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2012年2月26日

「信仰、希望、愛」  箴言10:1-12、Ⅰコリント12:31b-13:13 

 先日、100円ショップで買い物をしていましたら、店内にNHKの朝ドラの「カーネーション」の主題歌が流れてきて、びっくりして聞きいり、その歌詞が心にしみてきました。教会に戻って歌詞を調べて、再び感動しました。*最後に歌詞を表記。
 この朝ドラは実在の人物、小篠綾子さんがモデルであり、クリスチャンでした。ドラマでも前向きな生き方が見えていて、今朝、与えられたコリントの手紙から言うと、「すべてを信じ、すべての望み、すべてに耐える」こうした生き方をされたのだと思います。
 今朝、与えられました聖書箇所は、結婚式には必ずと言っていいほど読まれる箇所です。「愛の賛歌」と呼ばれ、愛がなければ、愛がなければ、と言った後、その愛とは、こういうものだと教えています。このように、愛についてパウロは語っていますが、これは結婚する二人のために書いたものではありません。教会に向けて、しかも問題を抱えていたコリントの教会に向かって書かれた手紙です。その問題とは、教会員が互いに言い合い、いがみ合って一致することが難しいことでした。パウロはこれまでに「教会は、キリストの体、一人一人は、その部分であって、誰もが必要だ」と言ってきました。そして、「最高の道を教えます、それが愛の道です」と今朝の箇所に至ります。愛がなければ、たとえ人がびっくりするほどに、話がうまくても、あらゆる知識があっても、欠けのない完全な信仰があっても、また自分の全財産をささげても、自らの命さえも犠牲にしても、もしも愛がなければ、それらは、皆、無に等しい、空しいのだと言うのです。
 人には見せかけの、愛のない説教、知識、信仰、施し、犠牲があります。人に見せようとして、隣人を愛していないで、見せかけで行うことがあります。イエス様は、そうした人たちを、偽善者だと言われました。
 教会が一つになるためには、素晴らしい説教でも、あらゆる知識でも、完全な信仰でも、多額の献金でも、自己犠牲でもなく、必要なものは、真実の愛です。愛が大事なのです。愛がないなら、それらは生かされないのです。無に等しいのです。それらが生かされ、用いられていくためには、どうしても愛が必要なのです。そして愛によって、教会は(また、結婚した夫と妻は)一つとされていくことができます。ですから、教会にとって、(結婚した夫婦にとっても)何よりも愛が最高の道なのです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」とパウロは言っています。こうした、一つ一つを考えていくと、自分には愛がないと知らされます。私たちは愛の道からは遠いのです。
 パウロがここで言っていることを私たちは行おうとしてもできません。ですが、ここで言われている愛を行って下さった方がいます。その方こそが私たちの救い主、イエス様です。イエス様は自らの命を犠牲にして下さいました。まさに愛をもって、すべての人を愛して死んで下さったのです。ですから、聖書は言うのです。「神は愛なり」と。
 パウロは、「愛は忍耐強い」と忍耐を語り、そして「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える」と言っています。こうしたことから忍び、耐えることが大事なのです。しかし「ただ忍び、耐えて、耐えて生きていきなさい」と言おうとしているのではありません。忍耐を教えているのではないのです。教えているのは愛、愛する故の忍耐なのです。
 私たちは、イエス様の十字架の愛を知って、イエス様に愛されて、罪赦されていることを知らされます。そんな私たちなのです。
 パウロは言います。「信仰、希望、愛、この三つは、いつまでも残る。そのような中で、もっとも大いなるものは愛だ」と。イエス様の救いを頂き、私たちはイエス様を信じて、信仰の道を歩んでいます。そのような中で、いろんな経験をしますが、信仰だけあればいいと言う人がいたりします。また、天国の望みを抱いて生きていて、その希望だけでいいと言う人もいます。しかし、もし信仰だけ、希望だけで生きているのなら、それは自分よがりでしかありません。そこに愛がなければ、それはやがては消えていき、無に等しいものとなっていくでしょう。この三つが残るためにはどうしても愛がなければならないのです。愛があってこそ、信仰も希望も生きてくるのです。
 そのような歩みを私たちに開いて下さったのがイエス様です。イエス様によって愛されたことを知って、私たちが、イエス様を信じ、明日に望みを抱いて、神と隣人を愛する道を小さな歩みであっても歩む者となれるよう祈りましょう。

1番 ちいさく、丸めた体は、今、悲しみ隠し、震えて、いのちを表しているのね。
2番 重く濡らした瞼(まぶた)は、今、喜び映す日のため、心を育てているのね。
3番 かじかむ指、ひろげて、風にゆれ、雨にさらされ、はるか空へ、身を預けて、
生きようーーー
4番 何も要らない、私が、今、本当に、ほしいものなど、ただ一つ、ただ一つだけ・・・参考のために テレビでは月曜日は2、3、4番が歌われ、火曜日から土曜日は1、2番だけ。
歌っている2番の「喜び映す」は、「喜び映せ」と聞こえます。
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by higacoch | 2012-02-28 18:08 | コリント

2012年2月19日

『甘く、やがて苦く』 ヨハネの黙示録 10:1~11
                   古畑 和彦 牧師(日本中会主事)

 ヨハネの黙示録10章において、ヨハネは、手に「開いた小さな巻物を持って」(3節)いる1人の天使を見ました。この天使は、ヨハネに「開かれた巻物を受け取れ。…受け取って、食べてしまえ」(9節)と命じます。巻物を読んだり眺めたりするのではなく「食べてしまえ」というのです。旧約聖書エレミヤ書15章16節では「あなたの御言葉が見いだされたとき、わたしはそれをむさぼり食べました。あなたの御言葉は、わたしのものとなり、わたしの心は喜び躍りました。万軍の神、主よ。わたしはあなたの御名をもって、呼ばれている者です」と記されています。私たちの肉体は、食物から栄養を取ります。同じように、私たちの魂は御言葉から栄養を取らなければいけません。私たちが御言葉を読まなかったり、御言葉から離れたりしたら、信仰は枯れてきます。神がわからなくなってくるのです。ですから、御言葉は、まず読まなければならないものです。しかし読むだけでもいけないのです。ここでは、さらに食べる事が求められているのです。「御言葉を食べる」というのは御言葉がその人の血となり肉となるということです。御言葉は、そういう関係を私たちに求めているのです。
 ヨハネが、10節で、その「巻物を取って食べ」ると、天使が言ったとおりに口には蜜のように甘いものでした。これは当時のイスラエルの習慣と関係があります。イスラエルでは、ヘブライ語の文字を子どもたちに教えるときに、小麦粉を練って、そこに砂糖を入れて甘くして、お菓子に文字を焼くそうです。そしてその字を上手く書けたら、子どもに御褒美としてその甘いお菓子を食べさせたということです。ですから、子どもは、言葉は口に甘いということを体験的に覚えるわけです。御言葉は確かに甘いのです。詩編19編8~11節には、「主の律法は完全で、魂を生き返らせ 主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え、主の戒めは清らかで、目に光を与える。主への畏れは清く、いつまでも続き、主の裁きはまことで、ことごとく正しい。金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」とあります。エゼキエル書3章3節には、「言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」と記されています。
 しかし、ヨハネが食べた御言葉は「口には蜜のように甘かったが、食べると……腹は苦く」なりました。なぜ、口には蜜のように甘かった御言葉が、腹では苦かったのでしょうか。御言葉は、もともとは甘いものです。しかし、ヨハネはその人生の歩みで様々な悩み、苦しみを経験しました。腹において苦いという経験は、このような人生の苦難を意味しています。御言葉は、御言葉に従えさえすれば、私たちがいつでも自分の思う通りに行くとか、力が与えられるという甘い経験だけを与えるものではありません。時に、御言葉は、人生の苦難を経験させることがあります。たとえば、人生の岐路にあって右に行こうか、左に行こうかと悩むときに、人は大抵、自分にとって楽な道を選ぶものです。ところがそのようなときに、神は、私たちに御言葉を通して「たとえ、苦しくてもこちらの道を行きなさい」と導かれることが少なくありません。それに従うことは辛いことです。私など、神の言葉など聞かない方がよかった、もっと甘い楽な生活ができたのに、と思う時があります。しかし、私たちはこの苦さに耐えなければならないです。なぜならば、御言葉以外に私たちを生かすものはないからです。御言葉は、どんなに腹に苦くとも私たちを生かす「命の甘さ」を失うことはありません。
 この御言葉の苦さと甘さに生き切ることができるか、それが今日において教会が問われ、教会を造っている私たち一人一人に問われていることです。なぜならば、私たちも、今日の教会もヨハネと同じように、「あなたは、多くの民族、国民、言葉の違う民、また、王たちについて、再び預言しなければならない」(11節)との命令が与えられているからです。私たちは、御言葉を語る時に、苦さを経験することがあります。家族や友人、社会から無視されたり、攻撃されたりすることがあります。自分自身の弱さや足りなさに否応なしに直面させられます。しかし、私たちは甘い御言葉で力を頂いて、その苦さに耐えることができるのです。私たちは、御言葉によってしっかり栄養を頂いて、神の御心を正しく理解して、たとえ苦難の中でもしっかり生きていくものでありたいと思います。
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by higacoch | 2012-02-21 17:57 | ヨハネ黙示録

2012年2月12日

「キリストの体」 詩編133:1-3、コリント一、12:12-27

 パウロがこれまでに書いてきた教会の問題は、教会内部の派閥争いと信徒たちの淫らな性的行為でした。パウロはこうした問題に対して勧告してきましたが、ここ12章に至って「教会は、キリストの体」と言っています。そして、皆さんは、キリストの体の一つ一つ部分だと言い、皆さんはキリストに結ばれ、かつ互いに結ばれ、一つの体であって、一人一人は大事と言っています。
 パウロがこう言った背景には、教会から離れようとしていた人がいたのではないかと思うのです。15節を注意して見てみますと、「足が、私は手でないから、体の一部ではない」と言っていますが、誰かが「あなたは役に立たない」と言っているのではなく、足が「自分は手でない」と言っているのです。それに対して、パウロは「そう言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。」と問いかけています。ここでは、他者を中傷して語っているのではなく、他者と比べて、自己卑下して自分は体の一部ではないと言っているのです。それに対してパウロは、「神様ご自身が、ご自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれた」と言っています。そして「もし、体全体が目だったら、どこで聞きますか、もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」と続けています。体は、目だけではない、耳だけでもない。そうした一部だけでできているのではない、一つ一つの部分が、つながりあって、それぞれの働きをしてこそ体なんだと。神様が、一人一人をその部分として置かれたのであって、ある人は手であり、またある人は足であり、またある人は耳であり、口であったりするのです。自分に自信がなく、自分なんて、というような人に対して、知って欲しかったのです。あなたもキリストの体の一部だとパウロは力説しています。
 またある人がある人に向かって「あなたは要らない」と言っていたのでしょう。教会での働きなどを評価して、自分の判断で人を裁いて、あなたは教会にとって必要ないと言っていた人がいたのです。このことでもパウロは、「神は、見劣りする部分を一層引き立たせて、組み立てられました」と言っています。体の中で他よりも弱く見える部分がかえって必要だと言うのです。弱い者が不必要だというのではなく、そうした者こそが、かえって必要なんだと。
 一つ一つの部分は、どれが上だとか下だとかいう、上下関係があるのではなく、働きとして一つに結ばれていることをパウロは言いたいのです。神は見劣りする部分こそ、引き立たせて、体を組み立てられました。そうして体に分裂起こらず、各部分が互いに配慮しあっていること、このことは、一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶことだとも言うのです。
 そうした関連で、パウロは言います。神様が、教会の中に、いろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、初代の弟子たち、第二に預言者、第三に教師、次に、奇跡を行う者、次に、次に、と続きます。こうした順位は、地位の違いを表すのではなく、働きの違いを表すのであり、それぞれの働きに召された人々が、神によって導かれて、その働きをしているのです。
 私たちが、それぞれの意志で集まって一つになったのではありません。私たちの思いで、チームを組んで一つになったのではありません。そうではなく、神によって私たちは一つにされたのです。パウロは、ユダヤ人、ギリシア人という民族や文化の違いによってではなく、また当時は身分制度がありしましたが、自由人であろうと、奴隷人であろうと、皆一つの体として成るために洗礼を受け、一つの霊を飲ませてもらったとはっきり言っています。それは、私たちが、キリストの体となる資格が十分に備わっていたからとか、精進してそれに相応しい条件を満たしたからではありません。キリストの体の一部となったのは、神の一方的な恵みであり、憐れみによるのです。このように神によって一つとされているのです。
 イエス様は弟子たちに、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」と言われました。パウロは、「あなたがたは、キリストの体、一人一人はその部分、体の一つの部分だ」と言って、一人一人がキリストと繋がっていると教えています。
 しかし、教会の問題は人の問題であります。人は、自分を卑下して、自分は体の一部ではないといい、他方、自分が高慢になって、隣人を見下げて、あんな人は要らないといったりします。パウロは言うのです。神が、一人一人を召し出し、救って下さり、聖霊を注いで下さって、教会に組み入れて下さったのだと。キリストの救いによって生かされ、一つになることによって、キリストを伝えていくことできるでしょう。今年の教会標語は「キリストを伝える」です。私たちがキリストの体として生きていきて、キリストを伝えていきましょう。
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by higacoch | 2012-02-13 17:51 | コリント

2012年2月5日

 「神の栄光を現わしなさい」  
             詩編19:2~6、コリント一 6:12~20
 
                             
 本日は私たちの教会、カンバーランド長老教会の設立記念主日です。1810年2月4日、3人の教職者が徹夜の祈り後に、新しい中会を創ることを主の御心と信じて歩み始めました。そしてその歩みが神に導かれ、祝福され、現在に至っています。キリスト教会の教派としては、まだまだ小さな群れです。日本においても小さな群れで、それほど知られていないかもしれません。しかし、それぞれの教会が主の福音宣教を為し、教会形成に励んでいます。
 さて、今朝、与えられた箇所に、繰り返される言葉があります。それは「知らないのですか」という問いかけです。15節、16節、19節に出てきますが、6章を最初から読んでみますと、ここまでにも3度出てきます。このように繰り返したのは、知らないままでいて欲しくない、このことをしっかりと知って欲しいというパウロの願いの現れでしょう。
 ここで、「『わたしには、すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない」と言っています。教会の人たちの中に「すべてのことは許されている」と信じて疑わない人々がいたのでしょう。だから、パウロは言うのです。すべては許されているが、しかし、許されているからといって、すべてがあなたがたにとって益になるわけではないと。その人たちがどういうことが許されていると考えられていたかと言うと、性の行動でした。パウロは、ここで、体のことも何度でも語っています。体は、みだらな行いのためではなく、主のためにあり、あなたがたはキリストの体の一部と言っている、だから、娼婦と交わる者は、その女性と一つの体となるのだ、と。
 パウロはコリントの教会が性的に乱れているということを知らされていました。教会の人たちの中には娼婦と交わる者がいたようです。こうした人たちは、パウロからキリストの福音を知らされながらもそうしていたのです。皆さん、注意して聖書を見て頂きたいのですが、今日の箇所の12節「わたしにはすべてのことが許されている」このことが、カッコ内に入れられています。こうしたことから、これは当時の格言だったのか、あるいは、ある特別な言葉だったと言うことが解ります。私はパウロがよく言っていたことだったと思うのです。パウロは、ガラテヤ人への手紙でこう言っています。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった」、「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのだ」と自由を説いていました。だから、ここコリントでもキリストの救いを伝える時、自由を語ったでしょう。だから、パウロは「許されている」とよく言ったと思います。しかしパウロが言いたかったのは、ギリシアの古い因習や伝統、戒律などを守ることによって救われるのではないということでした。「あなたがたはキリストによって救われ、自由を与えられたのだ」と言ったのです。しかし、こうしたパウロの『許されている』を聞いて、すべては自由だ、すべては許されている、そう受け止めてしまったのでしょう。そして教会の人たちは、とんでもない過ちを犯してしまいました。パウロもびっくりするようなことまで起こすようになっていったのです。それは異邦人の間にもないほどのみだらな行いでした。このように、「すべてが許されている」が、一人歩きをし、エスカレートしていったのです。福音のはき違いが生じていきました。
 パウロは「許されている」、その自由をもってキリストのように生きていって欲しいと願っているのです。パウロは、この手紙の9章の所で「わたしは誰に対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」と言っています。マルチン・ルターは、この聖句から「キリスト者の自由」を説きました。これは人としての自由ではなく、キリスト者としての自由です。すべてが許されて、その自由から、人に仕えていくということです。強制されてではなく、打算によってではなく、キリストがわたしを愛し、私に仕えて下さった、その愛に応えて、信仰によって隣人に仕えることこそ、キリスト者の自由なんだと言いました。
 そしてパウロがここでどうしても知って欲しいのは、あなたがたの体は、あなたがたのものではなく、主のものであり、主の体の一部とされていること、そして神は、そのあなたがたの体に聖霊を注がれている、このことなのです。だからこそ、自分の体で、神の栄光を現して欲しいと願っています。
 このことは、わたしたちにも言えることです。私たちも、すべては許されています。だからと言って、何をしていいというのではなく、私たちの小さな業であっても、神の栄光のために生きるように導かれているのです。神様が私たちを憐れんで、私たちに聖霊を注ぎ、キリストの救いを知らせ、神の栄光のために生きるようにして下さっているのです。
 わたしたちのカンバーランド長老教会も小さな教会ですが、小さな歩みであっても神の国の建設のために歩むことができますように、また一人一人が、神の働き人として、キリストの救いを知らせていけますように、神の栄光を現す歩みをしていけますようにされているということを深く知るものでありますように。神様から聖霊を与えられた者として、神と人とに仕えていきましょう。
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by higacoch | 2012-02-06 17:45 | コリント