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2011年2月27日

「人間の罪の背後に」 創世記37:12-36, Ⅰコリント15:1-4

 ヨセフ物語は37章から始まります。1~11節を読みますと、ヨセフがいかに生意気で無神経な少年だったかが解ります。その上兄たちは異母兄弟で、父ヤコブはヨセフを寵愛しました。こうしたことは兄弟の不和の大きな要因でした。そんなある日、父は羊を飼って草地を求めて移動していた兄たちの様子を知りたいと思い、ヨセフに弁当を持たせて遣わします。ヨセフは兄たちの後を追って人に尋ねたりして、兄たちを探し出しました。一方、遠くの方でヨセフを見つけた兄たちは、チャンス到来、ヨセフを殺して穴に捨ててしまおうとヨセフ殺しを企みます。すると長男ルベンが命まで取るのはと言って、生きたまま穴に投げ込むことにしました。(ルベンは後でヨセフを助け出すつもりでした。)ヨセフは上着を脱がされ、穴の中に投げ入れられてしまいました。その後、兄たちは別の処で弁当を食べ始めました。その時、そばをラクダを連れてエジプトに向かう商人たちが通ります。そんな彼らを見ながら、しばらくして兄ユダが「ヨセフを穴に投げ込んでも何の益にもならない。それよりはヨセフを奴隷として商人たちに売った方が得ではないか」と提案したので、ルベンがヨセフを入れた穴に行くと、もうそこにはヨセフはいませんでした。ほんの少し前に他の商人がヨセフを売ってしまっていました。ルベンはショックを受けましたが、時すでに遅しです。兄たちは奪い取ったヨセフの上着を野の獣にかみ殺されたようにぼろぼろにし、山羊を殺してその血を服に染み込ませて偽装工作しました。そして白々しく「これを見つけました。あなたの息子の着物かどうか、調べて確認してください」と父のもとに送り届けます。これを見た父ヤコブは自分の服を引き裂き悲嘆にくれました。周りの者が慰めようとしましたが受け付けませんでした。早くヨセフのもとに行きたいと死さえ願うようになったのです。
 ヤコブの家族はいろんな問題を抱えています。殺人などの罪の行動が暴発すれば、どんな事件が起こるのか解らないような家庭だったと言えます。兄たちの思い通りにヨセフ殺しは果たせませんでしたが、ここには人間が犯す罪の行動が見られます。しかし、その罪の背後に、罪ある人間たちを超えて貫かれている神の計画が見えます。罪によって堕ちていく人間たちを救おうとされている神の憐れみがここにあります。今朝の箇所ではまだはっきりとは見えませんが、この後の出来事においてはっきりと見えてくるのです。ある部分だけを見ていく時、神の救いの計画を見出しにくいのですが、確かにあるのです。神は人間が織りなす罪を貫いて神の救いの実現へと向かわれたのだと聖書に記されています。神の言葉である聖書に、神の救いの計画が記されているのです。それはまさにイエス・キリストの出来事においてはっきりと言えます。人間が織りなす罪の中で、イエス・キリストは殺されていきました。罪によって人はイエス・キリストを十字架で処刑し殺しました。しかし、神はその背後にイエス・キリストによる救いの計画を進めておらました。そしてその十字架の出来事によって人間の救いを成し遂げて下さったのです。
 伝道者パウロは言っています。今朝の箇所に「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、私も受けたもの、すなわち、キリストが聖書に書いてある通り、わたしたちの罪のために死んだことだ」と。人間の罪の背後に神の救いの計画があり、イエス・キリストによって成就されたということです。
 神は、人が罪ある行動で堕ちていき、どうすることもできない状態になっていくことから救われたのです。神の言葉である聖書を通し、イエス・キリストの十字架と復活をもって人類の救いの完成を知るのです。
 人は罪を犯します。しかし神はそのような人間を憐れんで下さいました。そして自らの命をかけて愛して下さり、人間を超えた所で、人間の罪の背後で神の救いの計画が進められて、イエス・キリストの十字架の死によって、救いを成就して下さったのです。それほどに私たちは神に愛されているのです。
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by higacoch | 2011-02-28 16:51 | 創世記

2011年2月20日

「和解の出会い」  創世記33:1-20、コリント二5:18-21

 人は誰しも人との関係の中に生きています。その関係の中で大事なことを学びたい。
 今朝与えられた創世記33章は、これまでのヤコブ物語の続きです。ヤコブは双子の弟、兄はエサウ、2人は母の胎内にいる時から兄弟喧嘩をしていました。彼は生まれる時に、兄のかかとをつかんでいたので、ヤコブ―「かかとをつかむもの」という意味―と名付けられました。これにはヤコブに「先を越されてたまるか」という心があり、悪知恵で自分の利益を求めるという意味があります。ヤコブは成年になって長男の権利を兄から横取りします。さらに兄に成り済まして父を騙し、父から兄への祝福を奪い取りました。このように手段を選ばず、欲しいものは手に入れていくような人でした。しかし兄の祝福を奪ったことで怒りをかい、兄が弟殺しを企てたので、家を出ていかざるを得ませんでした。その逃亡のある夜、荒野での眠りの中で神が夢の中に現われてヤコブに語りかけたことを先週学びました。
 その後、彼は伯父さんの家に逃れ、そこで生活します。従妹に当たるラケルに恋心を持ち、結婚を願い、そのために7年間働きます。そして結婚しましたが、相手は姉レアでした。ヤコブは騙されたのです。伯父はこの地方では上から順に結婚していくことになっていると言い、次女ラケルと結婚したいのなら、後7年働かなければいけないと言いました。そこで後ラケルと結婚し、7年働きました。さらに6年、合計で20年留まりました。その後、神は再びヤコブに現われ「あなたの故郷に帰りなさい」と命じられ、ヤコブは家族と共に故郷に向けて帰ることになりました。
 ただ彼が故郷に帰るについては大きな不安がありました。それは兄との関係です。兄に復讐心が今もあるのではないか、今だに私を殺そうと考えているのだろうかと故郷に近づけば近づくだけ不安が大きくなっていきました。
 そこで兄の心を調べるため使者を送り、その使者が戻ってきて兄が400人のお伴を連れてこちらに来ることを告げた時、さらに恐れが大きくなりました。自分を捕えるために来るのではないかと思い込んでしまい、彼は必死になって神に祈りました。「あなたが故郷に帰りなさいと言われ、またあなたは私に幸いを与えると約束してくださったではないですか、どうか、兄から攻撃されないように助けて下さい。私は兄が恐ろしいのです。兄は攻めてきて、わたしだけではなく妻や子どもをも殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」なんとかして兄の憎しみを抑えようと兄への莫大な贈り物、山羊、羊、ラクダ、牛、ロバなど550頭を用意して、贈ります。それでも兄と会う前夜、不安は極に達して、必死にヤコブはある者と格闘します。これは神様との格闘であり、執拗に祈っています。彼は一睡もせずに、夜が明ける頃まで必死に神と格闘し、祈り続けました。神は彼に新しくイスラエルという名を与えました。これは彼がヤコブ(人間の悪知恵で生きる者)からイスラエル(神に従って生きる者)とへと変えられたことです。彼が罪を犯さない天使のようになったと言うのではありません。これまでの生き方が神によって方向づけられたのです。
 夜が明けて、先を見ると兄エサウが人々を連れてやってくるのが見えました。ヤコブは昨夜のように恐怖におののくばかりではありませんでした。4つのグループに分けてその先頭に立ったヤコブは兄に会うまで7度地にひれ伏したとあります。7度と言うのは、数としての7回ではなく、何度も何度も地にひれ伏したということです。兄エサウは、走り寄ってヤコブを抱きしめ、首を抱いて口付けし、泣きました。ヤコブの心の中にあった不安と恐れは全くの杞憂でした。兄は一言も、あの時、お前は俺を騙したとか、お前はよく俺のものを盗んだとか、責めてはいません。ある人は20年と言う年月が兄の怒りを鎮めたと言うでしょう。時が解決してくれたのだと。しかし私はそうは思いません。人は案外、恐ろしい心を持っています。憎しみ続ける心、赦さない心を持っています。絶対に赦さない、いや赦してたまるものかと心の中で叫んでいたり、一生赦すものかと心に決めている人がいたりします。こうしたことを考えると、兄が憎しみから愛へと変えられたのは、神によってです。この二人に和解の出会いを、神が与えてくださったのです。神は断絶した関係のままでいいと思われたのではなく、和解へと生きるように導き、二人を出会わせて下さったと知らされます。そして、神との関係において、和解へと生きるように導いて下さっていることが解ります。
 この和解の関係は私たちの人間関係だけでなく、私たちと神様との関係においても言えることです。私たちは罪を犯す、ヤコブのような者です。ヤコブが兄を恐れたように、私たち自身には神に近づけないでいるところがあります。神を遠ざけてしまっています。しかし、神は私たちとの関係を新しいものとするために、神の方から私たちに近づいて下さったのです。神の独り子であるイエス様をこの世に送って下さいました。その御子によって和解を与えて新しい関係に生きるように神が救いをなして下さったのです。
 伝道者パウロが言っています。「神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」つまり、神はキリストによって世をご自分に和解させ、人の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちにゆだねられたのです。私たちもはキリストの使者の務めを果たしていきましょう。
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by higacoch | 2011-02-26 16:44 | 創世記

2011年2月13日

「あなたと共に」 創世記28:10-22, マタイ福音書1:23

 前章には、ヤコブが父を騙し、兄の祝福を奪ったことが記されていました。祝福を奪われた兄は弟を激しく憎み、弟を殺す計画を立てます。ただ父の死期が迫っていると思い、父の死後に実行しようと決めます。それを知った母は、すぐに弟に知らせ、早く逃げるように勧めました。そこで弟は逃げます。母は逃亡を隠すために、表向きは嫁探しに出かけたことにしています。
 弟ヤコブは伯父さんのところに出かけます。ヤコブの胸の内はどうだったでしょうか。兄から祝福を奪ったことによって、このように家を離れざるを得ない状況になると想像していたでしょうか。私は想像できなかったのではないかと思うのです。罪を犯したヤコブ、その結果の独り旅です。家族から離れ、家に戻ることはできない、縁が断たれたような状況、現代の無縁社会に生きる一人のようです。
 彼は、孤独でした。荒野は夜は冷え込み、野宿の体は芯まで冷えます。しかもこの旅は準備されたものではなく、苦しい逃亡の旅なのです。この旅は彼が犯した罪のゆえに負わねばならなかった悲劇の始まりだったのでしょうか。これから幾つものの不幸が彼を襲い、さらに天涯孤独になっていく過程の始まりだったのでしょうか。そうではありません。聖書を読みますと、回復への道、祝福への道を歩み始めていると言えるのです。孤独、寂寥、不安などを彼の知恵や能力、実践力によって解決していったのではありません。そうではなく、神が彼の夢の中に表れ、神が彼の人生を立ち直させる歩みへと導き、力を与えられたのです。
 以前、神は御自分を現わして、アブラハムを召されました。次に、アブラハムの子であるイサクに現われました。そして今やヤコブにも神は現われて、彼に祝福を約束されました。
 神はヤコブに、「あなたは罪を犯したので滅びる」と予告されたのではありません。「あなたは何と大きな罪を犯してしまったのだ」と糾弾して責められたのでもありません。罪を犯したヤコブに呪いを宣告されたのではなく、祝福の約束を告げられました。そしてあなたを用いて祝福すると言われています。これから先、こうなると示して下さっているのです。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで決してあなたを見捨てない。」と言われました。これは、ヤコブのこの後の人生において大きな力となったでしょう。
 では、この後のヤコブはどうだったでしょうか。彼は、幾つものの試練に会います。苦労します。父を騙したヤコブが人に騙されることが起こります。しかし、自分で復讐するのではなく、神を信じて誠実に生きていくのです。
 彼は夢から覚めて、知らされたのです。こんなところには神がいないと思っていたのに、主なる神がおられるということに気付かされたのです。私たちの人生の大変な時に、人生の荒れ地、苦しみの極致にも神は共におられる、しかも神ご自身が語りかけて下さり、そこで神が出会って下さいます。否、そういうところでこそ、神の声が聞こえてくる、神に出会うのではないでしょうか。神はあなたを見捨てられてはいない、あなたを愛しておられるからです。神は苦難を通して、神との出会いを与えようとされているのではないでしょうか。
 ヤコブが夢から覚めて初めにしたのは、枕にした石を取り、記念碑として立て、その先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けました。そしてこの神との出会いを感謝して、誓願を立てて「神が共におられ、私が歩む旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせて下さり、主が私の神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべてあなたが私に下さったものの十分の一をささげます。」と誓っています。
 彼はここではじめて、「主がわたしの神」と言っています。主を、私の、自分の神とする信仰があり、神への感謝と応答の誓いが表明されています。ヤコブの信仰告白と言ってもいいでしょう。彼は、これから多くの試練を受けるのですが、この時与えられた信仰によって、生きていくことができたのです。
 ここでヤコブに表れて、あなたと共にいると語りかけて下さった神は、私たちに対して、神の独り子、イエス様を与えて下さいました。イエス様の名は、インヌマエル、神は我らと共におられるという意味です。まさに神はどんな人間をも見捨てたりしないということであり、私たちと共にいて下さる方だということです。イエス様が私たちに与えられていることによって、神は共にいて下さっていると言えます。それほどに私たち、一人一人を愛して下さり、祝福へと導いて下さっているのです。
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by higacoch | 2011-02-13 16:40 | 創世記

2011年2月6日

「こんな家族でも愛されている」 創世記27:1-29,ガラテヤ3:8-14
                               
 今朝は、私たちカンバーランド長老教会の教会設立記念主日です。私たちのカンバーランド長老教会は、この名前で、大きく二つのことを現わしています。一つは、「カンバーランド」という名前です。カタカナであり、ちょっと怪しい教会ではと思われたりすることもありますが、アメリカのケンタッキー州とテネシー州にまたがる地方の名です。この地域はリバイバル運動、信仰復興の地域として知られ、聖書地帯とも呼ばれているこの地域で私たちの教会は生まれました。もう一つは長老による政治形態をとる教会で、宗教改革者カルヴァンの流れを汲む改革派の教会なのです。
 さて、今朝、与えられた創世記27章は、4人家族の、後々まで禍根を残すような事件が記されています。父は長男を愛し、母は次男を愛し、それぞれを偏愛している夫婦、息子二人も仲が悪く、争いが起こらぬはずがない状況でした。そんな中で、父は高齢となり、死ぬ前にどうしても長男に祝福を与えようとします。その二人の会話を聞いた母は弟に、兄に変装し、父から祝福を奪えと勧めたのです。それを聞いたヤコブはおどろきました。「でも、兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌はなめらかで、お父さんが私に触れれば、だましていることが解ります。そうしたら、祝福どころか、反対に呪われる」と言うと、もしバレたなら、その時は、私がその呪いを引き受ける、とまで言って焚きつけました。心配するヤコブを説き伏せて、母リベカは祝福をヤコブがもらえるように、巧妙に策を練って進めました。
 ヤコブは焦っています。「料理をどうぞ。」ではなく、「食べて、祝福をわたしにください。」と言っています。「お父さん、早く食べて、早く、祝福をください」と言いたかったでしょう。なぜなら、いつ兄エサウが帰って来るか解らないからです。もしここで鉢合わせしたら、もう万事窮すです。言い逃れはできません。早く目的を達して、ここを一刻も早く立ち去りたいのです。
 父は、怪しんで、自分自身の一つ一つの感覚、視覚、聴覚、触覚、嗅覚で確認します。ただ、加齢のために、目は霞んでいて、耳も聞こえづらくなっています。また腕や首に触って、毛深いのを感じて、ヤコブだと見破ることができませんでした。ですが、最後に、どうしても気になったのでしょう。「お前は本当に、わたしの子、エサウなのだな」と念のために聞いています。ヤコブは、語彙を強めて「もちろん」と答えています。ヤコブは、父が腕に手をのばして、確認し、首を触っていたときに、どのような思いだったのでしょうか。
 こうした争いの火種を持っている家族、また実際に崩壊したような家族が、どうなっていくのか、この先を読みたくなります。サスペンスドラマのように感じますが、この後、悲劇的な事件になっていくかと言いますと、そうではありません。今朝の出来事で、兄エサウは、激しく弟ヤコブを憎み、殺す計画を立てます。ただ、父イサクが生きている間は、我慢しようと考えます。父もそう長くないと思っていましたので、死んでから実行しようと考えたのです。この兄の弟殺人計画を知った母は、すぐにヤコブを呼んで、「急いで伯父さんの家に逃れなさない」と勧めます。その逃亡を隠すために、リベカはイサクに、ヤコブの嫁を自分の郷里で見つけるためにとの理由づけをするのです。それは、日頃、地元の人の兄エサウの嫁と折り合いが悪かったので、ヤコブの嫁は、地元ではなく、私の郷里の人からにしたいというのです。表面上は、ヤコブは嫁探しですが、実は兄エサウからの逃亡でした。こうして、弟ヤコブは、家から出ていくことになりました。この後、ヤコブは母リベカと再会することはありませんでした。こうしたことが、この家族に起こりますが、この家族は、不幸の渦に巻き込まれて、悲劇の人々となっていくのでしょうか。
 そうではありません。弟ヤコブは、この後、多くの苦しみ、試練にあっていきますが、そうした試練を通しながら、彼は成長していき、彼だけではなく、兄エサウも神によって清められて兄弟の和解が与えられていくのです。この家族は、祝福へと導かれていくのです。
 こんな家族でも神は決して見捨てたりされていないのです。むしろ憐れんで愛して下さいました。この家族だけではなく、全人類の家族、わたしたちすべての人たちを、神は憐れんで下さり、祝福へと導いて下さっています。それは、神が御子なるイエス様を、この世に送ってくださったことによって明らかになっているのです。それほどまでに神は人間を愛されたのです。ヨハネ福音書3章16節に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」滅んでいかないように、憐れんで、愛して下さいました。神は、皆さんの家族をも愛されて、救われるように導かれています。それは何よりもイエス・キリストを見上げる時に、深く知らされていきます。主の恵みを覚えて、歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2011-02-10 16:36 | 創世記