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2010年4月25日

「キリストの証人として生きる」 イザヤ書52:7-10, Ⅱコリント2:12-17

 パウロの手紙を読んでいますと、一番よく出てくるのは「キリスト」であります。今朝与えられたコリントの信徒への手紙にも「キリストの福音」「キリストの勝利」「キリストを知る」「キリストによって」とキリスト、キリストと言っています。特に良く使われるのは「キリストによって」、英語では「イン クライスト」です。キリストの中で、キリストに結ばれて(17節)という意味です。このようにパウロは「自分はキリストによって存在せしめられている、キリストの中に生かされている」と言っています。いつもキリストのみに集中しているのです。
 また今朝の個所で「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」と言っています。「売り物」つまり商品とはしないと言っています。当時、ギリシャ人は知恵を誇りにしていました。そして自分たちは他の民族と比べて知恵があると誇っていましたし、多くの神々が信じられていましたので、知恵の言葉として神々の言葉を商売にしている人たちがいました。神々の言葉を教えることによって金銭を受け取っていたのです。ここでの「売り物にする」というギリシャ語は「売って歩く」という意味もあります。それをよく知っていたパウロははっきりと言っています。「わたしたちは神の言葉を売り物とせず、誠実に、神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」と。
 パウロは復活したキリストと出会い、キリストから語り掛けられた体験がありました。キリストの方から自分に出会って下さり、声を掛けて下さったことが彼の信仰の原点でした。この出会いが彼を回心へと導き、キリストの証人として生きるようになりました。こうしてキリストの伝道者となったパウロは、神が今も生きて働いておられることを多くの人たちに伝えていきました。現在のトルコやギリシャの町々へとでかけ、神の言葉を伝え、キリストを証ししながら、伝道旅行をしていったのです。パウロは神の言葉を「物」として、単なる知恵の言葉として伝えたのではなく、「神の言葉は信じる者には神の力だ」と、神が今も働いて力を与えて下さることを伝えています。彼自身が神の言葉に生かされていることを伝えようとしました。パウロは言いたいのです。「キリストの十字架を語るのは、キリストによって罪を赦され、キリストのものとされたのだからだ」と。ましてや、キリストを過去の偉大な人物として伝えたのではありません。パウロ自身が、キリストによって愛され、キリストによって生かされたこと、さらに今も力を頂いて、キリストの証人とされていると語ったのです。
 パウロがそうであったように、私たちも私たち自身の歩みの中でキリストの証人として歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-04-30 18:19 | コリント

2010年4月18日

「勇気をもって神に従う」  エステル記4:1-17、使徒言行録5:27-32
 
 今朝の旧約聖書エステル記4章14節「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」は有名な箇所であります。ユダヤ民族の運命がかかっている極限状況の一点にエステルは立たされているのです。このような極限の立場に立たされるということは私たちにはないかも知れませんが、社会的な地位や職場で責任ある立場に立たされて、自分の決断が問われる時があったりします。またそうした立場ではなくても人生には自分の決断を迫られる時があります。そうした時、私たちの決断をただ自分の安泰のためという点で決めるというのではなく、神様ならどうされるのかを思い巡らし、祈って決めて欲しいのです。人生には本当に大きな決断を迫られることはそう多くはないでしょう。しかしどちらの道が神に従うことになるのかを祈って決めて欲しいのです。ある面では、悩んで、苦しんで、祈り求めて決めて欲しいのです。
 先週、犯罪学の研究者であり、精神科のお医者さんでクリスチャン作家でもある加賀乙彦氏の本を読みました。タイトルは『不幸な国の幸福論』ですが、「不幸の国」というのは日本のことであり、我が国での幸福論であります。加賀氏はこの本の最初で「考えない」習性が生み出す不幸を述べておられます。「考えない」という根底には、問題に直面した時にそれをどう解決していくかという内省力、しっかりと悩み抜く力が欠けているという現代人特有の問題が潜んでいると指摘しています。正しく悩めないという不幸があると。私は、この本を読みながら、悩み抜く力、それは大事なことなんだなと思いながら、こんなことを思い巡らしました。もし人が神様を知らないのなら、人生の岐路に立った時、どのように悩み、どのように考えるのだろうかと思ったのです。その時、右か左か、こちらかあちらかという時に、人は自分にとっての損得が一番の判断基準になるのかなあと思ったのです。そのようにして自分にとって得となる道を選んで自己安泰の生活を得られたとして、それが本当の幸せなのかと考えさせられました。でも本当の幸せは、生活の幸せではなく、人生の幸せなのではないだろうか、冨の生活であれ、貧の生活であれ、自分の人生は幸せだったと過ごせることではないのかと思い知らされました。もしそうなら損得で判断するのではなく、祈りの中で神様の御心を問いつつ、神様に従うことこそが人生の真実の幸せに通じるではないかと。私たちは迷い、信仰的に弱いものです。しかし、決断の時に立たされる時は大事な時であり、人生の歩みで神様が問い掛けられた時なのだと思います。その時こそ勇気をもって神に従う道を歩んでいこうではありませんか、そこに真実の道があるのですから。
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by higacoch | 2010-04-24 16:42 | エステル記

2010年4月18日

「あなたを呼んでおられる」 創世記12:1-4、マタイ福音書4:18-25

 今朝の箇所は4人の弟子たちの召命の箇所であります。この箇所でよく言われることですが、4人の弟子たちがすぐにイエス様に従ったとあります。この箇所を読んで、人はそう簡単に従うことができないと思う人が多いのではないでしょうか。そうしたことで注解書では4人はイエス様とここで初めて会ったのではなく、以前にも会っていたのではないかとか、またイエス様の噂を聞いていて、ある程度イエス様のことを聞いて知っていただろうと解説していたりします。こうした理解は否定はしませんが、どちらかと言いますと、こちら人間的な面からの理解だと思うのです。今朝は別の面からここでの弟子たちの召命を考えてみたいのです。
 私たちは神様との関係を考える時、どうしても人間中心という面があり、自分を中心として考えてしまうということがあります。そうした面からではなく、イエス様の面からここを考えてみたいのです。今朝の箇所をギリシア語で読んでみて、私は新たな思いを与えられました。それはイエス様が先にペトロにもアンデレに目を注いでおられるということです。これはヤコブやヨハネでも同様であります。そしてイエス様の眼差しの後に、イエス様の方から呼び掛けておられます。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしよう」と。ここまでで解ることは、イエス様の方から先に見ていてくださり、そして、あなたを人間の漁師にしようと呼び掛けてくださっているということなのです。
 イエス様がそのように、弟子たちよりも先に選んでくださっていることは、ヨハネ福音書15章にある告別の説教でも解ります。イエス様が弟子たちに「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」とあります。そのようにはっきりとイエス様の選びの先行が示されています。
 またもう一つのイエス様の先行性を知らされます。それはイエス様が巡り歩いておられることです。イエス様がガリラヤ湖周辺を歩いておられるのです。バプテスマのヨハネのようにある一箇所に留まって、そこに来る者たちに対して呼び掛けたのではなく、イエス様自らが出かけて歩き回られています。じっとされていないのです。歩き回られたということはイエス様の方が近づいていかれたということです。
 このことは私たちにも言えることなのです。神様の方から私たちに呼び掛けられているということです。今救いを求めておられる方がぜひ、ペトロらがイエス様の呼び掛けに応えたように、イエス様の呼び掛けに応えて、新しい歩みをしていって欲しいと願うのです。
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by higacoch | 2010-04-19 13:44 | マタイ

2010年4月4日

「悲しみから喜びへ」 詩編16:7-11、ヨハネ福音書20:1-18 

 マリアがイエス様の十字架の死で味わった悲しみはいかに大きな悲しみだったことかと思うのです。イエス様に出会う前のマリアは人々から罪の女と蔑まれ、マクダラ(退廃した町)のマリアと呼び捨てられていました。七つの悪霊に取りつかれていたともありますから、随分、荒れた人生であり、誰も手が付けられない女性だったかも知れません。そんなマリアがイエス様から声を掛けられ、愛され、罪を赦されて、生きる喜びと希望を見出すことができました。その後イエス様に従うようになっていきましたが、そのような時にイエス様が殺されてしまったのです。
 悲しみにくれた二日間を過ごし三日目の朝、マリアはまだ暗いうちに墓に向かって出かけていきましたが、墓に到着して驚きました。墓の入り口の大きな石が取りのけてあったのです。すぐにイエス様の遺体が盗まれたと思いました。そこで急いでイエス様の弟子たちの所に知らせに走って行きました。しかし、弟子たちに知らせ、再び墓にやってきて、遺体がなくなったことを悲しんで墓の外で泣いていたら、思いもつかない出来事が起こったのです。マリアが泣きながらも墓の中を覗くと二人の天使が見えました。彼らはマリアに「なぜ泣いているのか」と問い掛けてきました。マリアはあくまでイエス様の遺体のことを天使に尋ねています。そんなマリアに、今度は復活されたイエス様が近づき、天使と同じように「なぜ泣いているのか」と尋ねられました。それだけではなく、「だれを探しているのか」と尋ねておられます。それでもマリアはイエス様の復活が解りませんでした。現在起こっていることを解らず、過去の事に目を向けて生きているのです。こうしたことは私たちの生き方の中にもあります。
 イエス様は直接「マリア」と呼び掛けられました。そこで復活したイエス様を知ったのです。マリアは二度、弟子たちの所に行きましたが、最初の時はイエス様の遺体のことを心配し、悲しみを抱いていました。しかし二度目はイエス様が復活し、生きておられることを知らせる喜びに満ちています。このようにマリアが悲しみから喜びへと変えられたのは、彼女の心の持ち方が変わったからではありません。復活したイエス様の呼びかけを聞き、生きて働かれるイエス様に出会えたことによってでした。
 この出来事は、私たちにとって人生での悲しみは悲しみで終わらないということを示しています。私たちの悲しみも、今も生きて働いて下さるイエス様の呼びかけに耳を傾ける時、喜びへと変えられていくのです。それぞれの悲しみの出来事には神様にあって何らかの意味が確かにあるからです。たとえ死の宣告を受け、涙を流したとしても、その涙のままで終わるのではなく、喜びに繋がっているのです。これが復活の出来事の真理です。イエス様の復活を心から喜び、今も生きて働かれているイエス様を信じて歩んでいきましょう。
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by higacoch | 2010-04-10 17:13 | ヨハネ福音書