<   2010年 09月 ( 4 )   > この月の画像一覧

2010年9月26日

「確かなもの」    詩編90:1-17. ヘブライ2:1-9

 今朝の詩編には「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても」とあります。昔は長寿の人は多くはなく、当時ユダヤの国では40代でほとんどが亡くなっていました。そのような中で、この詩編を歌った詩人は「70年、80年生きたとしても、得るところは、労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。」と、また「人生はため息のように消えうせます。」とも言っています。「眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば、花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます。」読んでいて、人生、短くはかないものだと聞こえてきます。
 詩編は150編があって、そのほとんどが喜び、感謝、讃美の歌です。そうした中で、これだけが人生の意味について深く問いかけてくる詩です。この詩の表題に「神の人、モーセの詩」とあります。モーセは、エジプトで苦しむ同胞の民を助け、奴隷生活から解放して、約束の地への長い旅を導く指導者でした。モーセの詩はこの詩以外は一つもありません。この詩は実際、モーセが読んだ詩なのかは定かではありません。しかし、ずっとモーセの詩として受け止められて読まれてきました。この詩は、人生は空しいと聞こえてきます。
 また、この詩はよく葬儀で選ばれる箇所です。人生70年、80年、人生を長く生きてきた者に人生は空しかった、労苦と悲しみの人生であったが、その分、亡くなられた今は天国でゆっくりと憩っておられると語るためだけに、ここが読まれるのではありません。わたしたちはこの世で苦労するのは、現実に事実です。この世で生きる中で人に騙されたり、人から責め立てられたりして、いやなことを味わう事がよくあります。そのようなことが重なったりすると、生きていても良いことがないと思い込み、生きるのがつらくなり、人生のむなしさを感じたりします。
 この詩人も悩み、苦しみました。だからと言って、酒や何かで紛らわそうとはしなかった。人生のはかなさに襲われて苦しみました。しかしここで詩人がしたのは、呼ぶことでした。神様を呼び求めたのです。それはこの詩をよく見れば、すぐに解ります。「あなた」という言葉が多いのです。「あなた」(神)と呼んでいるのです。ああ人生は空しい、何の楽しみもないと人生に絶望して、歌っているだけではありません。彼は神様に向かって呼びかけています。最後(17節)には、神様と呼んでいます。「わたしたちの神、主の喜びが私たちの上にありますように。わたしたちの手の働きを、わたしたちのために、確かなものとし、わたしたちの手の働きを、どうか確かなものにして下さい。」と繰り返して、祈り求めています。
 この「確かなものにする」答えが、今朝の新約聖書のヘブライ人への手紙に書かれています。確かなものにするのは、人を生かす救いであります。人生の空しさに襲われ、生きる希望を見出せずにうずくまる者に、生きる力、希望を与えてくれるのは、神様です。聖書にこうあります。「わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わなければなりません。そうでないと押し流されてしまいます。わたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。この救いは、主が最初から語られ、それを聞いた人々によって、わたしたちに確かなものとして示され、さらに神も証しておられます。」とあります。
 私たちは、不安定なもの、不確かなものを抱えています。すぐに空しさを感じてしまいます。そんな私たちを神は憐れんで下さいました。そして我々のために、神の独り子であるイエス・キリストを送ってくださったのです。「神は、独り子イエス・キリストを世にお遣わしになりました。その方によってわたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛が私たちのうちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と。神は救いのために、イエス・キリストをこの世に与えられました。そのイエス・キリストは私たちの救いのために死んで下さったのです。命をかけて私たちを愛して下さったのです。それは私たちを生かすためでした。私たちはイエス・キリストの愛を知ることによって、神に愛されて、生かされていることを知るのです。私たちはひとり、この世にほうり投げられたのではありません。愛され生かされた存在なのです。確かなもの、それは、私たちが自分で摑み取るものではなく、恵みとして与えられたものなのです。へブライ人への手紙2章9節に「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」とある通りです。イエス・キリストは、すべての人のために死んで下さった、それは、あなたのためにでもあるのです。イエス・キリストの愛こそ、救いであり、この世で「確かなもの」なのです。人を生かし、生きる力と希望、愛を与えてくれるものなのです。ぜひ、この「確かなもの」をしっかりと受け止めて、イエス・キリストを信じ、見上げて生きていって欲しいのです。この「確かなもの」こそが、空しさに勝利する道なのですから。
[PR]
by higacoch | 2010-09-30 20:17 | 詩篇

2010年9月19日

「礼拝する場」 イザヤ 56:7~8、マルコ福音書11:15~19

 今年の夏、東京都内の男性で最高年齢111歳の方が白骨死体で発見されてから、高齢者の行方不明の問題がいっぺんに浮上してきました。あれやこれやで高齢者の所在や生死の調査が行われて、問題が全国に広がっていき、その結果が新聞に掲載されたりしています。一番近しいはずの家族が親の所在を知らず、捜索願いさえも出していない、浮き彫りになってくるのは、家庭が周囲との関係を断ち切っている、また断ち切られている生活状況であるということです。私たちの時代は家庭が崩壊しつつあると感ぜざるをえません。
 私は、今から6年前に、教会の働きから離れ、2年間、高齢者介護の仕事をまるまる経験させて頂きました。その仕事に就いた時、高齢者が少し理解に苦しむ行動や話をされた時、あの人は「痴呆症」だからと言ったりしていました。こうした言い方に私は腹が立ちました。なぜなら、「痴呆症」の痴も呆も、どちらも愚かで、おかしいという意味であって、長い人生、何らかのお仕事で働いて来られた方々に、あの人は愚かな人だと言っていると思ったからです。
 私たちの時代は、人間関係が希薄になってきていますが、こうしたことのもとをただせば、家庭の問題、家の問題が浮き上がってくると思います。
 キリスト教関係の月刊誌「信徒の友」の今年の1月号で「わたしたちの家」という特集を組みました。そこに、「今日、この家(ホーム)が世界的な広がりの中で崩壊しつつあるように思います。家庭や家族、地域社会において家(ホーム)という基盤が揺らぎ始めています」と。
「家、ホーム」のことで、もう少し説明しますと、路上生活をしている人たちをハウスレスと呼びません。そうした人たちをホームレスと呼びます。つまり、住む家がないというよりは家(ホーム)がない人たちだというのです。自分が帰るべき所、安心して生活するところがないということです。こうしたことは、ホームレスの支援をしている人から改めて教えられます。北九州市でホームレスの支援をしている奥田牧師がいます。牧師は言います。「野宿している人に、まず大きく言って二つの困窮があります。一つはハウスレス、もう一つはホームレス。「ハウスレス」は物理的な困窮です。そこでアパートを用意し、家財道具を揃えて住んでもらい、そこに訪ねていくと、先日までダンボールで寝ていたおじさんが布団で寝ています。「良かったね」と話をして立ち去ろうとすると、ふっと部屋の中にぽつんと座っているおじさんの姿とあの駅内の通路でぽつんと座っていた姿と重なってみえるのです。結局、自立できても孤立状態で終わっている限りは、問題の半分は解決していないんじゃないか。もう一つの問題は「ホームレス」人と人との絆ですよね、そういう関係が失われている。ですから、路上生活の段階では「最後は、畳の上で死にたい」と言っておられた方々も、アパートに入ったら、次におっしゃるのは「俺の最期は誰が看取ってくれるだろうか」と。ですから、この人に今、何が必要なのか、という問いだけではなく、誰が必要なのか、ということなんです」と。高齢者不明問題はこうした人との絆の問題を浮き彫りにしているのだと思います。
 イエス様が「わたしの家は」と言われたのには、現代的な問題から捉えて深い意味を含んでいると思うのです。「わたしの家、ホームは、すべての国の人の祈りの家」と言われました。ここは決してユダヤの国の人たちだけのものではないとか、神殿内で商売をしていた祭司集団だけのものでもないということであり、すべての人たちものなのだということ。そして何よりも「わたしの家(ホーム)」としなければいけないということです。
イエス様の時代には立派な神殿が建てられていましたが、その内では大いに金儲けがなされていて、商売の場となってしまっていました。だからイエス様は激しく怒って商売人たちなどを境内から追い出されたのです。
「わたしの家は、すべての人の祈りの場」そこは神様の家であり、人が生きる上で大切な場です。なぜなら私たちがそこで神様の言葉を聞き、神様の愛によって赦されて、生かされていることを知る所だからです。イエス様が私たちの罪のために死んでくださり、三日目に復活し、新しい命を現して下さったように、私たちはイエス様の救いを頂き、イエス様を救い主と信じることで新しい命に生かされているのです。ですから、そこを人間の家としてはなりません。神の名を借りて人間の都合のいい場に変えてしまってはいけないのです。
 老いも若きも幼な子たちも一緒に、わたし(イエス様)の家、教会で、神様への礼拝をささげ、神様の愛を受け止め、神様を賛美して祈りを捧げながら、互いに交わりを持ち、生きていきたいと願います。「わたしの家は、すべての人の祈りの家」礼拝の場であり、私たちが真実に生かされていくホームだからです。
[PR]
by higacoch | 2010-09-25 20:11 | マルコ

2010年9月12日

「友のために涙したのはいつですか?」 申命記 7:1-5、ルカ 6:27-36
                        大井 啓太郎 牧師 (高座教会牧師)


 皆さんには敵がいますか?敵なんてと思っても、学校や会社やご近所には張り合ってしまう人はきっといるでしょう。あの人には負けたくないという人はいるかもしれません。自分がすることすること文句を言うような人はいますよね。私は身体障害者施設に5年間勤めていましたが、そこに勤めている時、ある男性の利用者さんにとても嫌われた経験があります。私が通るとプイと横を向かれるんです。こちらとしては悪気がないものですから、「~さん、なんか気に障ったのなら謝りますから、許してください」といってもだめなのです。「何か用がありませんか?」と聞くだけで怒り出される始末でした。そうすると段々、こちらにも苦手意識が出てきます。もう声かけるのはやめようと思うようになりましたし、何で怒られなきゃいけないのか、とこちらも嫌いになってしまいました。
 神様は、本当は人間すべて平等に創られ、また平和に生きることを望んでおられるにもかかわらず、私たちは自分の思い通りにならなかったり、気持ちが通じなかったり、プライドが傷つけられると相手にひどい言葉や態度をぶつけてしまう。ひどい言葉をぶつけられた方はもっとひどい言葉でやり返す。相手のことを理解しない・国の利益を守る・威信を守るそんなことで戦争は起きてしまうのです。そして一度始まってしまうと収まりがつかなくなる。暴力の連鎖・悲しみの連鎖が始まるのです。イスラエルとパレスチナは聖書の書かれた昔から現代に至るまで争っています。また、私たち自身も許すことができればどんなに楽になるか分からないのに許せない人が長い間、心の中にいたりするのです。それは本当は愛すべき親であったり、兄弟であったり配偶者であったり、子であったりするのです。昨日は、アメリカ同時多発テロがあった日です。そのような中で、皆さんもテレビでご覧になった方もいるかもしれませんが、アメリカのある教会の牧師が、コーランを焼こうとしたことが報じられていました。その牧師が聖書をどのように読んでいるのか、耳を疑いましたが、実際にそのような憎しみの連鎖があるのです。今生きている私たちにもこの「敵を愛する」というイエス様の教えは、心に突き刺さる言葉なのです。
 今朝読んだ申命記は、敵を滅ぼし尽くせと書いてありました。しかし、イエス様はこの朝改めて「敵を愛しなさい」と言われるのです。主イエス様は「剣を取るものは皆、剣で滅びる」とも言われましたが、私たちの悲しみの連鎖を私たちで終わらせよと命じておられるのです。そしてただ終わらせるだけでなく31節にあるように「人にしてもらいたいと思うことをひとにもしなさい」という積極的な愛を示すことを私たちに示されているのです。この言葉は、黄金律(ゴールデンルール)と呼ばれる人類最高の倫理です。古代ギリシャの格言やユダヤ教にも「あなたがしてほしくないことを他人にするな」という言葉はありますが、主イエス・キリストが語られた言葉はより積極的な愛の教えでありました。それはこの世界の汚れをそのままにするのではなく、愛によってこの世界の罪の汚れを聖め、破れ、断絶している人の心を繕う御言葉なのです。ましてや、「目には目を、歯には歯を」という報復の教えではなく、神に赦されているのだから、他者に対して寛容でありなさいと聖書は語るのです。
 しかし、現実はなかなかできません。こんなことをしたら自分ばかりが損をするように思えるからです。しかし内村鑑三というキリスト者はこんな言葉を言っています。「死んだ魚は流れのままに流されるが生きた魚は流れに逆らって泳ぐ」。まず私たちがこのゴールデンルールに生きなければ、世の人々は分からないでしょう。では憎しみに心奪われないようにするためにはどうしたらよいでしょうか?やはり鍵は教会にあると思うのです。私たちは教会という体の一部です。そして教会は、イエス・キリストによって罪赦されたものたちが集う場です。そのような教会で、私たちは大切な友のために涙したのはいつのことでしょうか?
[PR]
by higacoch | 2010-09-18 18:36 | ルカ

2010年9月5日

 「子ろばは、あなた」 ゼカリヤ書 9:9-10、マルコ福音書 11:1-1 

 今朝の箇所に一匹の子ろばが記されています。イエス様の時代、ろばは荷物を運ぶ便利な動物で、現代で言えば車のようなものでした。身近かな所でろばが飼育されていましたし、そうした家などは一階が家畜小屋になっていて、二階に家族が住んでいたとも言われています。このようにろばは人々の生活の場によくいた家畜でした。しかし、ろばは汚れた動物に区分けされていて、宗教的な儀式には使われず、神殿での献げ物にすることはできませんでした。ユダヤの宗教的な規定にどんな家畜でも母親から生まれた最初の子は神様に献げなければならないという規定がありましたが、ろばは汚れた動物でしたから、ろばの初子を献げられません。規定ではその代わりに小羊を献げるよう定められていました。小羊を献げられないのなら、その初子の首を折って殺さなければならないと定められていたのです。
 新約聖書にろばのことは少ししかでてこないのです。ここ以外では良きサマリヤ人の譬えの中に出てきますが、他には2箇所しかありません。汚れた動物と考えられていたからかもしれません。そのような中で、イエス様は積極的にろばを用いておられます。しかも子ろばを。子ろばはろばの中でも小さい、価値がないと考えられていたのです。
当時、ろばと比べられた動物に馬がいます。馬も物を運ぶとか、狩猟に用いられたのですが、農作業のために用いられることはほとんどありませんでした。むしろ戦車隊や騎兵隊など、戦いのために用いられました。旧約聖書ではエジプトの戦車部隊がモーセを追跡するのが記されており、イザヤ書や箴言、詩編には軍馬を頼りにすることを戒めています。
 何故イエス様が子ろばに載って都エルサレムの入場されたのか、弟子たちや周りの人たちはよく解っていませんでした。それぞれがイエス様に対して、何らかの期待を抱いていたでしょう。ある者はユダヤ王国の再興をもたらすダビデのような王様にと、またある者は都でも偉大な奇跡を現して下さるのではないかと。
 しかし、都での受難をイエス様は覚悟しておられました。これまでに都エルサレムに入城した王様がいました。ダビデ王です。戦いに勝利して、軍馬にまたがり兵を連ねて入城してきました。それに対して、イエス様は兵隊ではなく、弟子たちや一般民衆を連ね、しかも子ろばに乗ってやって来られました。このことはゼカリヤ書に預言されていました。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民は平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」と。ここには軍馬が絶たれ戦いの弓は絶たれて平和が告げられるとあります。そのような王としてろばに乗ってやってくるのは、戦いの王ではなく、平和の王です。イエス様は子ろばに乗って都に入城されたのは平和の王として来られたということです。
 イエス様は子ろばを用いられました。子ろばはイエス様を乗せることで大きな働きをしました。しかし、子ろばが自分の方からさせて下さいと申し出たのではありません。あくまで、イエス様が、子ろばを用いられました。汚れた動物だと考えられていましたが、イエス様はその子ろばを選ばれて、神の栄光を現す動物とされているのです。その子ろばが特別な力を持っていたからではありません。まだ人を乗せたこともなかったのですから、むしろ、弱々しい子ろばでした。
 こうしたことはイエス様の弟子たちにも言えます。弟子たちがイエス様の所にやってきて弟子となったのではありません。イエス様が選び、「わたしに従ってきなさい」と招き、弟子となっていきました。イエス様も言われています。「あなたがたが、わたしを選んだのではなく、私があなたがたを選んだ」と。「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命した」と。
 選びにおいては皆さんにも言えることなのです。私たちがイエス様を信じるというのは、自分の知識や能力で信じることができたのではありません。そうではなく、イエス様があなたを選んで下さり、信じることができるようにして下さっているのです。それは、丁度、子ろばが選ばれたのと同じです。ですから、ろばはあなたなのです。イエス様が子ろばを用いられたように、あなたがたを用いられます。「あなたがたが、実を結び、その実が残るように」。
 今日、洗礼を受けられる奥井さんも、イエス様が用いて神様の栄光を現してくださることを確信しています。
[PR]
by higacoch | 2010-09-11 17:45 | マルコ