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2011年1月30日

「信仰の戦争」  詩編 2:1~6、ローマ 7: 19~25
                             斎藤 伸治 兄

 戦争についての体験から、その本質について私見を述べてみたい。争いの原因は何か?特に戦争の遂行者の神をも恐れないような戦争(仕方)について言えば、命を粗末に扱い、実に罪深いように思えてなりません。神様は我々を御自分に似せて理想的に造られました。命を粗末にする戦争をはじめ、殺人、自殺、虐待、いじめ等、神の御旨に反する事であります。しかも、これらに共通することは、不条理=不信仰ということではないでしょうか!?そして、これらの不条理不信仰はその連鎖を引き起こします。虐待の父親にその理由をきけば、「躾のためにやりました」母親は「何故やったか、わからないが、そのようにやってしまったのです。」と言うような訳の分からない返事が返ってくると言われます。不条理に育てられた子どもは 大人になっても、大脳深くインプットされた不条理の情報は消えず、繰り返すといわれております。故に、戦争は続きます。愛なく育てられた子は愛を知りません。この事も同じ理屈ではないでしょうか?
 皆様も同じだと思いますが、私は戦うことが不得手です。特に戦争については福井市の空襲(1,600人死亡)から受けたショックは今も忘れられません。また、小田実さんの証言によれば、大阪の空襲は敗戦の前日(1945.8.14.)であり、この日に難死された方々の無念さは表現しようがありません。戦争が最大の不条理また不信仰だと思います。
 第二次大戦では3,100,000人が不条理に死にました。遺族が受けた心の傷は戦後65年経って、一見!消えたように見えます。しかし、不条理は繰り返しています。自殺者は毎年3万人を超えると言われ、戦後65年単純計算では1,950,000人になります。これでは、戦争は続いていると言っても過言ではないのでしょうか!
 この悪の連鎖を断ち切るにはどうしたら良いのでしょうか。この事に対処するには信仰の武具を身に付けるしかないのでは?わたしも、戦争の不条理な仕打ちを受けておりますが、幸にして、福音に接することが出来ました。パウロはローマ人への手紙で言いました。「私は福音を恥としない。なぜなら、それは信じる者にとっては神の救いの力だからです。福音の中には、神の義が至る所に示されています。それは、義人は信仰によって生きると書いてある通りである。」と、このように人生を正しく生き遂げるには、信仰によるしか、我々の道はないと断言して良いのではないでしょうか!そこで、旧知のこととして、あまり話題になりませんが、あえて、もう一度信仰について振り返って見ても良いのでは?と思います。
 パウロは信仰の事を明確に表現しています。「望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認する事です。」と。では未だ見てない?事実とは何でしょうか?
 イエス・キリストの十字架のことではないでしょうか!2000年前の事実を弟子たちのように目の当たりにすることは出来ませんが、確認することは出来るとおもいます。また、我々の望んでいる事とは何でしょうか?特に年寄りにとっては永遠の命が欲しいのです。復活の命と言っても良いかもしれません。信仰とは神を信じて仰ぎ見る事と言うよりは、イエス様の十字架を信じて復活の命の約束に生きると言う事だとパウロは言います。
 いずれにしても、信仰によって義とされると言う福音を覆い隠す事は出来ません。パウロは言います。「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって私たちから出たものでないことが明らかになるために、私たちは四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、打ち倒されても滅ぼされない。」(コリント二4:7)と。力強く励まされます。先に私は戦いが嫌いですと言いましたが、我々は「戦わずして勝つ」のが最善ではないでしょうか。パウロの手紙の内容はパウロが受けた迫害に対して如何にして戦ったか。それは、「イエス・キリストの優しさ:寛大さをあなた方に勧めます!~、私たちは肉によって歩いていますが、肉にしたがって戦っているのではありません。」(コリント二10:1~3)に書いています。これこそが「戦わずして勝つ」の要哲ではないでしょうか!?信仰は免疫細胞のように思います。これにはいろいろな種類があってそれぞれの役割が在り、全てがバランス良く機能しないと、ヴールスに犯されてしまう。信仰の免疫細胞は礼拝や祈祷会に出席して活性化させなければなりません。
 これに対して不条理・不信仰は悪性の腫瘍のようです。これはほっておいても正常細胞をも餌食にして自己増殖していきます。
 このような不条理に対しては、永遠の命の約束を確信し、イエス・キリストの十字架を確認して、免疫力をUPしていかなければなりません。具体的に言い換えれば、聖日礼拝に出席することです。
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by higacoch | 2011-01-31 16:32 | ローマ

2011年1月23日

「あなたがたが与えなさい」 マタイ14:13-21
                  唐澤健太牧師(国立のぞみ教会)


 主イエスは、人里離れた場所で、5000人以上の人々がいる状況において、弟子たちに「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と命じられた。それだけの人に食べる物を与えることはとても大変なことだ。並行個所のヨハネ福音書を読むとこのことを問われた弟子のフィリポは「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(ヨハネ6:7)と答えている。つまり、200日分の賃金を充ててもまだ不十分だというのだ。弟子たちの手元には「パン五つと魚二匹しかありません。とてもじゃないけど、わたしたちが食べ物を与えるのは無理な話だ」。そう答えざるを得ない状況である。しかし、イエス様は弟子たちに「あなたがたが」ととても強調して命じられる。他の誰かではなく、他ならぬあなたがたが彼らに食べ物を与えなさい、と。
 五つのパンと二匹の魚で5000人以上の人に食べ物を与えることは私たちには不可能である。しかし、「私たちには不可能だ」ということは、「私たちには何もすることがない」ということではない。クリスマスの物語で母マリアが主イエスを身ごもる時に「どうして、そんなことがありましょうか」と天使に答え時、御使いは、「神にできないことは何一つない」と告げた。そしてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と自らを差し出し、神の御業を現わす器となったのだ。
 主イエスは「それをここに持ってきなさい」と弟子たちに言われる。あなたたちが持っている五つのパンと二匹の魚を私の所に持ってきなさい! 五つのパンと二つの魚があるではないか! それを私のところに持ってきなさい。五つのパンと二つの魚を差し出すことをイエス様は弟子たちに求めておられる。
 信仰とは、「~しかない」という否定を、「~がある」という肯定へ変える力である。この信仰の力を覚えておきたい。イエス様から「他ならぬあなたたちがしなさい」と命じられた時、私たちにとって大切なことは、正しい状況分析や現状分析をしたり、それをするにはお金が足りない、人手が足りない、力がたりないと現実的な判断を真っ先にすることではない。私たちにとって何よりも重要なことは、私たちの「あるもの」をそのままイエス様に差し出す信仰である。
 イエス様は何もないところから奇跡をされたのではない。弟子たちが差し出したパンと魚を用いて奇跡を行われたのだ。イエス様は、弟子たちはご自身の働きに弟子たちを巻き込まれる! 「他ならぬあなたがたが」。それはまさに今、私たちに響く言葉である。神様の御業に私たちが用いられるのです。
 イエス様が弟子たちに「食べ物を与えなさい」と命じられてことは、あなたたちが「命を分かち合いなさい」と命じられていることだ。極めて今日的な課題である。
 一人一人の人間は主イエスを通して「あなたは私の愛する子」と神に宣言されている存在だ。この神の宣言を、福音を宣べ伝える使命が弟子たちにある。それを「あなたがたがしなさい」と今日、わたしたちに命じられているのである。
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by higacoch | 2011-01-29 16:16 | マタイ

2011年1月16日

「愛する妻の死を通して」 創世記23:1-20、ローマ14:7-8

 先週、映画「おくりびと」を見ました。主人公は納棺師、丁寧に遺体に化粧し、死の装束をし、棺に納める仕事をする人です。この映画を見て、人を弔うということを私たちに問いかけている映画だなと思いました。今の日本は病院で亡くなる方が多く、家から死が遠のき、身近に死を経験することが少なくなりました。死を意識することがない時代となってきています。このことは、天童荒太氏の小説「悼む人」からも感じられます。この問題は、最近の「無縁社会」という問題にも表れてきていると感じざるを得ません。「孤独死」「無縁死」、身元が解っても引き受け手がなく、遺骨の引き取りを拒否する人たちが増えてきています。そして「葬儀をしなくてもよい」という人が多くなり、実際、葬儀をせず、病院から直接、火葬場に送って火葬する「直葬」が増えて、東京では3割近くになっているとのことです。さらに「お墓もいらない」となってきています。
 今朝与えられた箇所はアブラハムが最愛の妻サラを亡くし、お墓の土地を購入して葬った箇所です。妻サラは夫アブラハムと共に故郷を離れ、一緒に旅立ちました。苦労を共にし、苦難の旅の生活に耐えて、共に歩んできました。サラの生涯は127年とここで初めて記されています。聖書を読むと夫アブラハムとは十歳違いと解ります。サラ65歳の時に旅立ち、その後の旅生活は62年間で、人生のほぼ半分です。
 夫アブラハムは妻サラを亡くし、とても悲しみました。胸を打ち、悲しんだとあります。その亡骸の傍らに、どれ位いたのでしょうか、そのことは記されていませんが、長く嘆き悲しんで時を過ごしたことでしょう。その後、彼は立ち上がり、地元のヘト人のところに行って頼みました。「わたしは、あなたがたの土地に滞在している寄留者ですが、どうか、あなたがたが持っている土地を譲っていただけないでしょうか」と。寄留者というのは、自分たちが安心して住める場所、財産として所有地を持っていないということです。つまり旅人です。そんな生活をしてきたアブラハムは、妻を葬ってやりたかったのでしょう。どうしても土地が欲しかったのです。アブラハムの願いを理解した人たちは喜んで土地を差し上げますと申し出ています。ですが、アブラハムはその土地(墓地)を貰うのではなく、買いたいと強く願っています。そして最終的に、結構な値段で土地購入しています。売買は地主と個人的にしたのではなく、公の場で正式な手続で購入しました。そしてアブラハムはその土地(墓地)に妻サラの遺体を納めました。
 創世記を読んでみますと、お墓のことが出てくるのは、ここが初めてです。これまで死んだ者に対しての丁寧な弔いが記されてはいません。ここで丁寧に遺体をお墓に納めたと記されています。このことは、神がそのように導かれたのだとしかいいようがありません。アブラハムは妻の死によって土地(墓地)を購入しました。実はこの地は神が約束された地だったのです。それによって、後に天に召されたアブラハムもこのお墓に葬られます。さらにその独り子イサクもイサクの子、ヤコブもここに葬られます。このように神の約束の地、カナンに土地を得ることができました。しかもこの地を手に入れる時に、地元の人と争って土地を得たのではなく、平和的に得ています。妻サラを亡くした悲しみは、約束の土地を得ることにつながっていたのです。この様に、悲しみは神によって備えられていたものと教えられます。
 私は、アブラハムが妻サラの遺体をお墓に納めたことを思っていた時、もう一人の方の葬りのことを思いめぐらしました。それは新約聖書の4つの福音書が記したイエス様のことです。その遺体は他の犯罪人の遺体と一緒に崖に投げ捨てられることなく、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフとニコデモとによって丁寧にお墓に葬られました。私たちは、毎主日、信仰告白の時に使徒信条を告白していますが、そこに「死にて葬られ」とあります。事実、イエス様は十字架の上で死なれ、その遺体は墓に納められました。しかしそれですべてが終わったのではありませんでした。イエス様は死を通して、復活の新しい命を現わされました。お墓が、新しい命の出発の場所となったのです。そしてこのことは私たちにも言えるのです。
 神はアブラハムを導かれ祝福されました。そして彼は妻サラの死を通してその死で終わらないものを見上げていたと思います。なぜなら、悲しみに伏していたところから立ち上がったとあるからです。この「立ち上がり」はイエス様の復活とつながっています。アブラハムは信仰によってイエス・キリストを見上げていたのです。
 神は死を通して新しい命を与えられました。それは悲しみで終わらないということです。どんなに深い悲しみでも癒されない悲しみはありません。なぜなら悲しみを通して喜びが与えられると信じているからです。私たちの地上の旅路には、多くの悲しみ、苦しみがあります。しかしそれは喜びに、希望につながっています。しっかりと歩んでいきましょう。主イエス様を見上げて。
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by higacoch | 2011-01-22 16:12 | 創世記

2011年1月9日

「主の山に備えあり」  
       創世記21:1-4,22:1-19, ヨハネ福音書3:16
 
                             
 今朝、与えられました聖書箇所は、私にとって読むのがとてもつらい箇所であります。それは私たち夫婦に最初に与えられた一人娘を突然事故で亡くしてしまった、その悲しみを思い起こすような箇所だからです。
 神はアブラハムに一人っ子である「イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられました。これを聞いた時、彼は自分の耳を疑ったかもしれません。「どうして」と。彼は非常に悲しんだと思います。いや怒ったかも知れません。あるいはショックで言葉も出なかったかもしれません。「息子ではなく、代わりに私ではいけないでしょうか」と思ったかもしれません。しかし、神ははっきりとイサクをささげなさいと命じられたのです。
 神の命令をよく考えてみますと矛盾しています。以前神は、アブラハムにあなたの子孫は星のように増えて大いなる民になると約束されました。しかし、命令された通りイサクをささげてしまえば、アブラハムの血筋は断たれてしまいます。子孫は生まれず、神が約束されたことは実現しなくなります。つまり神の命令に従えば、神の約束が実現しないのです。実現するためには、神の命令に背かなければなりません。矛盾するのです。
 この矛盾は、宗教改革者マルチン・ルターもカルヴァンも同じように認めています。この矛盾を認めつつ、ルターは「信仰とは、神の中にあるこの奇妙な矛盾に応答することである」というのです。信仰とは約束に対しても「はい」と認め、命令に対しても「はい」と認めることだというのです。解ったようで解りにくいのですが、アブラハムはまさにそのように応答したのです。
 アブラハムにとって神の命令は本当に厳しいものでありました。それは親として子を失うこともそうですが、その子を自分の手で捧げなければならなかったからです。焼き尽く献げ物は、生きたまま焼くのではなく、血を流し殺してから焼くのです。それを自分でなさなければならない彼の苦しみは計り知れないものがあります。彼の苦しみの深さが彼の沈黙に表れています。
 彼は耐えがたい苦しみを味わいながらも、神の命令に背かず、歩み出しています。ただ黙々と準備し、指定されたモリヤの地に向かった出発します。信仰とはこうした神の前に自分一人で立たなければならないことがあるのです。神に命じられた場所に着くと、黙々と祭壇を築き、その上に薪を並べて置き、イサクを縛って、祭壇の薪の上に載せます。刃物を持ってまさにイサクを殺そうとしたその時、主の使いが彼に呼びかけ、「その子に手を下すな」と命じました。そして神によって供えられた雄羊を捧げました。そこで、アブラハムはこの場所を「ヤーウェ・イルエ」(主は備えてくださる)と名付けました。
 ヘブライ人の手紙では、こう言っています。「信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。」と言っています。
 彼が信仰によって生きた、信仰の人だったといわれるのは、この試練を乗り越えたことによって、言われるのでしょう。もし、この最後の試練に勝たなかったなら、信仰の父とは言われなかったのだと思うのです。彼は、この試練において、信仰に生きる人生の集大成を成し遂げたと思います。
 この箇所から、私たちもしっかりと学びたいのです。彼への神の命令は、二つの枠の中にあるということです。それは1節と14節ですが、1節には「神はアブラハムを試された」とあり、14節は「神は備えてくださる」とあります。つまり、私たちは試練に会うのです。試練のない人生はありません。しかし、試練は神が与えておられるのです。そして試練と同時に、神が道を備えてくださいます。伝道者パウロもこう言っています。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」と。
 試練と同時に、逃れる道を備えてくださる、つまり試練と備えが対になっているのです。どんな時でも私たちは神の御手の中に生かされているということです。神は試練を通して育てて下さいます。そして信仰によって生きる者に必ず道を備え、祝福して下さるのです。ヘブライ人の手紙12:11には、こうあります。「 およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」
 最後に学びたい。アブラハムは、愛するわが独り子イサクをささげよ、と命じられ、モリヤの山に行き、まさに献げんとした時、神は「イサクに手を下すな」と命じられました。献げる、これは、神に与える行為であります。アブラハムが一人っ子を与える前に、神が制止してくださいました。しかし新約聖書には、神が御子イエス様を私たちに与えられたことが記されています。ヨハネ福音書3章16節には、こうあるのです。「神はその独り子を与えるほどこの世を愛してくださいました。それは御子を信じる者が一人でも滅びることなく、永遠の命を得るためです」と。父なる神も苦しみながら、私たちを憐れんで、御子を与えて、愛してくださったのです。聖書は、最終的に、私たちにこう語りかけています。神が最後に、備えてくださったのは、御子なのだと。神が備えてくださった、イエス様の救いをしっかりと受け止めて、生かされて生きていきましょう。
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by higacoch | 2011-01-15 16:05 | 創世記

2011年1月2日

「 出発 」  創世記12:1-4、ヘブライ11:8-16

 新しい年を迎えました。この年は教会標語に掲げましたように「出発」をしようと祈り求めています。それは昨年の11月の教会員総会でお話ししました三つの出発です。
 第一は、主の日の礼拝を守り、そこで神様の御言葉を聞いて、そこから出発していくということです。一週間は主の日から始まります。この日に礼拝を捧げ、御言葉を聞き、信仰によって、小さな出発をしていくこと、これは神様が一人ひとりを送り出して下さっていることなのです。  
 第二の出発は、私たちは先に主イエス様の救いの恵みに与(あず)かった者であり、その救いの恵みを隣人に伝えるように、出発することです。人のつながりが希薄になってきている時代、寂しく孤立し、生きる希望を失ってきている人たちが多くいます。神様は御子をこの世に遣わし、神様の愛をもって私たちを愛し、救って下さいました。神様は、どんな人でも愛して下さり、どんな人をも見捨てたりされません。自分は見捨てられていると思っている人でも、イエス様はその人を愛しておられます。そのイエス様の愛を伝えなければなりません。
 第三の出発は、神の家・会堂建設に向かっての出発です。私たちは現在の人たちのためだけに生きているのではありません。教会もそうです。私たちは、次世代の人たちのためにも生きているのであって、将来のことを見据えながら、計画を立てて取り組まなければならないのです。現礼拝堂は初代の淵江先生の時代、1968年12月に完成し、築42年が経っています。建物が老朽化してきて、玄関では雨漏りがしています。これから新会堂建設まで、どれくらいの年数がかかるか解りませんし、長期計画で考えていますが、その年数は定かではありません。ただ、神の国宣教のために、私たちは次世代の信仰者のために出発しなければならないということです。
 そのような出発に対して、先主日、浜崎先生がここで説教して下さいました。先生がこれまで渋沢教会を牧会された中で、新会堂建設へ向かう「祈りの路作り」をし、そして会堂が立てられていったお話をして下さいました。このことは神様の導きだったと確信します。新会堂建設は長い道のりでありますが、この願いを神様が起こさせて下さっているのです。パウロは「神は私たちに願いを起こさせ、かつ実現へと導いて下さる方だ」と言っています。主の導きを頂き、祈り始める出発をしていきたいものです。
 さて、「出発」と訳されているギリシア語は、二つの言葉の合成語で、一つの動詞に接頭語が結合して作られた言葉です。「来る」とか「現れる」とかの動詞に、「~から出て」とか「~から離れて」という接頭語が付いているのです。従って「~から出てくる」とか「~から離れてくる」ということから、ある場所から「離れていく」、「ある場所から出ていく」ということになります。その時、ある場所、それはどんな場所かと言いますと、私たちがいる場所、今いる場所です。これは空間的な場所だけではなく、私たちが今考えていること、私たちが立っている信念と考えることもできます。そこに留まるのか、そこから出発するのか、それが問われているのです。これは礼拝で御言葉を聞く時に生じることでしょう。
 今までいる場所、今考えている所、そこに留まろうとする思い、そうしたことから考えますと、「出発」というのは、どうしても勇気が必要です。なぜなら、私たちは誰でも、今いる所、今考えていること、そこに留まった方が楽だからです。これまでに生きてきた所、自分が自分を守れるところ、ここなら何とか生きていくことができると信じているからです。そうした所から「離れていく」には、どうしても勇気が必要なのです。この勇ましく出かけようとする気持ちを奮い立たせるものは、自分の信念ではなく、神様を信じて生きようとする信仰です。
 ヘブライ人への手紙を書いた著者は「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(11章1節)だと言っています。そして信仰によって生きた人物を取り上げています。聖書には、信仰によって出発し、旅をしている人々を何人も記しています。アブラハムを始め、モーセも、ヨセフとマリアもペトロもパウロもです。そしてヘブライ人への手紙には、信仰者である私たちは天のふるさとを目指して旅をしているのだと言っています。
 今年、神様に押し出されて出発を致しましょう。神が願いを起こさせ、かつ実現へと導いて下さることを信じつつ、歩んで行きましょう。信仰によって導かれてする小さな一歩の出発は、それがどんなに小さな一歩であっても、神様が私たちを通して成そうとしていることであり、神様の祝福への道を歩んでいることなのです。特に新会堂建設の歩みは、長い旅となるでしょう。そのような中で、主を見上げていてもいろいろな試練を味わうでしょう。しかし、神は私たちに耐えられない試験に会わせられることはなさらず、試練と共に、逃れる道を備えて、主の御旨を現わして下さいます。そして喜びを与えて下さることを信じます。
アブラハムが信仰によって、召し出されて出発をしたように、小さな出発を、神様を信じることによって、私たちも出発して行きましょう。
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by higacoch | 2011-01-08 16:01 | ヘブライ