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2012年1月29日

「他国に宿るように」創世記12:1−9、ヘブライ人への手紙11:8−6
                           宮島 熱示 伝道師


アブラハムは、神が人類の救済をするにあたって始めに選ばれた人です。全ての民族は、彼によって祝福を受けるであろうと神が約束しています。アブラハムには、長い間、子孫が与えられなかったので、やむをえず、ハガルとの間に子を得ます。これがイシュマエルといい、これがアラブ民族の祖先となりました。その後、すでに高齢になっておりました正妻サラとの間に生まれた子がイサクであり、これがイスラエル民族の祖先となりました。アブラハムは、ユダヤ教、キリスト教では「信仰の父」、イスラム教では「五大預言者のうちの一人」と言われています。

古代人は「領土」「宗教」「人々」という三つの要素が合わさって、初めて一国家、一民族であると考えられていました。それがどれか一つでも欠けると民族としてのステータスがなくなりました。民族があっての個人であり、民族から切り離された個人というものは、存在しなかったのです。そのような時代に「神が土地を与えるという約束を信じた」「行き先も知らずに出発した」ということは大変なことなのであり、神への信仰があったゆえに出来たことでありました。

「他国に宿るようにして」ということばの意味。よく考えてみますと、不思議なくだりです。アブラハムは神に呼ばれて、その生まれ故郷から旅立った。行き先は知らなかったのです。でもこの時の行き先はどこであったか、と言いますと「約束の地カナン」です。約束の地カナンまでの旅立ちであったとなれば、そこに到着すれば、落ち着くはずです。そこに家を建てて、安住の地として、自分の新しい故郷になるのです。
しかし、アブラハムは約束の地に住みましたが、そこを他国にしたのです。「他国に宿るように」住んで、そこを永住の場所としないように、定住式の家を造らないで、移動式の幕屋に住んだのです。
実際には当時、その地にカナン人が住んでいましたから、土地の所有は未だ約束のみで、将来にという約束でした。アブラハムは自ら「地上では仮住まいの者であることを告白した」つまり自分は旅人である立場を認め、それを告白したのです。

アブラハムは神の約束を疑わず、それが自分の本来の故郷でないことを知った上でカナンの地に住んだのです。 アブラハムはカナンの住民の間に天幕を張りながら移動して生活していました。唯一所有したのは妻サラの墓地だけでした。
基礎を据えない幕屋に住むということは、アブラハムは地に根を下ろさないように気をつけていた、ということです。彼はこの世を、いつも仮の住みかとしていた、そこにアブラハムの信仰があるのです。地上を安住の地とするか、仮の住みかとするか、そこにクリスチャンとしての信仰が問われるのです。

多くの人たちは、安泰な生活ができるように、心の安らぎを得るため、宗教や信仰を求めておられます。しかし、クリスチャンが真に平安になれるのは、この世の安泰を求めるのをやめたときです。
「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」とあります。彼は、土地が与えられるだけではなく、子孫が与えられるだけではなく、都、それも計画都市が与えられることを期待しました。
 たとえばローマ帝国は他の民族を征服して支配していきますが、結局、支配した民族の文化に侵されて、滅びてしまいました。だから、たとえカナン人が滅んだとして、その残った都市にアブラハムの子孫が住んだとすれば、その都市文明の価値観、文化に汚染され、イスラエル人は、カナン人のアイデンティティーを受け継いだ民族になりさがってしまう、という危険性は充分にあったのです。
アブラハムはそれを見抜いていたのです。だから、カナンの繁栄にまどわされることなく、神ご自身が設計され、建設される、確実な基礎が据えられる都を待ち望んだのです。それに相応しい生き方をしました。約束の地にありながら、あえて他国に宿るように、待ち望みつつ、地上の生活を送ったのです。
 
私たちひとり一人は、表面的には、日本のどこか地方から出て来て、東京に住んでおられかもしれない。またある方々は、この土地に生まれお引っ越しをした経験がないかもしれません。しかし、エフドキーモフはこう書いています。「しかし、霊的に深く掘り下げて考えるならば、すべての人は移民であり、亡命者であり、エデンの園から追放されたものなのです。」と。
アブラハムのように、この世にあっては、よそ者であり、寄留者である、ということを心に止めましょう。政府の提供する保障やその国力に心の安きを得るのでなく、神の備えておられる天の故郷にこそ我が望みがあるのだ、と告白しましょう。
他国に宿るようにして、この世に住む、他国に宿るようにして日本に、アメリカに、ブラジルに住む、これがクリスチャンの生き方なのです。
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by higacoch | 2012-01-31 01:25 | 創世記

2012年1月22日

「不思議な導き」 使徒言行録 16:6-10  
    唐澤 健太 牧師 (国立のぞみ教会)


 去年の一つのニュースにニュートリノが光速よりも速いかもしれない、というものがあった。何度説明を聞いてもその意味がよく分からないが、何でも夢の世界であったタイムマシーンが論理的に可能にあるとか? もしタイムマシーンがあったらみなさんだったら未来に行くか? それとも過去に行くだろうか? 朝日新聞の「天声人語」の中にタイムマシーンに関する話題に触れた後、「拡声器を持って迷わず3月11日に行きたい」と書かれているのを読んで本当にそうだなと思った。いやもっと遡って、原発が設置される時代に戻って建設をやめさせたい! そんな思いさえなる。
 私たちには、過去に行って自分が失敗したなって後悔するような前に戻って、その挫折を回避するような手立てを講じたい! あの時に戻ることができたら。そんな時が一人一人にあるかもしれない。挫折の経験は誰にでもあるものだ。
 しかし、神様の導きは不思議。神様は私たちの想像をはるかに超えた方法でわたしたちを導かれるお方であることを今日の御言葉から共に聴きたい。聖書には、パウロたちがアジア州で御言葉を語ることを「聖霊から禁じられた」とある。また7節にはミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが「イエスの霊がそれを許さなかった」とも記されている。この時、本当はパウロたちは、アジア地方から地中海世界に伝道をすすめるために大都市エフェソに行きたかった。しかし、その計画は思い通りには行かなかった。進路を変更せざるを得なかった。しかも、一度だけではなく、二度も。
 パウロの持病が悪化したから計画通りに行かなくなったとか、異邦人伝道を進めるパウロたちを面白く思わないユダヤ人たちの妨害にあったとも考えられている。しかし、著者ルカは、そこで実際何があったのかを聖書は詳しく記していない。「聖霊に禁じられた」、「イエスの霊がそれを許さなかった」と記すだけだ。しかし、何にせよ、パウロたちはここで、自分たちの立てた宣教計画の挫折を繰り返し経験していたのだ。そしてパウロたちは自分たちが行きたいアジア州やビティニア州にはどうしても行くことが出来ない。こっちもだめ、あっちもだめ、残された道は(すすめる道は)ここしかない。そうやってパウロたちは仕方なく小さな港町トロアスに着いたのだ。
 そしてこのパウロたちの立てた計画が挫折して到着したトロアスこそが、初めて福音が地中海を越えて、ヨーロッパ地方に広がったスタート地点になったのだ。挫折の地トロアスで、一人のマケドニア人との出会いが与えられ、その時に、パウロたちにはなぜあそこで道が閉ざされたのか、なぜエフェソへ進めなかったのか、その一つの答えが与えられた。あの時、進みたかった道へ進めなかったのは、このためだったのか! そういう確信がパウロたちに与えられたのだろう。
 神様の導きというのは、いつも私たちに分かりやすい形で示されるとは限らない。「こっちにすすめ」、「あっちにすすめ」とはっきりと示され、分かる時もある。しかし、神様の不思議な導きの方には、私たちの進む道が閉ざされて導かれるということがあるのだ。時に神様は、人間の目には「失敗」や「挫折」としか思えない形で導かれることがあるということだ。
 私も、道を閉ざされる経験を通して神様に導かれた一人だ。ちょうど受験シーズンが始まっているが、私は大学に進学する時に挫折を経験した。希望する大学の推薦をもらえることになっていたのが、大人の汚い思惑によって私の希望する進路は閉ざされた。野球ばかりやっていた私には浪人する覚悟もなく、他に提示された他校の推薦を受ける道を逃げるようにして選んだのだ。
 「甲子園」という夢を追い続けた小学校から高校時代から、夢も目標も失った大学生活は苦痛以外の何者でもなかった。背伸びをして大人ぶって遊びを覚えても、友達と野球サークルで楽しく活動しても、どこかで虚しさを抱えていた。大学をやめようかとも考えたが、その勇気も自分にはなかった。
 そんな時に、「大学内で聖書を一緒に読む友を与えてください」と祈り始めた。半年後、大学内で一人のクリスチャンとの出会いが不思議な形で与えられた。本当に「神業」としか思えない「偶然」という名の必然が起こったのだ。そこから学内で一緒に聖書を読む活動が始まった。私はその時に、初めて自分がこの大学に来た意味はここにあったのか! そう思えたのだ。それまで大人の卑怯な手によって推薦を得られず、ずっと挫折感やコンプレックスを抱えていた自分の中に、神様の不思議な導きによって自分はこの大学にいるのだ! 心の中のもやもやが晴れた瞬間だった。そしてその活動を通して私は牧師への召しを受けたのだ。私にとって道が閉ざされ、そこしか行く場所がなかった、挫折の地であった大学が召命の場所となったのだから、希望する大学への道を「聖霊が禁じた」、「イエスの霊が禁じた」としか言えないほどの不思議な導きであったと確信している。
 私たちも教会の活動において、私たちの人生において、様々な計画をたてる。しかし、私たちの立てる計画がすべて思い通りになるかと言えばそんなことはない。時には、何でこんなことになるんだ! と悩み、苦しむことがある。しかし、今日の聖書の物語が私たちに伝えるように、たとえわたしたちの計画通りに行かなくても、たとえ挫折をしてしまっているように思えても、なおそこに神の不思議な導きがあることを信じて歩む者でありたい。人生の挫折や失敗を、私たちがすぐに、すべてを理解することが出来なかったとしても、後の日に、この日は確かに「神の召し」の中にあったということを「確信する」ことが出来ればと願う。神様の不思議な導きに委ねて新しい一週の歩みへと遣わされて行こう!
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by higacoch | 2012-01-28 01:17 | 使徒言行録

2012年1月15日

「義とされた者として」  箴言4:14-19、コリント一6:1-11

 私たちの国も2009年5月から裁判員制度を導入しました。その背景には、刑事訴訟問題が多くなってきたことがあります。アメリカは訴訟社会と言われ、多くの人が訴えたり、訴えられたりしていますが、日本も一昔に比べたら、確実に刑事も民事も訴訟が多くなってきています。
 イエス様は「裁くな、裁かれないために」と言われました。昔からユダヤ人は、法廷に持ち出す前に、村や会堂の長老たちに諮(はか)って事件を解決しました。モーセの時代にも、出エジプト記18章に記されていますが、民の裁き人を選んでいます。彼らは、特にユダヤ人以外の人々に裁きを仰ぐようなことはしませんでした。パウロはそのような世界で育ったのです。ですから、コリントの町に来て、ギリシア人の訴訟好きに驚き、雄弁をふるって黒白つけようとする事態を見て、考えさせられたのでしょう。そして教会内にもこうした訴訟問題がありました。パウロは自分の胸の内をストレートに出して「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起した時、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことをなぜするのです。」と言っています。パウロには、教会員同士が争い、自分たちでうまく解決ができず、他に訴えていたのは理解できませんでした。
 ここでの「聖なる者たち」とは、教会の人たちで、長老格の人たち、「正しくない人」は外部の人のことですが、その人が悪い人だというのではありません。ささいなもめごとを、教会の外の人に、なぜ訴え出ようとするのか、と問うているのです。どうして、あなたがたは世に問題を持っていくのですか、あなたがたは、神の言葉を聞き、神の知恵によって、些細な事柄でも裁く力がないのですかと強く訴えています。外部の人に裁きを任せるぐらいなら、「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままで、いないのですか。」とさえ言っています。
 このことは、イエス様が教えられたたとえ、マタイ福音書18章に記されている「仲間を赦さない家来」を思い出します。それは、ある王に一万タラントン(莫大なお金、六百億円)を借金している家来が、王の憐れみによってその借金を帳消しにしてもらいました。その家来がその帰り途に、仲間の一人に出会いましたが、その仲間に、お金(百デナリ、百万円)貸していました。それを思い出して、その仲間を「借金返せ」と責めたてました。しかし仲間が返せないのを知るや、彼を訴え借金返すまで、牢に入れました。これを知った王は、その家来を呼びつけて、「ふとどきな家来だ。私がお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったのか」といったというたとえです。
 パウロも、あなたがたは、イエス・キリストに罪を赦されたのだ、そんな莫大な負い目を赦されているのではないのか。そのことを思って、兄弟の、姉妹の、罪を赦すべきではないのか、と言いたいのです。
 また、ここで注意して見てみると、訴えられている人たちとは、4節を見ますと、教会では疎んじられている人たちです。教会で軽んじられている人たちがいたようで、そうした人たちを裁く人々がいたのです。パウロは、あなたがたと問い掛けながら、言っています。「あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。 正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、・・・泥棒、強欲な者、・・・人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。 あなたがたの中にはそのような者もいました。」そうしたことをしていた人たちが、些細なことで軽んじられていた人たちを責めたてていました。だから、パウロはあえて「あなたがたを恥じ入らせるために」と強く言っています。「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前でそうするのですか」と。 「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたが、あること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。」
 パウロは「あなたがたの中には、そのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。」と言っています。これは、イエス・キリストの罪の赦しによって、聖なる者とされている、そして、さらに義とされていると言っているのです。ここで、「義とされている」と言うのは、宗教改革者マルチン・ルターが言った、「義認」という言葉に通じるものです。あなたがたは罪を赦されて、聖なる者とされ、義とされているのだから、その神の恵みをしっかりと受け止めて生きて欲しい、これがパウロが一番願ったことなのです。なによりもあなたがたの知恵や判断だけに頼って生きていくのではなく、神の恵みを受けた者として、生きて行って欲しいと願っています。ここには、ユダヤの律法のもとで、解決をして生きていくというのではなく、キリストの律法(互いに赦し、愛し合う)のもとで、生きて行って欲しいと願ってやまないのです。 
 私たちもキリストの贖いを頂いた者として、歩む者でありたいものです。
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by higacoch | 2012-01-21 01:07 | コリント

2012年1月8日

「真実のパンで生きよ」 箴言23:13~19、コリント一5:1~13

 教会は町の中に建てられています。山の中や、人里離れた辺鄙な所、離れた孤島にポツンと教会を建てようとはしません。修道院などは静かな場所にあったりしますが、教会は人が住まない所に建てるのではなく、むしろ人が住んでいる中心に建てます。そうした場所柄、いろいろな人間的な影響を受けたりしました。
 これまで私たちは、コリントの町にある教会の問題について学んできました。それは教会内の分派争いでした。ある人たちはパウロにつくとか、アポロにつくとか言って争いました。こうした問題を抱えた教会でしたが、もう一つ問題があったことが解ります。それは信徒の中にみだらな者がいたのです。パウロが「私は以前、手紙で、みだらな者と交際してはならないと書きました」と言っていますことから、この手紙の前に別の手紙を書いたことが解ります。
 皆さんは「ポルノ」という言葉を聞いたことがあるでしょう。ポルノ写真、ポルノ映画。この言葉は、元々はギリシア語からきています。その語源となったのは今朝の箇所に出てくる「みだらな者」という言葉で、ギリシア語でポルノスと言います。パウロはこの問題について二度も続けて手紙を書きました。こうしたことから、このポルノ問題は根が深いものと察せられます。実際、パウロはここ5章から7章までこのことについて書いています。この問題を放置していたら信仰の土台を揺るがしかねないと考えたでしょう。昔から人間集団や国など、外圧からの攻撃よりも内部の争い、仲間割れで内部崩壊してしまうことが多いと言われます。
 パウロは、先の手紙で「みだらな者と交際してはいけない」と書きました。それを教会の人たちは誤解しました。教会の人たちは、世の中の「みだらな者と交際してはいけない」と理解しました。しかし、パウロが言いたかったのは、世の中の人ではなく、教会の中の「みだらな人」と交際してはいけないということでした。問題はあなた方なのだ、教会内に問題があるのに、それに目を向けずに、教会の外に向けている、本当は教会内の問題だと言うのです。1節にもあるように、継母を自分のものにしている者がいたのです。にもかかわらず彼は高ぶっていました。パウロは「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。」とさえ言っています。「除外すべき」とは、どんなことでしょう。絶交、追放なのでしょうか、パウロは、除外を言いつつ、彼の霊が救われるためです。と言っています。彼の肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したとしても彼が主の日には彼の霊が救われるためだと言っています。ここで、パウロがいう除外も拒否も追放でも絶交でもないのです。むしろ、彼の霊が、裁きの日に、救われるためなんだと解るのです。
 パウロは、みだらなことをしてしまうことをパン種の譬えで教えています。パン種が少しでもあると、練り粉全体を大きく膨らませていく。だから古いパン種を除きなさい、と勧めています。古いパン種とは、救われる前に持っていた悪い習慣や生き方、価値観です。そうしたパン種を持っていると、いつの間にか古い生き方が膨らんできて、以前と同じようにみだらなことをしてしまうことになるというのです。だから、そのパン種を除きなさいと勧めています。
 パウロは、過ぎ越しの祭りで食べる種入れぬパン、それも純粋で真実のパンで、過ぎ越しの祭りを祝おうではありませんか、とも言っています。この純粋で真実のパン、それがイエス・キリストなのです。キリストのパンで祝うというのは、キリストによって救われたことを深く受け止めて生きることです。それをパウロはコリントの教会の人々に求めています。
 私たちは、神の前に、誰一人として、正しい人はいません。そんな私たちです。そんな私たちを神様は憐れんでくださったのです。私たちは、いろいろな面で世の中から影響を受けます。その影響によって生きていき、いつのまにか神様から離れていく時、それは、古いパン種によって生きているのです。そうした生き方ではなく、私たちの新しい生き方の原点である、イエス・キリストによる罪の贖いをしっかりと心に受け止めて生きていきましょう。イエス様は、あなたのために命をかけて愛してくださったのですから。この原点に立ち返って生きていきましょう。悔い改めつつ、古いパン種を除き、真実のパンである聖餐を頂き、主に感謝し、主と隣人に仕えて、新しい年を歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2012-01-10 01:03 | コリント

2012年1月1日

「キリストを伝える」  詩編96:1-3、Ⅰコリント1:23-24

 新しい年、私たちは教会標語に「キリストを伝える」を掲げました。これは教会の根本的な活動の目的です。原点に帰って、伝道に励む一年として歩みたいのです。私たちの教会がこの地で福音宣教を始めて46年が経ちました。毎年、少なくても年に2回は近隣にチラシ配りをしていますが、いまだにここに教会があることを知らない方がおられます。そうした方々に教会を知らせ、そしてキリストの福音を知らせたいと願っています。そのために、今年は何とか現代のツールであるホームページやブログを充実させていきたいと思っています。
 昨年は、教会標語に「出発」を掲げ、秋の総会で新会堂建設に向けて出発することを決議しました。このことは神様の導きの中で与えられたものとして信じています。「神は、願いを起させ、かつ実現へと導いてくださる」との御言葉がありますように、新会堂への思いを与えて下さったと信じています。ですので、実現へと導いて下さることも信じます。この新会堂も次の時代を担う人たちが、主の日に礼拝を守り、会堂から遣わされ、キリストの福音を伝えていけますように、将来に向けて備えたいのです。
 さて、年の暮れに、あさひ伝道所から、「ふれんどしっぷ」という介護事業の通信が送られてきました。その中に、昨年10月に行われた講演内容が載っていました。講演者は、佐々木炎先生という牧師であり、介護事業にも携わっている方です。先生は多くの高齢者の方々と触れ合う中で、体が弱って困っている方々を分析してこう言われます。困っている人は、自分が困っているとなかなか言えない、言わない。言わないから困り続ける。なぜ、言わないのかと、私たちは思いますが、実は困っている人は様々な心理状況にあって、気遣いしたり、遠慮したり。だから、自分から困っているということをなかなか言いにくかったり、閉じこもってしまったりしてしまう。これ以上、自分の恥をさらしたくないという思いから人を拒んだりもする。自ら助けて下さいとは言わない。それが当たり前。最初から「よく来てくれた、よく来てくれた」と言って歓迎してくれる人は、ほとんどいない。困っている人は自分を守るために、自分から拒絶していく。心のなかで、あるいは態度で人を拒む。これが、私たちがかかわる「困っている人たち」。あるいは何らかの形で「支援を必要としている人たち」の姿であり、態度なのだ、というのです。
 この「困っている人たち」が変わると言われます。一人一人が抱えている様々な事情を、私たちが受け入れていき、一人一人を大事にすることによってです。その人を大事にするという根底には、三つの理由がある。それは、その人が、「神の似姿としての尊い存在」であり、「神の愛情の対象者として価値がある人」であり、「十字架にかかるほどに、神様が愛して下さっている人」だからと。人はすべて、自分が必要とされている、愛されている、尊い、そういうことを実感した時、人は変わっていくというのです。この点で、キリストの福音を待っている人がいる。その福音によって生かされる人が多いということです。私はキリストを伝えるということは、キリストは、あなたを愛されたし、今も愛しておられるということ伝えることであると思い知らされました。
 パウロの時代、人々は何を求めていたのでしょうか。ユダヤ人は、しるしを求め、ギリシア人は、知恵を捜して求めていました。ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた民であるという奇跡のしるしを求め、ギリシア人は自分たちがいかに知恵ある者たちであるかを誇ろうと知恵を求めました。そのような中で、パウロははっきりと「私たちは十字架につけられたキリストをのべ伝えています。」と言っています。パウロたちはキリストを伝えることを求めました。なぜなら、キリストの福音が、真に人を生かすことを自らの救いの体験を通して知っていたからです。ですから、たとえ人々から無視されても、馬鹿にされても、迫害されてもキリストを伝えたのです。それは、キリストが十字架にかかってあなたの罪を赦して、命をかけて愛してくださった、それほどまでに「あなた」を神は愛されたのだと伝えることでした。  
 今、私たちの周りの人たちは、何を求めているのでしょうか。最近の新聞によると、健康を、仕事を、お金を、自分のいやな性格が変わることを求めている人が多い、そしてそれが与えられないと言って悩んでいる人が実に多いのです。そこで悩み、苦しみ、悲しみ、自分はもう生きている値打ちがないとか、生きていてもつまらないと言って、うずくまり、閉じこもっている人が多く、自分の存在価値がないかのように考えている人が多いのです。
 私たちも救われる以前は、そのような一人でした。そんな私たちが、神に導かれて、救われたのです。私たちは、先に召された者として、そのような方々に、神はあなたを愛されていると伝えることができます。あなたのためにイエス様が十字架掛って死んで下さった、あなたは愛されたし、今も愛されているのだと、伝えることができるのです。なぜなら、この世に生きている人で、その人がどんなに罪深い人であれ、どんなにキリストからは遠いと思われる方であっても、キリストに愛されていない人はいないのです。神様から見捨てられている人は、誰一人としていないのです。
 パウロが、十字架につけられたキリストをのべ伝えると言っているように、この時代に、この場所で、人を真に生かして、生きる喜びを与えて下さるイエス・キリストを伝えていきましょう。
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by higacoch | 2012-01-07 00:57 | コリント