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2011年10月30日

「どんな手を使ってでも」 ルカ福音書 16:1-13 
                        荒瀬 牧彦牧師


 主人の財産を託されたのに、それを無駄遣いしている管理人がいた。そのことが主人の知れるところとなり、管理人は窮地に立たされた。彼は「どうしようか」と考え、主人に負債のある人の証文を書き換えてやって、自分の失職後の行き先を作ろうとする。ところが、そこで、意外な結末が訪れる。「主人は、この不正な管理人の抜け目のない[=賢い]やり方をほめた」のである。
 なんでほめるのよ!? と、驚き呆れることが大切なのだと思う。その意外性が神の国の入り口である。この主人の価値観は、この世の価値観と違うのだ。一体なにを「賢い」と言っているのだろう。無駄遣いをしていたことではない。そのことを主人は怒り、会計報告の提出を求めたのだ。実際、彼はだらだらと無責任に生きていたのだろう。しかし、危機に立たされてからの彼の行動は迅速だった。自分にできることを知恵を絞って考えて、「友を作る」という最善の作戦を取る。主人はそういう行動を求めていたのだ。変な金持ちだ。こんな人いないだろう。そう、これが神さまのみこころなのだ。
 この不可解な譬えは、何をいっているのか。これは神さまと人間(あなた)の関係の話である。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。報告を出しなさい」といわれたら、どうするか。どうしようもない。罪の山が過去に累々としてある。
 でも、神はあなたが「もうだめだ」と無気力になったり自暴自棄になるよう仕向けているのではない。「どうなのか」というのは、今まで無駄遣いしていた状態から目覚めて、真剣になって救いの道を求めることを望んでいるのだ。全力を尽くしての求道を、祈りを、求めているのだ。
 ゴルゴダの丘でイエス様の十字架の右と左にかけられていた二人の犯罪人のうちの一人を思い起こす。一人はやけくそになってイエスを罵っていたが、もう一人は「この方は何も悪いことをしていない」と言い、その方に向かって「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願った。見ていた者たちは、「何を今さら。そんなこと言えた義理か」と思ったのではないか。しかし主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と彼にいわれたのだ。あの男は、人生最後の限られた時間の中で、自分にできる最善のことをしたのだ。彼は瀬戸際にいたが、しかし自分の人生を投げてはいなかったのだ。そして、それこそ主なる神が罪人に求めていたことであった。
 あの犯罪人は、ご主人様の証書を書き換えた不正な管理人よりも、もっとすごいことをしたのである。彼はイエスという御方により頼み、イエスという「友」を作ったのである。この友は、自分の担う十字架において、あなたの罪を問う証書を破棄してくださる御方である。なぜ、あなたはその友を得るためにもっと真剣にならないのか。あの管理人のように、どんな手を使ってでもその友を得ようとしないのか。あなたの道はそこにしかないのだ。神は御自分のもっとも大切なもの、神の独り子をこの世に送り給うた。あなたにその独り子を、どんな手を使ってでも受け取ってほしいのだ。

 以上が、譬えそのものからのメッセージ。しかし、その譬えのあとに、別の教えが付け加えられているので、それについても簡単に述べておきたい。
 「小さな事」=「不正にまみれた富」=「他人のもの」である。これらは「富」(お金)をさしている。これに対して、「大きな事」=「本当に価値あるもの」=「あなたがたのもの」であり、これは神の国、神の御業をさしている。
 我々は神の国という大きな事を求めて生きるものだ。では小さな事はどうでもいいか。否!小事に忠実でなければ、大事に忠実でありえない、と主イエスは言われる。ここで、あの譬えの主人が「賢い」と評価したことを考えなければならない。その賢さは端的にいって、富という目に見える財産を、友との関係という目に見えない財産に転換したことではないだろうか。
 我々がまさに今その現実を見ているように、お金には人間たちを分断し、共同体を破壊する悪しき力がある。しかし、お金を神のような支配者として崇めるのでなく、大きな事すなわち神の大いなる愛のもとに、小さな事として相対化するなら、われわれはその小さな事を良いことに活かせるのだ。人間を分断するためでなく、友を作ることのために使うことができるのだ。
 光の子たちよ、賢くあれ!
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by higacoch | 2011-10-31 16:43 | ルカ

2011年10月23日

 「神からの霊を受け」  イザヤ書40:12-14,Ⅰコリント2:6-16
 
 今朝、与えられました聖書箇所を読みますと、「わたしたち」という言葉が多く出てきます。 では、「わたしたち」とは誰なのか?最初に考えられるのは差出人である二人、この手紙を書いたパウロと兄弟ソステネです。さらにこの手紙を読んでいきますと、イエス様の名を呼び求めている人、主に召された人たちも含まれていることが解ります。そのような中で「わたしたち」が強調されている所があります。それは12節ですが、「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」とあります。ここで「神からの霊」とありますが、これを「世の霊」と対比しながら語っています。「神からの霊」は、神の知恵とか、神からの恵みとパウロは語りながら、神が隠しておられた、秘められた計画は、この霊によって明らかになり、「わたしたち」が知ることができるようになったというのです。ここでパウロは「神の霊」と言わずに、「神からの霊」とあえて言っていることで、神様から与えられた、神様の元から送られてきた霊であることがはっきり解るように言っています。そして「わたしたち」を強調して、「わたしたちは、神からの霊を受けました。それで神からの恵みとして与えられたものを知るようになった」と言うのです。
 パウロはコリントの町で一番大切なこととして伝道してきたのは、隠されていた秘められた計画であり、世界の始まる前からの神の計画だったと言っています。これは隠されていたので、人の知恵によって知ることはできませんでした。それが神からの霊によって、人に知らされたというのです。では、その「隠されていたもの」とはイエス・キリストによる救い、イエス・キリストによって為された十字架の死による救いです。それはわたしたちのため、そしてすべての人のために為された罪の赦しによる救いだったのです。
 パウロも神からの霊を受けて、救いの出来事を知ることができるようになったのです。だから、パウロは、はばからず、人の知恵で、十字架の救いを知ることができなかったといい、世の知恵ではできないといっています。神が計画されたのは、人々の救いの出来事であり、イエス・キリストの十字架の出来事だったと大胆に伝えました。しかし、それは人間の知恵によって解らなかったのです。だから、当時の人々は、一つの歴史的な出来事としてイエス・キリストの十字架の死を知ることはできても、それがどんな真理を含んでいたことだったのかが解りませんでした。これは当時の人々だけのことではなく、今も人間の知恵によって知り得ることはできません。コリントの人々も、現代の人々も、人間の知恵で知ることはできません。イエス様の十字架の死は、当時の宗教指導者たちにたてついたために殺されたと、人々は理解しました。それだけであって、その死が、何と人々の罪の赦しのために成されたことを信じることはできませんでした。パウロも十字架の出来事が自分の知恵では解りませんでした。しかし、神はそんなパウロに、霊を送り、救いの出来事を教えられました。
 パウロは預言者イザヤの預言を通して語っています。「目が見えもせず、耳が聞こえもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自身を愛する者たちに準備された。」と。ここで神はご自身を愛する者たちに神からの霊を備えられたのです。神は私たちにも霊を与えて、明らかに示して下さったのです。人のことは人の霊によって知ることができるように、神のことは神からの霊によって知るしかできません。わたしたちが神のことを知ることができたのは、神からの霊を受けたからなのです。私たちは、どんなに努力しても、人間以上のことはできません。しかしながら、神からの霊を頂くと、神の知恵に生かされて、隠されていたイエス・キリストの救いの出来事が解るのです。
 私たちはどうしても人間の知恵に頼ろうとします。人間の知恵によって、これまで生きてきたからです。パウロが、コリントの教会の人たちも含んで「わたしたち」と呼んでいるように、ここにいる皆さんも「わたしたち」なのです。そして、力強く、「わたしたち(こそ)は、世の霊ではなく、神からの霊を受けることができました。その霊によって、わたしたちは、神からの(一方的な)恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(12節)と言っているようにと。
 神の秘められた計画、救いの出来事を先に知らされた者として、この時代、この日本、この地域にイエス・キリストの救いを知らせる者となっていきましょう。
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by higacoch | 2011-10-24 16:18 | コリント

2010年10月17日

「神の国の祝宴」 
       出エジプト記12:1-11, マルコ福音書14:12-26


 イエス様は十字架にかかる前に、弟子たちと一緒に大切な食事をされました。それは過越の食事でした。神によって、イスラエルの民がエジプトでの奴隷生活から解放され、救い出されたことを想起して祝う食事です。イエス様が十字架にかかられる前夜に行われましたが、ユダヤ式の日没から一日が始まる考え方からすれば、同じ日であり、イエス様の最後の一日はこの食事から始まっています。
 イエス様は、この大事な食事をご自身でリードして執り行われました。彼らの前で、わざわざパンを裂いてから、「これはわたしの体」と言われました。さらに、杯を取って、彼らがそれを飲んだ後に、「これは、多くの人のために流されるわたしの血」と言われました。こうしたイエス様のしぐさを見、また言葉を聞いて、弟子たちがどう反応したかは記されていません。「裂く」とか、「流される」とか、それは人の体が裂かれ、そのことによって血が流れることを連想できますが、しかし弟子たちはイエス様が殺されることを、この時点では、理解できていませんでした。それが解ったのは、ずっと後、十字架の上での死、その後の復活、そして聖霊が彼らに注がれたことによって、はじめてこの食事の意味が解ったのです。
 イエス様の思いは、こうだったと思います。「十字架の上で引き裂かれるわたしの体を、わたし自身を、あなたがたに与える。パンを裂いて、渡すように渡します。これを私として受け取りなさい。これまで小羊の血によって人々の罪が赦されたように、私の流す血によってあなたがたの罪を赦し、新しい命に生かすのだ、今あなたがたにぶどう酒を与えるように、わたしはわたしの命をあなたがたに与えるのだ。」と。
 こうした「私自身を与える」ということで思い起こす本があります。若くして天に召された母親が、子どもに残した遺稿集『わが涙よ、わが歌となれ』という本です。小金井市で生まれ育ち、ここから近い国際基督教大学に学び、その後、隣の東京神学大学に行かれた原崎百子さんという方です。肺がんに侵されて、4人の子を残し、43歳で亡くなりました。ある日の日記に「わが礼拝」と題してこんな歌が記されています。
「わがうめきよ、わが讃美の歌となれ。わが苦しい息よ、わが信仰の告白となれ。
 わが涙よ、わが歌となれ、主をはめまつるわが歌となれ。
 わが病む肉体から発する、すべての吐息よ、呼吸困難よ、咳よ、主を讃美せよ。
 わが熱よ、汗よ、わが息よ、最後まで主をほめたたえてあれ」と。
 また、死を前にして、子どもたちに残した言葉が「お母さんを、お母さん自身を、あなたがたにあげます」という章にあります。「愛する子どもたちへ あなたがたは信ずるだろうか、この母が、あなたたちをこよなく愛していることを。一人一人を、どの一人をもかけがえのないものとして、こんなにも切ない思いで愛していることを。あなたがたが、この母の愛をもし信ずるならば、どうか信じて欲しい、神様の愛を信じて欲しい。一人一人をかけがえのないものとして、いつくしんで下さっている神様の愛を、信じて欲しい。たとい、お母さんが天に召されても、それでもあなたがたが信じつづけられるように、悲しみを乗り越えていきていけるように。覚えてほしい、私の愛は小さな支流、神様の愛こそが本流であると。」
 イエス様も十字架の死を前にして、どんなに弟子たちを愛しているかを「わたしのからだ、わたしの血」を渡すことによって現わしておられるのです。ここで注目したいのは、イエス様を裏切るユダもここにいると言うことです。主イエス様の側から見れば、ユダも主イエス様との交わりの中にある一人でした。ユダのために、ご自身の十字架で裂かれた「からだ」と「血」とを差し出されているのです。ユダを憎んだり、呪ったりはされず、ユダのためにも十字架の上で自ら苦しまれました。ユダがどんなに罪深いことをしたとしても、イエス様はあくまでも、悔い改めを望んでおられました。十字架の上でも、復活し弟子たちの前に現れてからでも、待っておられたと思います。イエス様はユダさえも、決して見捨てないで、受け入れようとされています。しかし、ユダは気づいていません。
 さらに深く考えますと、私たち一人一人もユダと同じなのです。私たちも過ぎ越しの食事(聖餐)に招かれ、悔い改めを迫られています。主の晩餐(聖餐)は、神が私たちに下さっている神の国の祝宴です。これは、私たちが自分の力で勝ち得た宴席ではなく、与えられた宴席です。あなたを招いて下さっている神様の恵みによる宴席です。イエス様の十字架のあがないを知らされ、イエス様が私の罪のために死んで下さったと信じて受け入れた者が、悔い改めと感謝をもってつく宴席なのです。神様の方から食卓に招いて下さっています。そしてすでに為された救いの出来事を思い起こし、忘れないように、その救いの恵みに生きていくようにと、私たち一人一人を神様は招いておられます。
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by higacoch | 2011-10-18 17:49 | マルコ

2011年10月16日

 「キリストを伝えるだけ」  詩編19:2-5,Ⅰコリント2:1-5  

 伝道者パウロは、元は熱心なユダヤ教徒でした。彼自身、自分のことを「ヘブライ人の中のヘブライ人、律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については、非のうちどころのない者」と告白しています。彼はユダヤ人としてエリート中のエリートの人生をまっしぐらに生きてきた人であり、キリスト者の迫害者としても急先鋒でした。その彼が復活のイエス様に出会って、回心しました。迫害者から伝道者になったのです。教会の迫害者の時にまっしぐらに迫害のために進んでいったのと同じように、伝道者になった時には現在のトルコ、ギリシアへと見知らぬ外国へ率先して伝道旅行に出かけて行きました。徒歩と船旅で、一度だけでなく、3度も出かけているのです。こうした彼の活動を見ていくと、彼はどこにでも出かけていく、強靱な精神の持ち主だと思ったりします。しかしながら、今朝の箇所でコリントの町の伝道に出かけたときの心境を吐露していますが、「わたしがそちらに行ったとき、衰弱していて、恐れに取りつかれて、ひどく不安でした」と言っています。
 彼がコリントに伝道に来たのは、第2回目の伝道旅行の時でした。その前には、ギリシアの中心的な大都市、アテネで伝道しました。その伝道の様子が使徒言行録17章に記されていますが、アテネでは伝道が旨くいかなかったのです。それで、コリントでは意気消沈していたのかもしれません。ただ、その失敗は、彼の心的な面でのマイナスだけではなく、プラスの面もありました。アテネで伝道した時、彼は彼なりに知恵を絞って、ギリシア人であるアテネの人びとにキリストの福音を受け入れて欲しいと願って説教しました。彼は集まった人びとに説教しましたが、その後半部でキリストの十字架と復活のことを話し出したら、人びとは「復活など馬鹿馬鹿しい。その話は、また後で」と言ってそこから立ち去ってしまったのです。パウロとしては、自分なりに知恵を働かせて、知恵を求めるギリシア人に伝道したのですが、それが反って失敗の憂き目にあったのです。こうした経験をして、彼はある決意をしました。その決意の元に、ここコリントの町にやってきたのです。それは、「神の秘められた計画」を宣べ伝えるのに、優れた言葉や知恵を用いないということでした。
 私は、ここで「神の」に注目したいのです。神ご自身の「秘められた計画」です。人間の計画ではなく、神が計画された事であり、神が為された出来事です。これをパウロは人間的に優れた言葉や知恵でもって伝えることを断念しました。断念したからと言って、伝えることをしなかったのではありません。彼は「わたしの言葉もわたしの宣教も知恵にあふれた言葉によらず」と言っています。ここで彼は「わたしの言葉」「わたしの宣教」と言っていて、自分の知恵による言葉によって、神の秘められた計画を伝えることはしないということです。それよりも彼は「十字架のことば」によって伝えたのです。
 つまり、「わたし」の言葉によって宣教するのではなく、「神」の言葉、十字架の言葉によって宣教するのだということです。「わたしは、あなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」と言っています。十字架につけられたキリストをのべ伝える、このことに集中するのだと言うことです。ですから、イエス・キリストについて、キリストはどこで生まれたとか、どの村で育ったとか、どんな仕事されたとか、どんなことを話されたとか、そうしたことを話すよりも、この方が、十字架につけられ、死なれた方だ、と言うことに集中して語ったということなのです。
 パウロ自身もこの手紙の最後の方で、こう言っています。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてある通り三日目に復活したこと」と。こうしたことを考え合わせてみますと、十字架につけられたキリストを伝えるというのは、「キリストが十字架に架かって死んで下さったのは、わたしたちの罪のためであった」ということに尽きるのです。キリストの十字架の死は、コリントの町の人々の為であり、またすべての人のためであったということ、そして私たちのためでもあると言うことです。
 しかもパウロが言うように、この救いの出来事を人間的な知恵の言葉、優れた言葉で伝えたのではありません。「わたしの言葉」「わたしの知恵」で伝えたのではないのです。それは、人間の知恵で、神の秘められた計画、救いの計画を知り得ることが、出来ないからです。彼は、自分の言葉ではなく、神の言葉(イザヤ書53章、苦難の僕)で「神の秘められた計画」を伝えたでしょう。そして救われる人が起こされた時、そこには神の力である聖霊が働いたのですから、神の前で誰一人、誇ることができない、誇る者は、主なるイエス・キリストを誇れ、と言うのです。
 人が救われるというのは、神の秘められた計画であるイエス・キリストの十字架の贖い以外にはありません。この十字架の死によってのみ、救いが与えられているからなのです。だから、パウロは、イエス・キリストだけを伝えるだけだと言って伝えていったのです。ここにはしか救いはありません。
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by higacoch | 2011-10-17 16:14 | コリント

2011年10月2日

 「主イエス・キリストを誇れ」 エレミヤ9:22-23、コリント一1:26-31

 パウロはイエス・キリストの伝道者となって、伝道旅行をし、ここコリントにも一年半滞在してキリストの福音を伝えました。彼がこの町にやってきた時、ある決心をしていました。それは十字架につけられたキリストだけを伝えることでした。キリストだけを集中して伝えていった時、救われる人が起こされ、教会が立てられていきました。しかし、パウロが次の町に出かけていった後に、教会には新たな問題が生じていました。教会内に4つのグループができ内紛するようになってしまいました。そこでパウロは早速、手紙を書いたのです。
 「あなたがたが召された時のことを思い起こして欲しい。」とあります。当時、人間の価値として、知恵がある、権力がある、貴族出身であること等が考えられていました。ですから、いかに自分は知恵ある者、権力ある者、また由緒ある名家の出身なのかが人間の誇りとして考えられていたのです。それらをもって自分を誇っていました。
 パウロは言うのです。あなた方が召されたことを、これは救われたことと同じですから、「あなた方が救われた時のことを思い起こしてみなさい」と言っているのです。知恵ある者がその知恵によって救われたのではありません。また権力のある者がその力によって救われたのでもありません。また由緒ある出身である者がその家柄で救われたのでもありません。あなた方が召された時、人間の知恵や権力や家柄が、救いに役に立ったとか、救いの根拠になったというのではないのです、と言っています。
 神様は、自分を誇ろうとする、知恵ある者、権力ある者に、恥をかかせるために、世の中の無学な者、無力な者を選ばれました。それは神様の御心だったのです。また家柄や地位を誇りとする者を無力な者にするために、世の中で無価値と言われているような者、身分の卑しい者や人々から見下げられている者たちをあえて選ばれたのです。そこに神の知恵があり、神の御心があったのです。救いは人間の知恵、権力、家柄によってではなく、ただ神によってのみ、あなた方がキリストに結ばれるためだったのです。そして、誰も神様の前に誇ることがないようにするためだったのです。
 ひょっとしたら、教会内で、私はパウロにつく、アポロにつく、ケファにつくと争っていたということは、誰が、知恵ある者であるのか、力ある者であるのか、家柄はどうなのかとかが、論じられていたかも知れません。パウロに、アポロに、ケファにといいながら、そうした人間的な誇りを見て、言い争いが起こっていたのではなかったか。そうしたことで人間の価値が計られていたのかもしれません。だから、人の知恵や権力や家柄が教会内に幅を利かせることが起こってはならないと願い、神様があなた方を召された時のことを思い起こすように言ったのかもしれません。召しの原点、救いの原点、それは神様の選びです。決して、人間的な誇りと考えられた知恵、権力、家柄ではないのです。
 ここで「誇る」と訳されている言葉は、また「喜び」とも訳せます。人は自分のことで誇りを持ち喜びますが、パウロは自分を誇りとするのではなく、「主を誇る」これは「主を喜ぶ」と言っています。パウロは、ここで傲慢になるな、自分を誇るのではなく、謙遜になれと言っているのではありません。そうではなく、あなた方が召された時のことを思い起こしてみなさいと言いつつ、召された根拠はあなたがたが誇りとしているようなものによって与えられたのではないと言っているのです。
 わたしたちは、自分を誇るのではない。私たちを召し、救ってくださった方、主イエス・キリストを誇るのです。イエス・キリストは、すべての人のために死んで下さったのです。まだキリストを知らない人のためにも死んで下さった方であり、復活の命を約束してくださったのです。そして、今も生きて働いて下さっています。主イエス・キリストを誇って生きて行く。そこにこそ、召された者が、召された時のことを思い起こして生きる歩みがあるのです。パウロは、教会が内紛している原因の中に、教会員が神に召されたことの恵み、神からの一方的な救いの恵みを忘れかけていると考えていたのでしょう。だから、あなた方が召された時のことを思い起こしてほしいと願ったのです。キリストに召され、救われていることから、主イエス・キリストの救いの恵みを覚えて、主を誇れ、主を喜べというのです。そのことがキリストの十字架を空しくしない歩みなのだと。
 ウエストミンスター信仰問答の第一の問答は、こうです。
 問 人生の主なる目的は何ですか。
 答え 人生の主な目的は、神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶことです。
 これは神を誇りとして生きることでもあります。私たちも罪深い者でありましたが、主イエス・キリストが私たちを愛し、十字架上で死んで下さり、私たちの罪を赦して、私たちを救ってくださいました。そのキリストの救いを思い起こし、主イエス・キリストを誇りとして、主を喜ぶ歩みをしていきましょう。

    
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by higacoch | 2011-10-04 16:05 | コリント