのため」というのは、信仰者の模範の死だったのでしょう。ここに自らの死に方の第一の見本を見るべきなのでしょうか。
 パウロと言う人がいます。元々はユダヤ教の熱心な信者でした。ユダヤ教を信じ、ユダヤ教を教え広め、信者を指導する律法学者でありました。信仰の模範を教え、自らもそのように生きることを常にしていた人でした。その彼が復活のキリストに出会い、180度、変えられました。それまで人々の先頭にたってキリスト者を迫害していた者から、まったくその逆のキリストを伝える伝道者になったのです。彼は神の力である聖霊を頂いて世界伝道に出かけていきました。その彼が。コリントの信徒への手紙一で「わたしが最も大切なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもので、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと」と言っています。当時はまだ新約聖書はありませんので、旧約聖書をさします。その旧約聖書に書いてある通りと言うのは、イザヤの預言のことです。そこには「わたしたちの背きのために」「わたしたちの咎のため」が語られ、「わたしたちのために死なれた」とはっきりと示されています。イエス様の十字架の死を、信仰者の模範としての死ではなく、罪の贖いの死、罪の赦しの死を見ていました。
 そうです。イエス様の死は、わたしたちの罪のための死であり、ここに神の赦しの愛が表されています。この愛が人を生かすのです。ここに救いがあるのです。どうしようもない罪人、自分で自分を救えない罪人、ますます泥沼にはまりこんでいくしかない者を神は憐れんで下さいました。イエス・キリストは人に模範の死を示すために、この世に来られたのではありません。罪人を招くため、罪人を救うためにこられたのです。ヨハネ福音書3章16、17節に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るため、神が独り子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、独り子によって世が救われるため」とあります。世を愛された、世を救われる、というのは、「あなた」をなのです。あなたを愛された、あなたを救われる、のです。イエス様は罪人の「あなた」を救うために来られました。そしてあなたの罪をあがなうために死んで下さったのです。
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by higacoch | 2012-04-07 16:01 | マタイ