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2010年11月26日

「とりなし」  創世記18:16-33、ルカ福音書23:33-38

 今朝の創世記の箇所は、アブラハムがソドムのためにとりなしをした箇所として良く知られています。神からソドムの町を滅ぼす予告を聞いたアブラハムは、ソドムの町の悪評を知っていたのでしょう。そのソドムの町のために執り成しをしているのです。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか? あの町に正しい者が50人いるとしてもそれでも滅ぼし、その50人の正しい者のために町をお赦しにならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くあり得ないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」と願い出ています。
 ここで注目したいのです。アブラハムは最初に「神の裁きで、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?」と尋ねています。悪い者だけを滅ぼすのではなく、正しい者をも悪い者と一緒に滅ぼされるのですか?と問うているのです。正しい者が50人いても、それでも滅ばされるのですか。さらに、45人いても、40人いても、どんどん正しい者の数をカウントダウンして問いかけていますが、ただ滅ぼさないで下さいと願っているだけなのでしょうか。そうではありません。彼は、その後の部分でこう問いかけています。「50人の正しい者のために、町をお赦しにならないのですか」と。このことから、アブラハムは心の中で、赦しを願っていたと思えるのです。それに対して、神は「もしソドムの町に正しい者が50人いるならば、その者たちのために、町全体を赦そう。」と言われました。
 私は「滅ぼさない」ということと「赦す」ということは、同じことではないと思います。「滅ぼさない」、けれども、「ゆるしていない」こと、また手を下さず、そのまま放置するということもあります。しかし「赦す」というのは、神が、ある意志を持って、はっきりとその人の罪を知り、その人に関わり、その人を受け入れて救うことだと思うのです。ですから、アブラハムもただ「滅ぼさないで下さい」と、とりなしをしているのではなく、「赦して下さい」と願っていると思います。
 アブラハムがとりなしの条件に最初は「50人の正しい者がいたなら」と言っています。それが、45人になり、40人になり、どんどん少なくして10人になっていきますが、「正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことは、正しい裁きではないと考えるのなら、正しい者が一人でもいるなら、その人が悪い者と同じ目に遭うようなことは考えられないはずです。ですから、正しい人が○人いたならという風に人数を決めることはおかしいはずです。アブラハムとして、ロトとその家族を思い、10人いたならと願ったことでしょうが、その願いもむなしくソドムの町は滅ぼされていきます。ただその前にロトの家族は、神の使いによって救い出されているのが解ります。
 このアブラハムの執り成しは、新約聖書のイエス様の執り成しにおいて、完成されています。アブラハムの執り成しは、あくまでアブラハムが神に願っていることであり、アブラハム自身は安全な離れたところで願っています。それに対して、今朝のルカ福音書に記されていますように、イエス様は自ら苦しみ、自分の身を捧げられましたが、正しい人だけを助けて下さいと父なる神に祈られていません。正しい者と悪い者とを分けて、裁いて下さいと祈られているのでもありません。そうではなく、「彼らを赦して下さい」その彼らは「自分たちが何をしているのか知らないのです。」と祈られています。彼らは「悪いこと」をしている人たちでした。イエス様を十字架にかけた人たち、またイエス様を愚弄し、馬鹿にしている人たち、悪い者たちなのですが、その彼らを赦し下さいと祈って、執り成しをされているのです。つまり、彼らは罪人です。その罪人たちを赦して下さいと祈られています。聖書は「正しい者は、一人もいない。神の前に正しい者は一人もいない。罪人だ」と言っています。そうであるなら、神の裁きによって、滅びるしかないのです。
 アブラハムのとりなしは、空しくなってしまったのではなく、イエス・キリストによって成就しているのです。それは、アブラハムが願った「赦し」は、イエス・キリストによって、悪い者、罪人が赦されて、愛されているからです。ヨハネ福音書3章16,17節にありますように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」なのです。
 執り成し、それは悪い者、罪人の救いであり、私たちのための執り成しがイエス・キリストによってなされたことが成就し、イエス・キリストによって罪赦されて、救われているということなのです。それほどに私たちは愛され、生かされているのです
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by higacoch | 2010-11-29 17:28 | 創世記

2010年11月21日

「顧みられた神」 創世記16:1-16、ヨハネ福音書4:1-26
                               
 新聞を読んでいますと、最近は家庭内での事件が実に多くなってきました。人間関係も難しくなってきて、家庭が密室化し、虐待、殺人が多く起こってきています。しかし家庭内のもめごとは昔も今もそれほど変わりません。それは人間の問題だからです。
 今朝与えられました創世記の箇所にも家庭内のもめごとが記されています。アブラムと妻サライとの間には子どもが与えられず、年を重ねていき、その可能性がますます少なくなってきました。跡継ぎが与えられるという約束が神から与えられてほぼ10年が経っていました。そうした中でこの夫婦は不安になっていったのです。妻サライは、もう子どもが産めない年になってきたと思い、自分の世話をする女奴隷ハガルを夫のもとに送ろうとします。夫アブラムは驚いたでしょう。しかし、サライはアブラムを説得しました。聖書には「アブラムは、サライの願いを聞き入れた」とあります。そしてサライは、ハガルとの間で跡継ぎの子が与えられるように願ったのです。そしてその通りに若い奴隷ハガルは子どもを宿しました。すると、ハガルは主人であるサライを軽んじはじめます。ここに女の争いが生じたのです。
 ハガルの態度が我慢できなくなったのでしょう。アブラムの子を宿したことによってハガルが高慢になった面もあると思います。聖書にはその様子は記されていませんが、実に人間的な、執拗な言葉や行動が二人の間であったことでしょうが、。しかしこうした争いの時、主人と奴隷という上下関係がもろに出てきます。サライが、ハガルにかなり激しい仕打ちやいびりをしたと考えられるのです。耐えかねて奴隷ハガルは逃亡していきました。家から飛び出したのです。自分はここでは生きられないと思ったのでしょう。人間的な争いが高じて悲劇が起こる、こうしたケースは枚挙にいとまがありません。人間の上下関係がもろに出てきて立場の弱いものが不幸に陥れられるのです。ここではハガルでした。
 ハガルにはどこへ行く当てもなく、荒野をさ迷います。今は一人の身でなく、ハガルの胎には命が宿っています。このままだと胎の命だけではなく、自らも命を失うことになるでしょう。荒れ地では夜はかなり冷え込むからです。そんな状況にいたハガルを主の御使いが探し当て、語り掛けています。「どこから来て、どこへ行こうとしているのか」と。御使いは「主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」と言いました。それだけではありません。「私は、あなたの子孫を数えきれないほどに多く増やす」と。あなたは見捨てられてはいない、あなたは苦労しているが、私は、あなたを祝福すると約束しているのです。
 私は、御使いがハガルに語り掛けられた言葉に心打たれます。それは「今、あなたは、身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その名をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたのだから」と言っているからです。あなたは人間的な争いの中で、虐げられ、追いやられ、はじき出された、そうしたことを私は知っている、あなたの苦しみ、悩みを知っている、けれどもそんなあなたをそのままにはしない。あなたも神様から愛されているんだ。この神の愛をハガルも心に深く感じたのでしょう。だから、ハガルは「あなたこそ、エル・ロイ」と呼んでいます。その意味は、「私を、顧みられる神」です。ここには、こんなわたしを神が顧みて下さった「こんな、私を」という喜びに満たされています。ですから、ハガルは荒野でさ迷い続ける歩みではなく、御使いから言われたように、主人サライのもとにもどり、与えられた命である子どもを出産し、生まれた子どもをイシュマエルと名付けました。
 さて今朝は礼拝後に、映画「大地の詩―留岡幸助物語」の製作のためにPRをして頂きますが、留岡幸助氏は家庭学校を作った人として知られています。どうして「家庭学校」かと言いますと、留岡氏は北海道空知にあった集治監(刑務所)の教誨師となり、多くの犯罪人たちに触れます。そこで犯罪人の8割が少年時代(12~18歳)に罪を犯し、さらに調べてみると、不幸な家庭環境の中で育った者たちと知ったのです。家におれない、家から飛び出した少年たち、夫婦喧嘩が絶えない、アル中の父親の暴力等、愛のない家庭に育てられた少年たちだったのです。そこで留岡氏は家庭の愛、愛情を与えて育てることこそが犯罪者を少なくすることだと信じ、霊南坂教会の牧師を辞して、東京巣鴨に家庭学校を設立します。その後、北海道に広大な敷地を買って家庭学校を創ったのです。留岡氏は、不良少年を矯正するには、愛情が必要、そしてその愛情は家庭にある。そして、そうした犯罪人を出さないためには、家庭で愛情をもって子どもたちを育てることだと力説しました。このことは今でも言えることです。ですが、今も、もめごとの絶えない家庭があり、その中で子どもたちが傷ついています。家に居れなくなり、飛び出しているのです。
 今朝の箇所からも言えますが、人間的な仕打ちの中で、不幸に陥れられた者であっても、神は、見捨ててはおられません。否、むしろ顧みて下さっていること、そのことを覚えたいものです。神はハガルに声をかけてくださったように、あなたにも声をかけて祝福を与えようとされています。神は小さきものを顧みられる方なのです。このことは、私たちの救い主、イエス・キリストの十字架と復活が、はっきりと示しているのです。イエス・キリストは、すべての人のために死なれました。人間が犯す罪、それによって起こる悲劇を生みだしている人間たちを憐れんで、そうした者たちを愛され、罪を赦そうとし、祝福の道へと導いて下さったし、今も導いて下さっているのです。神は、小さな者、奴隷であったハガルを顧みられたように、あなたをも顧みて愛して下さっているのです。
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by higacoch | 2010-11-27 17:33 | 創世記

2010年11月14日

「確かな約束」 創世記15:1-6, ヘブライ6:13-20
                           
 先週はアブラムが神様の言葉を聞き、従って旅立ったことを学びました。アブラムは父のもとから旅立ち、神様が示す地に向かって歩み始めました。その途上でいろいろな経験をします。アブラムもそうでしたが、人はどうしても、今までの生活、今までの環境、今までの慣習など慣れた生活が安心であり、新しい一歩を踏み出すのには勇気ある決断が必要です。そこにおいて、アブラムは神様の言葉を聞き、それに従って旅立ちました。単なる人間的な決心ではありません。このことは私たちが、神様の言葉に動かされて、新しい歩みを始めることにも通じると思います。わたしたちも神様の言葉に促されて、新しい歩みをし始め、その中でいろいろな体験をします。
 アブラムは、新しい歩みを神様の言葉に従うことで始めました。その時、神様はアブラムに「わたしはあなたを大いなる国民に」すると言われましたが、アブラムがそれをどのように理解したのか定かではありません。しかしアブラムは主の言葉に従って旅立ち、神が示す地に向かって出発しました。そして旅の途上で、主が再びアブラムに臨まれました。「恐れるな、アブラムよ」と呼びかけ「あなたが受ける報いは、非常に大きい」と言われました。アブラムは、その言葉が良くわからなかったのでしょう。すぐに尋ねています。「わが神、主よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがありません。家を継ぐのは、ダマスコのエリエゼルです。」と。これは「私はもう年です。もう長く生きることはできません。あなたは、私の受ける報いは、非常に大きいと言われますが、よくわかりません。わたしには子どもがありませんので、私の家を継ぐのは、エリエゼルなのです。」という訴えです。彼の心には、どうしても腑に落ちないものがあったのでしょう。ですから、すぐに続けて「あなたはわたしに子孫を与えて下さいませんでしたから、家のしもべが、跡を継ぐことになっています。」とわざわざ説明をつけ加えています。どうしても気になっていたことだったのです。
 すると、すぐに主からの答えがありました。「あなたのしもべであるエリエゼルが、あなたの跡を継ぐのではない。あなたから生まれる者が跡を継ぐのだ」と。そして主なる神様は、彼を外に連れ出しました。アブラムが悩んでいたのは、夜だったと思い知らされました。私たちも夜によく悩みます。神様を信じて、これからどうなっていくのだろう、周りにますます難しい問題が起こってきている、まだ解決の道が一向に見えない時、夜に一人悩み、眠れないまま過ごすことがあったりします。アブラムもそうだったのでしょう。ずっと気になっていたことがある、うまく道が開けるようには全く見えない、見えないまま時が過ぎていく。ですから、自分の気になっていることを神様にぶつけたのです。すると、神様は、「外に出なさい」、あなたがいる天幕(テント)から出なさいと言われました。そして「天を仰いで見なさい。星を数えることができるのなら、数えて見なさい」と。私はここを読むと感動します。神様が、どんなにアブラムを愛されているのかを感じるからです。疑い迷うアブラムに対して、そのアブラムを叱るのではなく、また黙ってついて来なさいと強制されたのでもありません。アブラムに声をかけ、彼にも良くわかるように示して下さっています。「夜空の星を数えてみなさい」。アブラムには夜空の星を数え上げることはできません。それほど神様からの恵みが多いと教えられます。
 アブラムは、数えきれない多くの星の輝きを見上げ、非常に多くの星の光を観たでしょう。そうしたアブラムに神様は語りかけます。「あなたの子孫は、このようになります」と。アブラムは感動したと思います。数えきれないほどの星の数、そのように子孫が与えられるという、神様から約束の言葉を頂いたのです。そしてアブラムは、主なる神様を信じました。神様は、そのアブラムの信仰によって受け止めたことを、「義」と認められたのです。ここでアブラムが神様に誉められるような行動をしたというのではありません。神様が示して下さった約束をただ信じて、心から受け止めたのです。ここで何か完成したのではありませんが、神様を信じ、神様が約束をしてくださったことを受け入れたということです。このアブラムの信仰を、ヘブライ人への手紙の著者は、取り上げて、語っています。「アブラムは神から約束されたものを根気よく待ってそれを得た」と。
 私たち一人一人は、神によって愛されて命が与えられています。そして生かされています。どんな人も価値ある者として生かされているのです。神は預言者イザヤを通して救い主を与えると約束されました。その約束は、確かなものとして与えられたのです。それはヨハネ福音書に「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためであった」とある通りです。私たちを生かすため、その恵みに生かすためだったのです。
 アブラムが信仰をもって、神の約束を信じて歩んだように、私たちも信仰によって、約束を信じて歩み続けるものでありたい。そこにおいて神の祝福を頂けるのですから。
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by higacoch | 2010-11-20 17:37 | 創世記

2010年11月7日

「旅立ち」  創世記12:19, ローマ4:13-18

 『旅の発見』という何人かの著名な人たちが書かれたエッセイ集を読んで教えられたのですが、旅行と問題、トラベルとトラブルとは、語源の上で同じだということが書かれていました。考えたら、旅行にはトラブルがつきもの、旅行先で思わぬ出来事が起こり、戸惑ってしまうことがある。またそれが旅の思い出ともなる。旅をすることによって、新たな体験をするわけです。こうした出来事・トラブルはしようとしてできるものではありません。ですが、最近の旅行はできるだけトラブルがないようにと万全の用意をして出かけようとします。こうした用心深さが信仰の決断をも鈍らせるものとなってしまっているのではないだろうか思ったりします。
 今朝はアブラムの旅立ちを通して、大切なことを学びたい。アブラムが旅に出ることになったのは、見聞を広めるためではなく、今いるところで問題を起こし、そこを離れる逃避のための旅でもありません。それは神の呼びかけ「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」を聞いたからです。彼は聞き流すこともできたでしょう。あるいは今抱える問題を並べたてて弁解し、断ることもできたでしょう。しかしアブラムは主の言葉を聞いて、その言葉に従ったのです。そして旅立っていきました。彼は信仰深かったので出発したのでしょうか。そのようなことは聖書のどこにも書かれていません。大事なことは主の言葉を聞き、そして従うことなのです。
 私はこの個所を読むと、新約聖書のイエス様が弟子たちに向こう岸に渡ろうと言われた箇所を思い浮かべます。アブラムの箇所と同じようなことを教えていると感じるからです。それは弟子たちが向こう岸に渡ろうとせずに、こちら側に留まろうとしていました。こちら側と言うのはこれまで自分たちが生きてきた側、慣れている側であり、知っている側です。よく知っていて安心できる側でもあります。わざわざ向こう側に行かなくても、これまでと同じように、こちら側での生活をしていれば安心なのです。だからこちら側に留まりたいのです。そんな弟子たちにイエス様は、あえて向こう岸に渡ろうと促しておられる。これが、アブラムに神が語り掛けられた「わたしの示す地に行きなさい」と重なります。
 アブラムはこれまでの父の家にいた生活、慣れていたこと、安心できる場所、そこに留まっていたかった、わざわざ、そこから知らない所には行きたくなかったと思います。そんなアブラムに主が臨んで「私の示す地に行きなさい」と言われました。そして今まで慣れた場所から出発したのです。
 こうしたアブラムの旅立ちを、自分たちには関係がないように考えてはなりません。私たちにも大いに関係があります。なぜなら、私たちも主の言葉を聞いているからです。こうして礼拝を守り、ここで主の言葉を聞いています。旅立ちとは信仰の旅に出かけることです。これは信仰によって新しい歩みをすることでもあるのです。大事なことは聞いて従うことです。聞き流さずに、聞いて小さなことでも旅立つことです。小さな信仰の一歩でも主に従う歩みをしていくことが大事なのです。
 皆さんの中で、私はもう年だからという人がおられるかもしれません。しかし、アブラムは75歳で出発していますし、モーセが神に命じられて、エジプト王の前に行ったのは、80歳とあります。年を理由に私には信仰の旅立ちはできないというのは、違うと思います。実際、私も介護の仕事をし、60歳以上になると、個人差があるのはよくわかっているつもりですが、信仰は年齢によって区分けされるのではありません。パウロも老年期になっていたと思いますが、こんなことを言っています。「『外なる人』は、衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は、日々、新たにされていきます。」と。「内なる人」は「外なる人」と同じように衰えるのではありません。内なるとは霊的なものであり、信仰によって新たにされていくものであります。ですから、信仰によって与えられるのです。
 アブラムは、もう人生が終わりに近いというような時に、新たな出発をしているのです。主の言葉を聞き、そして従って出発しました。彼は旅立ったことによって、旅にはトラブルが付き物であるように、彼はいろいろなトラブルに遭います。旅の途上でいろいろな失敗を繰り返すのですが、彼は最後まで信仰を捨てず歩み通しました。伝道者パウロは「彼は希望するすべもなかった時、なおも望みを抱いて信じて生きた」と言いきっています。
 信仰をもって生きていく中で、一番つらいことは、「望みが断たれたような状況に追い込まれた時」ではないでしょうか。どのように先に進んで行ったらいいのか解らない。解らないから苦しむ。望みが見当たらない。どうすることもできない。そのような時にもアブラムは主を見上げて歩んだのです。それは祈りを通してできたことだと思います。イエス様が十字架の上で「わが神。わが神、どうして私をおみすてになったのですか」と悲痛な祈りをささげられたのと通じるものがあるでしょう。そのイエス様の十字架の苦しみ、望みが断たれたように見える十字架の死は、絶望という死で終わったのではなく、復活という新しい命につながっていたのです。信じる道は、決して、失望に終わることはありません。アブラムは神を見上げ、望みを捨てずに生き続け、生涯を全うしました。それは彼にその力があったというのではなく、信仰によって神から力を与えられていたので歩み通せたのです。アブラムの信仰の旅立ちは、神を信じて歩み始めた原点であり、その信仰をもって歩み、主からの祝福を頂き、生涯、望みを抱いて生きていったのです。
 私たちも失望で終わることのない信仰を持って歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-11-12 17:39 | 創世記