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2010年8月29日

「 天に宝を積みなさい 」  マタイ6:16-24 
                  唐澤 健太 牧師 (国立のぞみ教会牧師)


 「目」はとても小さな体の器官であるにも関わらず、私たちの全体をあらわす表現によく使われる。「目を奪われる」という言葉は、目そのものを問題にしているのではなく、人の心の有り様そのものを表現している。「目を注ぐ」という言葉もそうだろう。イエス様は「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と言われた。あなたの目は澄んでいますか? それとも・・・・・・。
 「澄む」という言葉は「単純に」、「まっすぐに」、「一心な」という意味だ。「濁る」は「悪い」、「粗悪」、「使い物にならない」という意味。さらには「よこしまな」、「貪欲な」という意味もあるようだ。要するに「濁った目」とは「貪欲の目」であり、「欲深い心」を意味するのである。そのように「澄んだ目」と「濁った目」を読むと、「目」の話の前後に「富」に関することが語られているのが意味としてつながってくることがわかるだろう。
 つまり、私たちの目、そして「心」がいったいどこに向かっているのか? もっと言えば、あなたはいったい何を富としているか、何を人生の宝として生きているか、ということをイエス様は問いかけられているのだ。そして、それによってあなた全体が明るいか、暗いか。すなわち、神様に創造された人間として人間らしく健やかに生きているのかどうか、ということなのである。濁った目はそのことがはっきりと見えなくなっている目ともいえるだろう。
 イエス様は「富は天に積みなさい」と言われる。なぜなら地上に富を積んでもそれは虫に食われたり、錆び付いたり、泥棒に一瞬で奪われてしまうからだ。それは私たちがバブル崩壊、サムプライム問題などの経験からも、昨日まであんなに「宝」と思っていたものが一瞬にして崩れてしまう。失われてしまうということを実際に経験しているのではないだろうか。「目に望ましく映るものは何一つ拒まずに手に入れ、どのような快楽をもあまさずに試みた。・・・・・・しかし、わたしは顧みた。この手の業、労苦の結果の一つ一つを。見よ、どれもむなしく。風を追うようなことであった。太陽のもとに益となるものは何もない」(コヘレト2:10-11)。
 イエス様は「だれも、二人の主人に仕えることはできない」、「あなたがたは神と富(マモン)とに仕えることはできない」と明言される。イエス様は「あれか、これか」だと言われる。玉虫色はない。にもかかわらず、なおも私たちは「どっちもというわけにはいかないのか?」と悩んでいるのではないか。
 先週、複数の女性と不倫関係が問題になったタイガー・ウッズの離婚報道があったが、旧約の預言者たちはマモンに心を奪われるイスラエルの民を神に対する不倫として語った! スーパースターの不倫騒動を他人事で批評する私たちだが、神との関係において私たちもスキャンダラスなことをしている事実を忘れてはいないだろうか。私たちも神に対する「謝罪会見」をする必要があるのではないか。
 あなたのまなざしは、神様をまっすぐにみていますか。「天に宝を積む」とはまっすぐに主イエスを見、 そして、その主に従ってこの地の歩みを生きることに他ならない。
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by higacoch | 2010-08-31 20:27 | マタイ

2010年8月22日

「いやされ、そして従った」  エレミヤ29:11-14a、マルコ10:46-52

 エリコという町は豊かな湧き水が出ていましたので、古い時代から軍事的な拠点として砦や都市国家で繁栄した町で、イエス様の時代には宿場町ともなっていました。なぜなら周辺には荒れ地がひろがっていて、旅人はここで宿を取らざるを得ませんでした。イエス様の一行もガリラヤ地方から都エルサレムに上るのに、エリコの町で一泊されています。
 バルティマイはこの町に住む盲人でした。当時、盲人が働く場所などほとんどありませんでしたので、彼は物乞いをして生活の糧を得ていました。毎日、同じ場所に座り、エルサレムへの巡礼者や商人たち旅人に「めぐんでください」と願ってお金を恵んでもらっていました。彼は目が不自由であったがゆえに、人から後ろ指を指されたりしました。「あの人が罪を犯したのだろうか。あるいは両親が罪を犯したからだろうか」と。こうしたことを考えると、彼は生きる意味や人生の目的を見出せないで生きていたのではなかっただろうかと思うのです。
 そんな彼の生活に、一つの光が射しました。それはイエス様の存在です。イエス様が目や足の不自由な人、そうした身体的に不自由な人を癒されているという噂を聞いたのです。しかし彼は自分の方からイエス様を捜しに出かけることができませんでした。何しろ目が見えませんでしたし、長い旅をすることができなかったからです。でも彼の心の中に、イエス様のことが記憶されていました。そのイエス様がエリコの町に来られました。イエス様は都エルサレムへの途上だったのです。エリコを出られた時、エルサレムで起こる苦難を覚悟されていたと思います。これまで弟子たちに三度もエルサレムでの受難を語られていますから、そんな覚悟をもっての旅でした。一夜の宿を取ると早朝、急いで一路、エルサレムへと向かわれました。エルサレムまで27㎞の距離、その日の夕方には着くとの思いがあったでしょう。イエス様の後に続いた者たちは弟子たちだけではありません。ガリラヤ地方から付いてきた人たち、さらにエリコの町から加わって人たちもいて、大きな群れとなっていました。
 バルティマイは目が見えません。その分耳が敏感でしたので、人の足音で何かを感じたでしょう。彼の前を通り過ぎる足音、消えるどころかずっと続いている、そこで誰かに聞いたと思うのです。「何事があったのですか」と。そして、その一行がイエス様の一行だと知るやいなや、彼は大声を出して「ダビデの子、イエス様、わたしを憐れんでください。」と叫び始めました。突然の大きな声で周りもがびっくりしたでしょう。叫びを聞いた人たちは「うるさい、黙れ」と叱り飛ばしました。しかし彼は必死にますます大声で叫び続けました。イエス様がどんどん遠のいていかれる、そのことを思うと、いてもたってもいられず、イエス様に聞こえるようにありったけの大きな声で叫びました。この声を多くの人たちはうるさがり、彼を叱り続けました。しかも一人ではなく、多くの人が、叱りつけて黙らせようとしたのです。でも彼は叫び続けました。その叫びの声がイエス様の耳に届き、むなしくはなりませんでした。イエス様は立ち止まられたのです。
 バルティマイは、イエス様に呼び寄せられて、心の底から喜びました。上着を脱ぎ捨て躍り上がってイエス様に近づいていきました。彼が上着を捨てて行動したということは、これまでの座って待つだけの生き方から離れ、新しい歩みをしたということです。それがイエス様に向かう歩みでした。この歩みがここから始まっているのです。 
 イエス様は彼に、はっきりと「何をして欲しいのか」と尋ねられました。彼はすぐに「目が見えるようになりたいのです」と答えました。少し前、弟子二人がイエス様の所にやってきて、ある願いを申し出ました。二人はイエス様が栄光をお受けになられた時には、自分たちをイエス様の右に、左に座れるようにして下さい、と願っています。すると、イエス様は弟子二人に「あなたがたは自分が何を願っているのか、解っていない」と叱っておられます。彼等は権力の座を願っていたのです。このことを他の弟子たちも知って腹を立てたとあります。ですから、他の弟子たちも同じ穴の狢でした。そんな弟子たちに「偉くなりたいのなら、皆に仕える者になりなさい。いちばん上になりたいのなら、すべての人の僕になりなさい」と教えられました。そして「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために、また多くの人の身代金として、自分の命を献げるために来たのだ」と、話されました。
 ここでバルティマイは、力ある地位を求めたのではなく、「目が見えるようになりたい」と願っています。これは単なる視力回復だけではなく、人生にとって何が大切なのか、見きわめる霊的な視力をも含んでいると思います。その彼に、イエス様は「行きなさい。あなたの信仰が、あなたを救った」と、まさにあなたの信仰が、あなたを生きるようにしたのだ、と言われました。こうしてバルティマイはすぐに癒されて見えるようになりました。癒された彼は、有頂天になって家に帰ったのではありません。彼はイエス様に従ったのです。イエス様が彼に「私に従いなさい」と命じられてはいません。「行きなさい」と言われたのであって、「従いなさい」ではありません。しかし、彼は新しい歩みをイエス様に従う道を選んで進みました。彼の新しい歩みがここから始まったのです。
 ぜひ、バルティマイがそうであったように、求めておられる方がイエス様に出会って、イエス様を見上げ、信じて歩んで欲しいと願います。ここにあなたを真実に生かす道があり、生かされる歩みがあるからです。
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by higacoch | 2010-08-28 20:10 | マルコ

2010年8月15日

「平和を求めて」  創世記26:15-25, マタイ福音書26:52

 かつてのドイツの大統領ヴァイツゼッカー氏はドイツ敗戦記念日(5月8日)の40周年記念大会においてドイツ国会で講演をしました。この講演で有名な言葉は、「過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じる者であります。かつて非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうのであります。」(「想起と和解」加藤常昭訳より)過去の出来事に真摯に目を向け、その出来事を見つめ、その事実から学ぼうとしない者は、将来に対して責任ある行動がとれない、つまり過去の出来事からしっかりと学ばなければならないということです。
 先週、日本の菅首相が、韓国併合条約発効100年を迎えるに際して、過去の植民地支配への反省と未来志向の日韓関係を築く決意などを柱とする首相談話を表明しました。この事は実に大事な事だと思います。過去の事実を踏まえての誠実な言葉だと私は思います。最近、戦争体験者で今まで口をつぐみ、語ろうとしなかった80才代の方々が、死ぬ前に、身近で起こった戦争体験を語り出されていることは実に勇気づけられます。戦争が風化してきているこの時代に、風化させてはならないと重い口を開いて語り出している人々を思う時に、二度と戦争をしてはならないというメッセージを強く感じるのです。  
 今朝はイエス様が言われた言葉「剣を取る者は皆、剣で滅びる」をしっかりと覚えたいのです。戦争になれば、人は武器を持ちます。国は戦争のための武器、爆弾を作ります。それらは最終的には人を殺します。敵国人ではありますが、人を殺していきます。イエス様が「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と言われたのは、剣を武器、爆弾と言い換えてもいいでしょう。戦争のために、何らかの武器を取る者は、それに対抗する武器によって滅びます。武器をとって平和を作ることは出来ないのです。平和のための戦争、平和をもたらすためだと言って、戦争を正当化したとしてもそれは偽りであって、真の平和は創り出せないのです。
 私たちは今年4月の三教会の合同退修会に、講師として桃井和馬氏を迎えて話を聞きました。桃井氏は世界の紛争地域にも足を入れてカメラに収めておられるフォトジャーナリストですが、その桃井氏から、戦争の真の原因は宗教対立、民族対立ではなく、土地や水や物資の奪い合いが原因で、小競り合いが生じ、拡大して戦争となっていくと言われました。
 そうしたことを思い起しながら、今朝の旧約聖書を読みました。ここ創世記26章15節以降は井戸の水の争いです。イサクら一行は何度も井戸掘りをしています。そして井戸の水利権を巡って対立が起き、争いが生じました。しかし、イサクは争い続けたのではありません。彼等は新たな場所に移動し、井戸を掘り、水を得ていきました。最終的にベエルシエバに上り、そこで、主からの祝福の言葉を頂きました。
 私はこうした井戸を掘って生きて行く、このことが平和を求めて生きて行く道を表していると信じています。争いが生じた時、その争いに対抗して武器ではなく、井戸を掘る農具を手にしたこと、戦いに生きるのではなく、ただそれを避けるだけではなく、ここでは井戸を掘る道、これが平和を創り出していくと信じるのです。
今も戦争中のアフガニスタンで井戸掘りをしているペシャワール会の人たちがいます。その代表者は中村哲氏ですが、現在までに1500以上の井戸を掘り、今では潅漑用水路(24㎞)を整備し、農業指導をしています。アフガニスタンの人々の9割が農業に携わっています。中村さんらはその大切な水を提供し、農業を進め、地域の人々に仕えてこられ、平和を創り出しておられます。中村さんははっきりと剣で平和を創り出していくことができないと言い切っておられます。それはアメリカ軍、またNATO軍による武力で平和を創り出すことはできないという批判であります。
 私たちも小さな歩みの中で、しっかりと日本がどのような歩みをしようとしているのか、見極めなければなりません。もし剣を取るような歩みへと進もうとしているのなら、イザヤ書2章4節の「剣を打ち直して、鋤とし、槍を打ち直して、鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」という主の言葉に耳を傾けなければなりません。この預言が、ニューヨークにあります国際連合の建物に向かっての壁に、くっきりと刻まれているのです。
 イエス様が言われました。「平和を創り出す人は、幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」と。平和を創り出す歩みは、戦争をしている国がそうするのであって、戦争していない国には関係ないというのではありません。否、現在、戦争をしていなくても、戦争を創り出していく歩みはあり、戦争になってしまった時にはもはや遅いのです。平和を求めて生きることが今も求められています。私たちは決して戦争の備えをする歩みへと向かってはなりません。むしろ平和を創り出す歩みを求められているのです。剣を取る者は、剣で滅びるのです。主は、滅びる道をはっきりと示して、その道を歩んではならないと教えてくださっています。主の言葉を聞いて、主に従って、主が与えて下さった平和、武力によってではなく、愛と赦しによって、人が共に歩んでいく平和を求めて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-08-21 17:25 | 創世記

2010年8月8日

「語らずにおれない」  イザヤ書35:1-10,マルコ福音書7:31-37

 今朝の聖書箇所に、聴覚障害者の方のことが記されています。耳が聞こえないということは、生まれた乳児がお母さんの声を聞くことができないと言うことですから音のない、またことばのない世界で育ちます。いろいろな物音や言葉が聞こえないために、世の中に音があること、物には名前があることに気づけないのです。
 奇跡の人として知られているヘレン・ケラーは2歳の時、病気で三重苦を抱えることになりました。目が見えず、耳が聞こえず、口が利けなくなったのです。耳が聞こえない人は人の声が聞こえませんので、結果的に語れなくなるのです。そのヘレン・ケラーが7才の誕生日を迎える前に、彼女の人生での決定的なサリバン先生との出会いが与えられます。そして先生から物には名前があること、ヘレン・ケラーの自伝の映画でも映し出されていましたが、サリバン先生がヘレンを外に連れ出して、井戸の水に触れさせて、これはwater、指文字で、W、A、T、E、Rと何度でも教えるサリバン先生の感動的な場面がありました。音のない世界は、物とそれには名前があると結びつかないのです。
 今朝の聖書に出てくる人も耳が聞こえません。ですから、口も利けませんでした。人々が自分にどんなことを言っているのか聞こえません。また自分から何かを人に伝えることができませんでした。人とのコミュニケーションが断たれていました。孤独の中に生きていかなければならなかったのです。私は、この人がどんなに苦しい人生を強いられていただろうかと想像するのです。人とのコミュニケーションもなく、障害を抱えていることによって、神様からも裁かれていると考えられて、人からも見捨てられ、神様からも見捨てられているように扱われたでしょう。この人に触れてくれる人はいなかったのではないでしょうか。
 ある人々がこの人をイエス様の所に連れて来ました。そして「この人の上に、手を置いて欲しい」と願っています。言葉ではなく、触れて欲しいと。イエス様はその願いを受け入れ、耳が聞こえない人だけを群衆の中から連れ出され、その人と一対一になって下さいました。その人の真ん前に立ち、深い交わりをして下さったのです。言葉ではなく、手で触れ、指をその人の耳に差し込まれ、それから、指につばをつけて、今度は彼の舌に触れられました。このようにして、彼の体に触れることによって、この人を愛されました。そして、天を仰いで深く息をつき、その後、その人に向かって「エファッタ(開け)」と言われました。すると、彼の耳は開かれて、舌のもつれが解けました。こうして彼は癒されたのです。
 イエス様は彼を群衆の中から連れ出されました。わざわざ群衆の面前に立たせて癒しの業を見せながら為されてはいません。見せるために、奇跡を為されたのではなく、耳が聞こえない人を、生かすために、この人を新しくされるために行われたのです。この奇跡の業は、救い主の業として旧約聖書に預言されたものでした。
 イエス様は、人々に癒しのしるしのことを話してはならないと口止めされました。それは奇跡によって自己宣伝したくなかったからです。イエス様が口止めされたのは、人々に、ただしるしだけを求めてイエス様のもとに来て欲しくなかったからです。イエス様は癒しのしるしだけを行うために、この世に来られたのではないからです。しかし、彼らは、口止めされればされる程、反ってますます語り出しました。彼等は、イエス様が口止めされたしるしを語るのではなく、イエス様は、素晴らしい方だと、イエス様を賛美して語っています。この賛美をイエス様は止められてはいません。
 今朝の箇所のイエス様のところに連れて来られた人が癒されることは、私たちにとっては何を意味するのでしょうか。それは、教会に誘われて来られた人が、イエス様の愛に触れて、癒されていき、イエス様を救い主と信じていくことであると思います。一人の人が、イエス様を救い主と信じる時、そこには神様の働きがあるのです。そのような出来事を見せられる時、人々が語らずにはおれなかったように、イエス様は素晴らしい方だと、イエス様をほめたたえる者でありたいものです。そうして、イエス様を賛美せずにおれない者として、イエス様を賛美しましょう。「主の名は、ほむべきかな」とイエス様の御名をほめたたえて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-08-14 17:38 | マルコ

2010年8月1日

「神はあなたを用いられる」 イザヤ書 43:1-7,マルコ福音書 6:30-44

 今朝の箇所で、イエス様が見ておられることと弟子たちが見ていることとの違いをまずみていきたい。イエス様は舟から上がられると大勢の群衆を見られましたが、それだけではなく、彼らがどのような状態だったのかも見ておられます。彼らは飼い主のいない羊のように弱り果て、生きる希望を失い迷っていました。そんな彼らをイエス様は深く憐れまれました。
 他方、弟子たちは何を見ていたでしょうか。彼らは大勢の人々を見ていて、その数に圧倒されていたと思います。だからイエス様が人々に教えられた後、イエス様に群衆の解散を提案したのです。「先生、もう時間も大分経ちました。ここは人里離れた場所ですので、そろそろ解散させてください。そうしたら、みんなめいめいが自分で、近くの村に行って、何か食べる物を彼ら自身で確保するでしょうから」と。弟子たちは常識的な判断をし、イエス様に勧めています。弟子たちの心にあったのは、「彼らの食べる分は自分で確保してもらいましょう。そこまで世話する必要はない」という思いで、解散の提案をしたのでしょう。これは、彼らが大勢の人々だけを見ていたからだと思うのです。
 しかしイエス様は弟子たちに何と言われたでしょうか。弟子たちもびっくりしたと思うのです。「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と言われました。彼らはすぐに反発し、そんなむちゃなことをとイエス様に言いたかったでしょう。そんな彼らが、口にしたのはイエス様への文句で、「200デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」と言っています。1デナリオンが当時のぶどう園の肉体労働者の1日の賃金ですから、これを5千円としますと、「100万円分のパンを買ってきて、みんなに食べさせるんですか」となります。どこにそれだけのお金があるんですか。あったとしてもどうやってそれだけのパンを運ぶんですか、それだけのパンが近くで得られるとでも思っていらっしゃるのですか、と次から次に彼らの心の中に、イエス様への不信が浮かんできたと思います。
 そんな弟子たちに対して、イエス様は、「ここにパンは、いくつあるのか。見て、来なさい」と尋ね、命じられました。ここには二つの事柄が語られています。一つは問い掛け「パンはいくつあるのか」。ここでは「パンがあるのか、ないのか」と尋ねておられず、「パンはいくつあるのか」と問われています。ここではパンが何もないとは考えられていません。あるのです。しかしそれを弟子たちは見ようとはしていません。それよりも、大勢の人を見ているのです。これだけの人数なら、多少のパンがあっても何の足しにもならない。いくらかのパンがあってもないも同然だと考えていたでしょう。私たちも問題があまりにも大きいと、手許にあるものに気づかない。否、あっても、ないものと考えてしまうのです。
 イエス様は、弟子たちに確認させたかったのです。弟子たちが見ていないものに、目を注いで欲しかったのです。だから、問い掛けの後に「見て、きなさい」と命じておられます。しっかりと自分たちで確かめなさいと。
 38節にははっきりと「弟子たちは確かめて来て言った」とあります。確かめた、その上で「パンは五つあります。それに魚が二匹です。」と答えています。彼らはイエス様から確かめるように言われてはじめて確かめ、手許にあるものに目を注ぎました。手許に「ある」と気づかされたのです。イエス様の問い掛けを考えると、「パンはいくつ」と問われていますから、「パンが五つ」でも良かったのですが、彼らは「パンだけでなく、魚もあります」と、「パン五つと魚二匹です」と答えています。パンだけではなく、魚にも気づかされています。
 イエス様は5つのパンと2匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りをして、パンを裂き、その裂いたパンを弟子たちに渡されました。同様に、2匹の魚も分けられました。そのような行いの中に、神様の出来事が起こり、そこにいた大勢の人に、パンと魚が手渡されました。ある人に多く、別の人たちには少なく渡って、分配格差が生じて、誰かが不満を言い出したということはありませんでした。弟子たちによって一人一人に分かち与えられました。誰かが自分で多く取り、そのことで貰えなかった人が生じたということも起こりませんでした。渡され、食べた皆が「満たされた」のです。
 またこうも言えます。一人一人が満たされるように分け与えられたと。ここには、皆が同じ量を渡されたと記されていません。そうではなく、一人一人が満ち足りたとあり、不満をいう人がいなかったのです。こうした働きをするように、イエス様は弟子たちを用いられたのです。
このことを皆さんにも知って頂きたいのです。イエス様はご自分だけでこの奇跡を為されたのではありません。神の国の業を、弟子たちを用いて、為されたことを忘れないで頂きたい。
 イエス様が弟子たちの不信仰をも見られましたが、そんな弟子たちを信仰的に育てようとされたのだと思うのです。ですから、はっきりとイエス様は「あなたがたが、彼らに食べ物を与えなさい」と、「あなたがたが」と言われています。このことは、私たちにも通じるのです。「あなたがた」は、「あなたが」でもあるのです。「あなたが・・・与えなさい」と。イエス様が弟子たちに「パンはいくつあるのか、見て来なさい」と言われたように、パンはあるのです。あなたにも隣人に与えるものが、才能や時間や財産や愛の行為が、神様から与えられています。その与えられているものを用いて、「あなたが与えなさい。あなたが隣人を愛しなさい。」と呼び掛け、あなたを神様の出来事のために用いられ、神様の栄光を現して下さるのです。神様はあなたを神の御業のために、用いられる。そのことを覚えて生きて行きましょう。
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by higacoch | 2010-08-07 16:34 | マルコ