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2010年6月27日

「讃美する人生」 詩編100:1-5, ルカ福音書17:11-19

 今日は讃美礼拝です。2006年に行われた「明日の教会形成のために」の教会員懇談会で、教会活動や礼拝についてのアンケートをしました。その中に音楽礼拝をしたいという希望が多くあって、年に1回、讃美礼拝を献げることになりました。今年で4年目になります。私たちにとって讃美することは喜びであり、力であり、なくてはならないものであります。旧約聖書の詩編は主なる神様をほめ讃える讃美集であり、そうした讃美に溢れています。今年はこうした詩編をできるだけ礼拝の讃美歌に取り入れたカルヴァンを思い起こしながら、詩編歌を多く取り入れて讃美して礼拝を献げています。
 私たちが主を讃美するのは、信仰者の務めだから行っているのではありません。讃美しなければいけないという、信仰者の義務からでもありません。そのように強いられてするのではなく、喜びが溢れ、讃美せざるをえない、感謝が溢れ、その感謝を表したくて、神様を讃美するのです。このように喜びが、感謝が私たちの心の中に溢れる時に讃美が湧いてくるのです。しかしそれは何よりも神様が、私たちに恵みを与えて下さったからなのです。私たちを憐れんで愛して下さったからなのです。詩編100編にも喜びをもってとか、感謝を献げてとかありますように、先に私たちに神様が恵みを与えて下さった出来事がまずあり、そうしたことから讃美が溢れてくるのです。
 さて、今朝の箇所には、重い皮膚病を患っている十人の人が記されています。この人達がイエス様と出会っています。出会った場所はサマリヤとガリラヤとの間、つまり境目の所であります。彼らがどうしてそんな所に暮らしていたかといいますと病気のゆえでした。病気が伝染しないように律法でも命じられていて、人々から離れた場所に住まざるを得ませんでした。人々から差別を受け、神からも見捨てられていると言われていました。
 こうした場所をイエス様が通られたのです。ガリラヤからユダヤ地方のエルサレムに向かう道はこの道だけではありません。他にもあったと言われていますから、イエス様があえてこの道を通られたということは、特別な思いがあったということです。それは人からも神からも見捨てられている彼らに近づいていかれたということです。彼らはイエス様を見ると、遠くの方に立ち止まって大声でイエス様に叫びました。「イエス様、どうか、わたしたちを憐れんでください」と。この願いを聞いたイエス様は「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われました。当時、祭司は医学の心得があり、治癒の診断もしていました。彼らはイエス様の言葉を信じ、祭司の所に向かったのです。そしてその途中で清くされました。その中の一人が、病気が癒されたのに気づき、イエス様の所に戻ってきました。大声で神を讃美しながら戻ってきたのです。少し前には大声で、「どうか、私たちを憐れんでください」と叫んだ者が、今や願いが聞かれ、喜んで大声で神を讃美しています。彼は単にイエス様にお礼を言うために戻ってきたのではありません。神を讃美するために戻り、イエス様の足元にひれ伏し、感謝しました。
 私は「お礼を言う」のと「神を讃美する」には、大きな違いがあると思うのです。それは、人にお礼を言うというのは、その人との関係を創ることでありますが、神を讃美するというのは、神様との関係を創ることであり、神様にあって生き始める事だと思うのです。このサマリヤ人はこの神との関係をもつことを人生の中心にしたと思うのです。神様を讃美するというのは、まさにそういうことです。他の9人は戻ってきていませんが、イエス様は彼らにも神様を讃美するために戻ってきて欲しいと願っておられたにちがいありません。
 癒された者たち、それは私たちでもあります。私たちもイエス様の贖いによって、罪赦されて癒されました。イザヤの預言にありますように「彼が担ったのは、わたしたちの病、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼が受けた傷によって、わたしたちは癒された」。彼とはイエス様です。イエス様によってわたしたちは癒されたのです。イエス様が十字架で死んで下さったのは、私たちの罪のためでした。わたしたちのためだったのです。では、私たちはどうするべきなのでしょうか。
 一人の人が大声で神を讃美しながら戻ってきて、イエス様の足元にひれ伏せて感謝したように、私たちも神を賛美するようにと招かれています。イエス様の足元にひれ伏す、この行為はまさに礼拝の行為に通じています。讃美する、礼拝をささげることで、神の恵みを頂いた者がどのように神に応答したらいいのかがよく解るようになります。サマリヤ人が喜んで大声を出して、神を讃美するために、イエス様の所に戻ってきたようにわたしたちも心から神を讃美しましょう。サマリヤ人がイエス様の所に戻ってきて、イエス様から、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたように、「救われる」というのは、癒される以上の恵みであり、神の祝福の中に生かされることです。
 サマリヤ人がそのように祝福に生かされていったように、私たちも神を讃美して、礼拝を献げ、神に生かされて人生を歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-06-30 18:12 | ルカ

2010年6月20日

「安心して帰れる場所」   申命記 7:6~8,ルカ 22:31~34 
                 真壁 巌 牧師(日本キリスト教団 相愛教会)

 今朝、御言葉として与えられていますルカによる福音書第22章の記事は、実際にはもう少し前の最後の晩餐の場面から読まなければいけないかも知れません。「また使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(23節)。悲しいことに、最後の晩餐は裏切り予告がなされた場面でもありましたが、もっと悲しいのは「自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか」という主イエスの十字架などそっちのけの議論が起こったことです。
 さて、ここにシモン・ペトロが登場します。ペトロは弟子たちの筆頭格です。たぶん、この中で誰が一番偉いだろうかと議論した時に、弟子たちの中ではっきり意識していたのはペトロです。そのペトロに向かって、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。主イエスはここではっきりとペトロがサタンに負けてしまうことを予告されました。ペトロは、そのことに気付かない。それどころか、その後を読むと、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」そう立派な事を言いました。私はあなたを信じます。信頼します。あなたがどんなにひどい目に遭っても、たとえ殺されることがあっても、私はあなたとご一緒ですと言い張ったのです。この同じ第22章を読み進めてまいりますと、54節以下で、とうとう主イエスが逮捕され、裁判に遭っている時です。きっとペトロはそのことが気になったのでしょう。主イエスが裁かれている場、裁判の行われている屋敷の中庭までついて来ました。けれども、ある女中に「あなたもあのイエスの仲間ではないか」と問われてそれを打ち消し、とうとうすべてを打ち消しました。怖かったからです。そのようにして主イエスを裏切ってしまった。主イエスを信じなかった。ペトロは信仰を失ったのです。弟子の道から落ちたのです。「立ち直ったら」と言っておられるように、ペトロはここで完全に倒れたのです。
 しかし信仰をなくしたのはペトロだけではありません。ペトロはその代表です。にもかかわらず24節ではわざわざ使徒たちと呼ばれています。使徒というのは、後の教会の柱になった人たちです。その人たちが皆、ここで信仰をなくしているのです。では、どうやって立ち直ったのでしょう?その理由は、はっきりと書かれています。主イエスが祈ってくださったからです。祈り抜いてくださったからです。弟子たちは主イエスを捨て、主イエスの方を向くのもやめたのです。顔を背けたのです。けれども主イエスは、弟子たちの方を向き続けたのです。
 主イエスはこのペトロのために死なれました。使徒たちのために死なれました。ペトロの愚かさのために死なれたのです。後で、悔やんで悔やんで涙とともに思い起こさざるを得ない、あの時自分はどうかしていたんだと思うような過ちのためにです。しかし、主イエスはペトロ以上に苦しまれた。痛みを負われた。そして、ペトロのために祈り続けられた。あなたが立ち直るために私は祈る。教会は、自分たちの悔い改めの熱心さよりも、このイエス・キリストの立ち直りのために祈っていてくださる祈りに取りすがるようにして立つのです。そこで主イエスは言われるのです。あなたが立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい。私があなたのために祈ったように、どうかあなたと同じように倒れ伏している兄弟たち、私が愛しているからあなたの兄弟の立ち直りのためにあなたも祈りなさい。手を差し伸べなさい。神の言葉を聞かせなさい。「あなたも立ち直れる」と言ってやりなさい。ただ願うのは、自分の傍らにあって自分と同じように倒れている兄弟のために「私はあなたのために祈っている。どうぞ、立ってもらいたい。私が手を差し伸べる、この手にすがって立ってもらいたい。主イエスがあなたのために祈っておられる。」教会はそのように語り、そのように慰めるのです。他に何もすることはないのです。ただあなたには安心して帰れる場所がいつでも用意されている!そう告げるのです。教会は弱さをもった人間の集まる場所です。ですからそこで人間関係のこじれや何らかの事情があって教会に足を運べなくなってしまう時があるかもしれません。かつて自分もそうだった。あるいは今、そのような友のことを心に留めておられる方々ここにもおられると思います。でもだからこそ、自分だけの力で立ち上がろう、立ち帰ろうとしなくてよいのです。
 なぜなら教会は信仰が強くならなければ立ち帰れないという場所ではないからです。申命記にある通りです。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。」(7章6-8節)
 私たちも貧弱です。だからこそ、主イエスの祈りなしに立ち帰ることができない。でもそこにキリストの教会が形成されていることを知るのです。誰かの力によって成り立っている誰かの教会ではなく、主イエスの祈りによって支えられている者たちが集められたキリストの教会です。
 ペトロは主イエスから「私がこんなに祈っているのだから裏切るはずないよな!私を三度も知らないなどとは言わせない」と言われたのではありません。「三度も知らないと言ってしまうような貧弱なあなただからこそ、私は祈っている!」そう言われたのです。だからこそ私たちは安心してそこへ帰ることができるのです。
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by higacoch | 2010-06-27 21:00 | ルカ

2010年6月13日

『 平和の神が共にいて下さる 』   フィリピ4:4~9 今井榮子姉
 皆様の前で奨励するような事はありませんが、今、自分の今までの色々な事を振り返って、いつもイエス様が共に歩んで下さっている事を改めて考え、ほんとに身近な個人的な事しか話す事が出来ませんが、お話しします。
 皆様にお祈りしていただいた孫が4月8日に生まれ、ほんとに神様に感謝しています。生まれて二日後に小さな体で5時間以上かかる大きな手術をしましたが、神様の恵みを受けなんとか元気になり感謝しています。お医者さんから「そんなに危険な手術ではないが何が起こるかわからないので覚悟するように」言われました。そして必死に祈りました。「神様の御心のままに従います。でもどうか許されるなら元気にして下さい。」と。息子夫婦は最初何がなんだか解らずにぼうぜんとしていましたが、「医者に任せるしかない」と、思ったより冷静でした。
 新たに与えて下さった家族を神様は守って下さいました。そして今回の恵みで私の気持ちに変化がありました。それはご存知の方もいらっしゃいますが、私は夫を24年前病気で亡くしました。45才でした。2人の子どもは中学1年と3年でした。まだまだ父親を必要としている時なのに、なぜ神様は夫を取り上げてしまったのか納得いきませんでした。思えば夫はお酒が好きでタバコも吸うし、獣医としてですが、競馬場に勤めていた事もあり当然ギャンブルも好きでした。私自身は4代続いたクリスチャンホームで育ちあまり世間を知らずに育ったのです。そんな中で少し良い子にしていなければならないので息苦しかったのかもしれません。それでそんな夫と結婚したのかもしれません。
 最初は環境の違う中で子どもにも恵まれ、育てるのにも忙しく夫も家では優しく、家の事も良くし、子どもとも良く遊んでくれました。
 でもお酒を飲んで夜遅く帰ったり、酔っ払い駅でけんかをしてしまい、鉄道公安室に保護されたため夜遅く身元を引き取りに行ったりしたこともありました。だんだん私ももう少し親らしく、尊敬できる人でいてほしいと思うようになってきました。そんな中一番身近な夫を愛せなくて、多くの困っている人を愛する事は出来ない、自分で選んだ人なので一生かけて愛さなければならないと思わされていた時、突然医者から余命3カ月ですと言われ、先が真っ暗になってしまいました。大腸ガンでした。一生懸命看病しました。看病のかいなく亡くなってしまいました。夫が亡くなっても子どもが居ますし仕事もしなければならないし、忙しく毎日を送っていました。でも生きる目的が夫に仕え、夫にもキリストに出会ってほしいと願っていたのに神様の御心が解らなくなっていました。心の底では何故ですかと問いかけていました。息子が一昨年結婚した時も、とても神様に感謝しましたが、ここに何故夫が居ないのか、花婿の父親が居ない寂しさを感じました。
でも今回孫の顔を見ながら子どもたちもそれなりに大人になり、息子も家庭を持ち父親になったことで、夫はちゃんと父親の役をしっかり果たし、短い人生でも家族の中心として今も家族一人一人の心に生きているのを感じ、神様の大きな導きを思い、喜びを感じます。短い人生でも夫にとっては充分な人生だったんだと納得しました。
 そしてそんな私にパウロの言葉が励ましてくれます。フィリピの信徒への手紙4:4には「主において常に喜びなさい。重ねていいます。喜びなさい。」と言っています。うれしい事が有れば、喜びは当然ですが常に喜びなさいというのはなかなか出来ない事です。この手紙を書いているパウロはその時牢屋に入れられていたのです。フィリピ1:13に「私が監禁されているのはキリストのためである」と書いてある通りです。裁判にかけられ、もしかしたら死刑になるかもしれないのです。普通先が見えず不安で絶望してしまうところです。でもパウロは「主において喜びなさい」と言っています。主においてとは私たちがいつも主とともに生き、主の御手の中にあるということだと思います。だから悲しい事や苦しい事があってもキリストの御手の中に守られている事を喜びなさいと言っていると思います。
 当時、教会は迫害の中にありました。パウロはユダヤ人のねたみのため牢屋に入れられています。とても苦しい中にいます。でもその牢屋の中もキリストの内なのです。使徒言行録16:25にあるように牢屋の中で神を讃美し讃美歌を歌っていました。その時大きな地震があって牢の扉が開いてしまいました。でもパウロたちは逃げず牢屋の番人を信仰に招き入れ洗礼を授けました。このような事が広い心だと思います。イエス様は迫害する人のために祈るよう言われました。「思い煩うのはやめなさい。」(6節)とパウロは言っています。思い煩うのは困っている事を考え、どう対処したら良いか考える事とは違います。まだ起こっていない事を心配したり思い悩む事です。このような「思い煩い」は有効な事を何一つ生み出しはしません。そこからは何も解決出来ません。第一ペトロ5:7には「思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけてくださっているからです」とあります。思い煩いは神様がして下さるのです。神様の領分まで入ってあれこれ心配するのは神様の領分を犯すことです。そういう余計な時きまって私たちの手足は動いていないのです。ああではないか、こうではないかとくよくよ考え心配している時は頭だけ動いて体は働いていなのです。思い煩いは神がして下さるのですから思い煩う代わりに「祈り願いを神様にささげましょう」とパウロは言っています。そして祈りは私たちの願望を神様にぶつけることではありません。私たちの願い以上の事が向こうから起こって来るのです。
 神様は私たちの願い以上のことをして下さいます。私たちは自分の力の範囲内のことしか祈りません。人知を超えた神の力を知らないのです。私たちのする事ではなく神様のなさる事への信頼なのです。
だからといって何事もあなたまかせで自分は何もしないので良いということではありません。思い煩ってばかりいると手足が動かず実行できませんが、神に祈り、頼りたのむ時、「神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守って」(7節)下さるのです。平和な心を与えられた人は立ち上がります。良い事を実行するよう神から力を与えられるのです。ただ道徳的に正しい人、品行方正でいなさいと言うのとは違います。いつも神に祈り、イエス・キリストを信頼することによって力が与えられ、道が示されて来ると思います。このようにパウロは祈りから実行に進む信仰を示しているのです。
 私は20才の時に洗礼を受け、今年で42年になります。その間色々な事がありましたが、神様がいつも共に歩み、力を下さったことでどんな事があってもイエス・キリストを信頼し、祈ってきた人生です。そしていつも守って下さった事を感謝しています。これからも色々あると思いますが、皆様とともにパウロのように真実に生きて行こうと思っています。「そうすれば平和の神はあなたがたと共におられます。」(9節)
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by higacoch | 2010-06-19 23:20 | フィリピ

2010年6月6日

「あなたは愛する子」  イザヤ42:1-4、マルコ 1:1-11

 「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」
 マルコ福音書は4つの福音書の中で最古の福音書です。その初めの言葉であり、これは文章というより表題のようなものです。私はこの言葉によってマルコが伝えたかった思いを感じるのです。それはマルコの信仰告白の言葉だからです。つまり、イエスはキリスト(救い主)であり、神の子である。この確信から喜びを抱きつつ、多くの人が救われる喜びに生きていって欲しいと願って書き始めていると思います。
この福音書は始まりにおいて他の福音書と大きな違いがあります。他の福音書は、イエス様の誕生物語から語り出していますが、洗礼者ヨハネの物語から始めています。しかも、イエス様がヨハネから洗礼を受けられたことから始めています。
 人々が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたように、イエス様も洗礼を受けられたと記しています。ヨハネが、私の後に来る方、それがイエス様でありますが、その方が聖霊で洗礼を授けられる方だと言ったそのすぐ後で、イエス様が、洗礼を授けられたのではなく、洗礼を受けられたと記しているのです。ここでイエス様は、人々と同じようになられたことが解ります。主イエス様は、人々からかけ離れたところに立って、行動されたのではなく、人々の中に立ち、人々と共に生きて行かれたことを示していると解るのです。イエス様は、どんな方なのかと問われたなら、その時、私たちは言うことができます。私たちが信じているイエス様は、私たちと同じように洗礼を受けられた方ですと。
 主イエス様が、洗礼を受けられた後、何をご覧になったでしょうか。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、霊が鳩のように御自分に降ってくるのをご覧になった。」
「天が裂ける」というこの言葉の意味はギリシア語からもう少し詳しく言い換えますと「天が今、裂けつつ」あるであります。天が今だんだんと開かれていくのを主イエス様が見られた。そして、開いた天から鳩のように霊が降って、ご自分に降ってきたというのです。「裂ける」ということを、マルコは福音書の終わり近くでも記しています。それはイエス様が十字架の上で亡くなられた時、神殿の幕が裂けた、天が裂けただけではなく、神殿の幕が裂けたと記されています。つまり今や神殿はいらなくなったということであり、どこでも神様にお会いできる道が開かれたということなのです。しかも祭司だけではなく、誰でもが神様にお会いできるということなのです。
 マルコは、最初にイエス様の洗礼のことを記しました。それは洗礼の出来事を通して、神様の声を知らせたかったと思うのです。主イエス様が洗礼を受けられた時、天が裂け、天が開かれて、霊が注がれたその時の声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしの心に適う者」というものでした。これは主イエス様に語り掛けられた天の声です。洗礼者ヨハネが語った声ではありません。神様からの声、霊が注がれる時の声です。
 この声はイエス様に語られた声ですが、イエス様だけに語られた声だけではありません。聖霊が注がれて洗礼を受ける時の声でもあるとマルコは言いたかったと思うのです。主イエス様を信じて聖霊によってバプテスマを受けた時の声だと言いたかったのです。「あなたは、わたしの愛する子だ」、「わたしはあなたを愛している」。聖霊によるバプテスマの時に、その声が実際に聞こえなくても、その声が天から語り掛けられているのだと言うことです。これこそが聞くべきもの、聞くべき神の言葉だと思うのです。「あなたはわたしの愛する子」。
マルコは伝えたかったのです。「あなたは、愛する子」と神様が声を掛けて下さっていると。現代的な視点で言うのなら、「あなたは、生きていていいのだ。あなたは愛されている子どもなのだ。神の子なのだ」と。私もこのことを何よりも伝えたいのです。
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by higacoch | 2010-06-12 17:24 | マルコ