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2011年12月25日

「共に生きて下さる方の誕生」
  イザヤ11:1-10、ルカ福音書2:8-20
     
 
 皆様と共に、クリスマス主日礼拝を捧げることができたことを感謝します。また今日は子どもと一緒の礼拝で、教会学校の子どもたちと共に礼拝し、イエス様の誕生を喜び、祝うことができ、本当にうれしく思います。
さて、今年は忘れられない年となりました。3月11日に東日本大震災があり、大津波が押し寄せ、多くの人や家、畑、学校、職場などを襲い、未曾有の大被害をもたらしました。さらに福島の原子力発電所の事故が起こり、放射能が飛散し、今も住みなれた故郷を離れて避難生活を強いられている人たちが多くいらっしゃいます。幼な子や妊婦の方々には放射能被曝の影響が強く、県外に引っ越して生活をしている方々も多いのです。放射能に汚染された地域に住んでいた方々は何時戻れるのかは定かではありません。今除染活動が為されてはいますが、目には見えない無色無臭の放射能の不安は簡単にはぬぐえません。
 こうした大被害を受けた地域に震災後、多くの支援が為されたことも私たちは知らされます。国内外から支援部隊が来たり、支援物資、義捐金が送られました。また国内からも多くのボランティアが被災地に行き活動しました。そして今年を一文字で表す漢字に「絆」が選ばれました。大きな震災がありましたが、この震災によって、人と人とのつながり、「きずな」が与えられた年でもありました。
 私は先週の新聞で奇跡の一本松の記事を読みました。7万本の松が立ち並んでいた陸前高田市の「高田松原」に津波に流されずに1本の松が残り、復興に向けたシンボルとなっていたのですが、根が腐って枯れてしまい、回復の見込みがなくなりました。ですが、某会社が地元の保護団体の依頼を受けて松の子孫を残す取り組みを続け、残った松ぼっくりから種を採取したり、また切り取った枝を「接ぎ木」して新しい苗を育てることに成功したというものです。この記事を読んで本当に嬉しくなり、希望を感じ、喜びが溢れてきました。この奇跡の一本松、そうだ、これは聖書にある、まさに今朝のイザヤ書です。ここは救い主、イエス・キリストの預言として記されている箇所です。「エッサイの株から一つの芽が萌えいで」とあります。エッサイは人の名で、その子孫からメシアが生まれるということです。
 預言を語ったイザヤが活躍した時代は、苦難の中にあり、国が巨大な軍事国家によって滅ぼされようとしている時代でした。ユダヤの国は南北に分かれていて、北の国はすでに滅ぼされ、南の国もその国に脅かされていました。それは木がどんどん切り倒されていったということです。しかし、すべてが切り倒され滅ばされていったのではありません。切り倒された切り株には命があり、そこから新しい芽が出るとイザヤは預言しました。この方には、神からの霊が留まって、正しい裁きをされるとあり、この方が支配される国は「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」世界だと預言しています。
 イザヤの預言から約700年経ってから約束通り、この方は誕生されました。それがルカ福音書に記されています。この方は家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた方でした。このことは、人としてもっとも低くなられたことであり、羊飼いたちのように人々から見放された人々と共に生きられるということを示しています。そしてこの方は、成長されても人々と共に生きて、その最後には、人を愛し、人々の罪を赦すために十字架で死なれて、神の愛を示されました。
 人と人とのとつながりである絆を考える時、この方は、私たちを愛して、ご自分の命をも犠牲にして神と人との絆を作って下さいました。この絆は神によってもたらされた一方的な愛による絆で、これによって私たちを生かして下さっています。
 この方が創り上げられたのは、狼と子羊が共に生きる世界です。これは比喩ですが、共にいることができないような相手と共にいる、共に生きることができる、そのような世界を造り出される方なのです。そのように、私たちも共に生きるようにと導かれているのです。仲たがいしている世界は身近にもあります。家庭の夫婦の間にも、親子の間にも、どうすることもできないと言っている世界があります。国と国とも間にもあります。共に生きることができない所が多くあるのです。そうした所に、共に生きる世界を造り出される方なのです。敵の隔てを壊し、共に生きることができるようにして下さった方です。その隔てとは、私たちの罪です。その罪のために十字架で死んで下さって、救いを完成して下さいました。私たちを見捨てず、共に生きて下さったのです。その事によって、私たちも共に生きるようにと導かれています。
 この方の名はイエス、「神は救い」という意味で、私たち一人一人を救って下さいました。そして、この方こそ、「インマヌエル」と呼ばれるとあります。「神我らと共におられる」という意味なのです。私たちが共に生きるように、共に生きて下さった方であり、今も共に生きて下さっている方なのです。
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by higacoch | 2011-12-27 00:52 | イザヤ書

2011年12月18日

「待ち望みつつ生きる」 詩編33:20-22、ルカ福音書2:22-35
 
 この時期になりますと、駅前や商店街はクリスマスセールが盛んに行われ、賑わいを増してきます。しかし、私はキリストの誕生を静かに迎えたいと思い、先週は今まで読み切れなかった「死にざまこそ人生」という本を読みました。2500人の最期を看取った医師、柏井哲夫氏が著した本です。日本で最初に末期患者を看取るホスピスプログラムを始められ、これまで38年間ホスピス医師として歩まれた方です。その経験から教えられたことが記されています。副題として、「『ありがとう』と言って逝くための10のヒント」とあります。柏井氏は書かれています。「看取りという仕事は重い。しかし、人生の総決算の場に参加させて頂くというのは大きな特権である。看取りを通して、実に多くのことを患者さんとご家族から教えて頂いた。ホスピスで亡くなられる患者さんの平均の入院期間は約1カ月。この間に患者さんは人生の総決算をする。この最後の1カ月にこれまでの人生が凝縮されるのである。人は生きてきたように死んでいく。しっかりと生きてきた人はしっかりと死んでいく。周りに不平を言いながら生きてきた人は、私たちスタッフに不平を言いながら亡くなっていく。感謝しながら生きてきた人は、感謝しながら、ベタベタ生きてきた人は、ベタベタと死んでいく。これまでの生きざまが死にざまに見事に反映する。良き死を死すためには、良き生を生きねばならない。」と。
 今朝、与えられた箇所に出てくるシメオンは、まさに「待ち望みつつ生きた人」だと言えます。待つと言っても誰か人を待つのではなく、神の約束である救い主(メシア)を待つ人生でした。確かな方を待ち望みつつ生きてきて、それまで生きてきたように、最後は救い主幼子イエス様に出会って、平安の中で死んでいった人だと言えます。ここにシメオンの年齢は記されてはいません。仕事も家族も親戚も記されてはいません。シメオンのことはここ以外、聖書には記されていません。彼について詳しいことは解らないのです。私はシメオンも人生を歩んでいく中で、苦しいことや悲しいこと、辛いことを体験したと思います。当時は、人を人とも思わず殺人狂のヘロデ大王の時代でした。抵抗する者、謀反を起す者、わが子でさえも容赦なく、殺した王の時代でした。その恐怖政治の時代を、シメオンはどのような思いで生きてきたのかも記されていません。ただシメオンは人生の晩年期を迎えた人だったということだけが解ります。
 メシアの預言は、預言者イザヤによって語られました。シメオンが生きていた時から遡ること700年、忘れ去られてしまうほどの期間です。ですが、シメオンは聖霊によって、メシアに会うまでは死なないと御告げを受けていました。彼は神殿によく行っていました。神殿で何をしていたのでしょう。主イエス様は「わたしの祈りの家だ」と言われました。では、私たちにとってそれはどこなのでしょうか。それは教会です。静かに神の言葉を聞き、祈る所です。シメオンが神殿で、救い主を待ち望む日々を過ごしたように、私たちも教会において、御言葉を聞き、救い主を待ち望むのです。教会以外のどこで、神の救いを、預言された神の言葉を、聞くのでしょうか。
 シメオンは救い主と会えると知らされていました。その日が来たのです。シメオンは、イエス様を抱いて神殿にやってきたヨセフとマリアとに出会いました。すると、すぐに解って幼子イエス様を抱いて神様を讃美しました。個人的に、嬉しいと言って喜んだのではありません。神様をほめたたえたのです。神様に感謝して讃美しました。そして、救い主はイスラエルの民だけではなく、万民のためであること、すべての民のための救い主であることを歌っています。救い主イエス様は、異邦人を照らす啓示の光と讃美し、神様からの救いは、万民に与えられていることを確信して、声高らかに、神を讃美しています。
 万民とはあらゆる人です。「あらゆる人」とは、どんな状況のなかにある人もだと思うのです。悲しみの中にある人も、苦しみの中にある人も、つらい日々を過ごし、生きることに悩んでいる人も、人間関係、夫婦関係がうまくいっていない人にも、どんな人にも、救いが与えられるといっているのです。
 この讃美を、イエス様の両親は聞き、驚きました。マリアにはさらに、シメオンは神様から示されたていたことを預言しています。イエス様が人々に見捨てられて、十字架にかけられることを暗示しているのです。もてはやされて、人々を支配し、人々を従わせる王としてではなく、人々に苦しめられ、捨てられて、殺されていく方、人々の罪のために死んでいく方として、そのようにして救いを為す方としてシメオンには知らされていたのです。このシメオンの預言を、マリアが、どれ位解ったのかを定かではありませんが、そのためにあなたの心は、剣で刺し貫かれることになると告げられています。
 今は、アドベントの時、この期間は、イエス様の到来を待ち望みつつ、過ごす時です。イエス様がこの地上にお生まれになったこと、そしてまた再びこの地上に臨まれるのを望みつつ生きる時です。イエス様が、この世に何のためにお生まれになったのか、そのことを深く思い巡らし、自らの罪を思い起こし、悔い改めて生きていきましょう。イエス様が再び来られることを覚えて、しっかりとイエス様を信じて生きること、 シメオンのように、待ち望みつつ生きる者でありましょう。
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by higacoch | 2011-12-20 00:49 | ルカ

2011年12月11日

「神の国は力」 詩編106:1-5、コリント一4:14-21
                              
 昨日、0422市民クリスマスがカトリック吉祥寺教会で行われました。今年は3月11日に起こった大地震と大津波、原発事故の被害 等、忘れられない年になりました。それで今回は「共に生きる」をテーマに、被災した名取教会の荒井偉作先生に、メッセージをして頂きました。先生は3月11日の体験の後、「今までに読んでいた聖書の言葉が、新たな響きを持って心に響いてきた、街中にはイルミネーションがまばゆく豪華になっていっても、聖書の言葉が静かに深く染み入ってきた」と話されました。神様が深い悲しみを味わった先生に生きて働き、語り掛けておられると深く感じました。聖書は一人一人に生きた言葉として語り掛けられる、その声に聞かなければと思い知らされました。
 もし聞かなくなるとどうなるのか、それが、まさに今読んでいるコリントの教会の問題となっていると思うのです。教会の人たちは神様の語りかけを聞かなくなって、パウロが言うように、高ぶってしまっているのです。「あなたが頂かなかったものがあるでしょうか、もし頂いているのなら、なぜ頂かなかったような顔をして高ぶるのですか、あなたがたはすでに満足し、すでに大金持ちになり、勝手に王様になっているのですか」と問い掛けています。
 コリントの教会の人たちは、信仰を失ってしまっているというより、誤った信仰に向かっていると言えるでしょう。それはキリスト中心ではなく、人間中心へと向かい、自分の熱心、自分の確信に生きようとし、主の御旨から逸れてしまっていると考えられます。こうした問題は、わたしたちにもあったりします。聖書を読まなくなり、祈りもしなくなると、知らず知らずのうちに、自分中心の生き方になってしまうということです。
 パウロは、今日の箇所の直前には、きつい言葉を書いています。かなり感情的になっていると思えるほどです。皮肉を込めて「わたしたちは、キリストのために愚か者なっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっている。わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。わたしたちは、飢え、渇き、虐待され、侮辱され、ののしられ、世のくず、すべてのもののかすといわれています」と。しかしこうしたことを言ってパウロは卑屈になっているのでも、嫌味でいっているのでもありません。
 パウロは、言うのです。「こうしたことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子どもとして諭すため」と。ユダヤでは、父の務めは子どもをしっかりと育てることでした。旧約聖書の申命記などには、父は子どもに教えることとして「神は、唯一の主であって、心を尽くし、魂を尽くして、力を尽くして神である主を愛しなさい、これを心に留め、繰り返し、教え、家にいる時も、道を歩く時も、寝る時も起きている時も、これを語り聞かせなさい」とあります。このように、子どもの信仰形成のために、父親が大いにかかわり、重大の責任を担っていました。だからパウロは「わたしがあなたがたの父なのです」から、私の言葉に聞きなさい、「わたしに倣うものとなりなさい」と勧めています。そして共に信仰の道を歩んできたテモテを遣わします。テモテはキリスト・イエスに結ばれたものとして生きているので、ぜひ彼から学んで欲しいと言っているのです。
 パウロは、この手紙を書きながら、つい感情的になったのか、「あなたがたが望むものは、鞭か、それとも愛と柔和な心か」と問い詰めるように書いています。鞭と言えば、主人の言うことに従わない時、奴隷を鞭打って強制的に従わせるために使われるものです。このように鞭を使って、パウロは強制してでも、コリントの教会の人たちを従わせようとしているのではありません。あくまでも、パウロが言っていますように「こんなことを書くのは、愛する自分の子どもとして諭すため」なのです。強制してではなく、諭すためです。そして、自分自身を含む人により頼むのではなく、神に立ち返って欲しいという強く願っているのです。「あなたがたを救って下さったイエス・キリストの恵みを覚え、喜びと感謝をもって生きるようになって欲しい。それは、わたしの生き方であり、またテモテの生き方でもあります。だから、テモテの指導を受け入れて欲しい。」というのです。
 パウロは、この世の国、人の世の国に生きるのではなく、神の国に生きるように勧めています。この世において賢い者として生きるのではなく、神の国に生きる者として生きるようにと。
 今はアドベントの期間です。この期間は、神の国に生きる者として主が再び来られるのを待ち望みつつ、生きる時であります。そして、神の国の力とは、神の国に生きる者の力であり、この世にあっては、キリストの恵みによって生きる力です。それはイエス様が、すべての人の罪を担い、すべての人のために死んで下さった出来事を証しする者の生き方なのです。
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by higacoch | 2011-12-13 00:45 | コリント

2011年12月4日

 「ののしられても」  イザヤ書51:4-7、コリント一4:6-13 
                          
 コリントの教会では、派閥争いが生じていました。そうした争いの中でも、パウロ派とアポロ派の争いが、激しかったと考えられます。パウロはコリントの教会を開拓し、その後アポロがやってきて、教会員の指導をしました。パウロ自身も「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(3:6)と言っています。このように、二人は教会形成にとって重要な働きをしました。そのような状況下で、パウロは「一人を持ち上げて、ほかの一人をないがしろにし」と言っています。これは「人を持ち上げること」と「人をないがしろにすること」と二つ別々であると言うのではなく、一つのことで、ある人を持ち上げると言うのは、別の人をないがしろにすることになってしまうことになるということです。具体的には、アポロを持ち上げることによって、パウロをないがしろにしてしまうし、またパウロを持ち上げると、今度はアポロをないがしろにすることになるのです。パウロは、こうしたことは教会内であってはならないと言いたいのです。もし、ある人を持ち上げて、それがエスカレートしていったのなら、ますます言い争いは加熱し、ひいては分裂の憂き目を見ることになるでしょう。
 パウロはこうした分派争いの中心にいた人に言いたいのです。パウロは、その人の名前を出してはいませんが、「あなた」と呼び掛け、またその中心人物に扇動された人たちを「あなたがた」と呼んで、痛烈に批判しています。「あなたがたは、すでに満足して、すでに大金持ちになっており、勝手に王様になっている」と言うのです。パウロは、何を言いたいのでしょうか。満足、大金持ち、王様、これらに共通するものは、自分自身の生活で満足している、その生活にどっぷりつかっていると言うような意味で、皮肉っぽく語っています。
 パウロは、信仰者は「仕える者」、もっと正確に言うのなら、「キリストに仕える者」だと言っています。キリストに仕えることは、イエス様自身が弟子たちに教えられたことです。十字架にかかる前夜、イエス様は、身をかがめて弟子たちの足を洗われ、そして言われました。「わたしがあなたがたの足を洗ったように、互いに足を洗うべきである」と。互いに仕え合うべきということです。それに対して、「すでに満足し、すでに大金持ちになっていること、勝手に王様になっている」あなたがたは、仕えるどころか、仕えられることになっていると言いたいのです。
 「わたしたちは、キリストのために、愚かな者になっていますが、あなたがたはキリストを信じて、賢い者になっています。わたしたちは、弱いのですが、あなたがたは、強い。あなたがたは、尊敬されていますが、わたしたちは、侮辱されています。今の今まで、わたしたちは、飢え、渇き、着るものがなく、虐待されて、身を寄せるところもなく、苦労して、自分の手で稼いでいます。」とパウロは続けています。
 実際、パウロは自活しながら伝道しており、苦労が多かったのです。その苦労は、彼の生活の面にも影を落とし、飢え、渇き、着る物がないと言っていますが、それ以上に彼を苦しめたのは、伝道の時に味わった苦しみでした。まるで、死刑囚のように、引き出されて、公衆の場での見せものとされることでした。こうした苦しみは、彼が播いた種によって、生じたものではありません。パウロはこう言っています。「神は、わたしたち使徒を、そのような者となさいました。私たちは、侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては、優しい言葉で返しています」と。そのように、侮辱されたら、相手を侮辱し、傷つけられたら、傷つけ返し、ののしられたら、罵り返したのではありません。
 東日本大震災の後、テレビで繰り返して金子みすずの詩「こだまでしょうか」が流れました。この詩は、「遊ぼうっていうと、遊ぼうっていう。馬鹿っていうと、馬鹿っていう。」といっています。しかし人というのは、馬鹿と言われると、馬鹿と一回で、すまされない怒りを覚えるものです。「馬鹿」と言われたら、それ以上に仕返しします。
 パウロはこれまでに、人々から嫌がらせをされたり、罵られたりしました。しかし、「わたしはキリストに仕え、人に仕えて生きてきましたが、あなたがたは、どうですか。あなたがたは、仕えるどころか、自己満足し、そこに留まり、隣人に仕えるのではなく、仕えられることを望んでいるのではないですか。」と問い掛けているのです。パウロは、羨んでとか、嫌味で言っているのではありません。そうではなく、ぜひ、キリストに仕える者になって欲しい、たとえ罵られても、仕える者として、キリストを伝え、キリストの愛の業を、救いの業を伝えて欲しいと願ってやまないのです。
 今は、イエス様の再臨を待ち望むアドベントの時です。イエス様は再び、この地に来られます。その日がいつか解りませんが、その主の日を待ち望みつつ、また主の誕生を待ち望みつつ、この時期を過ごしたいと思います。パウロが言うように、仕える者として。神に、隣人に仕える者として、たとえ罵られても、罵り返さず、優しい言葉で対応するできるようにと祈り求めます。
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by higacoch | 2011-12-05 00:41 | コリント