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2010年7月25日

「生きよ」  アモス5:4-6、マルコ3:1-6
 
 イエス様が一人の人に、生きる喜びと力を与えて下さった出来事を学びます。
 イエス様が言われた言葉「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、殺すことなのか」にある善と悪、命と死、善を行うことか、悪を行うことか、命を救うことか、命を殺すことなのか、これらは相対立する事柄であります。これだけを取り上げて考えてみますと、すぐに答えは分かってくるのです。悪を行うことより善を行うこと、命を殺すよりは命を救うことだと解ります。ですが、イエス様の時代のユダヤの世界では、安息日という特別の日で考えられた時、ことは簡単ではありませんでした。つまり、安息日には、安息日の規定があり、この規定は何をおいても守らなければならないと考えられていました。ですから、ここで問題になっている、癒しも他の日であれば問題はなかったのですが、この日が安息日であったがゆえに、人は躍起になってイエス様の行動を見つめていたのです。
 私自身、イエス様がここで教えて下さっていることは、「安息日であっても」とか、「安息日であろうとなかろうと」ということではなく、まさに「安息日だからこそ」問題だと指摘されたと思っています。この日が礼拝の日であり、礼拝の場所で起こっていることにイエス様は怒りを覚えておられると思うのです。
 イエス様は、宣教の初めの頃に、故郷ナザレに立ち寄られ、安息日にナザレの会堂に行かれて、礼拝の中でイザヤ書を広げて読まれました。そして「主がわたしを遣わされたのは、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」と言われ、「この聖書の言葉は今日、あなたがたが耳にしたとき実現した」と宣言されました。まさに安息日に会堂で「圧迫されている人を自由にする」と言われているのです。しかし、今朝の箇所での出来事は手が萎えた人に対して、人々が手の萎えた彼を圧迫していた現実があったのです。
 イエス様は会堂の入り口近くに手の萎えた人をご覧になりました。その様子を見ていた会堂内の人々が、イエス様がその人を憐れみ、癒しをなされるのではないかと、じっとイエス様の行動を伺っていました。イエス様を訴える口実が得られると狙っていました。この日は安息日であり、癒しをしてはならなかったからです。 
 すると、案の定、イエス様はその人に声を掛けられました。「真ん中に立ちなさい」と。その人は恐る恐る真ん中にやってきました。そして次の瞬間、イエス様がこの人の病いを癒されるのではと。すると、イエス様は冷たい視線を投げかけていた人々の方に振り向くと、強い口調で問い掛けられました。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことなのか、それとも、悪を行うことなのか、命を救うことか、殺すことなのか」と。すると、今まで冷たい視線を浴びせていた人々はイエス様と目を合わそうとはせずに下を向き、黙ってしまいました。そうした態度にイエス様は怒りを覚えておられます。それから彼らのかたくなな心を悲しまれました。そして、再び、手の萎えた人の方に振り向いて「手を伸ばしなさい」と言われました。これは、ただ手を伸ばすことだけを言われたのではなく、もっと深い意味が含まれていると思うのです。
 ここで手の萎えた人の苦悩を考えてみたいのです。当時、体の障害を抱えている者は神様から裁かれていると考えられていましたから、この人も冷たい視線を投げかけられ、無言の圧力を掛けられて、日が経つ内に、どんどん隅っこに追いやられていき、ついには、除け者にされていったのでしょう。隅っこに縮こまっていたこの人を見るや、イエス様がまず言われたことは「真ん中に立ちなさい」でした。これは真ん中に立っていいのだと言うこと、神様はあなたをかけがえのない一人として見ておられ、オンリーワンとしてあなたを愛しておられるんだというメッセージが含まれています。
 そんなイエス様が、この人をさげすんで隅っこに追いやった人々に対して、強い口調で、安息日に律法で許されていることは、何か、善か悪か、命を救うことか、殺すことかと問われた時、イエス様の迫力に、再びびっくりしたと思うのです。そして、何も応えようとしない人々に、イエス様が怒りを覚えておられるのを知ってもっと驚いたことでしょう。今まで知らなかったことを知らされたと思います。それは神様の愛だったのではないでしょうか。イエス様は律法で本当に大事なことは愛なのだと教えられたのです。しかし、人々はかたくなで、イエス様の問いかけに真摯に応えようとはせずに心を閉じ、反ってイエス様への憎しみを増していきました。そしてファリサイ派の人々は普段仲が悪かったヘロデ派の人々と手を組んでイエス様の殺戮を計画をしています。
 イエス様は、安息日に会堂で、神様を礼拝する場所であるにもかかわらず、人を押しのけ圧迫していることに怒りをあらわにされているのです。律法の精神は人を苦しめ閉じこめることではなく、人を愛し、人に仕えることだと。
 イエス様は、この人に「手を伸ばしなさい」と言われました。このことは、体を縮こまらせないで、もっと体を広げて心を縮こまらせないで、もっと心を開いて生きていきなさいと語り掛けて下さっていることなのです。
 神様はここに登場する人々のように手の萎えた人を縮こもらせ、心も萎縮させてしまったようなことをなされません。そうではなく、むしろ、人を生かされるのです。「心を広げ、そして、生きよ」と語り掛け、一人一人を愛して下さっているのです。「喜んで生きていきなさい」と励まして下さっているのです。イエス様は、今も私たちにも「生きよ」と語り掛けて下さっています。私たちの罪のために死んで下さり、命を賭けて愛して下さったイエス様だからこそ、あなたに「生きよ」と今も語り掛けて下さっておられます。
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by higacoch | 2010-07-31 23:57 | マルコ

2010年7月18日

「あなたを招くため」    イザヤ46:8-13、マルコ2:13-17

 イエス様は言われました。「わたしがきたのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」と。この言葉をもっと短く要所を捉えて言いなおすと「わたしがきたのは、罪人を招くため」さらに短く言うと「わたしがきたのは、招くため」となります。ここまで短くすると、はっきりするのですが「わたしが来た目的は、招くためだ」と言うことです。
 今、イエス様は徴税人のレビの家に招待されて、多くの徴税人や罪人と交わりを持たれました。徴税人たちはレビの仕事仲間ということで理解できますが、罪人と言われた人たちは、どういう人たちだったのか、詳しくは書かれていません。ここでは単に罪人と言われています。現代では、勝ち組と負け組と言って人を区別したりしていますが、当時のユダヤの世界では、律法という神様の戒めである生活規範があり、これを守れるか、守れないかで、神様から祝福された人(義人)、裁かれた人(罪人)と区分けしたのです。罪人は神様の戒めを守れなかった人たちで、徴税人、遊女、羊飼いも罪人でした。彼らは神様からも見捨てられている奴等と差別されました。イエス様は、こうした蔑まされた人々と一緒に食事をされているのです。
 皆さん、想像して見て下さい。人々から蔑まれていた人々と、イエス様はお付き合いをされています。端から見れば、仲間とみられても仕方ないくらいです。こうしたイエス様の行動には、弟子たちも戸惑ったと私は思います。だから、弟子たちは自分たちを義人と称していた人々から「あなたがたの先生は、どうしてあんな連中と一緒に食事をしているのか」と聞かれて、答えに窮しています。この問いに答えたのはイエス様ご自身なのです。
 イエス様の答えは、一種の皮肉であります。自分たちこそ正しい人間だと自己主張する人たちに言われていることを考えると、皮肉なのです。当時、格言として、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人である」と言われていましたが、これは当然であります。病人は治りたいので、直してくれる医者を必要とします。しかし、自分が丈夫だと思っている人は、医者を必要としません。ですが、ここには、自分が丈夫だと思い込んでいる人たちへの強い問いかけがあるのです。あなたがたは、自分は丈夫だ、正しい人間だ、義人だと信じ込んでいる、しかし、そうなのかと、いう問いかけが含まれています。イエス様は格言をもってはっきりと「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」と言われています。
 イエス様は「わたしが来たのは」という言葉を別の箇所でもよく言われていますが、深く考えてみますとこの地上にきた、人の世にきた、生まれたと言うことであり、神様の所から来たということをもあらわしています。そのように地上での移動だけではなく、上からの移動、神様からの移動であり、天からこの世に来たということです。
 このようにイエス様がよく「来た」と言われていることからも解るように、イエス様は行動派だと思うのです。13節にも「再び」とありますから、イエス様は前にもここに来られたことを暗に含んでいます。そして湖、これはガリラヤ湖ですが、その周辺を伝道して歩き、湖畔で人々に話されたことが何度かあるということが解ります。会堂や家の中だけではなく、野外での説教もよくされたのです。イエス様が行動し、そして、人々の生活の場所に出かけ、そこで話されたことが解ります。
 それに対して、レビはじっとしています。レビは、その仕事場の収税所に座っていて、通行税を取り立てていました。いつものように座って仕事をしていました。「座っていた」という言葉には、彼の人生においても、座っていたことを象徴しているようです。彼はイエス様のように動いてはいません。積極的に生きようとする力や希望を見出せずに、そこに座っていたのです。彼は人々から嫌われても、この徴税という仕事でお金が得ていました。「人生、お金。なんといってもこの世ではお金が必要であって、お金がものをいう世界」そのように考えて、そのお金によって自らの生き方を決めていたのかもしれません。心の片隅でこれでいいのだろうかと悩んではいても、「いいんだ。所詮、お金だ」と、自分の内なる声を、内なる葛藤を抑え込んでしまう。それが彼の姿勢、座ったままという姿に象徴されていると思うのです。
 わたしたちも自分の生き方に迷うことがあります。葛藤の事柄は人によって異なるでしょう。子育て、夫婦関係、人間関係等、今の生き方でいいのかと悩んでおられる方が実に現代は多いと思います。レビと同じように、これでいいのだろうか、と悩む人が多くおられます。いろいろな家庭の問題、自分の問題、どうしていいのか、解らない。このままでは良くないと思うのだが、だからといって、先に進めない、留まっている。レビと同じように座っているのです。
 しかし、そんな人々を、あなたを、イエス様は招いておられます。「わたしが来たのは、あなたを招くためだ」と言われています。イエス様がレビを招き、レビと交わり、レビを変えていかれたように、あなたを招き、あなたを愛して、あなたと交わり、あなたを変えて下さるのです。あなたが新しい希望をもって生きるように、「わたしに従ってきなさい。」と招いておられます。イエス様に従って、レビが歩み始めたように、私たちもイエス様の呼びかけに応えて、立ち上がって、従っていきましょう。
 今朝の旧約聖書、イザヤ書の箇所にもあります。「わたしに聞け、心のかたくなな者よ、恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遅くない。わたしは遅れることなく、救いをもたらす。」と。あなたを招き、あなたを救うために、イエス様は、この世に、あなたの所に来られたのです。
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by higacoch | 2010-07-24 17:44 | マルコ

2010年7月11日

 「恵み溢れる信仰生活」  エフェソ 3:14-21    生島 陸伸 牧師

 お招き頂いて皆さんと一緒に主日礼拝に参加出来て嬉しく思います。
私に聖書が教えてくれる神様はどんなお方でしょう。
 聖書の一番初め。創世記 1章 1節―「初めに、神は天地を創造された。」と紹介しています。私たちの住んでいる天地万物、見えるものも見えないものも全部を創造されたお方、と紹介しています。さらに詩編139編を見ますと、「私のことを全部知っている神様、座っているのも、立っているのも、思うことも、言おうとしていることも、全部知っている」とうたっています。
 エペソ3章14~15節―「御父の前にひざまずいて祈ります。」、真剣に考え事をする時は、静まらないと受け取ることが出来ない。ところが静まることが苦手です。主の前にひざまずいて静まり、聞くことを学ぶ事です。
 16節では使徒パウロは御父に「あなたがたの内なる人を強めて」とお願いしている。「私たちの内なる人」とはどんなことか。Ⅱコリント4:16「わたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」とあります。外なる人は二十歳を過ぎますと衰えます。でも、内なる人は、終わりの時まで日々新にされつつ、天の御国に迎え入れられるのです。だから「内なる人」が大切。この世で、どんなに栄華を極め、楽しんでも、モーセの年齢120歳まで。その後永遠に滅びの中に落とされるとしたら大変です。もし、120年苦しみ通した人生だったとしても、その後、永遠に天の御国で天の父の祝福の中に置かれるとしたら喜びです。ルカ16:19以下参照
 「内なる人を強くしてください。」と祈る。
 注意する事は祈る時、父が私にさせようとすることは実行します。と心に決めて祈ることです。神様の方は私の心の筋肉を強化しよう、とするのですから、トレーニングジム(教会)でいろいろの道具を使って強くしてくださる。
 教会には私と相性の悪い人が必ずいる。私の持っている愛が壊れた所から、イエス様の愛で動くように、と、トレーニングが始まる。つらいけど感謝です。
 イエス様が愛してくださった愛で、挨拶の言葉をかけます。丁寧に「おはようございます。」と心を込めて挨拶する。これが、内なる人を強くする心のトレーニングです。心を込めて、嫌な相手に「おはようございます」と呼びかける。その人のためですと腹が立つ。イエス様が「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。(ルカ6:32)」とささやかれる。私の内なる人を天の父が強くしてくださって、造り替えて、イエス様の愛で愛することが出来るように育てようとされている、と感謝する。
 イエス様の言葉を守ろうとすると、自分の弱さや、醜さや罪深さが浮き彫りになる。その時、その私をそのままで愛してくださり、私の罪を背負ってくださるお方に気が付くと、感謝が溢れる。このようにイエス様と出会う時、私が一番、心を低くして聴く姿勢、全能者である主の前にいる私になっていると思います。
 17節では「私の心のうちにキリストを住まわせる」と書かれていますが、この事が不可欠になります。イエス様はヨハネ14:23で約束されている。
イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われています。
イエス様の言葉は、今までの経験とは違う。普通は、私に好意を寄せている人に、私も親切にする。好意を寄せない人には私も親切にしない。ところが、イエス様はそう言わなかったでしょう。「敵を愛し、敵のために祈れ。」と言われている。
 今までにないことですから自然には出来ない。しかしイエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われていますから、「あなたの言葉のようにします。私の心のもやもやは、あなたが癒してください。」と祈るのです。不思議な経験をします。この信仰の行動が出るには、今述べたように2つの事、天の父が私を強くしてくださるように。と、キリストが私の心のうちに住んでくださっている。と言うこの二つの恵みの中で、私の内なる人は、強くなるのです。
 17節後半で「あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」という祈りがかなえられると、主をほめたたえるだけになる。
18~20節では、それをすべての「聖徒と共に」とあります。聖徒と言うのは、信徒のことです。天使のような人ばかりではない。心病む人たちをイエス様は招かれているのです。噂話があり、妬みがあり、意地悪がある。今までの常識の愛ではお付き合いできなくなる。イエス様の方に心を向けると、自分は幾度もイエス様を無視していた。そして、求める祈りが多い信仰生活だったが、キリストはその私を赦し続けてくださった。赦されている恵みに感謝して私も倣いたい。主をたたえる賛美の声が溢れている。教会に集まるすべての人が、共にイエス様の贖いの恵みを感謝してほめたたえる。それが教会です。神の国なのです。
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by higacoch | 2010-07-17 17:39 | エフェソ

2010年7月4日

「とりなす人の信仰を見て」   イザヤ43:21-25、マルコ2:1-12

 今朝の福音書の箇所はイエス様の伝道の初期の出来事ですが、すでにイエス様の噂が知れ渡り、イエス様の所に多くの人々が集まって来ています。イエス様は家の中でお話しをされていますが、家の入り口にも人だかりでこれ以上、中に人が入れない程となっていました。そうした所に遅れてやってきた人たちがいました。一人の中風の男を床に載せて連れてきた人たちです。彼らは友人なのか、兄弟なのか、親戚の者なのかよく解りません。彼らは急いでやって来たでしょう。しかしもう人で一杯でした。
 病人を運んできた4人は、そこでどうしたか。入り口から入れない。では、明日にでも出直すと諦めて帰っていったでしょうか。そうではありません。人々が家に帰るのを待っていたかというとそうでもありません。彼ら4人はとんでもないことを考えつき、実行しました。家の屋根をはがし、中風の人を床ごとつり下げてイエス様に見てもらったのです。屋根を壊すとは、とんでもないことだと思われるかも知れません。しかし彼らは必死だったのです。彼らは何とかしてイエス様に中風の人をいやして頂きたいという熱意から、そうしたのでした。
 この行動にイエス様はびっくりして、何てことをすると叱られたでしょうか。家を壊してどうするのだと、彼らを非難されたでしょうか。そうではありません。彼らがしたことを見られたのではなく、彼らの信仰を見られました。それから中風の人に向かって、「あなたの罪は、赦された」(口語訳)と言われました。
 ここで、イエス様は彼らの行動ではなく、彼らの信仰を見ておられます。私たちは、目に見える行動を見て人を判断してしまいます。見えるところで判断し、非難してしまいます。しかしイエス様はそうではありません。彼らの行動ではなく、彼らの信仰を見ておられる。しかも、この箇所をよくみると、彼らの信仰を見て、彼らに言われたのではない。中風の人に言われたのです。「あなたの罪は赦された」と。
 私はこの箇所を最初に読んだ時、よく理解できませんでした。イエス様が中風の人の信仰を見て、中風の彼に言われたなら理解できたのですが、ここでは運んできた人たちの信仰であって、中風の人の信仰ではありません。聖書の他の箇所を見ますと、病気の人が直接に「イエス様、憐れんで下さい」と願い、それに対してイエス様が「きよくなれ」とか、「床を取り上げて歩きなさい」と言われています。このように願った人が癒しを与えられています。私たちは、信仰は個人的なものであって、その人がイエス様を信じるのかが大事だと理解しています。ですが、ここではイエス様が見られたのは、運んできた4人の信仰であって、中風の人の信仰ではありません。ですから、それまで私が理解してきたこととは違っていたのです。しかし、聖書をよく読んでいく中で教えられました。ここには、とりなしの信仰が記されている。とりなす人たちの信仰をイエス様は受け止めておられる。4人の信仰を見て中風の人の罪を赦して下さっているということが解りました。こうしたとりなしは、他にも記されています。
 マタイ福音書8章に記されている百人隊長の僕が癒される出来事です。百人隊長がイエス様の所にやってきましたが、彼が病気を抱えていたのではありません。彼の僕が中風で苦しんで家で寝込んでいました。その僕のために彼がとりなしをしているのです。イエス様は彼の信仰を見て感動され「イスラエルの中でさえも、これほどの信仰は見たことがない」と言っておられます。ここでも彼の信仰を見て、彼の僕が癒されているのです。とりなす者の信仰によって、とりなされた人が癒されています。会堂長のヤイロの娘もそうであります。
 とりなしは、祈りとしてよく聖書に記されています。たとえば、イエス様が弟子ペトロのために、信仰がなくならないように祈られたし、十字架に架かる前夜に弟子たち、さらに弟子たちによって信仰を持つ者たちのために、とりなしの祈りをされています。
 私は、改めて今朝の箇所を読みながら、黙想し、知らされました。4人の者に運ばれた中風の人、それは私自身ではないかと。大学生の時、如何に生きるべきか解らず、うずくまり、悩み苦しんでいた自分を思い起こしました。そこではじめて中風の人と自分が重なったのです。そしてこの私をイエス様の所に連れて来て下さった方々は、あの人、あの先生、あの友人と思い巡らしました。
 私たちがイエス様に救われたのは、イエス様の所に連れてきてくれた兄弟姉妹が、いたからだと思うのです。そうした方々のとりなしの信仰を見て、イエス様があなたを救われたのです。
 そして何よりも、イエス様のあのとりなしの十字架の祈り、十字架の犠牲によって、私たちは罪赦されて生かされている者です。このことを深く受け止めて頂きたい。
 とりなしを頂いた者として、とりなしの信仰や祈りをもって、まだイエス様の救いを知らない方々をイエス様の所にお誘いしましょう。そうしたとき、イエス様がその方を憐れみ、その人に救いを与えて下さいます。そのような方々と共に、信仰をもって歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-07-11 18:54 | マルコ