<   2011年 03月 ( 4 )   > この月の画像一覧

2011年3月27日

「喜びで満たされる」 エズラ記3:1-13、ヨハネ福音書16:21-24
                           古畑 和彦 牧師


 1.喜ぶ-神を礼拝することにおいて
 バビロン捕囚から帰ったイスラエルの人々は、それぞれ自分の出身地の町に帰り、生活の再建に取り組まなければなりませんでした。大変な労苦でしたが、神によって解放された喜びと、感謝と希望に満たされていました。その人々は、「第七の月になって」(太陽暦9~10月)「エルサレムに集まって」「焼き尽くす献げ物」をささげるために「一人の人のように」なりました。「焼き尽くす献げ物」とは、神の愛に感謝し、神に従って生きる決意を意味していました。「焼き尽くす」ということから分かるように、すべてにおいて神に従うことが求められています。そのとき、私たちは、神のもとから来る喜びに満たされるのです。

 2.喜ぶ-恐れを乗り越えて
 礼拝のために集ったイスラエルの人々に1つの問題が起こりました。3節にイスラエルの人々が、喜びではなく「その地の住民に恐れ」を感じたことが記されています。その地の住民は、イスラエルの人々が「その昔の土台の上に祭壇を築き、その上に焼き尽くす献げ物……を主にささげる」行為に対して妨害をしました。しかし、イスラエルの人々は、「恐れを抱きながら」も、神に従うことをやめませんでした。私たちの人生も、いつも楽しいこと、喜ばしいことだけではありません。悲しみ、苦しみ、恐れで一杯になることがあります。そのような時でも、いやそのような時だからこそ、神を信頼して歩み出すのです。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4・6、7)。

 3.喜ぶ-今ここでの恵みを
 イスラエルの人々は、神を礼拝する生活を確立するために神殿の基礎工事に取りかかります。石工や大工が集められ、彼らには賃金が支払われました。木材はシドンとティルスから調達されました。そして、冬が去って春を迎えた「第二の月」(太陽暦の4~5月)についに工事が開始されました。イスラエルの人々は、祈りつつ、必要な準備をして時が来るのを待っていました。私たちは、祈っていれば、自然と喜びに満たされるということはありません。祈ったように、行動することが大切なのです。神を信頼すると祈ったなら、信頼して私がすべきことをして、神の時が来るのを待つのです。その時が来れば、神はすばらしいことをしてくださったと喜ぶことができるのです。
 基礎工事は地味な仕事です。建物が完成すれば隠れてしまうところです。しかし、基礎をおろそかにした建物がどんなに危険なものになるかを、私たちは知っています。見えないところだからこそ、力を尽くすというのは、神を信じているものの生き方ではないでしょうか。誰に評価してもらえなくとも、神は評価してくださる。そこに喜びがあります。
 神殿の基礎工事が忠実な働き人によってなし遂げられると、ダビデ王の時代の規定に従って定礎式が行われた。この定礎式のなかで極端な二種類の反応がありました。一方は、ソロモンが建てた絢爛豪華な「昔の神殿を見たことのある年取った祭司、レビ人、家長たち」でした。この人たちは、そのソロモンの神殿と、今、基礎の据えられた新しい神殿を比較しました。そして、この程度のものしか作ることができなかったのか「大声をあげて泣き」ました。しかし、「昔の神殿」を知らない若者たちは「また多くの者が喜びの叫び声をあげた」のでした。彼らは比べるものがありませんでした。今、ここで神がしてくださったことだけを喜ぶことができたのです。私たちも、自分がしていることを過去や他のものと比べて、一喜一憂することはやめましょう。神がいま、ここでしてくださったことを喜びましょう。他の人から、「あなたがしていることはたいしたことはない」と言われても気にする必要はありません。神は、私たちの働きを見て「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25・21)と言って喜んでくださるのです。

 結論 喜びに満たされた人生を 
 私たちは神を知っていても、人を恐れたり、過去や他のものと比べて悲しみを覚えたりして、なかなか「喜びで満たされる」人生を歩むことのできないものです。そんな私たちにキリストは次のように語りかけてくださいます。「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」(ヨハネ16・22)。私たちのうちには喜びはないかもしれません。しかし、キリストは私たちの心のうちを訪ねてくださり、喜びを与えてくださるのです。私たちが悲しみや苦しみの中にいる時ほど、キリストは、私たちに喜びを与えるために訪ねてくださるのです。だから私たちは、心から喜ぶことができるのです。
[PR]
by higacoch | 2011-03-28 16:35 | エズラ記

2011年3月20日

「祈ること、愛すること」 レビ記19:18、ルカ福音書6:27-36

 3月11日に起こりました東日本大震災後、テレビは24時間体制で震災関係の放送を流しました。最初の3日間は民放もそうでしたが、少しずつ普通の番組が放送されるようになってきました。しかしながら、NHKの総合では1週間24時間体制で震災放送がずっとなされてきました。今もほとんどが震災関係の番組ですが、民放は多くが普段の番組へと戻ってきています。これほどの体制となったのはかつてなかったことでした。そして今や情報伝達はインターネットの時代です。地球上のどこにいてもリアルタイムで情報を発信することも受けることもできる時代となりました。私たちカンバーランド長老教会の群れもそうしたインターネットを使って、今回の大地震の情報交換を行いました。カンバーランド長老教会の公式サイトでの情報交換が、あの有名なフェイスブック上で、頻繁に行われました。国内はもちろん、海外のカンバーランドの兄弟姉妹たちからも、被災者のために、日本のために祈っていますとか、被災者のための義捐金を集め始めましたとかあり、祈りや支援活動の輪が広がっています。また私たちの教会のグループだけではありません。多くの超教派で活動しているグループからもたくさん情報が送られてきました。
 こうした情報を得ながら、今朝の聖書の箇所を読んで思わされるのは、「つながり」を持つことが大事だと思い知らされます。と同時に、それ以上の大事なことをイエス様の言葉から教えられます。
 私たちは実に、つながりを切ることに走りやすいものだと思います。夫婦喧嘩をした時など、その直後は妻と話したくなくなり、口も利きたくありません。これは相手から離れていき、関係を持ちたくないということです。これをそのままにすると、さらに悪化していくでしょう。こうしたことは人間の感情の面からいうのなら、当然のなりゆきです。嫌な人は嫌なのです。顔も見たくありません。もちろん口も利きたくありません。それが自分に嫌がらせをする相手なら余計です。憎み、仕返しをしたくなるくらいです。その点では私たちも弟子たちと同じです。そんな弟子たちにイエス様は言われたのです。「しかし、あなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたが憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」と。
 今朝の箇所で、イエス様は二度も「敵を愛しなさい。」と言われています。イエス様は、敵を愛することを、弟子たちに、また私たちにして欲しいのです。自分に嫌がらせをする人、自分を責め立ててくる人、自分を憎み、罵ってくる人、そうした人を、すぐに憎しみ返し、仕返しをする、そのようなことをしてはならない、そうするのではなく、その人のために祈れ、と教えられます。私たちは憎み、仕返しをしやすい者であります。その人を赦せない、愛せないのです。イエス様は、その人のために祈れと言われます。こうしたことを考えますと、祈ることは、愛することの第一歩だと解ります。
 私たちは、愛することを自然にはできない者です。嫌がらせをする人をすぐに愛せるかと言いますと、愛せないのです。愛せないから、どうするか。愛せないから愛せないままでいいとして、その人とのつながりを断ち切るのか、あるいはつながりを持ち続けるために何かをするのか、それは大きな分かれ道なのです。そして自分自身を良く見つめ、つながりを持ち続けたいと願うなら、愛することができるように祈るしかありません。祈って自分にないもの、愛を神様から頂くしかないでしょう。こうしたことを深く考えていきますと、愛することと、祈ることとは、切っても切れない関係にあります。さらに考えていくなら、私たちは果たして、祈らないで、人を愛することができるでしょうか。祈らずに、自分の力で人を赦し、人を愛することができるだろうかと考えていったら、わかるのではないでしょうか。もし自分の力でできると言う人がいたなら、その人はその人のできる範囲で愛しているのであって、自分はできると幻想しているだけなのです。こうした人ほど、厄介な人はいません。自分は良い人間だと主張しているからです。私たちは、どうしても自分の力で人の罪を赦し、人を愛することができないので、祈るのです。祈って神様から力を頂くしか道はありません。愛すること、祈ること、これは表裏一体と言えますし、どちらかを欠いては成りたたないのです。
 今はレントの時です。イエス様は私たちのために苦しみの道を歩まれました。十字架への道を歩み続けられました。イエス様は、私たちが罪を犯してばかりの敵であったにもかかわらず、私たちを愛して下さいました。そのイエス様が、あなた方も憐れみ深い者となりなさいと勧めておられるのです。そこに命の道が与えられるのです。全く新しい歩みが約束されているのです。自分を憎んでいる敵をも愛することができるように神に祈っていく者となりましょう。
[PR]
by higacoch | 2011-03-21 16:44 | ルカ

2011年3月13日

「祈りから始まる」 詩編62:6-9、ルカ福音書6:12-16
 
 3月11日(金)午後2時46分頃、三陸沖を震源とする大地震マグニチュード9.0、世界の最大級の地震が起こり、東日本の東北地方を中心として襲いました。
 私は、ちょうど牧師室にいましたが、本棚から次々と本が落ちてきました。揺れは強く、長く、動く事もできませんでした。おさまってからやっと、台所の姉妹たちの無事を確認できたほどです。大揺れの中で地震の怖さを実感しました。その後、テレビの映像で、港町が津波で飲み込まれ、漁船、車、家々などを押し流していく津波の恐ろしさに体が震えるような思いでした。頭を抱え、言葉を失うばかりでした。さらに翌日、東京電力の福島第一原子力発電所の一号機の原子炉を覆う建屋で大きな爆発があり、コンクリートの外壁が吹き飛んだとのこと、そのことで放射性物質が外部に漏れ、その周辺の住民の健康が危ぶまれるような自体が生じました。大地震による津波による死者、そして助かった住民の放射性物質による汚染等の問題が起こっています。人命救助が最優先され、一刻も早く助け出されることを願います。被災地は高齢者の方々が多い地域でもあると言われます。体の弱った人、病院に取り残された人に救援の手が差し伸べられますように願っています。
 さて、今朝与えられた箇所から学びたいのです。ここはイエス様が12人を選んで、使徒とされた箇所です。イエス様が祈られたのは山、静かになれる場所でした。そこに退かれたのは父なる神と相対して祈るためでした。誰にも邪魔されずに集中して祈り、夜を明かされました。ここで解るのは12人を選ぶ前に祈られたということであり、選んだ後に祈られたのではないということです。イエス様は自らそうすることで私たちに教えておられると思います。何かをしてから祈るのではありません。考えてから、検討してから、議論してから、祈るのではないのです。まず、祈ることから初めなくてはならないのです。ある問題に直面した時に祈るのではなく、その前に、初めに祈る、神の御心を求めて祈るということが大切だと言うことです。
 また、イエス様は祈って夜を明かされました。最初から徹夜祈祷を考えておられたのでしょうか、私はそうは思いません。祈っているうちに時間が経ち、白み始めたのではないでしょうか。結果として、夜明けを迎えられたと思うのです。夜が明けるまで祈られたというのは、闇から光を見出されたということも含んでいると思うのです。夜の闇、先が見えない、どこに道があるのか解らない、そうした中で神を信じて生きようとされた、そして光を見出されたことをも示しています。闇から光へ、苦悩から希望の光を見出して歩まれておられるのです。祈り始めた時に、すぐにははっきりとわからない、取るべき道が見えないのですが、取るべき道は、祈りの中で見えてくる、光が与えられてくるということです。
 イエス様は祈り終えて、それから次の行動を取られました。それは弟子たちを呼び集められ、そして12人を選んで、特別な使命を担う使徒として立てられました。その使徒たちが、ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネたちです。これは大変な決断だったと思います。もし祈っておられないのなら、こうした決断もなかったでしょう。祈ることによって、この決断に導かれていったのです。人を立てて、人に委ねるのは大変なことです。それよりはむしろ自分でした方がいいとも考えられるからです。もし委ねて、その人が失敗すれば、その責任を自分が負わなければなりません。自分でやった方が確実で、失敗も少なくてすみます。しかし、イエス様は祈りの後に弟子たちを選ばれました。実際、彼らは多くの失敗をしました。後にはイエス様を裏切り、イエス様を置いて逃げ去ります。そのような中でイエス様は十字架への道へと歩み、ついには十字架刑に処せられ、殺されていきました。が、それで終わりではありませんでした。死後、三日目によみがえって新しい命を示されました。これは祈りによって与えられた最終的な勝利だったのです。裏切りや死で終わったのではなく、よみがえり、裏切った弟子たちも再び信仰に生きる者とされ、伝道者として生きていったのです。
 ここで示されているように、イエス様はことを始める前に祈られました。ことに当たって立ち往生した時になって初めて祈られたのではありませんし、ことが終わってやれやれと安心して祈られたのでもありません。初めに祈られました。父なる神に祈り、神の御旨を求めて、神の知恵と導きを願われました。神に祈ることは信仰の表れです。父なる神を信じて、まず祈る。私たちもそうでありたいものです。
 今日は教会員懇談会を行います。テーマは「会堂建設への祈りの推進について」です。会堂建設にあたって祈りをもって始めていきたいのです。
[PR]
by higacoch | 2011-03-14 16:48 | ルカ

2011年3月6日

「あなたたちを救うために」 創世記45:1-15。ヨハネ福音書 3:17

 先日私は映画「インビクタス」を観ました。1995年、今から16年前のことですが、その年にラクビーのワールドカップが南アフリカ共和国で行われました。その前年に、ネルソン・マンデラ氏が初の黒人大統領に選ばれ、就任しています。彼はそれまでアパルトヘイト(人種隔離政策)を取ってきた国家に対して、反対運動をして反逆罪とされ、27年間獄中生活を強いられていた人ですが、アパルトヘイト撤廃後、初めて白人、黒人を問わず、すべての人たちによる大統領選で選ばれました。人々からは「選挙には勝ったが、果たして国を率いていけるか」と揶揄されたりしました。この映画では、マンデラ大統領がどのように国づくりをしていったのかが、事実にもとづいて、ラクビーチームの成長と共に描かれています。マンデラ氏は今までの黒人に対する迫害に復讐することなく、融和政策をとって国造りをしていきました。この映画は、人間が持つ復讐心に対して、インビクタスー負けない者たち、負けずに、赦し、愛によって勝利しているのを、教えているなあと思いました。
 さて、今朝の箇所に記されているエジプトの大臣、ヨセフも長い間、獄につながれていました。そうなったのは兄たちの仕打ちー穴に投げ捨てられ、そして奴隷として売られたことに端を発しています。その後、ヨセフは数奇な運命を辿り、エジプトの大臣となります。彼はその権力によって兄たちに復讐したのでしょうか。そうではありません。むしろ、赦して兄たちと新しい関係を築いて生きていきました。今朝の箇所はヨセフ物語のクライマックスの部分です。ヨセフは兄たちと会って、兄たちが変わっていることを知りました。自分を犠牲にして弟の代わりになり、父を守ろうとする兄ユダを知って、ヨセフは平静を装うことができなくなっています。ヨセフは自分の家来たちに部屋から出るように命じると、「わたしは、ヨセフです」と告白し、声を上げて泣いたのです。泣き崩れました。兄弟たちはあまりの出来事に声も出ませんでした。「わたしは、あなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。わたしをエジプトに売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。なぜなら、神が命を救うために、兄さんたちよりも先にここにお遣わしになったのです。神がわたしをみんなより先にお遣わしになったのです。そうされたのは、兄さんたちを生きながらえさせ、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは神なのです」と。
 ヨセフはここではっきりと何度も神が、神が、と言っています。こうしたことで解るのはヨセフ自身も変えられているということです。少年時代のヨセフは夢を見ると、「わたし」の束が起き上がり、「わたし」の束に兄さんたちの束がひれ伏したと言っていて、私が中心でした。それが今や神中心となっています。
 ヨセフは過去のヨセフではありません。兄たちから受けた仕打ちに、仕返しをして生きようとしたのではなく、神による大きな計画の中に生かされている自分を知り、神の恵みの中に生かされていたと証ししています。ヨセフは変えられて、神様による救いの計画をはっきりと信じ受け止めて、兄たちにはっきりと言っています。「命を救うために、神がわたしをあなたたちよりも先にお遣わしになったのです。神がそうされたのは、あなたたちを生きながらえさせて、救いに至らせるためだ」と。ここには、ヨセフの赦しの愛が表されています。兄たちを赦して、新しい関係に生きる歩みをしようとしていることが解ります。そしてそれよりももっとヨセフが言おうとしていることは、私を先にエジプトに遣わされたのは、神様だということ、そして、自分の人生は兄たちを救いに至らせるために与えられた人生、神様の救いの計画の中にある人生を歩んだのだと言うことなのです。
 ですから、ヨセフ物語は神の救いの物語だとも言えます。神が、罪を犯し、兄弟が憎み合い、殺しかねないほどであった者たちを新しい関係に生きるように導かれた救いの物語なのです。
 そして私たちは、旧約聖書のヨセフ物語を読み、新約聖書を読んでいく時に、私たちは知らされます。イエス・キリストがこの世に遣わされたのは、何のためであったのかを。ヨハネの手紙一の4章9節、10節に「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。」とあります。生きるため、それは救われるためです。「神が、わたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
 今週の水曜日は灰の水曜日で、ここから受難節となります。イエス様が私たちの罪を贖うために十字架への道を歩まれたことを深く覚え、自らの罪を悔い改めて過ごす期間です。イエス様はこの世に遣わされました。その目的は「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」です。世が救われるため、皆さんが救われるためです。人類の歴史、それはヨセフとその兄弟たちのように、罪の歴史です。このように罪があふれている人の世に、神はイエス様を送ってくださいました。それは私たちが救われて、生きる者となるためなのです。
[PR]
by higacoch | 2011-03-07 16:51 | 創世記