<   2012年 03月 ( 4 )   > この月の画像一覧

2012年3月25日

 「主の業に励みなさい」 詩編90:16-17、Ⅰコリント15:50-58 
                         
 先週の水曜日、春の選抜高校野球大会が始まりました。その開会式で被災地の石巻工業高校の主将阿部翔人君が選手宣誓をしました。宣誓者を決めるための抽選が一週間前に行われて、何と被災した宮城県の、被災した高校、石巻工業高校に当たったのです。宣誓者は被災した高校からと意図的に決められたのではありませんでした。私は、阿部君の選手宣誓に込められた思い、伝えたいメッセージが伝わり、とても感動致しました。
 「宣誓。東日本大震災から1年。日本は復興の真っ最中です。被災された方々の中には、苦しくて、心の整理がつかず、今も当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている人が、たくさんいます。人は誰でも、答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せ待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けます。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう。日本の底力、絆を。われわれ高校球児ができること。それは全力で戦い抜き、最後まであきらめないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います。」
 いつもよりずいぶん長い宣誓でした。しかし、今年ほどメッセージを含んだ宣誓はなかったと思います。感動、勇気、笑顔、そして、私は涙を貰いました。「われわれ高校球児ができること、それは全力で戦い抜き、最後まであきらめないこと」と言っています。この言葉は、今朝のパウロの言葉にも通じるものがあります。パウロは、こう言っています。「しっかりと立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならない」のだから、あきらめないようにと言っています。
 パウロはコリントの教会に宛てて長い手紙を書きました。そして、今朝の箇所はまとめの部分で、この後はいよいよ最後の挨拶となって終っていきます。そうしたことから考えますと、パウロがまとめて言いたいことがここに記されています。パウロが最後に言いたかった事は何であったでしょうか。
 パウロは言います。「兄弟(姉妹)たち、血と肉は、神の国を受け継ぐことはできません。朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない。」、「朽ちるもの、それは血と肉であり、それは必ず朽ちる、けれどもそれで終わりではない。朽ちないものが与えられる」と言います。それこそが神秘だと。この神秘をあなたがたにお教えしますと。
 「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちに、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」と言っています。ここで「変わる」のではなく、「変えられる」と言っています。自分では変わることはできません。自分の能力ではなく、他者の力で、「変えられる」と言うことです。つまり、神の力によって変えられる、それこそが神秘、神の秘密です。神様は朽ちるものを朽ちないものに変えて下さいます。これは、またこうも言えます。「死ぬべきものが死んで、死なないものに変えられる、死なないものを着るのだ」と。これが、神様が私たちに表して下さった神秘、わたしたちの救い主、イエス・キリストによって示されたのです。だから、パウロは執拗に「わたしたちは皆」と繰り返しながら、書いています。「わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。」と。
 この神秘が起こる時、まさに聖書の言葉が実現するときなのです。イエス・キリストが来られる前は、死が私たちを支配していました。死に勝利する者はいませんでした。そんな世界にイエス・キリストは来られ、死に勝利して下さいました。死がキリストの死によって呑み込まれたのです。パウロはイザヤの預言が示すように「死が勝利に呑み込まれた」と言っています。最後に、「イエス・キリストが勝利された」とパウロは勝利宣言をしています。だから「私たちに勝利を与えて下さる神に感謝をしよう」。そして、「しっかり立ち常に主の業に励みなさい。」と。ここでパウロは「常に」と言っています。できる時にとか、たまにとかではなく、常に励むことをパウロは勧めています。その苦労は決して無駄にならなりません。そして、何よりもあなたがたにはイエス・キリストによる勝利が約束されているのだからとはっきり言っています。途中で、もう無駄だと思ってあきらめないで、それぞれの持ち場で、どんなに小さくても、主の業、主の福音を伝えていくこと、主を証詞していくこと、人を愛していくことに励みなさい、と言っているのです。これは、コリントの教会の人たちだけではなく、私たちにも言っていることです。このことを私たちも聞き、私たちも主の業に励んでいきましょう。それがどんなに小さくても、決して無駄にはなりませんし、主の祝福を頂く歩みなのですから。
[PR]
by higacoch | 2012-03-31 17:00 | コリント

2012年3月18日

「ナルドの香油」   マルコによる福音書 14:3-9
      藤井哲夫牧師(日本アライアンス教団 東京キリスト教会)

 簡単に自己紹介をします。私は広島アライアンス教会で中学3年の時受洗し、やがて社会人となり建設機械メーカーに34年間務め、その間国内を十回転勤し、その都度転会しました。牧師となった経緯は、11年前の栃木市で行われたギデオン協会北関東地区大会に遡ります。その会場となったホテルは作家山本有三の生家の隣でした。玄関前に、彼の小説「路傍の石」の石碑がありました。「たった独りしかない自分を、たった一度しかない一生を、本当に生かさなかったら、人間、生まれてきた甲斐がないじゃないか。」定年まで数年を残していましたが、この言葉がリアリティーをもって心に残りました。
 学生時代に信仰を培っていただいた先生たちが今尚第一線で奮闘されている姿を見て、受け継いだ信仰を次世代に伝える責務を感じました。若くはありませんが、残る人生を主に捧げようと決断し、幸い妻も受け入れてくれましたので、早期退職し神学校に行きました。
 「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2:13)。

 今レントの時を迎えていますが、今日与えられた聖書の箇所は、マルコによる福音書14:3-9のナルドの香油の物語です。過越の祭りが近づき、主イエスはベタニアのシモンの家で食事の席に着いておられました。すると、一人の女性が高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、壺を割り、主イエスの頭に全部注ぎました。
 私たちは愛する人に犠牲を払うことを少しも惜しいとは思いません。むしろ喜びとします。女性はこの時に出来る最大の愛を主イエスに与えました。
 カトリック信徒の医者である山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、古里の岩手県気仙地方の言葉を用いて「ケセン語訳」福音書を出版しました。その中で、「愛する」という言葉は古里の人々にはぴんと来ない。「大事にする」と言えば、心に染みると書いています。まさにこの女性は、主イエスを「大事に」したのです。
 ヨハネ福音書によれば、この女性はマルタの妹マリアです。彼女の行為に人々から憤りの声があがりました。「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。」常識的には全く正しい非難です。しかし道理に適う非難こそが、主イエスに対する無理解でした。彼らはマリアの心を理解しないで、マリアの行為をとがめました。私たちも愛を忘れて他人を責める時、重大な誤りに陥ります。ヨハネ福音書によれば、非難したのは「イスカリオテのユダ」です。彼は貧しい人々のことを心にかけたのではなく、預かっている金を盗んでいたからです。いずれにしても人々は香油の高価さに心が奪われ、彼女の真実な愛を理解しませんでした。私もその場にいたならば、恐らく同じように非難したのではないでしょうか。
 計算高いユダは、香油を値踏みしました。「この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」一デナリオンは、ほぼ労働者の一日の賃金でしたから、三百デナリオンは一年の稼ぎです。とがめられたマリアは立つ瀬がありません。ところが主イエスは、「するままにさせておきなさい。なぜ、その人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいるから、したい時に良いことをしてやれる。しかし、私はいつも一緒にいるわけではない」と言われ、彼女の行為を正しく評価し、いつでも出来ることと、今でなければ出来ないこととを区別されました。
 主イエスは十字架の死を間近にしながら、深い寂しさを感じておられた時でしたので、マリアの行為の中に深い愛を感じ取られました。彼女は主イエスの寂しさを全身全霊で慰めようとしたのです。
主イエスはマリアの行為を永遠の記念とされました。「この人は出来る限りのことをした。つまり、前もって私の体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた」と言われ、彼女の愛の行為を御自身の埋葬の準備とされたのです。ナルドの香油の香りは、主イエスの行かれる所どこまでも付いて行きました。
マリアの行為には打算がありませんでした。主イエスは、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるであろう」と称賛されました。人の称賛を意識した行為は直ぐにメッキが剥がれますが、信仰と愛から出た純粋な行為は、たとえ小さくとも永遠に滅びません。
 主イエスは、貧しいやもめがその日の持てる全てのレプトン銅貨二枚を神殿の賽銭箱に入れた献金を、金持ちが入れた高額の献金よりもお喜びになりました(マルコ12:41-44)。
 マザーテレサはこう言っています。「大切なのは、どれほど多く行ったかではなく、行うにあたってどれほど多くの愛を注いだかなのです。」
 使徒パウロは次のように勧めています。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなた方はこの世にならってはいけません」(ロマ12:1-2)。マリアは、この世の基準によらない信仰と愛の物差しでナルドの香油を献げました。この行為こそ私たちが学ぶべき礼拝の姿勢ではないでしょうか。
[PR]
by higacoch | 2012-03-19 16:52 | マルコ

2012年3月11日

 「復活」  ヨブ記19:25-27、コリント一 15:1-11 
 
 先週の金曜日に、私たちのカンバーランド教会がお世話になっている2つの神学校、東京神学大学と東京基督教大学では、どちらも午後に卒業式が執り行われました。丁度1年前もそうでした。午後2時46分、どちらも卒業式の最中でした。突然、大きな揺れ、大地震が起こったのです。建物から出て避難した人、座ったそのまま揺れが収まるのを待った人、それぞれでした。東京神学大学では、まさに学長の説教中で、話はしばらく途絶えましたが、揺れが収まり、再び話が続いたと聞きました。この日、3月11日、東日本大震災の日の出来事でした。戦後、最大の自然災害をもたらし、忘れられない大惨事となりました。この惨事に、さらに大きな災害を与えたのが福島の原子力発電所の事故です。大地震と大津波とによって、発電所の原子炉が故障し、冷却機関が崩壊し、冷却できなくなって、その建屋が爆破しました。こうして放射能汚染と言う昔にはなかった大被害が日本に起こったのです。
 ある人は言いました。今回の大被害は、下からは大地震、横からは大津波、上からは放射能、三重苦の大被害となったと。放射能セシウム137は、元々地上にはなかったもので、1940年代から60年代にかけて核実験や核事故によって放出されたものと聞いています。
 こうした現実の生活面での苦しみも耐えがたいものがありますが、神学的に考える時、こうした放射能汚染というのは、神様が創造された自然を人間が壊しているという罪をしっかりと捉えなければならないと私は思います。地球は、生態学上、循環型です。動植物が亡くなると、土に帰っていきます。土に帰らないものはありません。そのような循環型生態なのに、そうならないものを人間が作り出して地球に捨てた、しかも、それによって人も動物も住めないような地域を作り出していると言うことです。
 さて、聖書にも自然災害の記述が幾つかあります。ノアの洪水、ヨブの災難、預言者の預言に、こうした記述について「それは神様の裁き」だと説く人がいます。しかしながら、そうした出来事を単に「神様の裁き」と読むべきではありません。それは、それらを通しての神様の救いの計画があるからです。神学者である大木英夫氏は、3.11の震災状況をもって「土曜日のキリスト」だと表現しました。金曜日に震災が起こりましたが、私たちにとって金曜日は、イエス様の十字架の出来事が起こった日です。イエス様は、十字架の上で、祈られ、叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と。このように、叫び、苦しみ悶えて息絶えられました。十字架の上で亡くなられました。金曜日の夕方、光も見えず、暗闇だけの現実の中で、キリストの遺体は、墓に納められました。「土曜日のキリスト」は、まさしく亡くなられた方々とともに、墓に納められたキリストであります。けれども、「土曜日のキリスト」は、翌日の日曜日、復活の朝が来ることを指し示しているのです。まだ光は射してきませんが、暗闇の向こうに確かに明日があるのです。明るい日がある。土曜日という日が最後の日ではなく、日曜日の主日に向かっているのです。
 今朝、与えられたコリント第一の手紙では、パウロはイエス・キリストの復活を語っています。「私が最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたものです」と言いつつ、さらに「キリストが聖書に書いてあるとおり、私たちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、また聖書に書いてある通り、復活したこと」と言っています。
パウロ自身、元々はユダヤ教の熱心な信者であり、キリスト者を迫害した張本人でしたが、キリストを信じたのです。そして、救われ、伝道者となり、彼は「神の恵みによって、今日のわたしがある」と言っています。そして「神の恵みは、決して無駄にならなかった、否むしろ私を生かした」と告白しています。苦しみは、無駄にはならない。悲しみは、無駄にならない。無駄になるどころか、かえってあなたを生かすと、パウロは言っているのです。苦しみ、悲しみは、無駄にならない。無にならない。無に見えたとしても無になったのではない。希望がある。復活がある。このことをイエス・キリストは、私たちに示されたのです。
 被災された方々のことを忘れることなく、共に生き続けましょう。そしてイエス・キリストの希望に生かされている者として、歩んでいきたいと願います。今は土曜日のキリストであって、日曜日のキリストがおられることを見上げて、歩んでいきましょう 
[PR]
by higacoch | 2012-03-12 14:45 | コリント

2011年3月4日

「異言より預言」 エレミヤ書26:1-6、コリント一 14:1-19 

 皆さんは「異言」を知っていますか。今朝の箇所に、何度も「異言」について語られています。ですが、旧約聖書には一度も出てきません。新約聖書の福音書にも全く出てきません。出てくるのは使徒言行録に2回、それと今朝のコリント第一の手紙に19回出てくるだけです。しかも同じ教会に宛てた第二の手紙には全く出てきません。旧約聖書に出てこないと言うことは、ユダヤの世界には「異言」がないのです。新約聖書の福音書にもありませんので、イエス様も「異言」については何も語られていません。出てくる使徒言行録でもパウロが語ったと言うのではなく、異邦人が話していたとあります。しかしコリントの教会では異言が語られていましたので、教会員は何度でも聞いていました。そこで「異言」のことを知ってもらうために、もう一つの言葉「預言」と対比させて書いています。預言は聖書全体で573回出てきます。旧約と新約では大体3対1で、旧約に多く出てきます。でも新約にも多く、そのうちの半分位が福音書に、それ以外では使徒言行録とヨハネ黙示録に多く、そしてコリントの第一の手紙にも多いのです。預言は神様の言葉であり、その神様の言葉を預かって語るのが預言者です。イザヤやエレミヤなどが知られていますが、他にも多くいます。予言者と区別しなければなりません。あくまでも神様の言葉を預かって語るのです。それに対して、異言を語る人を異言者と呼んだ所は聖書にはありません。パウロは異言を語ることができると言っていますが、異言よりはむしろ預言を語ると言っています。そして、教会の人たちにも異言より預言を語って欲しいと願っています。
 異言とは何か、信仰者が聖霊を頂いて異言を語っています。異言はその人がその能力を持っていて語る言葉ではなく、あくまで聖霊によって与えられて語ることができる言葉です。霊媒者が語るような言葉ではありません。霊媒者が霊を呼び出し、霊の言葉を語るというようなものではありません。人間には聖霊を呼び出すことはできないからです。だからと言って、パウロは異言を否定しているのではありません。異言を認めています。
 パウロは、この異言を教会との関わりにおいて語っています。それはコリント教会には問題があり、教会員同志が言い争いをし、分裂する危険をはらんでいました。こうした教会員に向かって「あなたがた皆が、異言を語れるに、こしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者が、それを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。」(5節)と言っています。また「預言は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。」、さらに「わたしは、異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方を取る」(19節)とも言っています。このように、異言よりも預言を語る、そしてその預言が教会を造り上げると言っています。
 パウロが言いたかったのは、人を造り、教会を造るのは、預言であり、異言ではないと言うことです。ですから教会では、異言よりも預言を語って欲しいと言っているのです。「異言を語るな」ではなく、「預言を語れ」なのです。カンバーランド長老教会は、預言を語っています。つまり、人に解るように、神の言葉を語っています。パウロは「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、これは、異言も含みますが、異言よりも、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。」と勧めています。
 今は、レントの時、イエス様が歩んだ道は愛の道でした。それは、私たちを造り上げる、何よりも神の子として生まれ変わらせる道でした。壊れていく私たちが、罪の道から命の道へと歩んでいくことができるようにして下さいました、イエス様は愛を追い求めて、しかも十字架の死に至るまで、私たちを愛し通されました。そして、私たちの罪を赦し、罪から解放されて、生きていく道を開いて下さったのです。このイエス様の救いの道を語らなければなりません。人には解らないけれど、そこに何かありがたさがあるかのようにではなく、理解できるように語るべきなのです。異言よりも預言を語るべきなのです。旧約時代の預言者が、イエス・キリストを預言して語ったように、私たちも預言を語るべきであり、またその預言は、すでにこの世に来られて、救いの業を為して下さったイエス・キリストを語ることです。これは「あなたも神様に愛された」と、そして「イエス・キリストの福音を信じなさい」と語ることです。この預言こそが、人を造りあげ、教会を造り上げていくのです。
 イエス様の救いが解るように、異言ではなく、預言を語り続ける者でありたいと願います。皆さんも預言を求めて、イエス様の福音を語る者として歩んで欲しいのです。こんな私をも救って下さったのですからと。
[PR]
by higacoch | 2012-03-05 15:59 | コリント