<   2010年 05月 ( 5 )   > この月の画像一覧

2010年5月30日

「元気を与える人」 使徒言行録27・21-44、ヨナ1・7-10
                            めぐみ教会 荒瀬牧彦牧師

 ローマ皇帝への上訴を希望したパウロは、カエサリアからローマまで護送されることになりました。航海の危険な季節が近づいていましたが、パウロの進言を聞かずに先の港を目指したため、船は北東からの暴風に吹き流されてしまいます。「ついに助かる望みは全く消えうせようとして」いる中、パウロだけはあきらめていませんでした。彼は周りの者たちに「元気を出しなさい」と語って励まします。また、船員たちが逃げ出そうとした時に、すばやく脱出を阻止したり、皆が食事をしていない状況を見て、「何か食べてください。生き延びるために必要だからです」と勧めるなどして皆を鼓舞し、遂に全員が無事上陸できた・・・というエピソードです。
 なぜパウロは、絶望的状況においても希望を失わず、冷静沈着に振る舞い得たのでしょう。同船者たちを元気づけられたのでしょう。それは、彼が神からのミッション(使命)に生きていたからだと私は思います。ローマで宣教することを神様に命じられ、神が「行きなさい」といわれた道を進んできたという自負がパウロにはあります。そうであるならば、神が必ずそれを果たせるよう途を開いてくださるに決まっているではないか!その確信が、彼に平安と希望を与えるのです。

 では、パウロのような特別に立派な人だけがミッションを与えられていて、それゆえに特別に守られるのでしょうか。そうではない、と私は思います。すべての人は、神に期待され、愛のうちに造られたものです。誰もが人生のミッションを与えられて、神に遣わされた時代と場所と状況に生きているのです。
あなたのミッションを果たせるのはあなただけです。パウロのように伝道者として生涯を捧げる使命もあれば、家の中で病気の家族に仕えるという使命もあるでしょう。芸術を通して人々に喜びや力を与えるという務めもあれば、病気や障がいを抱えながらもほほえみつつ感謝しながら生きる、という使命もあるでしょう。(それは大きな力を周囲に与えるものです!)また、本当に重い病や不自由を抱える人にとっては、ともかく最後まで精一杯生きるということそのものが尊いミッションです。ミッションは実に様々です。しかし、神様がミッションを与え忘れたという人は一人もいません。そう私はかたく信じます。
 しかし、残念なことに、自分のミッションをしっかり受け止め、それに向かって全力で生きている人というのは決して多くありません。創造主と、自分の人生の意味が結びつかない人がいっぱいいます。だからこそ、私たちの船(=共同体)にはミッションに生きている人が必要なのです。困難な状況の中でも、「神のご計画があって生かされているのだ。だから元気を出そう。大丈夫だ」と、確信をもってみんなを激励する人、そして冷静沈着に判断、行動できる人が必要なのです。
 パウロの航海と、ヨナを対照してみるとおもしろいコントラストが見えてきます。自分に与えられたミッションを拒否して逆の方向に行く船に乗り込んだヨナは、自分のせいで船はあやうく難破させるところだったのです。ミッションを引き受けない者が、同船者を死の危険に直面させたのです。これはあの、パウロらが乗っていた船を見捨てて逃げようとした船員たちも同じことです。船員は船を守らなければならないというのに。
あなたは神からのミッションに生きていますか、それとも自己中心の動機で生きているにすぎないのですか。その違いが、同じ船に乗り合わせた仲間全体に大きな違いをもたらすということを忘れないでください。キリストにとらえられ、キリストの弟子とされ、福音に仕える使命を明瞭に与えられている私たちは、希望をもって友を元気づけ、取るべき行動を取る冷静な判断力を持つ者であり続けようではありませんか。
[PR]
by higacoch | 2010-05-31 18:35 | 使徒言行録

2010年5月23日

「洗礼を受けなさい」  イザヤ書44:1-3、使徒言行録2:29-42

 皆さんと共にペンテコステ主日礼拝を献げることができ、大変嬉しく、主なる神様に感謝します。特に、今朝は私たちの教会に新しい兄弟、山本兄弟を迎えることができますことを主の恵みと覚え感謝します。
 さて、今朝の説教の題を「洗礼を受けなさい」としましたが、これは人の首根っこを捕まえてウムを言わさず、「洗礼を受けなさい」と言おうとしているのではありません。強制的に、誰構わずと言うのではありません。それは説教したペトロもそうです。ペトロはこのことを説教の始めに言ったのではなく、説教が終わってから、語った言葉なのです。最初から頭ごなしに言ったのではなく、説教を終えた後、それに心打たれた人々が問い掛けたのに応えて、勧めた言葉なのです。ここが大事なことです。
 ペトロが説教をしました。ではどんなことを語ったか。イエス・キリストの出来事を語りました。それによって、人々の心は、刺し通されました。ペトロはイエスこそ、神から遣わされた方だと言ったのです。「神は、イエスを通してあなたがたの間で、奇跡、不思議な業、しるしを示された。そのイエスをあなたがたは殺してしまった。が、神はイエスを復活させられた。それは、ダビデもイエス・キリストことを『わたしの魂を陰府に捨てておかれない。あなたは命に至る道をわたしに示し、喜びで満たして下さる』と歌っていると。あなたがたも、そのように導かれていると言っているのです。神がイエス様を救い主となさったのは、私たちの罪を赦し、命に至る道を与えて下さるためだと、ペトロは説教しているのです。もっと解りやすい言葉で言うのなら、「神はあなたを愛された。あなたが罪人であっても、その罪を赦してあなたを生かされる」ということです。
 先日、「たましいのケア」という本を読みました。書いた人は藤井理恵さんで淀川キリスト教病院のチャプレン、ホスピス病院内の女性の牧師さんです。藤井さんは多くの病む人をみて、こう言われています。「たましいの痛みは、どの患者さんも持っているものであり、病気のあるなしに関わらず、私たち人間、誰もが持っているものです。たとえば、ある程度のお金があり、住まいがあり、自分を心から愛してくれる家族や友人がいたとします。しかし、心のどこかでむなしさを感じたり、自分の中には、何によっても埋められない部分があるのを感じたりする。それは、自分は生きていて、いいのか。人間は、生まれて死んでいく。いったい何のために生まれ、何のために、自分は生きているのか。こんな生き方をしていいのだろうかと自分の存在価値、そして人生の意味を問うて悩む。『生きる意味』『生きる価値』そうした悩みの問いかけを聞く、たましいのケアが最終的には必要なのだ」と言われています。
 ペトロの説教は、こうした人間の生きる意味、生きる価値、それが、イエス・キリストによって与えられている、あなたもイエス・キリストの救いによって罪赦され、新しく命の道を歩むことができる、その道をイエス・キリストが開いてくださったと説教したのです。このペトロの説教を聞いて、人々は、心刺し通されたのです。それは、その人の奥深く、存在そのものに、語り掛けられたのでした。心の奥までに刺し通されたのです。だから、人々は、誰からか強いられて、「わたしたちはどうしたらいいのでしょうか」と問い掛けたのではありません。そうせざるを得ないように押し出されたのです。そうしたことが説教を聞いた者に起こったのです。心打たれた者は、ただ自分の心の中に感動を留めたのではなく、どうしても新しい歩みをしたいと願いました。だから弟子たちに尋ねたのです。ここには心からの求道があります。その真剣な問いにペトロが応えて勧めたのが、「洗礼を受けなさい」でした。
 イエスがキリスト(救い主)であると説く説教は、この日にだけ為されたのではありません。その後も、礼拝で為され続け、今も為されています。さらにこれからも為されていきます。そうした時、神の言葉が説き明かされ、イエスがキリスト(救い主)であるということが伝えられ、救いの出来事に心打たれる人が起こされます。そのような時、ぜひ応答していって頂きたいのです。イエス・キリストを救い主と信じ洗礼を受けて頂きたい。ダビデがそうであったようにイエス・キリストによって救われ、生かされる喜びで満たされるからです。
[PR]
by higacoch | 2010-05-29 18:24 | 使徒言行録

2010年5月16日

「今も生きておられる方」   列王記上1:28-30、ヨハネ福音書20:19-23
 
 今朝の箇所は、イエス様が十字架の上で殺された三日目の出来事です。弟子たちは、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵を掛けていました。彼らにはもう一つの恐れがあったと思います。それは自分たちがイエス様を裏切り、イエス様を見捨てたことに対する恐れです。イエス様が現れたりしたなら、自分たちの裏切りを責めたてるのではないかと恐れていました。そのような弟子たちの所に、イエス様の方から来て下さり、彼らの真ん中に立って下さったのです。真ん中に立つということは、彼ら一人一人に語り掛けようとされたということです。イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われました。ここでの「平和」は「平安」とも訳せる言葉です。ですから「平安があるように」と言われたといってもいいのです。この語り掛けは弟子たちにとって思いもつかないものでした。イエス様が弟子たちの罪を赦し、彼らを受け入れて下さったということをはっきりと示して下さったのです。しかもイエス様はわざわざ御自分の手と脇腹を弟子たちにお見せになり、確かに十字架で死んだ私だと知らせ、その後にもう一度「あなたがたに平安があるように」と言われ、それから「父なる神が私を遣わされたように、私もあなたがたを遣わす」と言われました。
 イエス様は十字架に掛けられる前夜、弟子たちと最後の時を過ごし、告別の説教をされました。その中で自分は父なる神から遣わされたと強調して語られました。そして、復活されたイエス様は「私はあなたがたを遣わす」と言われたのです。そこで「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけられました。「息を吹きかける」これは、旧約聖書の創世記2章7節「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」に記されているように、命を与えるものです。神の息によって、人は神にあって生きることができるということであり、弟子たちは息を吹き掛けられて生きる者となったのです。こうして彼らは、イエス様の復活の証人となって、新しく生きる者となりました。このようにイエス様が命の息を吹きかけられ、働かれたということは、イエス様は生きておられるということです。そして、今も人を生かし、遣わしておられます。
 弟子たちは、イエス様によって罪を裁かれたのではなく、その罪を赦され、愛され、生かされて、遣わされたのです。イエス様が救い主だと伝える者として遣わされました。そして私たちも遣わされているということです。弟子たちがそうであったように、今も生きて働かれるイエス様によって遣わされているのです。ひとりでも主の救いに生かされて生きる人が起こされますように。私たちは神の愛を伝える者として遣わされているのですから、主の復活の証人として歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2010-05-25 19:39 | ヨハネ福音書

2010年5月9日

~声なき友の輪~ 「共に喜ぶ社会」を目指して ~ 柳沢美登里姉
1)海外奉仕1990年―2010年を振り返って
1990年前後の日本と世界
私が始めてバングラデシュに派遣された20年前、日本はバブルの絶頂期。アメリカを買い占める勢い。中国では人々の移動の手段が自転車だった。当時のバングラデシュは世界最貧国の十指に入っていた。 
バングラデシュの11年間: 最底辺の人々の地域社会と聖書の原則
 緑の唐辛子だけでおかずのないご飯を一日2度食べることができるかどうかわからないスラムの人々の間で、人々の生活向上のため地域でのグループ活動の組織化と支援をした。どれほど貧しくても向上する意欲があり、未来のビジョンを持っている人たちのエネルギーに出会う。その働きで判ったことは、正義、公平、協力、弱い人々を支える、といった聖書の原則を歩むと人々は生き生きと輝いてくることだった。これらの原則は神の人格を反映し、神の願われる公共の善を全うする。また、私にはこれで何かできるのだろうかと思えた週一人15円の貯金活動はグループで月千円ほどを、各人が借りて小さな商売を始めた。これは5つのパンと2匹の魚で一万人以上に人に食事を分けたイエス様を想起させた。人間の目には何になるのだろうというちっぽけな物を神は豊かに祝福される。聖書の原則で生きるとき、人は輝き、秘められていた可能性が豊かに開花する。
2003年以降のアジアで: 聖書の価値観と社会の変革
 2003年以降、アジアの多くの国々に関わる機会が与えられた。インドでは、元ヒンズー教徒の女性キリスト者と出会う。自分の子どもが自閉症と診断。ヒンズー教では前世の悪い行いのため障がい者として生まれ、この命は全く無価値で役に立たないとみなされていた。彼女はイエス様が言及し続けた聖書が真理だと信じ、詩篇139で人を胎で奇しく造られる神様に心を打たれる。そして、逆風にもめげす自ら信じる聖書の価値観で障がい児スクールを始め、誰にも分かってもらえずに苦しんでいた多くの親に希望を提供している。
⇒ 皆さまの祈りの応え:地域と社会を希望にあふれるものへ変えたものは、聖書の原則であり、価値観であることを示された20年。皆さまの祈りを主はこのように聞きあげてくださった。

2)2010年までの日本社会
 砂漠   
ひるがえって、日本社会を見てみると、孤独死、百万人以上の引きこもり、毎日のように報道される子どもへの虐待、12年連続自殺者が3万人以上、そして、日本人の85%以上は、なぜ、自分が生きているのかわからないと言っている。まさに砂漠のような有様。
日本が進んできた方向: 「お金ですべてを解決する」社会 
日本社会はバブルが弾けた後も「お金で解決する」道から離れられなかった。渇ききった砂漠で人々の輝きが感じられない状況に、聖書の価値観とは逆行する方向を選んできたように感じてならない。人とのつながりを失い、造ってくださった神様とのつながりを回復することからますます離れてしまっている。
アフリカ・ガーナのキリスト者社会改革者の言葉 ⇒ イザヤ 41:18-19
 昨年出会ったガーナのキリスト者社会改革者は、お金やモノの有無が問題なのではなく、「聖書が示すものの見方」、価値観で私たちが物事を見、生きる選択をし、行動することが解決の鍵だとアフリカの現状を語っていた。その言葉は日本社会にも全く当てはまり、深い共鳴を覚えた。イザヤが語るように不毛の高原、砂漠に大河を流すことを神はおできになる。この見方を信じた一歩を踏み出しているだろうか。そのようにチャレンジされた思いだった。

3)海外奉仕から見えてきた日本と世界の問題解決の鍵:私たちの内と外にある解決
私たちの内側: 内に蒔かれた可能性      マタイ13:31-32 
 私のバングラデシュでの経験は、この砂粒のようなからし種が驚くほどの大木になる、という聖書の原則の確かさを教えてくれる。これほど小さくても神は可能性を置かれた。私たち一人ひとりはこの可能性を植えられた「からし種」。その辺に置いておくだけでは芽も出ないし、役にも立たない。けれども、大地に蒔かれると可能性が芽生えだす。社会がよりよくなるように自分が用いられることを信じて一歩を踏み出すとき、聖書の原則が動きだす。社会や地域の課題の解決の種は、私たちの内側に託されていて、蒔かれるのを待っている。
私たちの外側: 周りの人々、他民族、他の国の人々  エフェソ4:16 
 私の海外での経験が教えてくれるもう一つの大切なことは、どの民族も完全に真理を行っているわけではないということだ。私たちとは違うものの見方、経験をしたほかの民族から多くのことを学ぶことができる。欧米からとは限らない。違う部分とつながって補い合い、私たちは成長するように造られている。この箇所はキリストの体である教会のあり方をいっているが、教会は、世界のあり方の模範だ。それが21世紀に目指す社会であり世界であると思える。

4)21世紀に生かされていること
21世紀に目指す世界: 相互依存
振り返ると20世紀は植民地精神(軍事力、経済力での強制)のときだった。この20世紀の精神を後にし、私たちはすべての民族と補い合い支えあい、成長する「相互依存」の時代を迎えている。この20年間の奉仕からの経験をもとに、この21世紀の社会「神の国」を目指して日本と世界で歩んでいきたい。  
21世紀に求められるキリスト者の生き方: ヨハネ5:19、30 
 私はちっぽけなからし種にすぎない。日々、自分の無力さを感じる。けれども、イエス様も「自分では何もできない。」と宣言された。ただ、父なる神に聴き、そのみ旨を行うとき、父なる神の業を行う者になる。私も皆さまと共に、父なる神に聴き続け、行う者に変えられ続けたい。「共に喜ぶ社会」である「神の国」を皆様の共に目指して!
[PR]
by higacoch | 2010-05-15 14:13 | マタイ

2010年5月2日

「とりなしの祈りに支えられて」  イザヤ書44:21-22、ヨハネ福音書17:1-26

 先週の木曜日に三教会合同の退修会が行われました。講師は桃井和馬さん、世界の140カ国を回り、世界の現実である貧困、飢餓、紛争、戦争のようすを写真におさめ、そこで体験したことを生々しく熱く語って下さいました。その中で「民族、また宗教は、戦争の原因だ」とよく言われるが、現場に行き、確信されたことは、そうではなく、土地、食糧、水、資源の所有を巡って争いが生じていると言われました。またその争いに、「宗教」や「民族」の違いが加わることで、一層激しいものになってしまうということです。例として、1990年代に起こったボスニア・ヘルツェゴビナ内戦のサラエボのことを話されました。紛争の前、サラエボにはユダヤ教の人、東方教会の人、プロテスタント、カトリック、イスラム教徒の人たちが共存して住んでいたが、紛争が起こると、宗教間の対立が起こり、血なまぐさい戦争へとエスカレートしていった。他の戦争の真の原因も同じで、土地、食糧、水、資源、地球上にあるものを自分のものにしたいということから起こっている。そうであるなら、戦争を止める方法は、そうしたものを仲良く分配することだと。
 さて、今朝与えられましたヨハネ福音書17章は、イエス様の祈りです。この祈りの中に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしなったイエス・キリストを知ることです」(3節)とあります。これは不死の命、時間的に永遠に続く命を表すものではありません。そうではなく、神によって与えられる命であり、神にある命です。ここでは「知ること」が重要な言葉となります。ここでの「知る」は、単なる知識を得る「知る」ではありません。聖書の知識をたくさん持つのではありません。豊かな知識が大切だというのでもありません。ここでの「知る」は、人格的な交わりをもって知ると言うことであって、この交わりが必要なのです。しかも、ここでは「知った」と過去の出来事として言っているのではなく、現在形です。ですから、過去の出来事ではなく、今もそうであるということであり、常に新しいものであるということです。常に神とイエス・キリストとの人格的な交わりが必要なのです。これは、常にキリストの言葉に聞き、生き、キリストとの交わりをしていくということ、これが私たちの祈りだと思うのです。
桃井さんは、人間は罪深いと言われました。ですから、暴走してしまう。本当に聞くべき方をなくしてしまうと、人間は欲にかられ、傲慢になってしまう。そこでは、もう神の命を頂いて生きていないので、人は過去に犯したように罪を犯してしまうと言われるのです。
 イエス様は、弟子たちのため、また弟子たちによってイエス様を信じる人たちのためにも祈られました。ここでの信じる人たちは、私たちなのです。ですから、イエス様は私たちのためにも執り成しの祈りをして下さったのです。私たちがイエス様の御名によって祈る前に、すでにイエス様が私たちのために執り成しの祈りをしてくださっているということを知らされます。このことは、わたしたちはイエス様の執り成しの祈りに支えられているということであり、私たちが神の命に生きるようにと祈られているということです。
イエス様の言葉に聞き、交わりを持ちつつ、神の命に生かされて歩んでいきましょう。
[PR]
by higacoch | 2010-05-11 12:02 | ヨハネ福音書