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2011年11月27日

「忠実であること」 申命記28:1-3, コリント一4:1-5 
 
 パウロは、今朝の箇所で「忠実であること」について語っています。ここは前回の箇所とのつながりがあります。1節に「こう言う訳で」とあり、前のことを受けていることが解ります。直前には「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と言っています。そして「人は、わたしたちをキリストに仕える者」と言っています。
 イエス様は、十字架にかけられる前夜、弟子たちだけを集めて最後の説教をされました。その時にイエス様は弟子たちの足を洗ってから「あなたがたも互いに足を洗い合なければならない。」と言われました。これは互いに仕え合わなければならないと言うことです。
 神様はどんな人ですかと問われたら、「神は愛なり」と答える人が多いとよく言われます。では、信仰者はどんな人ですかと聞かれたら、「仕える人です。」と答えることができます。ある特別な才能を持っている人とか、教える人とか、指導する人とかではなく、「仕える人」なのです。そのことをぜひ覚えて頂きたいのです。
 さて、パウロがここで語っている「仕える者」と訳されている言葉は、ヒュペーレテースという言葉で、「ヒュ」と言うのは、「下の」という意味、「エペテース」と言うのは漕ぎ手、船で櫂をこぐ人のことで、「下で櫂をこぐ人」の意味です。これは奴隷船の最も下の階で櫂をこぐ人のことです。パウロは、こうした言葉を使って「仕える」を表しました。この言葉は当時、下級の役人、教会でも最も下の位の職につく人を表しました。
 パウロはさらに続けて、「キリストに仕える者は、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべき」と言っています。神の秘められた計画とは何でしょうか。これは人間の計画ではありません。神様の計画です。神様は人を救う計画を立てられて、そしてイエス・キリストによってすべての人の救いを為して下さいました。 この神の救いを知らない人が、まだまだ多くいます。ここ小金井にも多くおられます。そうした神様の愛、神様の救いを伝えるように委ねられているのです。だから、それをしっかりと受け止めて、管理しなければならないとパウロは言います。キリストに仕えるとは、まず何よりも神の救いをしっかりと管理し、それをまだ知らない人に伝えることなのです。管理する者とは、主人(神様)の財産を管理する務めを与えられた僕です。こうした管理者に求められていることが、「忠実さ」です。
 管理することは、教会の歩みの中で、最近になって地球の環境汚染、ゴミ問題などとの関連で語られるようになってきました。わたしたちの信仰告白の中で管理することについて次のように告白しています。「クリスチャン・スチュワード、キリスト者の管理の務めは、すべてのいのちと創造物は神からの委託されたものであり、
神の栄光と奉仕のために用いられるべきことを承認することである。それは人間の技能や力を創造的に用いるだけではなく、天然資源を保護し、責任をもって用いることである。これらの神からの賜物は、すべての人、特に貧しい人々と分かち合うべきである。」とあります。
 信仰者は、キリストに仕える者です。それは神の救いを伝えるように委ねられているのです。皆さんがそのように生かされて、神様の御用を為すものとされています。こうした人に求められていることが、忠実さなのです。
 私たちは、アドベント第一主日を迎えました。アドベントと言うのは、降臨の意味があって「降りて臨む」と言うことであり、このアドベントは、イエス様の誕生を待ち望むのと同時に、イエス様が再びこの地に臨まれるのを信じて、その日を待ち望むのです。
 パウロは「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません」と言っています。パウロがそう言うのは、神を信じていたからです。つまり、裁きは神に委ねるということです。だから、「主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」とコリントの教会の人たちに言っています。
 わたしたちもキリストに仕える者として、神の救いの出来事を伝える務めを託されていることを覚え、その務めを果たしていくためにも、良き管理者として、忠実であることを願いつつ、歩んでいきましょう。
  
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by higacoch | 2011-11-30 00:32 | コリント

2011年11月20日

 「クリスチャンとは」 詩編100:1-5、コリント一3:18-23
                              
 パウロは、ここで逆説の真理を語っています。「誰かが自分は、この世で知恵ある者だと考えているなら、本当に知恵ある者となるために、愚かな者になりなさい。」と。私たちが考えるところでは、矛盾していると考えられます。知恵ある者になるために、知恵のない者になりなさい、つまり ~になるために、~のない者になりなさい、と言っているからです。よくよく考えてみると、頭の中で混乱してきます。たとえば、幸せになるために、幸せでない者になりなさい、と言っているようなものです。
 パウロは、何を言いたいのでしょうか。「コリントの教会の皆さん、愚かな者になりなさい」と言いたいのでしょうか。「知恵のない者になりなさい」と本気で言っているのでしょうか。・・・・そうではありません。パウロが言っていることを解るためには、少し言葉を加えてみなければなりません。パウロは「神様の前で、本当に知恵ある者になるためには、人々の前では、愚かな者になりなさい」と言いたいのです。この世の知恵ある者になることを勧めてはいません。そうではなく、神様の前で知恵ある者になって欲しいと言うのです。神様の前で、知恵ある者となるためには、神様が示して下さった知恵を頂かなくてはなりません。そのためには神様の言葉に心の耳を傾けて聞かなければなりません。
 パウロはもう一つ言っています。「誰も自分を欺いてはならない」と。この「欺く」と言う言葉は、パウロ固有の言葉です。新約聖書には6回だけしか使われておらず、みなパウロの手紙の中だけなのです。信仰は、神様に対して、人様に対して誠実であることが大切です。いい加減にして、適当なことで対応すべきではありません。神様を、人を欺かないことであります。そしてパウロは、もっと大切なこととして、何よりも自分を欺いてはならないと言うのです。自分を欺き、人を、神様を欺いて生きていたなら、それは偽りのものとなっていくでしょう。いつも自分を欺いて生きていくなら、その人の人生は本当にもったいないと思うのです。それよりは、自分を神様の前に、さらけ出して、正直に生きることではないでしょうか。このことが大事なことだと思うのです。
 パウロは、「神は、知っておられる」と言っています。そして最後には「すべては、あなたがたのものです。パウロも、アポロも、ケファであるペトロも、世界も、生も死も、今起こっていることも、将来に起こることも、一切は、あなたがたのものだ」ともいい切っています。この世界も、あなたの生も死もと言うのは、あなたの生まれた時から死ぬときまで、また生きていることのすべても、また死んでしまった後も、あなたに今起こっていることも、将来に起こることも、何もかもが、あなたがたのものと言っています。つまり、一切があなたがたにゆだねられているということです。私たちは、自分の命も死も、神様にあって大事に用いなさいと言われているのです。
 このパウロの言葉は現代的な生死に関わる問題に光を与えてきました。それは末期患者の生死の選択です。延命治療をするのか、それとも尊厳死を選ぶのかの問題です。生命倫理学者たちは聖書のこの個所から、末期患者の自己決定権の権利を主張するようになりました。他人(医者)によって、命も死も左右されるべきではない、本人の生も死も本人のもの、そうであるのなら、その本人が自己決定していい、その権利を人は与えられているのだと考えました。自分の命にかかわることだから、自分の尊厳ある命のことも、自分の死のことも自己決定できるのだと言われるようになりました。こうしたことで医療者側によって、一方的に延命治療をすることが許されなくなりました。自分の死の自己決定権が認められて、尊厳死宣言が重要視されるようになりました。しかし自己決定権は微妙な問題を含んでいます。安易に自己決定権を振り回すと、自分で自分の命を断つと言うことになりかねないのです。
 こうした問題に波及していく時、もっとも大切な視点をパウロは語っています。それは「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」だと。これは「あなたがたは神のもの」と言うことです。と。となれば、あなたがたの命は神のものであり、決して自分のものではありません。自己決定権があるから、自分で勝手にしていいと言うものではないのです。そのことを踏まえなければ、自己決定権はただの勝手な論理となってしまいます。
 パウロは、ここで大切なこととして宣言しています。「あなたがたは、キリストのもの」と。自らの罪を知り、その罪のために死んで下さったキリスト、あなたは、そのキリストのものなのです。キリストがあなたを救って下さったのです。あなたには罪がありましたが、キリストはあなたを憐れみ、あなたを愛して、新たな命に生きる者として下さいました。クリスチャンとは、キリストによって罪赦され、キリストのものとされていることを信じて生きている者たちなのです。
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by higacoch | 2011-11-21 16:33 | コリント

2011年11月13日

「土台が大切」  詩編118:22-23, コリント一 3:10-17
                             
 今朝の箇所でパウロは建物は土台が大切だと語っています。私も以前、土木工学を学んでいましたので、構造物や建物は、土台が大事だと学びました。このことは特に学ばなくても私たちの経験からもよく知られていることです。建物を造る前に土台をしっかりと据えなければ、どんなに立派な建物を建てたとしても、それは構造上、弱い建物と言わざるを得ませんし、建物の目に見える所が、どんなに立派な材料で造られていたとしても、その土台がしっかりとしていなければ、ダメな建物だと言わざるを得ません。私たちは、どうしても目に見えるところに目が行き、そこを立派な材料で造ったりするでしょう。ですが、土台が確かなものでない限りは、建物は壊れやすいのです。
 パウロは土台を据えたと言っています。しかも「熟練した建築家のように据えました」と言っています。しっかりとした確かな土台を据えたということです。いい加減な、手抜きの土台ではない、しっかりとした土台を据えたのだから、それを自分たちの考えで取り換えたりしてはいけない、しかもこの土台は神から頂いた恵みによって据えたのだと言っています。パウロは、この土台は自分の考えや知恵、技術で据えたのではないとはっきり言っています。
 教会は、目に見える建物を言うのではありません。よく十字架を見つけて、「あそこに教会がある」と言ったりします。その点では、教会は建物を表していると言えますが、本来は、「神様から呼び集められた人たち」のことです。このように神様の召しによって、共に一つになるようにと集められた者たちなのです。もっと具体的に言いますと、ここにいる、皆さんたちのことです。
 パウロもコリントの教会の人たちの顔を思い起こしながら、この手紙を書いていたでしょう。そして建物にとって土台が大切なように、教会にとっても土台は大切であり、なくてはならないものだと言っています。そしてこの大切な土台はイエス・キリストだと言うのです。こう言うパウロの胸中には、教会の土台はアポロでもペトロでも、私パウロでもないということをはっきりさせたいのです。
 こうしたことを思うと、これは信仰の問題だと言うことが解ってきます。神様を信じている者にとって大切なことは、イエス・キリストであると言うことなのです。教会が建てられていった時に、どんなに素晴らしい働きをした人がいたとしても、その人が土台となるのではありません。教会の土台はイエス・キリストです。しかもこの土台は神によって据え付けられたのです。もしもこの土台をはずして、別の土台を据えつけたとしたなら、それはもう教会とは言えなくなります。だから据えられた土台を変えたりしてはならないと言うのです。
 教会の建物(教会堂)は神様から召された人たちが礼拝し、祈り、讃美して、神様の御言葉を聞き、神様の栄光をほめたえるためのものであります。私たちが将来に建てようとしています新会堂もそのためのものであり、次の時代の信仰者が、礼拝を守り、教会堂から、神の働き人として、主の証人としてそれぞれに遣わされていくためです。だから、教会(キリストの体)を建て上げていく中で、教会堂を造るのであって、教会堂を建造するために、教会を建てるのではありません。解りやすくいうのなら、キリストの体なる教会を造り上げる中で教会堂を建てるのであって、教会堂を建てるために、キリストの体なる教会を造り上げるのではないということです。
 一人の人が信仰者として生きる時、その土台にもイエス・キリストが据えられていて、その上に、それぞれが金、銀、宝石、木、草、わらで建て上げていきます。こうした建物がかの日には、つまり神様の前に立つ時に、その人がどんな信仰の歩みをしたのかが、神様の前で明らかになると言うことです。ここで、金や銀、宝石など、見た目に立派に見えたとしても、それが神様の前に、はたして金、銀、宝石なのかは解りません。一切は、神様の前で明らかになるのです。
 ただ、パウロは、それらがすべて燃えてしまってなくなってしまうとは言っていません。「その人は、火の中をくぐり抜けてきた者のように、救われます。」と言っています。土台は、イエス・キリストであり、イエス・キリストによって救われることが与えられているのです。そして、パウロは、こう続けて言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいること知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は、聖なるものだからです。あなたがたは、その神殿なのです」と。あなたがたの内に、神がおられると言うのです。あなたは神様から愛され、生かされているのだと、と言っています。こうしてあなたの存在の根拠は、イエス・キリストから愛された者だということにあると言っています。つまり、あなたがたの存在を支えているのが、イエス・キリストであり、この方こそが信仰の土台なのです。
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by higacoch | 2011-11-14 16:36 | コリント

2011年11月6日

「神のために力を合わせて」 イザヤ40:9-11、コリント一3:1-9 
                             
 パウロは、ずけずけと言っています。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。」と。
 あなたがたは、肉の人、信仰上は乳飲み子で、離乳食以前だ、今も肉の人だと言っています。なぜなら、あなたがたはお互いのあいだで、ねたみや争いをしているから、そして、ただの人ではないですか、とさえ言い、神からの霊を受けた人として生きていないと強く問いかけています。パウロは、繰り返して、「アポロもパウロも、キリストではない。キリストのようにあなたがたのために十字架にかかって死んではいない。アポロもパウロも、あなたがたを救った者ではなく、信仰に導いた者にすぎないのだ。二人は、それぞれ主が与えて下さった働き、あなたがたを信仰に導くという働きを、分に応じて行った者」と叫んでいます。つまり、二人は人間であって、神ではないと言っているのです。だから、パウロはさらに続けて「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神。だから、大切なのは、神であり、植える者でも水を注ぐ者でもない」と。二人とも神にあって働く者であって、その働きに応じて神からの報いを受けるし、わたしたちは人のために一つになって働いているのではない、ただ神のために、一つになって働くのだというのです。決して、パウロのためとか、アポロのためとか、ではない。神のために働く。だから、あなたがたは、神の畑であり、神の建物なんだと。ここには、教会は、一人一人、互いが結び合わされて、一つの建物ができているように、神の建物だというのです。
 コリントの町には、立派な神殿がありました。神殿の柱は、美しい装飾が施されていて、アテネの神殿の柱よりも美しいものでした。歴史的にも知られるようにもなってコリント様式と言われました。そのようにコリントの町では、神の建物と言えば、神殿でしたが、パウロは、あなたがたこそ、神の建物だと言っているのです。
 パウロもアポロも神様のために働く者にすぎない。大切なのは、神様のために、力を合わせて働く者なんだと。この力というのも、人の力ではなく、神から与えられる力です。この力を、パウロは手紙の後半の部分に、キリストの体なる教会の活動に関して、語る箇所(12章)で述べています。そこで、霊的な賜物を語っていて、唯一の神の霊によって、ある人には病気を癒す力、奇跡を行う力、預言する力、霊を見分ける力などが与えられているといっています。つまり、一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったのですと。キリストの体のために、一つの霊を、皆が頂いたというのです。霊は、前回、学んだ「神様からの霊」です。決して「世の霊」ではありません。そして、霊を頂いたのは、キリストの体なる教会が一つになるためなのだから、教会の内部が、いくつにも分かれてしまってはいけないと言っています。
 教会員が、私はパウロに、私はアポロに、というような対立は、まさに教会の分裂の火種です。それを放置していたのなら、どんどんひび割れしていき、収拾できなくなり、教会は分裂してしまうことになるのです。イエス様も悪霊に取りつかれた人を癒された時に、人々に「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば、成り立っていかない」と教えておられます。(マタイ12章参照)内部争いは、どうしようもない悲劇を生み出します。
 パウロは、コリントの教会に、そうした分裂の火種を見たのだと思います。だから、彼は、「あなた方が召された時のこと、それはイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けた時のことを思い起こしてみなさい」と言い、その救いの恵みを頂いたのですから、主にあって一つとなるようにと教え説くのです。そしてそれぞれが神からの霊によって与えられた力を合わせて、神のために働こうと言うのです。パウロも、アポロも、そのように働いたのだと言っています。そして、あなたがたも神様のために、力を合わせて働いていって欲しいと願ってやまなかったのです。この願いはパウロが、一番強くコリントの教会に願ったことでしょう。教会分裂の危機は、コリントの教会だけの問題だったでしょうか。そうではありません。こうした問題は、どの教会でも起こりうるものなのです。だから、私たちも聞き取らなければならないのです。
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by higacoch | 2011-11-07 16:39 | コリント