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2011年8月28日

「隣人を愛せよ」 
  出エジプト記20:12-17, マタイ福音書22:37-40


 先週はモーセの十戒とイエス様の十字架とを重ねて、十という文字の縦軸と横軸について語りました。縦軸は神と人との関係、横軸は人と人との関係であり、縦軸が横軸よりも先にあるとお話ししました。今朝はその横軸を考えていきたいと思います。与えられた聖書箇所の十戒の後半部、出エジプト記の20章12~17節、戒めで言えば、5番目の戒めから10番目の戒めです。
 戒めというものは普通、禁止命令です。ですが十戒の中の人と人との関係の戒めの最初は「あなたの父と母を敬え」という肯定命令です。親子関係の戒めから始まっています。当時の世界を考えるときに、ここに「父と母」とあるのは特異なことでした。古代社会は父権的、男性中心的な世界でしたので、「父を敬え」ということはあっても「(父と)母も敬え」とは命じませんでした。またこの戒めは成人した者たちに命じられたものでした。つまり当時から、体が衰え弱ってきた両親が粗末に扱かわれることがあったようです。イエス様もこのことをマルコ福音書7章で教えておられます。「もし誰かが、父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン(神への供え物)ですと言えば、その人はもはや父、母に対して何もしないで済むのだ」と。「こうして神の言葉を無にしている」と指摘されています。
 その後には、第6番目から10番目まで「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」「隣人の家を欲してはならない」と禁止命令が続きます。
 「殺してはならない」は、人の命を奪ってはいけないということです。この世で命ほど尊いものはありません。人は神の形に創造されたものであり、その命は神から与えられたものです。ですから、人の命を奪うことは神への反逆であります。この戒めは隣人を殺すだけでなく、みずからの命を取ることも禁じているのです。
 「姦淫してはならない」これは性の問題です。現代日本は性的な乱れが広がっています。聖書は性の交わり自体を悪とは見ていません。しかしそれは神が祝福された結婚の秩序、一人の男性と一人の女性との夫婦のみに限られていると言っています。性の解放とか言われ、今ではネットの出会い系サイトから頻繁にメールが送られてくる本当に誘惑の多い時代となっています。愛さえあれば自由だといい、結婚の秩序を越えた性交が為されています。こうした性の交わりは欲望に駆られ、互いの人格的な交わりを破壊してしまいます。
 「盗んではならない」。隣人のものを盗んではならないのです。自分が持っていないからといって、欲しくなり、隣人の所有物を奪ってはならない。神は人それぞれに所有物を与え、それらを管理するように求められています。
 「あなたは隣人に対して偽証してはならない。」この戒めは、本来、法廷での偽証にありました。偽証によって真実が隠されてしまいますし、正義が壊されます。しかし、私たちは、自分を守ろうとして嘘をいったり、偽証したりします。
 よく「人に迷惑をかけてはいけない。人の世話になってはいけない」と言われます。この教えは大事なことかもしれませんが、これを第一とすると、人との関わりをしない方向へ向くのではないでしょうか。そうした意味で禁止命令だけを強調すると、人との関係が薄れていくと思われます。
 律法の「戒め」を禁止命令として理解した者たちが律法学者たちでした。彼らは禁止命令を一番大事なことと考え、解釈し、人々に教えたのです。しかし、神がモーセを通して民に十戒を与えたのは、「人を戒める」ためではなく、「人を愛する」ためなのです。律法の専門家がイエス様に「律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」と尋ねた時、イエス様はモーセの後半部をとりあげて「隣人に対しての戒めを守りなさい」とは言われませんでした。そうではなく「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。モーセの後半部の4つの戒めは、戒めを守る所にとどまるのではなく、深い所において、隣人を愛することが求められていたと知らされます。それが、神が人と人との関係において求めておられたことでした。隣人を心から愛する時、自ずと、殺すことも、盗むことも、姦淫することも、偽証することもないでしょう。
 人を愛しきれない私たちであります。そんな私たちを主イエス様は、命をかけて愛して下さいました。十字架の縦軸の、神からの罪の赦しの愛によって生かされているのですから、その愛によって私たちも隣人を愛する歩みをしていきましょう。
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by higacoch | 2011-08-29 17:08 | 出エジプト記

2011年8月21日

「神を愛せよ」 出エジプト記20:1-11,マタイ福音書22:34-38

 今朝の出エジプト記20章の小見出しに「十戒」とあります。この「十」という文字を見ていたら、イエス様がかかられた十字架を思い出し、二つの十が重なりました。ユダヤ教ではモーセの十戒が重要視されますが、キリスト教では十字架を掲げます。十という字は、横棒と縦棒によって出来ています。以前、隅谷三喜男氏が十という文字は、横棒が私たちの世界、人と人との関係であり、縦棒は神と人との関係を表していると言っておられました。そのことを考えてみますと、私たちの信仰の理解は、書き順とは違っていて、まず何よりも縦棒の関係、神との関係があり、その後に、横棒の関係、人と人との関係があるということです。
 今朝は縦の棒、神と人との関係から学びたいのです。神と人との関係というとき、これもよく考えてみますと、二つに分けられると思うのです。それは縦の棒のベクトルであり、上向きか、下向きかということです。皆さんの中で、信仰とは神を求めること、善い行いを求め、神に喜ばれることを行い、神様に向かっていくことによって神様から祝福を受けると考えていらっしゃる方がおられると思います。上向きのベクトルです。しかし、自分の行為を清くしていくことが信仰の始まりでしょうか。もしそうなら、自分がそのような行為ができない時、自分には信仰がないということで、自分で自分を裁くことになるでしょう。聖書はそうした信仰を語っていません。
 聖書は先に神が降って来られた、神が人に為してなして下さったことを語っています。それは2節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導きだした神である」とあります。神がまず、エジプトでの奴隷状態から人々を救い出して下さいました。神様の救いがまずあるのです。戒めだけが命じられてはいません。新約聖書でも、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。ここに神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。」(Ⅰヨハネ4:9)とあります。何よりも神が私たちを憐れんで下さり、私たちの方に降って来られたのです。
 聖書の信仰は、神の恵みが先にあり、それに応答する信仰生活が求められています。まず、神の救いがあって、その救いによって生きる者として、主なる神以外には神があってはならない、あなたを救った神のみが神であり、それ以外には神はいないというのです。だから、何かの他のものや、像を造って神として拝んではならない、神として崇めてはならないのです。あなた方は、わたしを礼拝しなければならないということ、私以外を礼拝してはならないということなのです。
 第三の戒めには「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。」とあります。ここで「唱える」という言葉はもともとの意味は、「上げる」という意味です。
 同じ言葉が、詩編では、「歌う」(81:3)とも訳されていて、主の名を高らかにうたうと言うことです。みだりに唱える、というのは、本当の意味ある使い方をしていないと言うことです。神の名を意味もなく使ったり、自分の都合で、やたら誓うなど安易に濫用してはならないということです。イエス様は、神の名を尊いものとして使うことを、弟子たちに教えられました。それはイエス様が教えられた祈りにあります。主の祈りの中に「御名があがめられますように」と示されています。「名」というのは、「本質」を現します。また「人格」を現すといってもいいでしょう。神の「名」とは、神の人格、神ご自身を現しており、「御名があがめられますように」とは、神ご自身があがめられますようにということなのです。
 第4の戒めである「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とは、神が天地を創造された時、それを6日間で為され、7日目には休まれたことから来ています。モーセ以前の人々は、神の創造の業を知ってはいましたが、安息日を聖別するという戒めは与えられていませんでした。ここではじめて、安息日の規定が与えられています。これは、その後に記されている「何であれ、あなたは仕事をしてはならない」が強調されているのではなく、安息日を他の日と分けて、神の業、神の恵みを思い起こし、一日を過ごすことが主な目的であり、それが後に、神への礼拝となっていったのです。しかし、イエス様の時代には、仕事の禁止命令が強くなってしまい、ことごとく細かな規則までも作られていきました。本来の神を礼拝することよりも規則が優先され、戒め・律法のために人がいるようになってしまっていました。
 このようにしてイエス様の時代には、神様との縦の関係は、上からの神の救いの恵みが忘れられて、一方的な神に従う、それも律法主義の規則に拘束されたものとなってしまっていました。本来、神の救いの恵みに応答するための十戒が、律法によって人を拘束し、奴隷化していきました。そこで、神の救いが見えなくなり、神への服従のみとなっていったのです。これは本来の神が求められたものとは違っていました。イエス様は、はっきりと言われています。「私は、律法を廃止するために来たのではなく、成就するためにきた」と。それは、戒めをしっかりと守っていればという消極的なものではなく、恵みの神を愛することによって生きていくことをと教えられました。神の救いの恵みが先にあって、その恵み深い神を愛して生きることが、求められています。イエス様は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが第一の掟であると教えられたのです。
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by higacoch | 2011-08-22 17:36 | 出エジプト記

2011年8月14日

「救いの出来事」  出エジプト記12:21-42、マタイ26:17-30

 今年も原爆の日を迎えて広島、長崎で平和祈念式が行われ、両市長が平和宣言で福島原発の事故による核汚染のことを取り上げて語りました。これまでは核兵器と原子力発電とは別々のものと考えられてきましたので、取り上げられなかったのでしょう。しかし、今回の原発事故で同じ問題を含むものとして認識され、人間の力では放射能汚染を防げないことが明らかになりました。実際、原発の核廃棄物処理の問題、核汚染水の処理の問題等は大きな問題です。こうしたことから、人類は核と共存できないことが明確になりました。核の本当の恐ろしさに気づくのが、遅かったという感がありますが、もっと大きな地球規模の汚染問題になる前に、ここで気づいたことは良かったのかもしれません。エネルギー供給を原子力発電によるのではなく、その転換を為すべきです。いわゆる脱原発であります。時間がかかってもそうすべきだと思うのです。
 ここに至るまで気づけなかったのが、前回学んだ、エジプトのファラオのかたくなさに重なるように思えます。モーセがエジプトの王、ファラオ前に立ち何度も願ったのに断り続けて、そのたびにエジプトに災難が襲いました。それでもファラオは、その願いを受け入れませんでした。一旦受け入れたと思ったら、すぐに翻って拒否し、ついに9つの災難に苦しむことになってしまいました。(出エジプト記 7-8章参照)そこには蛙の大群、ぶよ、イナゴが襲ったり、暗闇が覆ったりして、人々は苦しみました。この9つの災難は、神が自然を用いて与えられた災難と考えることができます。しかし最後の災難は、これまでとは違って、神ご自身が行動されています。
 神はモーセに告げました。「家族ごとに、小羊を一匹用意しなさい。・・その羊を殺し、その血を取って、家の入口の鴨居と二本の柱に塗りなさい。翌朝まで誰も家の入口から出てはならない。主がエジプト人を打つために巡る時、鴨居と二本の柱に血が塗られた所は過ぎ越される。」と。そこでモーセは早速、長老たちを呼び集めて、神から語られたことを知らせました。そして、その日がやってきます。イスラエルの人々は、羊を殺して、その血を家の入口の鴨居と二本の柱とに塗ります。こうしてその夜は外出せず静かに過ごしました。主はエジプト中を回り、羊の血が塗られた家々を通り過ぎて行かれました。
 主は予告されたように行動され、エジプトの王の宮殿や側近の家も普通のエジプト人の家々、家畜小屋も回られました。王の初子も側近の初子も家々の初子、さらに家畜の初子も打たれて死んでしまいます。大惨事が一夜のうちに起こり、ファラオはモーセとアロンを夜のうちに呼び出し命じました。「さあ、出ていくがよい。あなたたちもイスラエルの人々もみな出ていくがよい」と。こうしてイスラエルの民は奴隷状態から救われて自由の身となりました。ユダヤ民族の最大の祭りと言われている過ぎ越しの祭りは、この救いの出来事を覚えてこれ以後毎年行われましたし、今も行われています。
 イスラエルの人々は、子羊の血を鴨居と柱とに塗ることによって、初子の死を免れます。血が塗られるということは子羊が殺されているということ、そこには羊の犠牲があるのです。その羊の死によって、イスラエルの人々が死を免れているという事実があります。このことは大事な視点です。神はイスラエルの人々を救うために、羊の命を犠牲にされたのです。これを逆から言うと羊が犠牲になることでイスラエルの人々は助かったということです。
 今朝、与えられましたマタイ福音書の18節に、イエス様は「私の時が近づいた。一緒に過ぎ越しの食事をする」と言われています。ここから「私の時」と「過ぎ越しの時」が重なるのです。この「時」のギリシア語は「カイロス」という特別な時を現わす言葉が使われています。イエス様が、「時」が来たと言われるとき、はたして弟子たちにはその「時」の意味が解ったでしょうか。解らなかったと思うのです。毎年行われている過ぎ越しの祭りと思っていたでしょう。しかしそれは十字架の時、イエス様が自らの身を犠牲にされる時でした。
 イエス様は、パンを取り、讃美の祈りを唱えてから、それを裂き、弟子たちに与えて言われました。「取って、食べなさい。これはわたしの体である。」そして杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らに渡して言われました。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように多くの人のために流される私の血、契約の血だ」と。イエス様は神の小羊だと言われています。その小羊であるイエス様の血が、契約の血なのです。過ぎ越しでの子羊の血でイスラエルの人々が救われたように、イエス様の血によっての救いの出来事が成就しました。それはすべての人の救いのためです。聖書が言うようにイエス様はすべての人のために死なれた、それは自らの血によって、すべての人を救うためだったのです。
 私たちは、イエス様の犠牲によって救われ、生かされてます。そして、今朝主の聖餐を頂きます。これは今や救いがイエス様によってなされており、私たちは神の国での祝宴に招かれているのです。共に、喜び祝うものでありたいものです。
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by higacoch | 2011-08-15 17:40 | 出エジプト記

2011年8月7日

 『 沈黙して、ただ神に向かう 』 
 詩編 62:1~13、マルコ福音書 15:1~5  濵崎 孝 牧師


 「平和聖日」の礼拝で想い起こしたい大切なこと、それは、聖書が私どもに呼びかけている「沈黙」です(ゼファニヤ書1章7節やハバクク書2章20節などを参照)。
 詩編62編は、預言者の呼びかけに応答するかのように、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。」(2節a)と言っています。この信仰の詩人は、「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。」(6a)とも詠っています。さらに、「ひとつのことを神は語り/ふたつのことをわたしは聞いた」(12)とも言い表しています。――神さまが語る「ひとつのこと」には深い意味があり、豊かな語りかけが宿っているのです。ですから、信仰の詩人は沈黙して心の耳をそばだてたのでした。
 その時、詩編の信仰者には、人間らしく生きるための闘いがあったのです。彼は、「神にわたしの救いはある。/神こそわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。/わたしは決して動揺しない。」(2b~3)と言っていますね。「わたしは決して動揺しない」というのは、切実な闘いの表現であって、彼は動揺させられていたのです。7節bにも、「わたしは動揺しない」と言い表されています。それは、「このような時にも神さまに信頼し、御力を頼みにして、私は負けない」……と、言わばそんな想いなのです(8~9参照)。
 では詩篇の信仰者は、何によって動揺させられたのでしょうか。彼を押し倒そうとするような人々がいたのです。「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。/亡きものにしようとして一団となり/人を倒れる壁、崩れる石垣とし/人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。/常に欺こうとして/口先で祝福し、腹の底で呪う。」(4~5)……そして、10~11節の詩句が語っているのも明らかに隣人を欺く人々のことであり、暴力に依存して彼に襲いかかった人々であり、搾取を誇る人々の非道であり、力が力を生むことに心を奪われる人々の仕打ちです。そうして信仰の詩人は、非人間的な挑発を受け、自らも暴力に依存するという愚行に走る動揺に遭遇したのです。そして、その危険な動揺を静めるための最もふさわしいあり様が、「沈黙して、ただ神に向かう」ことだったのです。(読者よ悟れ)そういう祈りの路づくりの中で、詩人は真実な声を聴くことが出来たのでした(12~13)。――動揺は、それをふさわしい方法で静めないと、非人間的な力に依存することにもなるのです。ですから、詩編の信仰者は、「沈黙して、ただ神に向かう」ことにより、慈しみの力であり給う神さまから動揺を静めてもらい、人間らしい想いや人間らしい言葉、人間らしい生活を形づくって人間らしいものを隣人と分かち合う信仰生活を勝ち取ったのです(「民よ……」と呼びかけて展開される9節以下の詩句は、隣人愛の語りかけと言って良いでしょう)。
 私に旧約聖書神学を指導してくださった新屋徳治先生は、詩編62編の「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」(前の口語訳聖書では、「わが魂はもだしてただ神をまつ」)は、「生涯忘れることのできないもので……す」と証ししていらっしゃいました。「あの太平洋戦争のおり、ガダルカナルの海で乗っていた駆逐艦が沈められ、米軍の捕虜となり、私はやがてニュージーランドへと送られました。そして、かの地の捕虜収容所の中で悶々と苦悩の日々を送っていたとき、不思議な摂理で聖書にふれ、やがて信仰へとみちびかれることになりました。そうした逆境の中で、はじめてこの(詩編62編の)詩に接したわけですが、それ以後この一つの聖句が私を支え、生かしてくれるものとなったので……す。人間のはかなさ、頼むにたりないことを徹底して示された私の魂は、『もだしてただ神をまつ』という姿勢に最終の安らぎと落ち着きを見いだしました。」――これは、「沈黙して、ただ神に向かう」という詩人の祈りの路づくりから、時空を超えて届く隣人愛が紡ぎだされた証しです。
 戦争で死んだ人々の「沈黙の言葉」を、未来へつなぐことに命をかけている人がいます。まして、「倒れる壁、崩れる石垣」のようにされて動揺させられながらも、負けてはいけないとの祈りから「沈黙して、ただ神に向かう」信仰者のその沈黙の言葉を、慈しみ深い神さまはその尊い存在をかけて意味深い明日へつなげてくださるのです。どうぞ沈黙を大切にされたイエスさまにあって進める祈りの路づくりから、本当の意味で地球よりも重い人生が紡ぎだされることを信頼してください。   
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by higacoch | 2011-08-08 17:43 | 詩篇