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2011年5月29日

「天からのパンとは?」
出エジプト16:1-16、ヨハネ福音書6:34-40

                         荒瀬 牧彦 牧師

 イスラエルの人々は、「意気揚々と」エジプトを出てきました。ファラオの軍隊に追われて不安に陥りましたが、神様は実に不思議な仕方で彼らに海を越えさせ、そしてエジプト軍の追撃を断ってくださいました。出エジプト記15章にある「海の歌」は実に力強く、喜びに満ちた賛美です。
 ところが、それから早や三日目には、水が苦くて飲めないと不平を言い始めていました。水の問題は神様に解決してもらいましたが、今度はすぐ「腹減った」の大騒ぎです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」。
 人間は、直面する現実が厳しいと、過去を振り返ってそれを美化し始めます。記憶の中で捏造された「昔」を勝手に思い浮かべるのです。イスラエルの人々はエジプトで酷使され、苦痛の叫びをあげていたのです。それなのに今、食べ物の確保をめぐる不安からか、またエジプトに戻りたいとさえ言いはじめるのです。
 真に自立した自由な人間になるというのは容易ではありません。人を奴隷化する力というのは、本当に強力なのです。(被爆国であり地震大国でありながら、札束の威力で原発大国への道を進んでしまったこの国において、東日本大震災の後も、なお原発に頼るほかないという意見が根強くあります。ファラオと原発が重なって見えます。目先の経済的利益というのは、それほどに人をコントロールするものなのです。)神様に魂を与えられた存在として、人間が真に自由な人間となっていく。これは大変なことです。神様は、海を分けてイスラエルの民を出エジプトさせられましたが、それよりもさらに大変だったのは、その後のことで、彼らの魂を真に解放することでした。だから荒れ野での40年が必要だったのでしょう。
 愚かな民を教育するための方法。「わたしはあなたたちのために天からパンを降らせる」ということでした。「天からのパン」によって人を生かすのです。
 神様は、最初はシナイ半島の荒れ野で、見たことのない白くて甘いウェファースのようなもの、「なんだこれは」と驚いた人たちが「マナ」と呼んだものをもって、イスラエルの民を養いました。やがて時が満ちて、神様は御子イエス・キリストをもって人びとを満たすという素晴らしい御業を行われました。神様は、旧約の時代も新約のときも人間が思いもよらない仕方で「天からのパン」を与えてくださったのです。
 あなたはどれぐらい真剣に「天からのパン」を求めていますか。本当にそれが必要だと考えていますか。それがなくても、近所のおいしいパン屋さんにいけば、それで満足と思っていませんか。腹を満たせればよい、ぐらいに思っていませんか。奴隷的人生ならそれでもよいかもしれません。しかし、私たちが、罪から解き放たれた自由な人間として生きようとする時、「私が命のパンである」という方との出会いが決定的に重要です。古い自分のまま生きようとするなら、天からのパンを求めなくてよいかもしれません。しかし、わたしたちは「パンだけでは生きられない」者なのです。獣としては生きられるかもしれない。しかし人間としては生きられないのです。神は、土(アダマ)から人間(アダム)を造られました。しかし土をこねただけで人間になったのでなく、神様が鼻の穴から息を吹き入れて、「人はこうして生きるものとなった」のです。
 私たちは「天からのパン」イエス・キリストをいただかなければなりません。キリストを食べるというのは、一生に一回のことではありません。イスラエルにとってのマナがそうであったように、一日一日、新たにいただくものです。日ごと、朝ごとに、「神さま、わたしは天からのパンなしには生きられません」と祈って、天にむかって口をあけなければならないのです。
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by higacoch | 2011-05-31 18:10 | 出エジプト記

2011年5月22日

「ひとりではない」   詩編23:1-4 ルカ福音書19:1-10 

 今朝の箇所で私が好きなイエス様の言葉は、「この人もアブラハムの子なのだから」という言葉です。この言葉から推測出来るのは、イエス様はザアカイが人々から軽蔑され、嫌われていたことをご存知であったということが解ります。人々はザアカイを憎み、ザアカイを避け、ザアカイと接触しようとはしませんでした。しかしイエス様は違っていました。この人も「アブラハムの子なのだから」と言っておられます。「アブラハムの子」と言うのは、祝福された子、という意味があり、もっと解りやすく言うのなら、「この人も神様の子だ」と言いかえてもいいでしょう。イエス様はザアカイのことを、周りの人々に「この人も神様の子なのだから」とはっきりと宣言されたのです。この言葉に驚いた人もいたでしょう。しかし、イエス様は、ザアカイが人々から嫌われているということだけではなく、彼の心の中にあった苦しみをも知っておられたと思います。イエス様の言葉は周りの人に言われていますが、これは彼に向けても語られていると思います。「あなたも神様の子だ」と。  
 先週、一冊の本を読みました。本のタイトルは「もう ひとりにさせない」。著書は奥田知志牧師、22年間ホームレスの支援活動している方です。この本の中に、先生のこんな体験が書かれています。
 「野宿しているFさん、当時、すでに60歳代後半。Fさんの首には、大きな腫瘍があり、首全体が左に大きく傾いていた。アパートに入居すること、いや何よりも入院を勧めたが、本人は、一切、応じられなかった。私が訪ねるたびに、「もういいです。放っといてください。もう死にますから」と繰り返されるだけだった。静かに、しかもしっかりと語られるその言葉は、私のどんな説得の言葉よりも説得力があった。「死んでもいい」と言い切る人に「人は生きなければならない。いのちは大事だ」などという理屈は意味を持たない。果てしない虚しさが私を奈落の底に突き落とそうとしていた。そんな私を支えてくれた御言葉がある。マルコ福音書1章にあるイエスが汚れた霊につかれた人を癒される場面である。汚れた霊につかれた男は問題を抱え苦しんでいた。男はイエスに気づき、叫んだ「かまわないでくれ」と、するとイエスは「黙れ」と一喝され、その男を癒されました。
 この「黙れ」は、膠着状態が続くFさんとの対話を続ける私にとって希望となった。「黙れ」は絶望の言葉を語るFさんに対するイエスの宣言であると同時に、実は私に対する宣言でもあると思えた。なぜなら当時、私の中には「もう何を言っても無駄だ。結局は本人次第だ」というあきらめがあり、絶望に飲み込まれそうになっていたからだ。
 イエスはそんな私に「黙れ」と一喝してくださったのだ。それは何よりも権威ある言葉として私の中に響いた。だから、その後、「放っといてください」と言い続けるFさんを訪ね続けることができたのだ。それから7年が過ぎた。そして、ついにその日を迎えた。
 その日もいつものようにFさんを訪ねた。「はい、お弁当どうぞ。」「ありがとう。」「アパート準備しましょうか。」いつものパターン。いつもなら、「もういいです。放っといてください。」とFさんは言い、私は「じゃあ、また来るね。」と引き下がる。しかし、その日は違っていた。「はい、お願いします」とFさんが答えたのだ。最初、何が起こったのか、解らなかった。「今、なんといわれました。」慌てて、聞き直すと、私に、Fさんは静かに微笑んでおられた。その日は来るのだ。勝手にあきらめるのは申し訳ない。「五回言ったらもうダメだ」とは言えない。六回目、かもしれない。「神様の時があるのだ」
 その後、Fさんは支援住宅に入居されて、別人のように明るくなった。険しかった表情が笑顔へ変わり、可愛いいおじいちゃんになっていった。亡くなる前日。病室をたずねた。聖書を読んで祈った。祈り終わるとFさんは、筆談用のノートに震える手で「奥田先生ありがとう」と書かれた。それはよれよれの字であったが、確かにそう書かれてあった。涙があふれた。「こちらこそ、ありがとうございました。あなたに会えてしあわせだったと思っています」と告げた。感謝されたことが嬉しかったのではない。「ありがとう」と言ってもらうために活動してきたのではない。しかし、Fさんのこの一言は、その後の支援活動に希望を与えてくれたのだ。それは、「人は、いつかは、変わる」という希望だ。「放っていてください」と言っていた人が「ありがとう」と言う。翌朝、Fさんは静かに息を引き取られた。「もういいです。放っといてください。」と言っていた人が「ありがとう」と言って逝かれた。これは神の働きのほか何ものでもない」
 ザアカイは、ここで自分は受け入れられ、愛されている、大事にされているということを深く知りました。彼は神様から見捨てられていると思っていましたが、そうではなくて、神様の御手の中で生かされていた、そして神様によって愛されている者であると深く知ることができたということです。
 今も何らかの問題を抱えながら、生きる意味が見出せずに生きている人がおられるでしょう。そして自分は、人からも神様からも見捨てられているんじゃないかと苦しんでいる人がいると思います。しかし、そうではないのです。
 聖書に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ 3:16-17)とあります。
 裁かれるためではなく、救われるために、あなたは生き、生かされています。神様が御子イエス様をこの世界に遣わされたのは、あなたを救うためであって、裁くためではありませんでした。ぜひ、このイエス様の愛を知って頂きたい。そして残りの人生を生きていって欲しいのです。「この人もアブラハムの子なのだから」あなたも決して、独りではないのです。神様の子どもなのですから。ひとりではないのです。
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by higacoch | 2011-05-23 15:59 | ルカ

2011年5月15日

「あなたはどう祈っているのか」
        詩編25:6-11 ルカ福音書 18:9-14


 今朝の箇所でイエス様がたとえを用いて祈りについて教えて下さっています。ここには二人の祈りが取り上げています。一人は宗教熱心なファリサイ派の人であり、もう一人は律法を守れない罪人と言われていた徴税人です。前者は人々からも尊敬されていた人であり、後者はローマ帝国のために税金を集めていたため、ローマの犬と言われ、人々から軽蔑されていた人でした。
 ファリサイ派の人は自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下していました。この人の問題は2つあります。1つは、自分は正しい人間だと信じて、自信を持っています。よくよく考えてみますと、神様に頼る必要を感じていず、実は神様ではなく、自分に頼り、自分をよりどころとして生きています。神様を信じていると言いながら、神様よりも自分を信じているのです。もう一つは他人を見下げていることです。自分以外の人を自分よりも劣っていると蔑み、つまらない人間だと思い込んでいます。他人と比べて自己評価し、いわれのない優越感を支えに生きているのです。
 この人は「神様、私は、他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈りました。モーセの十戒(神の律法)の一つひとつを守っていると主張しながら、自分は正しいと言っています。これは、声に出して祈った祈りではなく、心の中で祈りました。しかし、その人の本心が現われています。
 私は、この人の祈りは自己主張だと思うのです。彼の祈りは神様に向かってはいない、自分に向かっています。11節に、彼は立って「心の中で」祈ったとありますが、「心の中で」で訳されているギリシア語を直訳しますと「自分自身に向かって」となります。以前読んでいた口語訳では「ひとりで」と訳していますが、この方が良いと思います。つまりファリサイ派の人は、祈ってはいるけれども、自分自身に向かって一人で祈っています。この祈りは神様に向かっていない。彼の自己満足でしかない。イエス様はそこを見抜いておられます。
 それに対して、徴税人はどうであったでしょうか。彼は目を天に上げようともせずに、胸を打ちながら、「罪人のわたしを憐れんで下さい」と祈っています。彼は、あの罪、この罪をおゆるし下さい、と具体的な罪を一つひとつあげて、祈っているのではありません。「罪人のわたし」と言っています。ここは単に、すべての人は罪人であり、わたしもその一人であるというようなことではなく、ほかの人はいざ知らず、ほかならぬわたしが罪人であるという、彼の心からの信仰告白なのです。 祈る時、目を天に向けて祈るのが普通でしたが、自分の罪を覚えて、目を伏せ、胸を打ちながら、祈っています。罪に対する深い懺悔があったのです。
 目に見える所では、ファリサイ派の人が、神様の前に正しい良い者と写ったかも知れません。しかし、イエス様は目に見える所ではなく、人の心の奥も見抜いておられます。そして、はっきりと教えられたのです。神様に良しとされて家に帰ったのは、この人、徴税人である、決して、あのファリサイ派の人ではないのだと、念を押して教えられたのです。
 人とのかかわりで、人のことを覚えて祈るとき、イエス様は、弟子たちに教えられました。ルカ福音書の6章に記されていますが、「悪口を言う者に祝福を祈りなさい。」「あなた方を侮辱する者のために祈りなさい。」と言われています。また「敵を愛しなさい」とも言われています。こうしたことを考えてみますと、自分に対して悪いことをする人のことをも「覚えて祈りなさい。」ということです。そして、祝福を祈るのであって、軽蔑する祈りであってはならないのです。その点をはっきりと伝道者パウロは、ローマの信徒への手紙で「あなた方を迫害する者のために、祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって呪ってなりません。」(12:14)と言っています。 人を呪うような、人を踏み台にしたような、人を蔑視する祈りはしてはならないのです。
 私たちはどう祈っているのか。もし私たちが「私はファリサイ派の人のようでないことを感謝します」というような祈りをしているのでしたら、私たちも同じような問題を抱えているでしょう。人と比べて自分の価値を考えて祈るなら、私たちも悔い改めなければなりません。またファリサイ派の人のように、神様を信じていると言いながら、自分を信じているという面があるのなら、このことも考えなければなりません。伝道者パウロは、コリントの教会の人たちに、こんなことを書いています。「あなたがたは、うわべのことだけ見ています。自分がキリストのものだと信じ切っている人がいれば、・・・もう一度考えてみるがよい」(Ⅱコリント 10:7)と。
 私は、今朝のイエス様のたとえを、単なる良い教訓が与えられたと考えて欲しくありません。高慢で他人を見下げているファリサイ派の人が退けられ、謙虚であった徴税人が受け入れられた話だと受け止めて欲しくないのです。もしそう受け止めるなら、神に受け止められるのは人間側に根拠があるという話になってしまうからです。ここは、神様の前に立って私たちがどう祈るのか、どのように祈っていかなければならないのかを教えています。ですから、ここを1回、読んで良しとしてはなりません。私たちの祈りはどうなのかと自己吟味するために、何度でも読み、神様が語って下さることを聞くべきです。そうしないと、私たちもファリサイ派の人と同じように高慢になり、自己主張するような祈りになってしまうのだと思います。
 神様に向かって、「罪人のわたしを憐れんでください。」と祈りつつ、神の国と神の義を求める歩みをしていく者とされていくように祈り願うものとなりましょう。 
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by higacoch | 2011-05-16 15:55 | ルカ

2011年5月8日

「良い方を選ぶこと」  詩編130:5-8, ルカ福音書10:38-42

 人の性格は、それぞれです。よく気がつく人、よく人の世話をする人もいれば、周りが見えず自分のやりたいことだけに埋没してしまう人もいます。少し前には、KY、空気が読めない、とか言ったりしました。また人のことばかりが気になって、病的なほど自分の思いを素直に出せない人もいますし、他方、他人はお構いなしに、図々しく、ずけずけ言う人もいたりします。このように人はそれぞれの性格をもっていますし、人は一人ひとり違います。違うことが当たり前なのです。
 今朝の箇所で、マルタとマリアとの性格の違いもあるようにも感じられます。マルタは実に行動派です。イエス様の一行が自分の村に来られたと聞くと、すぐに外に出て一行を探し、自分の家に招待しています。マルタはヨハネ福音書11章に記されていますが、兄ラザロが死んだ時、イエス様が来られると、マルタはすぐに外に出てイエス様を迎えています。このようにすぐに行動できるお姉さんというマルタでした。
 マルタは、世話好きでもあり、かつ心配性のところもあったように思えます。
 聖書を見ますと、家に入られたイエス様は外で人々に話しておられたように、家の中でもお話になられました。でもマルタは、イエス様が家に来て下さったということを喜び、イエス様に飲み物をだしたり、その後の食事のことも思いめぐらしたのでしょう。あわただしく立ち働いていました。それに対して、マリアは同じようにイエス様が来て下さったことを喜びましたが、イエス様の足元に座って、イエス様の話をじっくりと聞いていました。
 マルタが忙しく立ち働いていても一向にマリアは手伝おうともせずに、聞き入っていました。そうしたマリアに、ついにマルタが頭にきました。それを赦しておられるイエス様にも怒りを感じたのでしょう。だから「私の妹のマリアは、わたしだけにもてなしをさせていて、なんともお思いになりませんか。手伝ってくれるように、イエス様の方から言って下さい。」と文句を言ってきました。
 マルタが「わたしだけにもてなしをさせています」と言っていることから解りますが、本来、二人でやるべきところを自分だけにさせている、つまり、マリアはサボっていると言いたいのです。そこで考えたいのですが、マリアはイエス様のもてなしをしたくないから、じっとイエス様の話を聞いていたのでしょうか。もてなしは、お姉さんに任せておけばいいと思っているのでしょうか。私はそうは思いません。マリアの心の中にあったのは、イエス様のお話を心から聞きたいという思いだけでした。だから、集中して聞いていたのです。
 マルタは、自分だけが忙しく接待に動きまわるのは、不公平だと、自分だけがすべてをどうしてかぶらないといけないのかと、腹立たしくなったのです。そんなマルタに、イエス様は言われました。「マルタ、マルタ」と二度繰り返して言われています。これは、愛情を込めて言う時の言い方です。そして「あなたは、多くのことに思いをはせて、いろいろと心配してくれています。そのようにして心配りをしてくれていますが、しかし、本当に必要なことは多くはありません。いや一つだけです。その大事な一つをマリアは選んだのです。そのような大事な一つを取り上げてはいけない」と言われました。
 マルタのような人は多いと思います。心配性で世話好きの人が私の周りにもいらっしゃいます。私たちもあるときは、同じように、あれも、これもと多くのことを思って悩むことがあります。思い悩み、思い煩うのです。あの事も、このことも考えなければと、心定まらず、心を乱してしまうことがあります。イエス様が、この箇所で教えておられることは、マリアの方が、必要なこと、良い方を選んだ、イエス様に聞くことを選んだということです。私たちにとっては、それは、礼拝に出て、神様の言葉に耳を傾けることです。もっとはっきりと言うのなら、礼拝を大切にすると言うこと、礼拝を選ぶと言うことです。私たちの生活でも、あの事も、このこともしなければならない、時間がない。あれもこれもとなっていくことがあります。それはイエス様がマルタに言われた、多くのことに思い悩み、心を乱している状態だと思います。そのような時、何が必要なことなのか、と言うと、神様の言葉を聞き、そこにおいて大事なことを知ることなのです。そのためには、み言葉を聞くことを選ばなければなりません。
 主の日においても、奉仕が先にあるのではなく、礼拝が先にあり、そこで示されることによって、奉仕が生じてくる。奉仕を先にして、礼拝が後回しになると言うことは本末転倒と言わざるを得ません。
 マザーテレサが、死にかけている人、貧しい人、孤独の人、病気の人に、奉仕に出かける前、必ずミサをささげていました。奉仕を先にして、その後にミサをしたのではありません。早朝のミサで神様を礼拝し、神様の御言葉を聞いて、それから町へと出ていったのです。神様から、送り出されていったのです。
 今年の教会標語に掲げられているように、信仰者の出発は、あくまで御言葉に聞き、御言葉に示されて、出発していくのであって、御言葉なしの奉仕から出発するのではありません。人は、それぞれの性格をもって生まれてきていますが、良いものを選んで生きていくこと時に、その人が作り上げられていくのです。大事な御言葉に聞いて、成長していく信仰生活でありたいと願うものです。
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by higacoch | 2011-05-09 16:03 | ルカ

2011年5月1日

「あなたを生かされる方」  詩編52:8-11、ルカ福音書15:11-24

 今朝、与えられた聖書箇所はとても有名な箇所です。ここに記されていることを読むとき、まさに神様の愛を感じます。このたとえでは、父親は神様であり、息子たちは私たちです。弟が私たちに近いと言った方がいいかもしれません。弟も兄も父親の大きな愛を、無条件の赦しの愛を受けています。私は、もしこのたとえが聖書になかったのなら、果たしてどれくらいの神様の無条件な愛を受け止められるのだろうかと思うほどです。
 このたとえで父親が言う言葉。「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」という言葉が心に残ります。これは二度も言われています。実際、弟は肉体的に死んだのではありません。食べ物に窮し、飢え死にしそうにはなりましたが、死んではいません。でも父親は「死んでいたのに」と言っています。「死にかけていた」ではありません。ここで「死んだ」と言っているのは、実際に「死んだ」ことでも「死にかけた」ことでもなく、別のことで「死んだ」と言っているのです。
 弟は父が生きているにも関わらず、財産分与を願っています。弟は自分の分を分けて貰い、すぐにそれを現金化して、とっとと父の許から離れて遠い国に行ってしまいました。そこで放蕩の限りを尽くして無一文になり、さらにその国にひどい飢饉が襲い、弟は落ちるところまで落ちて最低の身となり、飢え死にしそうになりました。そこで、はじめて気づいたのです。自分が父の許から離れて、罪を犯したことを。そこで悔い改めて父の許に戻ります。ここに示されているように、父の許から遠くに離れた、このことが死んだことなのです。そして父の許に帰ります。父は弟が家に近づいた時、彼を見つけ、走り寄り、激しく抱いて喜びました。喜びのあまり、しばらくは抱き合ったままだったと思います。弟は言いました。「お父さん、私は天に対しても、お父さんに対しても本当に悪いこと、罪なことをしてしまいました。もう息子と呼ばれる資格もありません」と。それを聞いた父親は僕たちに「この子に一番上等の服を持ってきて、この子に着せて、手には指輪をはめてやりなさい」と命じました。父親は、しもべではなく自分の子として、弟を迎えました。当時、指輪は、現代の印鑑のようなものです。父親は、さらに足には履物を履かせ、そして喜びに満ちて「息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」と祝宴を用意させました。
 一方、兄はどうかと言いますと、弟の帰りを受け入れていません。むしろ怒っています。父親に「あなたの息子は、娼婦たちと遊んであなたからの財産を食いつぶしたのに、どうしてお祝いするのか」と文句を言っています。これに対しても父親は「お前の弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに、みつかったのだから、お祝いをして、喜ぶのは当たり前ではないか」と答えています。
 さて、弟が生き返ったのは彼がどん底になったからなのでしょうか。そこで悔い改めたからなのでしょうか。それは生き返るために、きっかけとなったかもしれません。ですが、本当の所で弟が生き返ったのは、その最低の生活となった時ではなく、無条件に父親から受け入れられた時です。もし父親の所に帰ってきて、父から「バカ息子。とっとと失せろ。もう二度と家の敷居をまたぐな」と怒鳴られて追い返されていたのなら、弟は生き返ることができませんでした。弟が生き返ったのは、父親の愛があったからなのです。受け入れる愛があったからです。
 この父親の愛が神様の愛です。どんなに神様から離れた人でも、神様はその人が神様のもとに帰ってくるのを待っておられる、待ち続けておられる。もう諦めたと言われない。あなたが神様のことを忘れたとしても、神様はあなたのことをお忘れになりません。弟が本当に生きることができるようになったのは、神様によって愛されたからだと思うのです。神様はあなたを生かされるのです。あなたがこの世で生きることができるように、しかも喜んで生きることができるようにして下さるのは、父親である神様です。ぜひ神様を見上げて歩んで生きていって頂きたい。
 あなたを生かされる方はあなたを無条件に愛された神様です。神様のもとに帰ること、悔い改めて、神様のもとで生きること、このことが自分を一番、生かす道なのです。なぜなら、あなたを生かす方は神様だからです。その方は私たちの罪のために死んで下さったイエス様であり、そのイエス様は死んで、生き返られ、今も生きて働かれています。イエス様の愛を受け止めて、イエス様を救い主として信じて生きていきましょう。
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by higacoch | 2011-05-02 16:09 | ルカ