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2010年2月28日

「慈善の業においても豊かになれ」  詩編4:3-6,Ⅱコリント8:1-15

 今朝の聖書箇所に、パウロは「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と書いています。「恵み」というのは人から与えられたものではなく、神様から与えられたものです。
 さて、パウロはどんな恵みを知らせているのでしょうか。彼は「マケドニアの教会の人たちは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、満ちた喜びと極度の貧しさとがあふれ出て、惜しまず施す豊かさをもった」と言っています。ここでの貧しさとは経済的な貧しさを表しているのではなく、身を低くし、へりくだることです。そして喜びに溢れて惜しみなく献げた(献金)のです。しかも彼らはこの献げ物を誰かから強制されてではなく、自主的に熱心に申し出てきました。神の恵みというのは、施す、つまり与えることによって、神様から与えられるということがわかってきます。与えることによって、神様から与えられる豊かさを頂いたのです。
 パウロは続けて言います。「慈善の業において、豊かになりなさい。わたしは命令として、こう言っているのではありません。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。主は豊かであったのに、あなたがたのために、貧しくなられた。それは主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と言っています。
 「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだった」と。主の貧しさ、これはへりくだること、自分の身を低くすることです。主が自らを低くされたのは、主を信じる者たちが豊かになるためなのです。主の貧しさについては、パウロは別の手紙でこう言っています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」と。このへりくだりが貧しさなのです。
 私たちに約束されているこの豊かさは、経済的な面での豊かさではありません。魂の豊かさです。この豊かさに満たされて欲しいと願っているのです。パウロはまず神様が私たちのためにキリストを与えてくださったのだと教えているのです。まさにキリストは神様の恵みであり、その恵みをあなたがたは知っているではないか、だから、あなたがたもキリストのように、歩んで欲しいと。キリストが私たちのために与える歩みをされたように、あなたがたも与える慈善の業において豊かになって欲しいと勧めています。惜しむ心からではなく、喜んで、心低くされ、献げることによって、豊かになっていって欲しいと。
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by higacoch | 2010-02-28 17:59 | コリント

2010年2月21日

 「人に仕える」   詩編100:1-5, Ⅰコリント3:1-9 

 先週、映画「おとうと」を観ました。映画の中での「みどりの家」の活動に感動しました。この施設のモデルは東京都台東区山谷にある民間ホスピス「きぼうの家」です。ここは有料ではなく無料で、入所されている方は身寄りのない人たちや事情があって家族との結びつきを断った人たちであり、そうした方々の最期を見守る施設なのです。
 さて、今朝与えられていますコリントの信徒への手紙で、パウロはコリントの教会の人たちに本当に大切なのは神なのだと教えています。このことを教えるために、パウロは遠慮なく、こう切り出しています。「私は、あなたがたには霊の人に対するように語ることができずに、肉の人のように語りました」と。ここでは、霊の人と肉の人とを対比したように書いていますが、霊の人とは信仰深い人、それに対して「肉の人」とは信仰においては乳飲み子である人、信仰に入り立ての人、キリストによって生まれたての人です。パウロは、はっきりとあなたがたは肉の人だ。なぜなら相変わらず、お互いの間にねたみや争いが絶えないのだからと言っています。(また、イエス様の弟子たちの中にも誰が一番偉いのかと議論していたことが聖書に記されています。そうした時、イエス様は人に仕えることが大事なことなのだと教えられました。)
 パウロは続けて、こう問い掛けました。アポロとは何者ですか、またパウロは何者ですか。アポロもパウロもあなたがたを信仰に導くために、仕えた者に過ぎないのです。アポロが、パウロが偉いのではありません。奉仕はその奉仕の業をもって、その価値を計り、どっちが上だとか下だとか値踏みするものではありません。また奉仕によって、相手や周りの人に自分の価値を計ってもらうためにするものでもありません。パウロは信仰の種を植えたにすぎないのです。アポロは水を注いだに過ぎません。本当に大切な方は、パウロでもアポロでもなく、あなたがたを成長させて下さる神様なのです。このことをしっかりと知っていてください。アポロもわたしも、神様のために力を合わせて働く者であり、あなたがたも神の畑、神の建物なのだと言っているのです。
パウロは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させて下さる神です」と言っています。私たちは神様によって成長をあたえられるものです。
 私が映画を見たいと思ったのは、実はホスピス「きぼうの家」に関わり、奉仕しているボランティアの人たちの働きをどう映画で映し出しているのかなと思ったからです。本当に多くのボランティアが関わって、身寄りのない人、行き場を失っている人、そうした方々に仕えておられます。
 私たちも神様によって成長させて頂き、神様に仕えつつ、人に仕える者となっていきましょう。
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by higacoch | 2010-02-26 22:06 | コリント

2010年2月14日

「喜びの祝い」 イザヤ書56:1-8、マタイ福音書21:12-17

 今朝与えられた旧約聖書のイザヤ書の7節にこうあります。「わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す」と。これは神様が異邦人を「わたしの祈りの家の喜びの祝いに、集うことを許す」と言われていることです。異邦人が招かれているということは、すべての人が招かれていることです。「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」とあり、全世界の人々が祈りの家に導かれているということであり、つまり、私たちも、求道者(あなた)も、さらに神様をまだよく知らない人も招かれているということです。「わたしの家」それは、現代では教会であります。
 さて、その教会で神様の言葉が語られ、イエス・キリストの救いの出来事が語られます。ここには全ての人が招かれています。そして、イエス・キリストの救いの恵みを知らされ、そして救いの恵みを頂くようにです。それは「神はその独り子、イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された―あなたを愛されたのです。それは御子なるイエス・キリストを信じる者が滅びないで、永遠の命―神様からの命を得るため」なのです。神様が、イエス・キリストを世にお送り下さったのは、世の人々、あなたを裁くためではありません。そうではなく、イエス・キリストによって、世の人々(あなた)が救われるためにほかなりません。イエス・キリストによって罪を赦されて、あなたが生かされていくためです。
 ですから、主の日は、あなたが神様によって愛されたことを知らされた、また知らされる日でもある、祝いの日であります。この日が、イエス様が復活し勝利を表された日であり、弟子たちに約束されたように悲しみが喜びに変えられた日であります。悲しみが悲しみで終わらない、苦しみが苦しみで終わらないことを証明された日でもあります。
 人生のどんな悲しみも、苦しみも癒されないものはないのです。昔の讃美歌(532番)にもありました。「主のうけぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにも、みあと見ゆ、昼となく夜となく、主の愛に守られて、いつか主に結ばれつ、世にはなき交わりよ。昼となく、夜となく、主と共にましませば、癒されぬやまいなく、幸ならぬ、まが(災難)もなし」と。主と共にいれば、癒されない病はなく、幸福でないわざわいもない、ということ。
 私たちの信仰告白の「主の日」の箇所にはこうあります。「創造主なる神は、一週間のうちの一日を神の本質と御業を特に覚える日として定めらました。キリストの復活後は、キリスト者は週の第一日を主の日として祝うのである」。主の日は、主が復活した日として祝う、安息日としての第七日ではなく、週の初めの日、第一日として、この主日に私たちは喜び祝うのです。
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by higacoch | 2010-02-21 19:32 | イザヤ書

2010年2月7日

「賜物を生かして互いに仕えよ」 箴言10:11-12、ペトロ一 4:7-11 

 私は介護福祉士の受験勉強の中で「ノーマリゼーション」という言葉を知りました。この考えは「障害がある人も、ない人も住み慣れた地域で、同じように共に生き、普通に生活すること」という意味のものです。これを提唱したのはバンク・ミケルセンで、障害者の人権と幸福のために画期的な活動をした方です。今では彼の考えは、社会福祉の基本的な理念の一つとして実践されるようになりました。ノーマリゼーションとはノーマルからできた言葉で、つまり普通、正常であること。この反対はアブノーマル、異常です。彼は言うのです。「障害のある人々というのは、肢体、知覚、知的、精神障害をもつ人たちのことです。こういう人々を異常と呼ぶのは賛成できません。一体、何に対して異常なのでしょうか。わたしたち人間は一人一人異なっています。十人十色というように誰一人として同じ人間はいません。違いがあるからと言って人々の間に正常と異常の線引きをすることは誰にもできません。障害があるからといって、社会から阻害され、差別される理由はないのです。たとえ障害があっても、彼は一個の人格を持ち、人間として障害がない人と何ら変わりがないのです。これはごく当たり前の考え方なのです」と。
 私はミケルセンの考え方に感動を覚えながら、今朝、与えられましたペトロの手紙の箇所を読んで、10節に目が止まりました。そこには「あなたがたは、それぞれ、賜物を授かっている」とあります。誰かが賜物を授かっていて、他の人は授かっていないとは言っていません。ある人は与えられて、他の人は与えられていないというのではないのです。またパウロの言葉が思い浮かんできました。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。だから、多くの部分があっても一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。・・・神は見劣りする部分をいっそう引き立たせて体を組み立てられました。それで体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」と。見劣りのする部分は、何も賜物が与えられていないのではありません。キリストの体は、ある者が他の者に与えるだけの一方通行の流れではないのです。見劣りする部分も賜物が与えられて、他に与えているのです。
 賜物を生かすということは、自分のためではなく、互いに仕えることによって生かすことができる。こう考えると私たちは共に生きることが求められているのです。障害があってもなくても、その人は神様から賜物を頂いています。人が人として生きる上で互いが必要であるということ。ある人々を隔離すればいいとは言えないのです。共に生きることが求められていて、互いが必要な存在なのです。神様が与えて下さった恵みを自分のためだけに用いるのではなく、神のために、隣人のために用いるようにと勧められているのです。賜物を生かして、互いに仕え合う者となって歩んでいきたいものです。
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by higacoch | 2010-02-14 19:43 | ペトロ